台湾の民主化と憲法改正問題

 

 

小笠原 欣幸

 

 

はじめに

 

1987年の戒厳令解除以降,台湾の政治体制は目覚しい変化を遂げた。わずか10年の間に台湾の政治体制は,蒋介石・蒋経國が統治していた頃の権威主義体制とはまったく異なる民主主義体制へと移行したのである。李登輝政権は,この民主化の政治過程の中心に位置し,台湾社会の混乱を最小限に抑えながら体制変革の荒波を乗り切った。この政治過程においては,一連の選挙における与野党の激突や,国民党内の主導権争いなど,李登輝の政権運営をめぐる華々しいドラマが演じられる一方で,段階的・漸進的な改革が着実に進行してきた。李登輝が主導した政治改革が,権威主義体制の民主化という非常に大きな体制変革を流血事件なしに達成させ,台湾社会の混乱や敵対を最小限に留めたことは特筆に値しよう。しかし,段階的・漸進的な改革に伴う問題点として,李登輝政権が達成した体制変革の程度が把握しにくくなっていることと,権力関係の激変を回避するため旧体制の遺物を多く抱え込むという代償を払ったことも指摘されなければならない。もちろんその要因としては,台湾が他の主権国家にはない外的制約を受けた状態で,国内の改革を遂行してこなければならなかったという問題も関係している。

李登輝政権の段階的アプローチを象徴するのが4回にわたって行なわれた憲法改正である。国家の最高法規を過去7年の間に4回も変更したことは,転換期であったとはいえ確かに頻繁である。小刻みな憲法改正を繰り返していったところに,台湾の権力構造,台中関係,その他の政治的要素が凝縮している。台湾では民主化と同時に新たな憲政体系を確立することはできなかった。民主化とともに,ゲームを進行させながらゲームのルールを作っていかざるを得なかったのである。ここには台湾政治の特殊要素と同時に台湾政治のしたたかさ,柔構造の伝統が伺える。

本稿では,台湾の民主化を憲法改正という視点から整理し,憲法規定の側面から台湾の民主化の意味と問題点を探っていきたい。さらには,もともとの中華民国憲法に内在する問題と台湾で展開されている現実政治との関係,そして民主化後の台湾政治の問題を論じていきたい。

 

1.中華民国憲法の構造

 

1946年12月に制定された中華民国憲法は,孫文の三民主義思想に基づき,国民大会,総統(大統領),五権分立の国家体制を規定している。五権分立とは,行政院,立法院,司法院,考試院,監察院の五つの組織による国家権力の分立構造である。総統を国家元首とする共和制が採用され,国民大会が,総統・副総統を選出する機関とされている。五権分立の規定自体,世界でもまれな憲法構造であるが,中華民国憲法は,五権構造に加えて総統と国民大会が存在するので,実質的には七権分立構造となっている。それら相互の抑制均衡の関係は不完全であり,国権を七つに分割する意味も必ずしも明確ではない。

七権の中でも特に問題となるのが,国民大会と総統の位置づけである。立法府の中で二院制を採用している国家は珍しくはないが,この憲法は,通常の立法機関とは別に国民大会を設置していることが特徴である。これは,もともと孫文の思想の中に,国民党を国家の権力機構の中心におく「以党治国」論があり,国民党が指導する国民大会を通じて国家機構を掌握するという考え方があったからである。これは,国民党の絶対的主導権を前提としたものであり,ソビエト憲法の最高会議のように革命前衛政党の統治論と共通の要素を含んでいる。孫文の思想に忠実な憲法草案は,1936年5月に起草された「中華民国憲法草案公布案」である。この草案においては,国民大会は,総統をはじめ,行政院,立法院,司法院,考試院,監察院の院長および委員をすべて選出する権限を与えられていた。まさに,国民党が国民大会と総統を通じて,国家機構すべてを支配する体制を志向していたのである。西欧的三権分立思想との大きな違いは,立法院や司法院,すなわち立法権と司法権が政府の行政権から独立しておらず,行政権のもとに統一されているという点である。(1)

しかし,憲法制定の最終段階で政治情勢は大きく転換した。1946年1月,中国国民党,中国共産党,中国青年党,中国民主同盟,それに無党派が加わって政治協商会議が開かれた。国民党は大幅な譲歩をせざるを得なくなり,憲法草案の内容は大きく修正された。国民大会は実権のない機関に格下げされ,立法府主導の議院内閣制の要素が取り入れられた。(2)国民大会と総統を通じて五権を支配しようとしていた国民党の意図は挫折した。ところが国民党は,同年3月の中央委員会全体会議で,先の政治協商会議の決定を,行政府優位を確立するため一方的に修正することを宣言してしまった。ここにおいて,国共協調路線は最終的に破綻し,軍事力によって支配権を争奪する国共内戦へと突入した。1946年11月,国民党は憲法制定のための国民大会を招集した。政治協商会議に参加していた共産党と民主同盟は会議をボイコットした。しかし,国民大会に提出された憲法草案は,孫文の集権的な五権憲法構想への回帰ではなく,西欧的三権分立の要素が,部分的ではあるが盛り込まれものであった。それは,この間の政治情勢の変化により,中国青年党などの諸党派の協力が必要となり,国民党といえども純粋な孫文イデオロギーをそのままの形で貫徹することが困難になっていたからである。その結果,五権憲法でもなく三権分立でもない「非馬非驢」と形容される憲法が登場することになったのである。

結局のところ,中華民国憲法は,第二次世界大戦終結直後の混乱の中で制定されたのであり,制憲の議論においても,国民党内各派およびその他諸党派の主義主張と政治的駆け引きが入り乱れた。その結果,孫文の五権憲法原理に,欧米型の憲法原理,ソビエト式国会構造,さらには中華固有の考試監察制度が混ぜ合わせになり,憲法の根本体系がどういうものなのかはっきりしないまま公布施行されたのである。この混乱が,今日の台湾の憲法改正をめぐる論争にもつながっていくのである。(3)

 

総統と行政院長

さてここで,七機関相互の抑制・均衡関係の問題点を,国民大会,総統,行政院長,立法院の相互の関係に絞ってもう少し詳しく見ておきたい。憲法本文では,総統の権力として,統帥権(第36条),法律公布権(第37条),条約締結権(第38条),戒厳布告権(第39条),文武官吏任命権(第41条),緊急命令権(第43条),などの項目が規定されている。しかし,こうした権限を総統が単独で行使できると解釈するのか,あるいは,これらの権限は形式的なものであり行政院長が実質的な役割を果たすと解釈するかによって,中華民国憲法を大統領制ととらえるか内閣制ととらえるか見解が分かれる。内閣制説をとる者は,「行政院は、国家の最高行政機関である」(第53条),「行政院は,次の規定により立法院にたいして責任を負う」(第57条),「総統が法により法律を公布し命令を発布するときは,行政院院長の副署または行政院院長および関係ある部・会の首長の副署を経なければならない」(第37条)の規定を根拠に,総統は「虚位元首」であり実権を持たないとする。(4)周育仁は,「中華民国憲法の設計においては,行政の実権は行政院長がコントロールするのであり,総統が持っている数多くの権力は,みな行政院長に束縛される」と主張する。行政院長が協力しなければ,憲法が総統に与えている多数の権力は,その実,独自に行使することはできないという解釈なのである。(5)許慶雄は,逆に,憲法が規定している行政院長の副署は形式的な手続きにすぎなく,行政院長の判断で拒否できる「副署権」ではないと解釈する。(6)このように台湾の中央政府体制の解釈については,台湾の憲法学者の間でも意見が分かれている。注意が必要なのは,憲法解釈としては内閣制説をとる学者の方が多いようであるが,実際には大統領制的な運用をされてきたという点である。(7)

