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セクシュアルマイノリティーのエティックとイーミック

これは、ずうっと出回っていて、どこ(いつ誰が言った・書いた)がソースか
わからないけど:

星稜LGBT(セクマイ)@seiryo_lgbt

【セクシュアルマイノリティ】性自認や性的指向などが一般的に想定される性規範と異なる人のこと。つまり、①身体的性別が男女のどちらかはっきりしている ②身体的性別と性自認が一致している ③恋愛感情と性的欲求を持ち得る ④③の対象は異性のみ という①?④に当てはまらないものがある人。
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それから、ちょっと考慮に加えたいのは:

タケ@アンセクシャル@faren_demeil

とりあえず私的には
『身体的性別』
『心の性別(性自認)』
『社会的性別(周りから見て欲しい性別)』
『恋愛指向』
『性的指向』
『性行動』
の6つは存在していると思ってる>RT
Retweeted by Nobuqatsu▽Minoula
retweeted at 04:05:32 削除


社会学的な言葉で語られることは多いと思うけれど、
そこにちょっと言語人類学的(認識人類学的)切り口を
加味してみたい。

この2つのツイートで相互に関連があると思われるのは:

 星陵           タケ
(1)身体的性別        身体的性別
(2)性自認          心の性別、社会的性別
 (及びそれと(1)の一致)
(3)恋愛感情と性的欲求を   (恋愛指向、性的指向)
 持ちうる
(4))(3)の対象は異性のみ   (恋愛指向、性的指向)


以上のような、ごくごく最近の「定義」では、どれも
「二分法」ではないということが、よく語られるように
なってきたが、以前からの用語で、society at largeでも
使われやすいと思われて使用されて入る用語、
LGBTは、(1), (2), (4)にそれぞれ「二分法」が強く
織り込まれて入る。

例えば、L(レズビアン)は、(1)が女性、(2)が女性、
(4)が女性である。
G(ゲイ)は、(1)が男性、(2)が男性、
(4)が男性である。
B(バイセクシュアル)は(1)は女性か男性、(2)は(1)と
一致した女性か男性、(4)は男女両性である。
T(トランスジェンダー)は、(1)は女性か男性、(2)は
(1)と一致しない女性か男性、(4)は、同性、異性、
あるいは両性である。

最近、その二分法では掬いきれないと考える人たちが
声を上げてきている。また、LGBT区分では基準にすら
なっていなかった、(3)「恋愛感情と性的欲求を持ちうる」が、
ともすると、やっぱり、「ある」か「ない」かの二分法に
陥りやすいが、それも二分法ではないという考え方が
出てきている。

そこで、言語人類学、認識人類学で使われている、
エティックとイーミックの概念を導入したい。

エティックなあり方とは、生(き)のままの連続的・混沌とした
あり方であり、そこに人間が、主に言語による範疇化を
することによって、分類して、主体的に認識し、
(時には人工的な)区分をし、あたかも不連続であるかのように
分けたものが、イーミックな見方である。

上記LGBTは、生(き)のままの姿ではなく、
言葉による強制二分法を引き継いだ、イーミック的な
分類と成っている。

しかし、そこからはみ出た「当事者」などの声を
拾うと、エティックとイーミックの間のズレに
違和感がぶつけられている。

ここで、(1)、(2)、(3)、(4)を再度吟味してみたい。
(1)は、様々な性分化疾患に該当する人以外は、
外性器の形、染色体が(XXかXYか)と首尾一貫した形で
女と男の二分法に当てはまる。

様々な性分化疾患に該当する人は、ここでは、
女と男の二分法には必ずしも当てはまらないのかも
知れない。しかしその多くの人が、(2)の性自認(心の性別、
社会的性別)に関しては、女か男に歩み寄って、
イーミック的には二分法に当てはまっているそうである。

(2)の性自認(心の性別)と社会的性別に関しては、
人の性別に、様々なファクターが絡んでいて、
簡単に二分すれば済むものではないということは、
私が生きている上でも感じている。

トランス・ジェンダーの人は、(1)身体的性別と(2)性自認・
社会的性別が「真逆」なことになっている。
彼らの多くが、社会の中で、(1)身体的性別とは真逆の
性別で生活することを望んでいる。
しかし、性別適合手術を望んでいる人はその全てでは
ないし、また手術をする場合でも、どこまでするかは、
個人、個人によってばらつきがあるそうである。

