ムラートワの「奇矯」
しばらく体調を崩していたのだがすっかり元に戻ったので、6月7日(土) アテネフランセ文化センター主催の「ソヴィエト・フィルム・クラシックス」初日、渋谷で映画を3本観る。
キーラ・ムラートワ『長い見送り』
ロマン・バラヤン『猟人日記―狼』
キーラ・ムラートワ『灰色の石の中で』
『長い見送り』は2度目(3度目かも?)。目当ては『灰色の石の中で』(1983)である。当局の検閲があまりにひどく、ずたずたにカットされたので頭に来たムラートワが監督名から自分の名前をはずし「イワン・シードロフ」という架空の名前をつけたといういわくつきの作品だ。
『灰色の石の中で』の原作はウクライナ出身のロシア語作家ウラジーミル・コロレンコの短篇 『悪い仲間』(1885)。19世紀の「古典」を元にしたものであってもペレストロイカ以前は厳しい検閲を免れなかったといういい例だろう。
判事の6歳の息子ワーシャが「廃墟」(原作ではユニテリアン派の教会)の地下に暮らす貧しい兄妹ワリョークとマルーシャと仲良くなり、4歳のマルーシャが肺結核で死にそうだと知り(灰色の石に命を吸い取られているという)、自分自身の妹の人形を持っていってやる。そのことで判事の家では大騒動になる。判事は愛する妻を亡くしたばかりで生き甲斐を失い、息子のことがまるで理解できない。息子ワーシャを詰問しているところへマルーシャの父親(インテリ崩れの放浪者)が現れていきさつを語る。すると判事は自分の至らなさを悟って謝罪する。つまり原作は「人間性回復」を大きなテーマとしている。
映画もあらすじとしてはほぼ忠実に原作をなぞっているのだが、検閲で問題になったのは内容ではなくその表現方法だったにちがいない。ワーシャの声は一貫して異様なほど甲高いし、家庭教師と思しき女性はときおり奇声を発する。マルーシャは同じフレーズを詩のように何度も何度もぎこちなく繰り返し、まるで機械仕掛けの人形のようだ。人形と並んで横たわるマルーシャはスチールのとおり人形と瓜二つで、少女と人形は「生」と「死」を取り換えっこするかのようである(とはいえ、人形が歩き出したりする「怪奇もの」にはなっていない)。
たぶんムラートワが最初に作ったヴァージョンは、私が昨日観た「最終版」よりもっとずっとエキセントリックだったのではなかろうか。ムラートワ作品には「幻想」という言葉より「奇妙」「奇矯」、「神秘」より「グロテスク」が似合う。
切断され没収されたフィルム、どこかに残っていないものだろうか。