 

行政院と立法院

行政院と立法院との関係については,次のような規定がある。「立法院を国家の最高立法機関とする」(第62条),「行政院は……立法院に責任を負う」(第57条),「行政院長は総統が指名し立法院の同意を経て任命される」(第55条),「立法院が,行政院の重要政策に賛同しないときは,決議をもって行政院にその変更を要求することができる」(第57条)。これらの規定は,確かに議院内閣制の要素を持っている。

行政府と立法府の間の権力抑制機構として,行政院と立法院はそれぞれ相手にたいして再議を要求することができる。まず立法院の行政院にたいするチェックの規定は次の通りである。「立法院が、行政院の重要政策に賛同しないときは、決議をもって行政院にその変更を要求することができる」。行政院がこの要求に応じたくなければ,再議を要求できる。「行政院は,立法院の決議にたいして総統の裁可を経て立法院に再議を要求することができる。再議の場合に,出席立法委員の三分の二が原決議を維持したときは,行政院長は直ちにその決議を受諾するか,または辞職しなければならない」(第57条第2項)。このように,一見,相互の権力抑制機能が保障されているように見えるが,立法院が行政院からの再議要求をはねつけるためには三分の二の賛成が必要であり,この規定は事実上死文化していると言わざるをえない。

他方,行政院の立法院にたいする再議要求規定は次のようになっている。「行政院が,立法院で決議された法律案,予算案,条約案について執行困難と認めた場合は,総統の許可を経て,その決議案が行政院に送達されてから10日以内に立法院に再議を要求することができる。再議のときに出席立法委員の三分の二が原案を維持したときは,行政院院長は直ちにその決議を受諾するか,または辞職しなければならない」(第57条第3項)。ここでも行政院は,総統の許可があれば立法院のあらゆる議決にたいして再議を求めることができて,立法院はそれを覆すためには三分の二の賛成が必要であるから,事実上,行政院は立法院にたいして拒否権を持っているに等しい。「行政院長は直ちにその決議を受諾するか,または辞職しなければならない」との規定は,立法院が内閣不信任の権限をもつことを示しているが,成立要件が三分の二であるため,むしろ行政府の優位が保障されていると見なければならない。

つまり,与党が立法院内で過半数をわずかに上回るにすぎない状況においても,反対派は与党陣営の三分の一以上を切り崩さなくては三分の二には届かない。与党が三分の二程度の議席を占めていたりすると,不信任案可決は絶望的である。この場合反対派は三分の一程度が基礎票であるから,与党陣営の半分以上を切り崩さないと三分の二には届かない。通常の政党政治が行われている状態において,行政院長の同意投票において立法院の過半数を確保できた与党が,その同じ立法院においてこれほど大量の離脱者を生み出す可能性はほとんどない。1993年に日本の自由民主党政権が崩壊したケースでも,内閣不信任案の成立要件が三分の二であったとしたら,数の上では宮沢内閣は,不信任投票を乗り切れたことになる。「行政院は……立法院に責任を負う」と規定されていても,実際には行政院が優位に立っているのである。

 

総統と立法院

総統の権力行使にたいして立法院が持っているチェック機能は,総統の指名する行政院長にたいする同意権のみである。この他に監察院の審査長にたいしても立法院の同意権が規定されているが(第104条),その職務の政治的重要度は高くはない。逆に総統は,立法院で可決成立した法律を行政院を通じて差し戻すことができる(第72条,37条)。立法院がその再議要求をはね返すためには,やはり三分の二が必要である。その他に,第44条には,「総統は、院と院との間の紛争にたいして、この憲法に規定がある場合を除いて、関係各院院長を召集し協議解決することができる」という規定がある。これは,総統を五権機構の調停者と位置づけていると解釈することができる。しかし,これまでのところ,この規定が発動される事態に至ったことはない。

一方,緊急時については次のような規定がある。総統の戒厳令布告は,「立法院の承認または追認を受けなければならない。……立法院は総統にたいして戒厳令解除要請を決議できる」(39条)。緊急命令も,「立法院休会期間中にあっては、……発布後一ヶ月以内に立法院の追認を受けなければならない。立法院が同意しなければ,当該緊急命令は即座に失効する」(43条)と規定されている。これらは,総統の,戒厳・緊急命令発布の権力がみな立法院の制約を受けることを意味する。非常時の総統の権力には歯止めがかけれらている。

このように,中華民国憲法においては緊急時における相互関係が規定されているが,平和時においては行政院長指名同意権を除いて相互関係の規定はない。それではこの同意権は,総統の権力抑制機能として適切であろうか。後で詳しく論じるが,同意権の行使が抑制機能としてはたらくのは限られた状況においてのみであり,先に述べたように行政府の優位が保障されている憲法規定の中にあっては効果的な手段とは言えないであろう。中華民国憲法の体系においては,行政院が立法院に責任を負うとされているので,規定上は総統は立法院と直接的関係を持たないことになっている。しかし現実には,総統と立法委員とは接触がある。これは,国民党主席が党所属の立法委員と会談する形式をとるので,チェック機能とはなりにくい。(8)総統の責任を問うことができるのは国民大会だけであり,しかもそれは監察院から弾劾決議が送られてきた場合に限られる。

このように中華民国憲法の権力抑制均衡機能は部分的であり,整合性がとれていない。

ただし,ここで,中華民国憲法の規定をこれ以上細かく解釈することはほとんど意味がない。なぜなら,憲法が施行され,その手続きに沿って選出された第一期国民大会の第一回会議(1948年4月)において,憲法に優先する法律「動員戡乱時期臨時條款」が制定されたからである。この「臨時條款」は,総統に広範な権限を付与するものであり,憲法の各種規定に反する項目が含まれていた。中華民国憲法は,施行から半年も経ずして否定されたに等しい状態におかれたのである。

 

2.「臨時條款」体制

 

共産党の反乱を鎮定するための動員体制作りという名目で制定された「動員戡乱時期臨時條款」は次のように規定している。「総統は,反乱鎮定動員時期においては,国家および人民が差し迫った危難に遭遇するのを回避するため,あるいは財政経済上の重大異変に対処するために,行政院の決議を経て,緊急処分を行なうことができる。憲法第39条あるいは第43条に規定された手続きの制限は受けない。前項の緊急処分については,立法院は憲法第57条第2項の手続きにより変更あるいは取り消すことができる。反乱鎮定動員時期の中止は総統が宣告する。または立法院が総統に宣告を要請する」。

