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2020年7月 アーカイブ

2020年7月 5日

Coming out at the age 90 / 90歳でカミングアウト

昨日のラジオで、

Knock on the Rainbow | STVラジオ | 2020/07/04/土 21:30-22:00 http://radiko.jp/share/?sid=STV&t=20200704213000

アメリカ合衆国、コロラド州で、90歳でカミングアウトした
お爺さんのことが話題になっていました。
radikoは、1週間しか聞けないけれど、
下のweb記事は、もうちょっと長い間読めると思うので
そちらをご参照ください。

--

90歳のおじいちゃんがカミングアウト。
60年以上前の恋の思い出がそれを決意させましたhttps://gladxx.jp/news/2020/06/6460.html

90-Year-Old Man Comes Out as Gay While Recalling His One True Love
https://www.advocate.com/people/2020/6/23/90-year-old-man-comes-out-gay-while-recalling-his-one-true-love

Kenneth Felts came out as gay at age 90 -- and he's only just getting started
https://theknow.denverpost.com/2020/06/18/kenneth-felts-arvada-coming-out-pride-month/240633/

--

90歳でカムアすること。

これは、パートナーがいて、その関係を
社会の中で認めさせたいというものではない。

また記事から読むに、政治的な立場の表明でも、
社会的に影響を与えたいということが主眼でもなさそうである。

じゃあ、なぜ今カミングアウトするのか。

それは、「真の自分を隠さずに生きる」ためとしか言えない。

--

この、ケネスさんが若い頃には、
男性同性愛者が男性同性愛者らしく生活するということの
ロールモデルがいなかっただろうし、

ケネスさんは、同性の恋人との関係を捨てて、
異性婚をして、一児をもうけました。

でも、今となって、「自分史」的なものを書くに当たって、
カムアしなければ、若い時にあった、
同性との本気の恋愛に触れることができないと気付き、
カムアしたんだと思います。

随分前に、娘さんからはレズビアンだとカムア
されていたのに、でも、自分のこの過去の恋愛と
向き合うのには、さらに長い年月が必要だったようです。

--

私はというと、総体的にホモフォビックな傾向のある
宗教団体での宗教活動の中ではカムアしていません。

でも、他の場所では、特に隠し立てしておりませんし、
ブログもこそこそと書いてはいません。

ただ、職場では、将来ホモフォビックな国、文化圏と
職業的に関わっていかなければならないクライアントさんたちも
いると思うので、

私のリベラルな政治的立場こそが「唯一の正しい立場である」というような
押しつけをする気はなく、

よっぽどお互いのことがわかっている関係以外の場では
話題にはしていません。

--

ホモフォビックな(大小様々な)社会的集団の中にいると、
同性愛者に対して、

非当事者は様々な抑圧を、意識的、無意識的にしてしまいがちだし、

当事者も、言い返せなければ、その抑圧に甘んじることになります。

◯同性愛は認められない。
◯性行為は、異性の結婚したカップルの間でしか認められない。
◯同性愛的「傾向」があったら、それは治すべきである。
◯治らなくても、隠して異性婚するか、あるいは禁欲すべきである。
◯リベラルな、「LGBT+の解放」のような政治的主張は慎むべきである。

等々。

書いてて涙が出てきます。

--

抑圧は、直接の糾弾というような激しい形を取らずとも、

周りに言いふらしたり(アウティング)、

また、軽く無視したり(マイクロアグレッション)、

様々な形で表面化します。

--

同性婚が法制化された、米国ですら
こういうことが起きています。

ましてや「自称先進国」の中で、
LGBT+政策が最も遅れている我が国において、
LGBT+が生きやすい訳がありません。

我が国で、当事者でなくても、
リベラルな政治思想を持った人の間では、
LGBT+の権利を包摂することが主流になってはいます。

このことは、アライ(ally)など数えるほどしかいなかった
数十年前とは、隔世の感があります。

しかし、政治、社会全体が変わるには、
まだまだ時間が掛かりそうです。

その間にも我々は、どんどん歳をとって行くのですが。

2020年7月16日

LGBT再訪

twitter上の、https://twitter.com/s_minority_bot
(セクシュアルマイノリティ用語集bot)が
不定期に(あるいは定期的に)流してくる定義が、
セクシュアル・マイノリティーの包摂的な定義としては
すっきりしている。それがどこかの書籍とか
論文とかから採ってきているのかどうかは明記されて
おらずわからない。

1)

【セクシュアルマイノリティ】一般的に
想定される性のあり方と異なる
セクシュアリティを持つ人のこと。
(1)生物学的な性別と性自認が一致している。
(2)恋愛感情と性的欲求を持ち得る。
(3) (2)の対象は異性のみ。
(1)〜(3)に当てはまらないものががあるもの。

