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同性婚パニック考

同性婚及び、同性愛そのほかセクシュアル・マイノリティーが
マスコミ等で顕在化してきている中で、
それに対するパニックというか、過剰防衛反応が
立て続けに3本出た。

海老名市議、練馬区議、岐阜県庁職員。

これには、言語人類学、認識人類学的観点から
切り込みを入れることができる。

宮岡『言語人類学を学ぶ人のために』(世界思想社)
第1章によると、共通母語集団(母語を共通とする集団)に
環境要因として働くモノは、ただ単に物理的にその
集団の周りに存在しているだけではダメで、

その集団が主体的に認識したものだけが
その集団にとっての自然環境、社会環境、超自然環境となる。

その認識の際には、集団の母語による範疇化と、その範疇への
命名がなされる。

その範疇化と命名には、新たになされたものだけでなく、
先行する世代から継承されたものも多く含まれる。

また、同章は書く。2つの相対立するペアの範疇があった場合、
そのどちらにも属さないモノは、恐怖や気持ち悪さを以て
見られると。

まさに、今回の同性愛者(その他)と同性婚は、
従前の日本語母語集団によっては認識されていないものだった。
すなわち、主体的な認識がなされておらず、
文化的には、存在しないものだった。
そして、散発的には認識されて
気持ち悪がられるものだった。

日本のsociety at largeにとっては、その範疇(の内容)すらも
どんなもんだか分からない内に、そのラベル(命名)である
名称だけがテレビや文字媒体から連呼される状況が
起こっていたと言えよう。

範疇化されていないのに命名だけされてラベルが
一人歩きしている違和感があったであろう。

それから、従前の日本語母語集団が、
世界各地の様々な言語衆団がそうであったように、
(主体的範疇化的には)
不連続的な「女」と「男」という範疇を持っており、
それに付随する「女らしさ」、「男らしさ」という
規範も持っていた。
そして、(文化的には)「女」でなければ必ず「男」、
「男」でなければ必ず「女」であるというのは
自明のコトワリであった。

そこに(以前から本質主義的、物理的には存在していたであろうが)
突然降って湧いたレズビアン、ゲイ(その他)という存在は、
名称が先行していて、でも、日本語母語集団にとっては、
逆に範疇化が追いつかず、また当たり前だと思っていた
男女二分法にも当てはまらないもので、
さぞ「気持ち悪かった」のだろうということは想像に難くない。

そういう無知、そして、集団による範疇化の「遅れ」による
タイムラグが、今回の一連の不見識な発言に繋がったのであろう。

しかしながら、日本が世界の一員であり続けるためには、
イスラーム圏、アフリカ諸国、ロシア等は真っ向から反抗しているものの、
同性愛者を始めとしたセクシュアル・マイノリティーや、
一人の女と一人の男の「結婚」以外のパートナーシップを
改めて認識して、範疇化して、命名して、
自文化内に存在せしめる義務がある。

今回の一連の事件は、そこへ向かう過程での
膿出しだったと考えたい。

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2015年12月 2日 22:26に投稿されたエントリーのページです。

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