周育仁は,この規定自体においては,総統の緊急処分権は行政院会議の決議を経て行使されるので,「総統の緊急処分権は依然として制限を受けている」としている。「臨時條款」は確かに総統の権力拡大を企図しているが,憲法が行政院長に与えた権限はいまだ削減されていない,と解釈するのだ。周育仁は,もとより,総統の権力が強化されたことを否定しようというのではなく,総統の権力の根拠は「臨時條款」だけにあるのではなく,総統が国民党の党首であることから発していると論じたいのである。「国民党の一元的な指導構造においては,党首が人事と政策の最終決定権を握り,結果的に総統を務める国民党党首は党機構を通じて行政院長と立法院を指導することになるのである。その結果,総統は実権を有しながら立法院に責任を負う必要はなく,有権無責となった。逆に行政院長は,実権がなくなりながらも立法院に責任を負うので,有責無権となった」。(9)

周育仁の意図は理解できるが,周の「臨時條款」の解釈は問題がないとはいえない。「行政院会議の決議を経て」という要件が,総統の権力行使の歯止めになるためには,総統の指名した行政院長が総統に反旗をひるがえすという状況でなければ意味を持たないのであり,抑制機構としては軽いものである。「臨時條款」のポイントは,総統の緊急処分権に立法院のチェック機構を排除したことにある。憲法本文における緊急命令権の規定では,立法院の承認または追認が必要であるが,「臨時條款」の緊急処分権においては,その手続きが不用になった。「立法院は憲法第57条第2項の手続きにより,総統の緊急処分を変更あるいは廃止すことができる」との項目も付け加わっているが,立法院の承認または追認を規定した憲法第39条あるいは第43条の制限は受けないと明記されているので,実際の発動は困難であろう。しかもすでに述べたように憲法第57条第2項は,立法院の行政院にたいする再議要求に関する項目で,その成立要件は三分の二の賛成を必要とする。かりに立法委員の三分の二が賛成したとしても,辞めさせられるのは行政院長であって,緊急処分を行なった総統ではないのだ。

規定自体が複雑でしかも矛盾を含んでいるのでわかりにくいが,中華民国憲法でかろうじて確保されていた緊急時の総統にたいする権力抑制機能が,この「臨時條款」によってなくなったのである。「臨時條款」が,政権与党の党首として行使できる影響力をはるかに上回る権限を総統に与えたことは明白であろう。横山宏章は,「臨時條款」の制定は,蒋介石の総統選出馬のための花道づくりであったとして,「政治的権力を強化するために臨時法規を制定し,それが最高法規としての憲法を拘束するという対応は,まさに法治を蔑ろにした人治主義の極限にほかならない」と論じている。(10)

「臨時條款」はその後,4回改正される。1960年の第1回目の改正では,総統の三選を禁止する憲法第47条を棚上げにする項目が付け加えられ,蒋介石の三選の露払いをした。1966年には2回目,3回目の改正が相次いで行なわれ,3回目の改正で,総統は,「反乱鎮定時期においては反乱鎮定機構を設置する権限」,「反乱鎮定に関する大政方針を決定する権限」,「反乱鎮定動員の必要に対応するため中央政府の行政機構および人事機構の調整をする権限」が与えられたのである。これを受けて,総統が主席を務める国家安全会議が設置された。行政院が提出する予算案・法律案は,まず国家安全会議で審議され,その後立法院に送られることになったのである。周育仁は,1948年制定の「臨時條款」よりも1966年改正の「臨時條款」に至って,「国家政策の決定権は名実ともに総統の手中に握られた」と解釈する。(11)中華民国憲法が議院内閣制の要素を取り入れているとしても,「臨時條款」はチェックアンドバランスのない大統領制を規定している。台湾の政治体制は事実上大統領制として運用され,総統の権力行使の積み重ねの末に今日の台湾の政治文化が形成されている。

ところで,中華民国憲法の位置づけはどのように考えればよいのであろうか。1949年,中国大陸における国共内戦で,国民党政府は「反乱勢力」である共産党に敗北し,中華民国の領土の一部であった台湾に逃れた。1949年10月1日,毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言した。大陸中国の領土と人民を実効支配する主権国家が誕生したのである。この間の歴史的経緯,あるいは,共産党政権の道義的問題をすべて捨象して考えると,ある領土,人民を支配する一つの国家体制が転覆され,新しい国家体制が成立した。中国大陸における中華民国は消滅し,転覆された旧国家体制の憲法は失効したのである。

さて,それでは台湾における中華民国憲法は,どのように理解すべきであろうか。中華人民共和国の統治は台湾には及んでいないし,及んだことも一度もない。台湾の国民党政府は,中華民国憲法が依然として有効であるという立場を変えていない。中華民国憲法は,「その領土の変更は国民大会の決議を経なければならない」(第4条)と規定しているが,領土そのものがどこからどこまでを含むのかについては,憲法本文には直接の規定はない。しかし,モンゴルとチベットが,国民大会代表,立法委員,監察委員の選出母体として明記されているし,モンゴルとチベットにたいして自治を保障することが規定されている。台湾地区は,中華民国のごく小さな一地域にすぎない。憲法の根幹を成す国民大会代表,立法委員,監察委員の選挙を憲法の規定通りに行なえないし,憲法の規定する国家体制も台湾地域だけではどうすることもできないのである。議員らはみな改選されない「万年議員」となり,一地方自治体であった台湾省と中央政府が管轄する地域がほとんど同じになってしまった。

法治主義の原則に立つなら,台湾に移った時点で国民大会において,中華民国の領土は台湾,澎湖,金門,馬祖であると決議する選択肢があったはずだ。あるいは,台湾統治に適した憲法改正を考えることもできた。しかし,国共内戦を引きずり,中国大陸を支配する正統政権という虚構を維持しようとする国民党にはそうした選択肢はあり得なかった。蒋介石は,中華民国憲法をそのまま無傷で大陸に持ち帰ることにこだわったのである。(12)台湾の統治は,「臨時條款」,戒厳令,その他様々な「違憲」の法体系の中で営まれてきた。この法体系は,中華民国憲法の規定が適用可能な部分ではそれを適用し,統治するのに都合の悪い部分は一方的に停止するという非常に恣意的な体制である。突き詰めれば,それらは,蒋介石および蒋介石周辺の国民党幹部の意向が法律の形をとって施行された体制であって,法治ではなく人治である。このような体制は,中国統一という特殊な国家目標を台湾人民に受け入れさせることによって正当化された。

 

3.第一次修憲(1991年)

 

1988年1月,蒋経國の死去を受けて李登輝が総統に就任した。李登輝は蒋経國に引き立てられ,短期間のうちに国民党の党内序列の階段を駆け上がった。発足当初の李登輝政権は非常に脆弱で,その権威の拠り所は,蒋経國によって副総統に指名されたということしかなかった。民主化の歯車を回転させようにも,憲法体制をどのように構築するか大きな難問にぶつかった。李登輝は,国民党の権力基盤である外省人エリート層を懐柔しながら自分の政権基盤を少しずつ固め,注意深く民主化と国民党の改革を進めていった。バランスを少しでも見誤れば,李登輝政権は直ちに崩壊しかねない状況であった。