Tsunagary Cafe(つながりカフェ)の
LGBTQ用語集は、
関連する用語を五十音順に並べている。
できるだけ多くの用語を採用しようとしているが、
他方、整理はされていない。

https://tsunagary.jp/vocabulary

LGBT総合研究所の
About LGBTは

https://lgbtri.co.jp/about-lgbt.html

初級者用にはいいのだが、
例えば、生物学的性そして性自認が
それぞれ、女と男にすっきり2分されていて、
そういった2分法は、実は便宜的なものであって、
実際には間が繋がったグラデーションであるといった
最近の、他所での説明を包摂していない。

早稲田大学GSセンターの
" セクシュアルマイノリティ " から知る多様な性は

https://www.waseda.jp/inst/gscenter/assets/uploads/2018/12/GS_Educationalmaterials.pdf

その「グラデーション」にも言及してはいる。


「い」2分法vs.グラデーション

2分法か、グラデーションか。

これは、まさに、文化人類学でいう
エティックか、イーミックかという問題である。

人(のうちの大多数)は、女と男はスパッと2分できて、
その中間などいない、あるいは、いてはいけないと考えている。

まずは性自認に関して。(一部、他人によるジェンダー認識を含む。)

人(のうちの大多数)は確かに、「自分は女だ」とか
「自分は男だ」と、深く考えずに言えるであろう。
そして、他人に対しても、その強制2分法を、
半ば無意識に当て嵌めてしまう。

トランスジェンダーの人に対する扱いが
くっきりと分かれていた時期があって、

LGBT+界隈では、
「MTF TG(male-to-female transgender)
生物学的には男として生まれたが性自認は女である人」は
(トランスジェンダー)女性だという認識が共有されていたが、
(これは、当人の認識を周りの人たちもそのまま
 受け入れているということである。)

新聞などでは、MTF TGを、戸籍の生物を論拠にして
「トランスジェンダー男性」と書いているものが多くあった。
(これは、当人の認識には関係なく、戸籍の性別欄を
 最重要視しているという状況である。)

この両者の違いは、強制2分法である点では同じなのだが、
MTF TGを、女性と認識するか、男性と認識するかで
真っ二つに分かれている。

もとい、エティックとイーミックに関して。

元々音声学 phonetic、音素論(phonemic 音韻論 phonological)的な
教科書的な説明として、

音節末に、音声学的にいうと[m], [n], [ŋ]という単音が現われたときに、
朝鮮語や、広東語や、タイ語などでは、それらの違いが
単語の区別に役立つ場合もあり、それらを別の音素と
認識して(音素がわからない人は調べてください)、
/m/, /n/, /ŋ/という音素をたてる。

他方、日本語では、それらの単音が語を区別するように
対立することは無く、後ろにどんな単音がくるかで
自動的に決まるので、別々な音素をたてる必要は無く、
/ɴ/という音素を立てたりする。(記号は研究者によって
何を選ぶかが違い、それは問題無い。)

音声      音素表記    文字表記
[hommo]    /hoɴmo/ 本も
[honno] /hoɴno/ 本の
[hoŋga] /hoɴga/ 本が

つまり、音声学的に(フォネティックに)は
音節末に同じ[m], [n], [ŋ]が現れても、
音素論的に(フォニーミックに)
朝鮮語、広東語、タイ語では、対応する3つの音素と
認識し、日本語では、対立しない1つの音素と
認識するということである。
(母語話者がそう認識するということであり、
 研究者は、それをそのように記述する。)

実は、日本語でも音素/ɴ/が実際にどんな単音で
現れるかは、この3つの代表例だけではなく、
特に音素/ɴ/の後に母音等が来た場合には、千差万別な
単音(それの多くは鼻母音的なもの)が現れ得て、
同じ環境でも、人によって違ったり、同じ人でも
場合によって違ったりする。

その有様は、まさに連続的であり、
グラデーションである。

そんな連続的で、多様なものであっても、
日本語母語話者には、それが同じ音素/ɴ/として
認識される。

(実際、「本も」、「本の」、「本が」、「本や」、
 「本は」、「本を」、「本へ」等々の
 「ん」が別な音声だということは、
 言われて気づくか、人によっては言われても
 気づかないのではないでしょうか。)

このように、物理的なあり様と、
人間による認識が、文化・共同体の中でもズレる場合があり、
文化人類学では、フォネティックとフォニーミックから
「音 phon」を取り去って、エティックとイーミックと
呼んでいる。

単純化していうと、物理的に(エティックに)
違っているものであっても、
文化が、あるいは個人がするイーミックな認識が
まとめて認識してしまうことがあるということである。

最近のLGBT+界隈では、
性自認(そして、他人によるジェンダー認識)は、
女と男に、必ずしも2分できる
ものではなく、その間のどこかに自認がある人もいて
グラデーションであるという認識が広まっている。

それを見て、ジェンダーの区別なんて意味無いんだ!
と考えるのは、早合点である。

あくまでも、性別2分法という従来からの「常識」が
正命題だとすると、「ジェンダーはグラデーション」というのは
それに対する反命題でしかなく、そこはアウフヘーベン(止揚)して、
合命題にしなければならない。