最近とみに、私の周りで見られるようになってきているが、
society at largeは認識していないものは、Xジェンダーである。
彼らは、FTX、MTXという「ラベル」を得、イーミック的な
認識もされるように希望している。
彼らは、女と男という二分法の性別に違和感を感じ、
どちらでもない、あるいはどちらでもある、あるいは
性別はないという自認をしている。

社会的には、「二分法しかないところ」ではどちらかの
性別で生活するが、もし認識される場所であれば、
女でも男でもないXというジェンダーを表現したいと
程度の差こそあれ、思っているらしい。

また、レズビアン、ゲイは、(1)身体的性別と(2)性自認・
社会的性別では、二分法で問題ないように思われがちであるが、
例えば、私がレズビアンの友人とカラオケに行くと、
あちらは尾崎豊を歌って、私は、20世紀後半の
女性歌手の歌を歌って、どちらもとってもしっくりと
来るということがあったりする。
レズビアン・ゲイとて、人によっては、society at largeが
求める女らしさ、男らしさからははみ出して生活した方が
しっくり来たりするのである。
(現に異性愛者と一緒にカラオケに行った時には歌えない
 女性歌手の歌がたくさんある。)
ということは、女と男の強制二分法がレズビアン・ゲイを
自認する人にでさえ、窮屈であることがあるということである。
(これは、多数派を自認する異性愛者の中にも多かれ少なから
 該当する人がいるかもしれない。)

また、ドラーグ・クイーンのブルボンヌさんは、
「お米を食べるために女装をして、男を食べるために男装をします」
と言う「名言」をお持ちだが、性別の揺らぎを楽しんで
いらっしゃる。

まとめると、(2)の性自認(心の性別)と社会的性別も
従前の二分法では最早括れるものではなく、
エティックは、それこそカオス的に二分法を笑うかのような
様相を呈しているし、イーミック的にも女、男の他に
Xと言う範疇の認識をsociety at largeに要求しているし、
また、程度の差はあれ、女領域と、男領域を
行ったり来たりする人や、はみ出す人々がいて、
society at largeの「命名」を伴ったイーミック的
範疇化が追いついてはいないが、何らかの認識を
要求している。

星陵の(3)「恋愛感情と性的欲求を持ち得る」に関しては、
Aセクシュアル(アセクシュアル)と言う言葉が
知られるようになってきている。ここでも、
イーミック的な強制二分法の猛威は発揮されていて、
他のLGBT等からも「Aセクシュアル(アセクシュアル)って
恋愛感情と性的欲求が『無い』人でしょう?」と
思われがちである。

でも実際には、これにもグラデーションが
あって、「ある」か「無い」かの二分法では

ないようである。

「私はゲイよりのAセクシュアルである」と
言う人がいたりするが、程度としては弱いし、
強制されたら嫌だけれども、弱い性的欲求と
恋愛感情が無い訳でもないと言う場合も
あるようである。

恋愛指向と、性的指向に関しては、
従前から言われている、レズビアン、ゲイといった
同性愛と、バイセクシュアル(両性愛)の他に
パンセクシュアル自認の人が出てきている。
女、男、という規範的な性別だけでなく、
X他の全ての「性別??」を恋愛対象とするという
ことである。またポリセクシュアル自認の人たちは、
女、男、X、その他の分類の中の複数のカテゴリーを
恋愛対象とするが、全てではないということの
ようである。

また、恋愛指向と性的指向の対象がずれる人も
いるようである。

ここまでくると、二分法が利かないばかりか、
「すべてを範疇化して命名しよう」という指向さえもが
笑われている感さえ受ける。

以上、星陵の(1), (2), (3), (4)のどれもが二分法だけでは
掬いきれないことを見てきた。

しかしイーミック的に分類し、「不連続なもの」にしない
ことには落ち着かないのが人間集団である。

エティック的には連続性を持ったものであっても、
必要なところには、「新たな」命名をして、
人は、これからの「社会」生活を行っていくのであろう。
というように纏めておこう。

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2015年12月 8日 06:20に投稿されたエントリーのページです。

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