段階的に民主化を進めるにしても手続きの面で大きな障害があった。憲法を修正する権限を持っているのは国民大会のみである。しかしその国民大会代表は,1948年に中国大陸各地で選ばれたきり改選されていない「万年議員」が大半を占めていた。台湾の政治体制の非民主的部分を象徴する国民大会代表によって民主化のプロセスを進めていくという逆説的な状況におかれていたのであった。しかも憲法を修正するためには,国民大会代表の三分の二が出席し,その四分の三が賛成しなければならない(第174条)という厳しい要件が待ち構えていた。(13)

この状況を打開するために李総統が持ち出したのが国是会議であった。国是会議は,政界・財界・学会の著名人を総統の名義で招集した単発的な会議である。憲法に規定がないので,体制外組織と見る論者も少なくなかった。そこで,拘束力のある決議という形はとらないで,ゆるやかな意見集約というやり方を用いた。李登輝は,国民党内保守派と民主化推進勢力との間を微妙な舵取りで進み,「一機関二段階修憲」という流れを作り出した。国民大会代表は修憲の権限(合法性)をもつ。しかし台湾の民意を代表していないので正当性がない。そこで,第一段階修憲では台湾住民の民意を代表できるように合法的な形式を整え,第二段階で実質修憲を行なうという手順が考え出された。これが,「一機関二段階修憲」論である。これは,戦後の台湾を支配してきた憲政体制の歪みを表わしている。「一機関二段階修憲」は,確かに台湾の実状に合致した現実的な方策であったといえるが,理論的には仮想の合憲性とでも言うべきものであろう。すなわち,中華民国憲法は台湾統治の基本法として全面的には遵守できない,ならば,できるだけその精神・手続きに近い方法で統治するという考えである。既存の法体系の連続性を重視した考え方と言える。

次に,憲法修正を,憲法本文の修正とするか,本文に追加する形を採るかという問題があった。追加條文方式を支持する学者は,統一前の改正は過渡性のものだから,本文を変えずに本文の後に追加條文を置いて構わないという立場をとっている。李炳南・鐘国允は,本文を変えない理由として,歴史的なこだわり,憲法本文の完整性への固執,長年国民党が本文を変えないと宣伝してきたこと,などの要因を指摘している。(14)結局,李登輝政権での修憲は,すべて,憲法本文に追加する「中華民国憲法増修條文」として制定されることになった。

李登輝政権にとっては,新憲法の制定という選択はもちろん,憲法本文の修正もリスクが大きかった。台湾社会の省籍問題や統一独立論争を考えると,正面から新憲法の制定を論じていくことは,より激しい権力抗争と社会対立を招く可能性があった。台湾の国家体制のあり方をめぐって国内の対立が広がり,両岸関係の緊張を招くことも必至である。国民党は依然として「一つの中国」を公式の立場としているので,全中国支配という虚構を抱える中華民国憲法を虚構として放棄することはできない。李登輝政権は,適用可能な部分は中華民国憲法を適用し,実態に合わない部分は追加條文で処理をしたのである。しかしこのため,「増修條文」は憲法本文の最後尾に追加された条文であるにもかかわらず,本文のいくつかの条文の規定を受けないと明記することとなった。(15)本文と追加條文に矛盾を来たしていることと,政治の重要なルールが追加條文にあることは,憲法の一貫性と国家の最高法規としての憲法の権威を損なう危険を有している。憲法本文と追加條文という二つの憲法が生まれ,追加條文の方が上位に立つという変則的な憲法体系が出来あがった。

こうした問題を抱えつつも,そして,「国家統一前」という時間限定,および「自由地区」という地域限定が付されてはいるが,「増修條文」によって,憲法本文とは異なり,初めて台湾地区統治の正当性を最高法規に規定できたことの意味は大きい。「中華民国在台湾」を自己規定したのであるから,形式的には「増修條文」であっても実質的には制憲に近い意味を持つ。既存の法秩序と権力関係の中で粘り強く段階的改革を追求し,民主化の体制転換を成し遂げた李登輝政権の創造力は高く評価されてよい。

第一次修憲を行う国民大会は,1991年4月8日から4月24日まで開催され,「動員戡乱時期臨時條款」の廃止を決議するとともに,10条からなる「中華民国憲法増修條文」を制定した。これらの条文は主として中央民意代表の選出方法と総統の権限についてである。第1条から第5条までが,国民大会代表,立法院立法委員,監察院監察委員の選出方法に関する項目である。これらの民意代表は,憲法本文の規定では中国全土から選ばれることになっているが,憲法本文の規定を受けないと記して,台湾での選出を規定した。総統の権限については,「動員時期臨時條款」に規定されていた緊急時の権力がそのまま踏襲された。「臨時條款」との相違点は,この緊急命令に「10日以内に立法院の追認をえなければならない。立法院が同意しない時は,当該緊急命令は即座に失効する」(増修條文第7条)と制限を加えたことである。これにより,「臨時條款」とは異なり,総統の緊急命令権には,事後ではあるが,立法院から一定の歯止めがかけられることになった。ただし憲法第43条においては,緊急命令は立法院の審議承認を前提としており,事後承認が許されるのは立法院休会中のみとされていることからすると,民主改革派にとっては不満の残る部分である。緊急命令権の発動の要件を明確にし,緊急命令発動時の体制も明文化する必要があろう。(16)

増修条文第9条では,総統の大政方針権を次のように定めている。「総統は国家の安全に関する大政方針を決定するため,国家安全会議および所属の国家安全局を設置することができる」。これは,「臨時條款」によって拡大された総統の権限と総統直属の組織(国家安全会議)をそのまま保持する條文である。大政方針の規定については,憲法学者の間で見解が分かれる。李炳南・鐘国允は,大政方針が法律概念として不明確であり,また総統と行政院の職権区分が不明確になると批判し,「臨時條款」に規定されていた総統の権限を縮小し,憲法本文の規定に回帰すべきであったと論じている。(17)一方,蘇永欽は,総統は国家安全大政方針権を貫徹できるようにすべきであると言う。蘇永欽はさらに,国家安全会議で大政方針を決定後は,行政院はそれに拘束されるよう條文に明記すべきであると主張している。(18)

第一次修憲後に作られた国家安全会議組織法では,国家安全会議は総統の諮問機関と位置づけられた。しかし国家安全会議の構成員は,行政院長,副院長,内政部長,外交部長,国防部長,財政部長,経済部長,大陸委員会主任,参謀総長などを含んでおり,行政院の上で国家政策の決定ならびに執行ができる態勢が整ったと見ることができる。増修條文にこの規定が盛り込まれた理由は,「臨時條款」で設置されていた権限と組織が既得権益となり,組織生命力を発揮し生き延びたからであろう。「臨時條款憲法化」という批判がでてくる所以である。

その結果,ポスト臨時條款の憲政体制は,内閣制を志向するのではなく,大統領制を志向することがはっきりしてきた。ただし,総統の権限は憲法本文と比較して確かに拡大されたが,民主主義体制を逸脱するような権限が盛り込まれたわけではない。「臨時條款」の廃止とあい前後して,国民の基本的権利を抑圧し蒋介石・蒋経國の強圧的な権力行使を可能にしてきた各種の法律は改廃されている。憲法本文の人権保障規定が甦ったことの意義は非常に大きい。民主主義体制内の統治形態として,内閣制ではなく大統領制的な側面が強まったということであって「独裁化」という批判は当らないであろう。

