■概要
資材不足の中、1949年3月23日西ヶ原に戦災復興校舎が建設されます。同年6月より移転を開始し、1951年4月1日上石神井に事務機能の一部を残し、大部分の移転が完了し、西ヶ原キャンパスの時代が始まります。
その後西ヶ原キャンパスは増改築を重ね、1950年代には従来の木造校舎から鉄筋コンクリート造校舎への移行が進みます。木造の復旧校舎では「男の学生ばかりで、皆ゲタばきだったから、授業が終わるとガランゴロンという轟音が全学をゆらした」そうです(篠田浩一郎「惜別の辞」『東外大ニュース』No.73)。
1960年代、学内では学部の増設、海外事情研究所やアジア・アフリカ言語文化研究所の設置も行われ、設備の充実化が図られました。他方で施設の増設は敷地面積の狭い西ヶ原を一層窮屈にしました。
戦後の新制大学発足を機に初代学長に就任した澤田節蔵の頃から校舎移転地の捜索が課題であり、目黒の旧海軍軍令部跡への移転が計画に上ったこともありました。1962年政府が大学や研究機関を集めた「研究学園都市構想」の計画を発表すると、東京教育大学とほぼ同時期に東京外国語大学もまた筑波移転を検討します。結果的に移転は断念されますが、移転地の確保は歴代学長の一番の課題となり続けます。
また、1968年からの学園紛争の際には正門にバリケードが築かれ学内が封鎖された時期もありました。