アウフヘーベンした合命題は、
(これは性自認だけでなく、他の人から見たジェンダー認識を含んでいるが、)
「ジェンダーが、女か、男かで同定できる個体も存在するであろう。
 しかし、その間にはグラデーションがあり、そのグラデーション上には
 様々な位置に個体が存在し得る。また、一旦、女、男と同定した
 個体に関しても、女の場合男性的な特徴も一部認められる場合があり、
 他方男の場合も女性的な特徴が一部認められる場合がある。」

ちょっと説明的すぎて、すっきりしない感じではある。

ここに、エティックとイーミックを入れると、

「ジェンダーは、エティック的には、連続したものであり、
 グラデーションである。そのグラデーションは、
 文化によって、あるいは個人によって、イーミック的に
 切り取られる。」

そのイーミック的な切り取り方は、従前の「常識」から
踏み出さない人にとっては、「女性」、「男性」で
終わりであろう。

最近のテレビ界隈だと、そこに「オネエ」という
どちらでもない「非日常な」範疇を加えているであろう。

他方、LGBT+界隈では、

「私は女だけど、男ジェンダー的な部分的特徴もあるよね」とか
「私は男だけど、女ジェンダー的な部分的特徴もあるよね」とか

が語られることがあったり、さらには、

「私は女でも男でもないXジェンダーを自認しています」
「私はときに女であり、ときに男であり、揺らいでいます」
「私は同時に女であり、男であります。」
「私は、女でも男でもなく、無性です。」

などという人も出てきている。

そのような「どちらでもない人」「どちらでもある人」を
LGBT+界隈では、本人の自認通りに受け入れようとする
傾向があるのに対して、

一般の人々は、「そんなこと言ってるけど、実際のところ
女なの?それとも男なの?」という2分法を押し付けて
くるのであろう。

--

最近のターフ論争
(TERF: trans-exclusive radical feminist
トランス排除型急進的フェミニスト)は、

性別2分法の域を出ておらず、
「MTF TGは、私たちの観点からすれば女ではない。
 故に排除する」

というもので、

「女vs.男」でないとしたら、
「女vs.非女」という2分法であろう。


「ろ」恋愛感情と性的欲求の対象がずれること。

恋愛感情と性的欲求の対象がずれていることを
自認している人たちが出てきている。

恋愛対象と性的指向が食い違うことの意味について
http://nightyqueer.hatenablog.com/entry/2018/01/29/223807

Here's What It Means When Your Romantic and Sexual Orientations Are Different(英語)
https://everydayfeminism.com/2016/07/cross-orientation-101/

cross-oriented、cross orientationなどと呼ぶようです。

恋愛の対象と、性的な欲求を満たすための対象の
性別、ジェンダーがずれている人たちが、
それを宣言するようになってきているようですが、
でもまだ、検索しても、あまり引っ掛からず、
大っぴらに宣言しているのは、
未だマイノリティーの中のマイノリティーなのでしょう。
(あるいは、用語が違うのかもしれません。)

敢えて日本語にするならば、交差指向でしょうか。

また2つのページ(前者は後者の和訳)を見ても、
「交差しない場合」への名付けが無いのですが、

英語で言ったら、iso-oriented、iso-orientationでしょうか。
化学、数学辺りに、援用できるいい訳語があるかもしれないのですが、
今は等指向とでも仮に訳しておきましょうか。

この人たちが交差指向を敢えて宣言しなければならないのは、
世間が、等指向主義というイデオロギーに満ち満ちているからです。

「異性愛者は、異性を恋愛対象とし、且つ異性を性的対象としなければならない。」
「同性愛者は、同性を恋愛対象とし、且つ同性を性的対象としなければならない。」
「両性愛者は、両性を恋愛対象とし、且つ両性を性的対象としなければならない。」

他方、Aセクシュアルは、どのジェンダーも、恋愛対象とせず、
性的対象ともしないのであれば、等指向主義からはずれませんが、
「いや、性的対象は無いんだけど、恋愛対象はある」というのなら、
交差指向でしょう。

また、Aロマンティックは、恋愛対象は無いが、
特定のジェンダーが性的指向となるというのならば、交差指向でしょう。

また、パンセクシュアルや、ポリセクシュアルは、
該当のジェンダーに関して、等しく恋愛対象として、性的対象と
するならば等指向だけれど、両者がずれるのならば、交差指向でしょう。

バイセクシュアルでさえ、「オレはバイだけど、恋愛対象は女です」
なんていう人は、結構いて、それは交差指向でしょう。

これを、1)の定義に盛り込もうと思ったら、
1)のままで、これも含まれていますね。
目から鱗でした。


「は」どっちがイデオロギーなのか?

宗教・道徳関連で、

「異性愛のみが正常であり、さらには婚姻した夫婦間でのみ
 性行為が許される」

と言われることがあります。

これをイデオロギーと言わずして、何をイデオロギーというのか。

その「主義」の人らにとっては、それに外れたことを言う人たちが
「逸脱したイデオロギーの持ち主」ということになるのでしょうが、
何をか言わんや。です。

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