第一次修憲での李登輝政権の目的は,@民意機関の正当性を回復し実質修憲に入れるようにすること。A憲法の上に立ってきた「臨時條款」を廃止し法制度を常態化すること,とまとめることができる。この目的はおおむね達成された。

 

4.第二次修憲(1992年)

 

上記の第一次修憲を受けて,国民大会を全面改選すべく,1991年12月,国民大会代表選挙が実施された。選挙の結果,国民党は,憲法改正に必要な四分の三を上回る議席を獲得した。こうして国民党は合法的に単独で修憲を行うことができる立場に立った。「一機関二段階修憲」論の第二段では,実質的な修憲によって台湾における憲政体制の刷新を図ることが目的であったが,総統の選出方法をめぐる国民党内部の意見対立に見られるように,憲政改革のコンセンサスは簡単には形成されず,第三次,第四次の修憲が必要になった。

総統の選出方法をめぐる対立は,総統を直接選挙で選ぶか間接選挙で選ぶかという方法論の違いだけでなく,国民党内の主流派と非主流派の激しい主導権争い,さらには台湾の進路をめぐる両者の意見の対立が内包されていた。李登輝ら主流派は,台湾住民の直接選挙で総統を選出することを主張した。それにたいして非主流派は,直接選挙方式では「台湾総統」が誕生することを危惧し,また,直接選挙が李登輝の政治力を強めることを恐れ,間接選挙方式を主張した。両者の争いは,国民党中央常務委員会,中央委員会全体会議で繰り広げられたが決着がつかなかった。結局,総統の選出方法は,1992年4月に開幕した第2期国民大会臨時会においても決定することができず先送りされた。

総統選出方法以外で主だった改正点は,国民大会の位置づけに関してである。憲法本文で規定されている国民大会の役割は,大別して総統の選出と憲法改正の二つである。総統の直接選挙が実現し,憲法改正の発議権を諸外国のように立法府に移せば,国民大会の存在理由はほとんどなくなる。しかし,国民大会全面改選によって選出された代表らは当選した以上,自己の存在理由を確保することを考えるようになった。国民党は,修憲を順調に行なうためには,国民党籍の国民大会代表に妥協と譲歩を重ねなければならなくなった。

国民大会は,これまでなかった司法院,考試院,監察院の人事同意権を与えられた。司法院の院長,副院長,大法官は,憲法本文で「総統の指名により監察院の同意を経て任命する」と決められていたが,「総統が指名し国民大会の同意を経て任命」と改められた。考試院の院長、副院長および考試委員も「総統が指名し監察院の同意を経て任命する」が「総統が指名し国民大会の同意を経て任命」と改められた。代わりに監察院は,これまでもっていた人事同意権がなくなった。そればかりでなく監察院は,憲法本文で規定する民意代表機関ではなくなった。憲法本文の規定では監察委員は各地方議会で選出されるが,この修憲で,「総統が指名し国民大会の同意を経て任命」と改められた。監察院は,その職務はそれほど変わらないものの,五権の一院というより「準司法機関」という位置づけに改められたのである。(19)さらに,国民大会は,大会開催時に,総統の国情報告を聞き,国是を検討し,建議できるとされた。これにより国民大会は一年に少なくとも一度は開催されることになり,常設化の道を歩み始めた。

その他の大きな改正点としては,地方行政組織についてである。増修條文第17条では,台湾で展開されている地方行政組織を合憲化し,台湾省に省長を置き省長を民選にすることを規定した。ただし,これは拙速な決定であった。総統も台湾省長もともに直接選挙で選ばれることになれば,行政区域がほとんど重なる中央政府と台湾省および総統と台湾省長との関係が問題になってくる。台湾化を進めていく上で,行政組織の再編成は避けられないし,台湾省の扱いはその第一に取り組まねばならない課題であったが,省長民選を先行させてしまったことで,その後の台湾省の改革は大きな摩擦が発生することとなった。

 

5.第三次修憲(1994年)

 

1994年5月に開幕した第2期国民大会第4次臨時会で決定された第三次修憲で最も重要なものは,総統直接選挙の規定である。問題となった総統の選出方法は,台湾人民が直接選挙し,相対多数で当選すると決められた。大中国主義の観点から海外在住の華僑にも投票権を認めるべきだとの議論もあったが,現実論が勝り,台湾に戸籍を持つ者が帰国して投票することに限定された。当選要件を相対多数とするか絶対多数とするかは,今後の台湾の憲政体制の発展に影響を与える問題である。絶対多数であれば,フランスの大統領選挙のように決選投票が必要になるが,必ず過半数を確保するので新政権は安定した民意の基礎を背景に出発できる。相対多数であるなら,劇的な政権交代を実現しやすくはなるが,多元化が進んでいる台湾では,30パーセントあるいはそれより少ない得票率で当選する「少数総統」が登場するかも知れない。同じく相対多数を採用している韓国の大統領選挙は,選挙運動が特定少数の票を固めることに向かい,有権者のアイデンティティの地域化を促している傾向が見られる。(20)相対多数か絶対多数かの問題は,今後の修憲の課題として浮上してくるであろう。

国民党非主流派や新党は,総統直接選挙を李登輝の独裁化の現われと批判したが,直接選挙の流れは必然的であった。間接選挙方式や委任選挙方式では台湾人民の納得は得られなかったであろう。そもそも,中華民国憲法で間接選出を規定した時点の大陸中国の状況と,直接選挙を採用した台湾との状況はまったく異なっている。当時の中国の総人口は約4億5000万人で,有権者は少なくとも2億6000万人と見積もられていた。国土の面積は広大で,戸籍制度は未整備,通信・交通は不便といった,直接選挙を行なうのに物理的困難が存在していた。当時人口の80パーセント以上が字を読めず,さらに多くの国民が,民主,法治についての基本認識を欠いていて,何のために投票するのか,どのように投票するのかを分かっていなかった。直接選挙の客観的条件は成熟していなかったのである。

48年後の台湾は,国土面積は小さく,人口は2200万人で有権者は1350万人,その96パーセント以上が義務教育を受けた人たちである。通信連絡手段が発達し,選挙事務作業も容易である。人民の知識水準,政治判断,分析能力,候補者を観察する機会,どれをとっても世界水準に合致する。40数年間,地方の民意代表選挙を経験し,選挙を平常状態で行える。(21)明確な内閣制を採用しているのであれば,国家元首を間接選挙で選出しても非民主的とは言えないが,総統が最高権力者として振る舞ってきた以上,その論拠は通用しないであろう。台湾と前後して民主化の道を歩んだ韓国やロシア・東欧諸国や南アフリカなどが,国際的な注目を集める中で大統領選挙を実施し民主化をアピールしたことも李登輝政権の刺激となっていた。台湾は,すでに町村長のレベルから国会議員,省市長まで住民の自由な選挙によって選ばれる民主体制に転換し,また,基本的人権を制限していた各種の法律も改廃され,総統直接選挙が「民主化の最終段階」と位置づけられていたのである。(22)

