言語記号としての(単)語は、
音声言語であれば、
音声の並び(能記、記号表現)を持ち、
それに約束事として結びついている
意味(所記、記号内容)が結びついています。
所記はまた、我々を取り巻く(主体的)環境を
範疇化したものと考えることもできます。
範疇に能記を結びつけることは命名です。
(単)語やその他の言語記号には、
連想が結びついています。
千野栄一先生によると、
旧共産圏時代のロシア東欧では、
(単)語毎に、どんな別な(単)語が
連想されるかを列挙した
連想辞典があったとか。
また、宮岡伯人先生によると
(『言語人類学を学ぶ人のために』)、
連想とは、他の(単)語だけでなく、
過去に経験した出来事、行為だったり、
歌だったり、儀礼だったり、
さまざまな物が連想されるとのこと。
そこで、ちょっと論理を飛躍させます。
ひとは、「人間は◯◯である」というような、
全人類に関わる同定文には、
そこによっぽどの哲学的心理が
込められていないと食いつきません。
しかし、その人間がいくつかの区分に分類されると、
面白いように食いつきます。
その分けられる範疇の数は、4つだったり、5つだったり、
10個だったり、12個だったり。
あたかもイージーオーダーの服を買うように
やすやすと受け入れてしまう。
あたかも、自分1人に向けられた託宣であるかのように
感じてしまう。
(対面占いはまた別なメカニズムだと思いますが、)
それが、雑誌その他の各種占いであり、
また、血液型性格判断だったりします。
4つでも12個でも分類されると、
それに付帯させられた宣託が
その分けられた範疇(=分類)の
連想の位置にスポッと嵌ってしまう。
そこには、科学的再現性もなにも
要りません。
(心理学ではバーナム効果と言ったり
するようですが、それはひとまず置いておいて。)
「たぬき」と聞けば、日本人であれば、
「化かされる」という連想を思い浮かべるように、
科学的実証性は要らないのです。
閑話休題。
最近、米国発で、血液型別ダイエットなるものが
提唱されているようですが、
それも、実証されたものではなく、
単なる著者(医学博士)の儲け装置に
他なりません。
もし血液型別ダイエットが効果あるというのなら、
彼らのウェブページに体験談があるように、
B型の人が「B型ダイエット」を実践したら
痩せたというだけではダメで、
B型の人が「B型ダイエット」をしたときと、
他の血液型の人が「B型ダイエット」をしたときの
効果の有為差を示さないとダメです。
それは、彼らは勿論する気はありません。
とはいえ、範疇化と、それに連想を結びつけるという
営みは、人間にとって基本的な営みですから、
そこに結びついているこのような諸現象は
なかなか無くならないでしょうし、
科学万能な唯物主義を、大人げなく
振りかざしまくる必要も、ときには無いのかも知れません。