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菊池成孔氏講演会再訪

1月20日の、
東京外国語大学大学院総合国際学研究科言語応用専攻
国際コミュニケーション・通訳専修コース平成27年度
卒業講演会

菊地成孔氏
「音楽と言語はどのくらい、どう似ているのか?」

を書き起こした冊子を、鶴田知佳子先生から
いただきました。

菊池「我々は違和感に対して麻痺し続けて、違和感が美的
なものに変わり、違和感が美的なものに変わりって
いう(風)に、刺激がどんどん上がっては慣れていく
と言うことをくる返している....」

なんかにも関連して、僕が書いた感想も
報告書に収められていて。<笑>

・木下牧子さんの初期の合唱組曲「方舟」は5/4(拍子)で、外語大
の合唱団コールソレイユが(委嘱)初演しました。1980年代としては
前衛的だったのでしょう。
・「我々は違和感に麻痺し続ける」というのは、文学者だと
シュクロフスキー、言語学者だとハブラーネックの
異化(違和感を感じる)→自動化(慣れる)ですね。
・両親が聾者で子供が聴者、CODA (Children of deaf adults)と
呼ばれるのですが、彼らが手話言語と音声言語を同時に
話す時、口と手は別なことを言うことがあります。リズム的には
ずれていないと思いますが。(code-blendingと言います)

--

でまた、2ヶ月経って考えるに、
言語と音楽はどう似ているか。

音声言語の言語音は、一定の音質が認知できる
分節音(セグメント)の並びの上に、
超分節音(プロソディー)が被さっているんですけど、
セグメントとプロソディーの両方に関して
「言語と音楽の異同」というものを
考えてみるのも一興かなとか思いました。

また、音声言語とは違って、手話言語は、
時間軸に順番に並ぶセグメントというものは
無くて、そうなると、従前の枠組みだと
全部プロソディーになってしまう。

ただ、その「同時的なもの」のうち、
手形、位置、動きはセグメントだと
ストーキー(W. C. Stokoe)が言ったところから、
手話のシニフィアン(能記)にも音声学・音韻論が
適用できるかも、というところになっています。

その上で、手話言語のプロソディーは、
手指の動きの緩急、緊張・弛緩、
その他の加工だったり、
顔や姿勢などの非手指標識だったり。

で、また「聾者の音楽」がテーマになった
映画が公開されていますね。
http://www.uplink.co.jp/listen/

などとよしなしごとをつらつらと。

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2016年3月18日 08:56に投稿されたエントリーのページです。

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