総統選挙以外では,総統が国民大会または立法院の同意を経て発布する人事任命については,行政院長の副署権が廃止された。これらの人事任命は国民大会または立法院での承認が必要であるから,行政院長の副署が廃止されたからと言って,権力関係に影響するものではないが,総統と行政院長との関係が難しくなる事態に備えて大統領制の要素を強める動きの一歩であった。国民大会は,次期から,代表の互選で選ばれる議長と副議長を置くこととなり,常設化の既成事実をまた一つ加えた。

6.第四次修憲(1997年)

 

第三次修憲後,1994年12月には台湾省長選挙,台北市長選挙,高雄市長選挙が行われ,台北市長には民進党の陳水扁候補が当選した。翌95年12月には立法院選挙が行われ,国民党は過半数割れすれすれの状態に追い込まれた。96年3月の初の総統直接選挙では,李登輝が現職の強みを活かして圧勝したものの,同時に行われた国民大会代表選挙では,国民党は改選前の議席を大きく下回った。国民党の議席数は改選前の239議席から183議席へ減少し,民進党は改選前の56議席から99議席へ,新党も改選前の3議席から46議席へと躍進した。

台湾は,公式または非公式の連立政権の模索,あるいは,選挙による政権交代をも展望する本格的な政党政治の時代に入ったのである。政党政治の展開とともに中華民国憲法の持つ弱点が浮かび上がってきた。そして台湾にとっても,近代的な政党政治の展開は初めての経験であった。台湾の政党政治がどのような方向に発展するかを見極めながら,それに適した規定を考えていかなければならない。ゲームがすでに始まり,ゲームの進行状況を見ながらルールブックを改正していく難しい作業が必要となった。

国民党は,国民大会において過半数は上回っても,修憲に必要な四分の三からは程遠かったので,もはや単独で修憲をすることはできなくなった。李登輝政権は,憲政改革のコンセンサス作りのため国家発展会議の開催を企画した。これは,政権初期に憲政改革の推進力となった国是会議の再現をねらったものと考えてよい。国是会議も国家発展会議も,ともに憲法に規定のない会議である。蘇永欽は,民主化が完成しているのだから新たな国是会議はやるべきではないと論じていた。(23)しかし,憲法にも法律にも規定のない会議をあえて招集して憲政改革を論じるのは,既存の国家機関では話し合いの成果が上がらないという現実の裏返しでもある。林水波は,国家機関が機能不全を起こしていると指摘する。(24)

1996年12月23日から28日までの間,総統府に3党1派の代表,および,産,官,学各界の代表的人物170人を集めて国家発展会議が開催された。出席者のリストは政党推薦だが,党籍にかかわらず代表範囲は広げられた。議題は,「憲政体制與政党政治」,「両岸関係」,「経済発展」の三つが設定され,分科会と全体会議を組み合わせ,各党の形式的な意見表明ではなく実質的な議論を目指した。議論の結果,192項目のコンセンサスが形成された。執行長の黄昆輝は,「法的強制力はないが,政治的拘束力はある」と合意形成の意味を説明している。この国家発展会議の議論を通じて,台湾で初めて,政党間協議の基礎が築かれたと言ってよいであろう。国家発展会議は,単に憲法改正のための準備会議というだけでなく,過去10数年来の台湾内外の環境の変動,すなわち,台湾内部にあっては権威主義体制から民主主義体制への転換,台湾外部の国際政治においては冷戦から冷戦後への大きな変化に対応して,台湾の政治経済体制を再編成する試みと見ることができる。

蕭全政は,国家発展会議招集の背景を次のようにまとめている。冷戦終結は,台湾にとって新たなチャンスであるが,難題も作り出している。冷戦終結後の実務的政治経済潮流は,台湾が国際的孤立を脱却し対外関係を強化する助けとなる。一方,冷戦後,国家間の経済競争圧力は強まり,地域主義が台頭している。台湾の場合,国際社会・国際組織から隔絶されていることで,対外経済貿易関係を発展させるコストとリスクが増加している。また,国内の権威主義体制の転換による政経情勢の動揺,政策不安定,行政効率の不振も対外競争力に影響を与えた。これらが台湾の苦境を導いている。台湾にはさらに,両岸関係の「脱内戦化」の問題がある。微妙な「一つの中国」原則があって,台湾の民主化をして難解な国家アイデンティティの危機と省籍の争いを引き起こしている。またこれが,中国の懸念を引き起こし,国際社会への復帰と国家競争力の向上が順調にできるかどうかに影響を与えている。国内の政治民主化の潮流は,過去の権威主義政治経済体制を徹底的に改変したが,今に至るも憲法体制,法律体系,政府組織,公民意識,教育などの改革が必要である。民主化,冷戦後の時代潮流,脱内戦化の三つがぐるぐると輪になって台湾の当面の政経苦境を作り,全般的改革を推し進め課題を解くことを難しくしている。(25)国家発展会議は,このような苦境からの脱却を模索する李登輝政権の側からの働きかけである。

憲政問題の分野での焦点は,やはり,総統−行政院長−立法院の関係,および,台湾省のあつかい,であった。民主化の流れに乗って総統直選や台湾省長選挙が実現したが,同じく民意を代表する立法院と総統との関係,所轄区域がほとんど重なる中央政府と台湾省との関係など,中華民国憲法本文では適切に対処できない問題が迫ってきていた。

 

大統領制か議院内閣制か

95年末の立法院選挙で国民党は過半数を三議席上回りはしたが,議員の出席状況などを考えると過半数割れに等しい状況であった。李登輝政権にとっては,行政院長を交代させたくても,新たに指名した行政院長が立法院で承認されるかどうかわからなくなってしまった。李登輝総統は,副総統に当選した連戦にそのまま行政院長を兼任させることでその場をしのいだが,野党議員が立法院での審議をボイコットするなど混乱が続いていた。現行規定のままでは,立法院の多数派政党と総統の所属する政党が一致しなくなった場合混乱が発生したり,立法院と行政院との間で膠着状態が発生する可能性がある。国民党は,大統領制でもなく議院内閣制でもない憲法本文の構造を「双首長制」として定義しなおした。国民党の修憲案は,総統の行政院長の指名で立法院の同意権を削除することで,この「双首長制」が機能することを期待したものであった。

国民大会の修憲審議では,国民党の主流派と民進党の主流派が「双首長制」で主軸を形成する一方,民進党の一部は大統領制を主張し,新党と国民党非主流派は内閣制を主張するなど,議論は昏迷を深めた。行政院長指名についての立法院の同意権を削除することは,総統の権力拡大だという批判が多く出された。内閣制を主張する新党と国民党非主流派,憲法学者,それに中国時報,聯合報などの新聞は,李登輝総統が独裁的権力を求めているとして李登輝批判キャンペーンを展開した。

国民大会の審議期間中,国民党と民進党は何度も協議の場を設け,細かな条件を突き合わせていった。台湾の政治史上初めての経験である。結果的に両者の妥協が成立し,次のような規定が作られた。

・行政院長は総統が任命する。立法院の承認は必要ない。

・立法院は行政院長にたいし不信任案を提出できる(総数の二分の一以上で可決)。

・総統は行政院長不信任案が通過した場合立法院を解散することができる。

さし戻し権についても修正がなされた。行政院から立法院にたいしてなされた再議要求を立法院がはねかえすためには,憲法本文規定では出席立法委員の三分の二の賛成が必要であったが,立法委員総数の二分の一以上の賛成によって,立法院は行政院に原決議を受理させることができるようになった。これにより,立法院と行政院との権力関係は大きく変わっていくことになった。(26)

