時空を超える
11月2日(金)東京大学(本郷キャンパス)へ3年ゼミ生たちと一緒に、ミハイル・シーシキンの講演を聴きに行った。
講演で印象に残ったのはこういうエピソードだ。
牢獄につながれていたある人が毎日スプーンの柄で壁に舟の絵を描いていた。毎日毎日描いていて、あるとき監視が食事を持っていくと、囚人は姿を消し、舟の絵もなくなっていたという。囚人はその舟に乗って旅立ったのだろう。
シーシキンは、小説というのはこの舟のようなものだという。芸術とは理不尽で息苦しい日常から逃れる術だと。
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シンポジウムでは、作家の島田雅彦さん(写真右端)、ドイツ文学者の松永美穂さん(右から5人目)とシーシキンのやりとりが興味深かった。ちなみに、島田さんは東京外国語大学ロシア語学科出身で、シーシキンと親しい。
シンポジウムでは、日本語に訳された書簡体小説 『 Письмовник (邦題は「手紙」)』 の鍵となるコンセプトが語られた。シーシキンによると、人が「正しくない時」に生きているとそこには死があるだけだが、「正しい時」に生きているとそこではすべてのことが同時に起きるというのだ。
そういえば、短編「バックベルトの付いたコート」の中に次のような1節があった。
「だれの身にもそんなふうに何かがざっくり割れるようなときがあるものだ。生地にあいた穴。何かを伝える地点。そういうとき作曲家はメロディを、詩人は詩行を、愛する者は愛を、預言者は神を得るのである。その瞬間、ありふれたものの中では交わるはずもなく別々に存在しているもの同士が出会う。見えるものと見えないもの、くだらないものと秘めたるものが。過ぎ去ったことも、まだやってきていないことも、すべてが同時に起こる空間」