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「男でなければ女である」という常識の暴力

佐久間淳一・加藤重広・町田健『言語学入門』(研究社)
http://www.amazon.co.jp/dp/4327401382

の中の、第19講、意味論2の102頁にこうある。

「反義語(antonym)には大別して三種あり....」

1. 一方でなければかならず他方である。
例:「男」と「女」、「生」と「死」、「表」と「裏」

2. 程度の違いを表わしていて、一方を否定しても
 必ず他方になるわけではない。
例:「長い」と「短い」、「高い」と「低い」

3. 同じ事態を別の視点から描写している。
例:「売る」と「買う」、「貸す」と「借りる」

男でなければ女であるというのは、
人類に関する絶対的な真理では決してない。

これは、日本語文化圏at largeのように、
特定の文化がそのように
「範疇化」しているから、当該の共同体内で
それが知識として共有されているだけである。

その文化的プレッシャーが強ければ
女でも男でもないヒトというのは
顕在化しにくいのかも知れないが、
近代文明化以前の「文化」の中でも、
「間の性」を持つ人に役割が付与されている
例は、枚挙に事欠かない。

現代の文明圏においては、
様々なレベルでの「間の性」が
顕在化してきている。

元々生物学的なレベルで
どちらでもないインターセックス(I)の
人たちがまずいる。

次に、世間の常識は、トランスジェンダーの
人たちは、生物学的な性が女性の場合は
男になりたいし(FTM TG)、
生物学的な性が男性の場合は女になりたい(MTF TG)という
「単純化」で共有されているが、
実際には、フルな性変更を望まないで
曖昧な、どちらでもない性、あるいはどちらでもある性、
あるいはゆらいでいる性、あるいは時と場合によって揺れる性
を「生きている」人もいる。

それらにどういうラベルを付けたらいいのかは
簡単には言えないが、「間の性」が「心地よい」人たちは、
(セミトランスとも呼べる)FTXや、MTXを自認していたりする。

また、トランスもセミトランスもしていないし、
自分の性自認はFだったりMだったりするが、
人が見たら逆の性に見られることもままある、
シスジェンダー(cisgender)としてパス(pass)しないこともある
「X」の人もいる。

という訳で、性別は、一方でなければ他方であるというのは、
文化がそれぞれに規定していることであって、
それも現代文明においては揺らいできている。
そして揺らぎの「実物」がどんどん
目に見えるようになってきている。

また性別というのは、「長い」「短い」のような
程度差の問題ではないし、「売る」「買う」のような
同じイベントを別の視点から描写しているわけでもない。

文化そして言語は
一方でなければ他方であると決めたがる。
そしてそれは、文法に表現される言語もある。
(cf. 文法「性」を持つ言語)

文化そして言語は女か男かを決めたがるけど、
それぞれの原型(プロトタイプ)の間には、
文化が望むような断絶の深い溝があるわけではなく、
連続体があるという事実がどんどん顕在化している。

という訳で、この状況は、文化や言語による
「範疇化」に対して根本的な変更を突きつける類いの
問題なのかも知れない。

あるいは、これは「日本人でなければ非日本人である」と
否定的に定義され、白か黒かがもっと簡単に付きそうな場合でも、
実際には、その間にどちらでも無い人、どちらでもある人、
揺らいでる人がいるというのに近い事態なのかも知れない。
要するに、言語による範疇化では「一方でなければ他方」と
定義せざるを得ないけれども、「事実」はそう簡単には
収まらないということの例なのかも知れない。

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2011年6月14日 00:35に投稿されたエントリーのページです。

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