先に述べたように,中華民国憲法においては,行政府(総統・行政院)の優位が確立していて,立法院は行政院長の同意投票以外は行政府にたいして効果的な抑制機能を持たなかった。その同意権が削除されたことで,今回の修憲は総統の権限を拡大するものとの解説が見られるが,他方で,立法院の重要性が増し,議院内閣制の議会に相当する権限を持つことになった。大統領制と議院内閣制の両方の要素が強まったのである。これは,政権与党として行政院を押さえている国民党と,今後立法院で勢力拡大が期待できる民進党との間の取り引きの結果であると見なされている。国民党と民進党とが台湾の政党政治の展開に対応するルールを共同で作る試みと見なしてもよいであろう。国民党が,行政院長の指名についての立法院の同意権を何としても削除したかったのは,行政院を手放したくないという党利党略の側面がないわけではないが,行政院長の指名同意権のみで行政府にたいするチェックを行なうことに問題が含まれているからである。ここに含まれる憲法理論上の問題を,大統領と内閣の混合体制をとるフランスと韓国の事例をもとに検討したい。

フランス憲法では大統領が首相を任命し,議会には同意権はない。韓国では議会に同意権があり大統領には解散権がない点で,中華民国憲法本文と似た構造を持つ。その韓国では,1998年に金大中新大統領が就任し,新首相を任命しようとしたが国会の承認を得ることができない事態となった。韓国は,大統領の権力を抑制する機構として首相任命にたいする国会の同意権を規定したのだが,これは確かに民主的な権力抑制均衡機能であるが,決して効果的なメカニズムではない。抑制が必要な一党優位の時には抑制は効かず(大統領も国会も同一政党が押さえるため),有権者が政権与党にたいし投票によって抑制を求めるとたちどころに政治的危機を招く可能性が高いのである。金大中大統領は,大統領選挙の期間中金鍾泌を首相に任命することを公約し当選したのに,大統領選挙で敗北した政党が国会の同意権をたてに,新政権のスタートを妨害する様は異様である。しかし,議会で多数を占めるハンナラ党は,憲法に規定された権利を行使しているにすぎない。その結果,面子のぶつかり合いで政局が行き詰まったり,舞台裏での駆け引きが活発に行われたりと,政治の刷新を求めた有権者の意思は軽んじられてしまうのである。ゲームのルール自体が民主的であっても,適切な運用ができる状態になければ,国民の政治不信を高める原因になるであろう。逆に,金大中大統領在任中に行なわれる国会選挙の結果,どの党も過半数に達しなければ,再び新首相の指名同意をめぐって混乱と政治空白が生じる可能性がある。

フランスは大統領に国会解散権があるので,このような事態は生じない。1981年のミッテラン当選時のように,大統領選挙で与野党が逆転した時には,新大統領が議会を解散して,新大統領を選んだ有権者の意識を議会の構成に反映させることができる。逆に,大統領在任中に議会選挙が行われ大統領の与党が敗北することもある。フランスの議会は,同意権はないが,過半数の賛成で内閣不信任案を可決できる。だから,大統領は,議会の過半数の支持を見込める人物を首相に指名せざるを得ない。これがコアビタシオンである。この場合も,変化を求めた有権者の意志が反映できる仕組みになっている。つまり無用の膠着状態を防ぐためには,新しい民意が優先ないしは反映されるルールが必要なのである。

同意権を残したままこの問題を解決する一つの方法は,大統領(総統)選挙と議会(立法院)選挙を同時に行い任期も同一にすることである。ただ,両者の選挙制度は当然異なるから,与野党の勢力が伯仲している場合は予想外の結果をもたらす可能性も存在する。同日選挙の結果が異なる方向を向いてしまっては政局は暗礁に乗り上げてしまう。選挙制度のあり方も関係してくる。フランスは小選挙区で絶対多数制を採用している。この方法だと議会選挙の勝敗がはっきりし,新首相指名の道筋が明確であることが多い。台湾の場合,立法院の選挙制度が中選挙区・大選挙区であり,かつ,多党化の傾向があることから,選挙の結果,どの党も過半数に達せず,しかも連立政権がすみやかに成立しない事態も考えられる。選挙直後は各党とも簡単な妥協はし難い状況にある。そうなると,立法院が行政院長の指名同意権を持つことはますます負の効果をもたらす。

今回の第四次修憲で,台湾は,韓国方式からフランス方式に切り替えたので,このような事態を未然に防ぐことができたと言える。総統選挙で野党候補が当選した場合,新総統は新しい行政院長を任命することができ,その行政院長が立法院で不信任されたなら立法院を解散することができる。政党相互の不毛の正当性論争に代わって,有権者が,総統の当選から新行政院長の任命,不信任に至る政治プロセスの是非を判断することができる。行政院長をだれにするかで総統の裁量権が増すのは事実だ。だが,立法委員の過半数を怒らせるような人物を指名すれば,やがて不信任案が可決されるであろう。総統は立法院の空気を勘案せざるをえないのである。同意権を廃止したことで,どのような選挙結果になろうとも,新政府は発足することができるし,個別の政策ごとに支持を取り付けることもできる。その中で,新しい連立政権や政党連合が形成されていくであろう。このように同意権を廃止し,それに代わって内閣不信任権と解散権を規定する方法を選択したことは,より実務的で,安定をもたらす改正であったと評価できる。今後,行政府と立法府はいい意味での緊張関係が生まれるであろう。それを活かせるかどうか,各政党の力量が試される。

 

台湾省凍結

もう一つの論点であった台湾省凍結問題では,宋楚瑜省長のパフォーマンスで修憲審議中最も注目を浴びることとなった。国民党と民進党との間で再三話し合いがもたれ,途中何度も挫折しかかったが,李登輝自ら指導力を発揮し,国民党幹部を通じて交渉現場に指示を送り,反対派・慎重派の説得に乗り出し,宋楚瑜省長らの反対を押し切って,次のように決着させた。「一、省に省政府を設け、委員九人を置き、その中の一人を主席とし、すべて行政院院長が総統に任命を要請する」(増修條文第9条第1項)。「二、省に諮問議会を設け、諮問委員若干名を置き、行政院院長が総統に任命を要請する」(増修條文第9条第2項)。現職の台湾省議会議員および台湾省省長の任期は1998年12月20日までとされ,選挙自体も停止された。

台湾省簡素化の具体的な計画は現在進行中であるが,関係する人員は,省の行政機関 が2万7946人,省営事業が7万5614人,省立学校が2万0489人の合計12万4049人にのぼる。うち,省立学校はそのまま国立か県立に移行するであろう。省営事業は,民営化の方向で再編が進んでいくであろう。焦点は省政府各組織の2万7946人の扱いである。江大樹は,その中でも中興新村と台中黎明辧公区に勤務する5400名ほどの職員の主要職務は,大部分が中央と県市政府の間で公務の上意下達をすることだと指摘している。(27)台湾省の存在は,旧時代の「大中国」構造の遺物であると指摘されていたが,既得権益の巣窟と化している大型組織に憲法改正という正攻法で対処したことの意義は非常に大きい。

台湾省廃止問題は,国民党内の李登輝後継争いの思惑が絡んでいると考えられている。そうした側面は濃厚であるが,行政効率の向上という公式理由は,決して,たてまえだけのものではないし,権力争いを覆い隠すベールではない。民主化完了後の大きな課題,すなわち民主主義を機能させていく作業の一環であり,国家が行政効率の向上という目標を設定し,このような大規模な修憲作業を経由して行政組織の改革を実現していることは,国家の統治能力という観点から高い評価を与えることができる。行政改革の必要が叫ばれながら何もできない日本国家の統治能力の低さと対照的である。ハガードは,権威主義体制の時代,台湾国家の統治能力が高かったことが経済発展につながったという説を展開している(28)。台湾は,民主主義体制と行政効率の両立を模索している。台湾省凍結に引き続いて大きな憲政改革を推進していけるかどうか,民主化後の台湾の政治経済体制の試金石となるであろう。

 

おわりに

 

ここまでの四度の修憲によって,「中華民国在台湾」の国家権力の法源が確立され,主権の及ぶ範囲が明確にされた。従来の七権体制は,実質的には三権分立に近い形に再編成され,政党政治を運用するルールも,ある程度確立された。増修條文という形をとっているが,実質的には新憲法制定に近い意味を持つ。一方,国民大会の扱い,公民投票の扱いなど,まだ重要な憲政改革の課題が残っている。民主化後の課題は,民主主義の質を高めていくことである。国民の政治不信を高める原因となっている黒金問題に本気で取り組むためには,細かな法制度の整備が必要である。政党政治の面では,国民党の一党優位時代から与野党伯仲へと展開中である。1997年末の地方選挙では,民進党が初めて得票率で国民党を上回る歴史的勝利を収めた。1998年12月の立法院選挙,そして,2000年3月の総統選挙で,政権交代が起るのかどうかが焦点となっている。これまでの修憲によって事態の展開に対応できるかどうか,台湾政治の柔構造が機能するかどうかが問われるであろう。

 

 

(注)

(1) 横山宏章『中華民国史』三一書房 1996 p.192

(2) 横山宏章 『中華民国史』 p.182

(3) 城仲模「総統直選與憲政発展」『理論與政策』第10巻第2期 1996春季 p.3

(4) 李炳南・鍾国允「第一段階修憲(1991)憲法増修条文之分析」『中山学術論叢』第13期 1995.6 p.67

(5) 周育仁「総統直選対我国憲政体制之影響」『問題与研究』第35巻第8期 1996.8 p.63

(6) 許慶雄『憲政体制與中国関係』知英文化 1995 p.222

(7) 周育仁 「総統直選対我国憲政体制之影響」 p.64

(8) 廖達h「政治領袖風格與制度的力量」『政治学報』第23期 1994年12月 p.177

(9) 周育仁 「総統直選対我国憲政体制之影響」 p.65

(10) 横山宏章 『中華民国史』 p.212

(11) 周育仁「総統直選対我国憲政体制之影響」 p.65

(12) 齊光裕『憲法與憲政』揚智 1996年 p.24

(13) 当時,国民大会代表は合計593名,うち台湾の民意を代表する増加代表は77名であった。

(14) 李炳南・鐘国允 「第一段階修憲(1991)憲法増修条文之分析」 p.59

(15) 第一次修憲では10ヶ条の増修條文が制定された。増修條文で憲法本文の凍結または適用除外が明記されたのは,第26条,第28条第1項 43条,64条,91条,135条,である。第二次修憲は,第一次修憲の10か条の増修條文に加える形で,第11条から第18条まで制定された。その中で,適用除外が明記されたのは,第30条,第28条第1項,第47条,第79条,第83条,第84条,第85条,第90条,第91条,第92条,第93条,第94条,第98条,第100条,第101条,第102条,第108条第1項第1款,第112条,第113条,第114条,第115条,第122条,である。第三次修憲では,合わせて18条におよんだそれまでの増修條文を整理し,改めて10条からなる増修條文を策定した。その中で適用除外とされた憲法本文の条項は,第26条,第27条第1項第1款第2款,28条第1項第2項,第29条,第30条,第34条,第37条,第43条,第47条,第49条,第64条,第79条,第83条,第84条,第85条,第90条,第91条,第92条,第93条,第94条,第98条,第100条,第101条,第102条,第108条第1項第1款,第112条,第113条,第114条,第115条,第122条,第135条,である。第四次修憲での憲法本文適用除外は,第26条,第27条第1項第1款第2款,28条第1項,第29条,第30条,第34条,第37条,第43条,第47条,第49条,第55条,第57条,第64条,第74条,第79条,第83条,第84条,第85条第90条,第91条,第92条,第93条,第94条,第98条,第100条,第101条,第102条,第108条第1項第1款,第109条,第112条,第113条,第114条,第115条,第122条,第135条,第164条,である。

(16) 李炳南・鐘国允「第一段階修憲(1991)憲法増修条文之分析」 p.69

(17) 李炳南・鐘国允「第一段階修憲(1991)憲法増修条文之分析」 p.70

(18) 蘇永欽「総統選挙後的憲政展望」『理論與政策』第10巻第3期 1996夏季 p.127

(19) 林銘徳「国民大会的定位及有關問題之研究」『憲政時代』第22巻第4期 1997年4月 p.23

(20) 蘇永欽「総統選挙後的憲政展望」 p.131

(21) 城仲模「総統直選與憲政発展」『理論與政策』第10巻第2期 1996春季 p.12

(22) 若林正丈『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人』朝日新聞社 1997年 p.345

(23) 蘇永欽「総統選挙後的憲政展望」 p.124

(24) 林水波「以理論導向研究途径評估国家発展会議」『法政学報』第7期 1997年1月 p.8

(25) 蕭全政「国家発展会議的定位與意義」『理論與政策』第11巻第2期 1997春季 pp.5-7

(26) この規定は複雑な要件を含んでいるので条項全体を示しておく。「行政院は,立法院の決議した法律案,予算案,条約案を施行困難と認定した場合,総統の裁可を経て同決議案が行政院に送付されてより10日以内に,立法院にさし戻し再審議を求めることができる。立法院は行政院より再審議を求められた議案にたいし,さし戻しより15日以内に決議をしなければならない。休会中の場合,立法院は7日以内に院会を開催し,開会より15日以内に決議をしなければならない。再審議案が期間内に議決されない場合,原決議は失効する。再審議において,立法委員総数の二分の一以上によって原案の維持が決議された場合,行政院院長は同決議を受理しなければならない」(増修條文第3条第2項)。立法委員の出席状況を考えると,総数の二分の一以上という要件は意外に高い敷居となるであろう。休会中に立法院会を迅速に招集できるかどうかも未知数である。これらの要素を考慮すると,立法院の重みは増すが,政権与党が過半数割れを起こしても直ちには政治変動を起こさないであろう。

 

(27) 江大樹「台湾省政府的組織定位與精簡方向」『理論與政策』第11巻第3期 1997夏季 pp.13-15

(28) S.Haggard, Pathways from the Periphery, Cornell University Press, 1990