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オスマン朝スルタンの生活とその周囲


このページは、前嶋芽久美によって作成されました。

トプカプ宮殿

オスマン軍がコンスタンティノープル陥落時に丸太で戦艦を運んだ地点の反対側、金角湾入口の南、ボスフォラス海峡からマルマラ海を一望できる風光明媚な場所に、スルタンの宮殿、トプカプ・サライがある。メフメト2世によって建てられたこの宮殿は、オスマン帝国のシンボルでもあり、現在は博物館になっている。

後宮・女人

この宮殿の言わば影の部分はハレムだろう。ハレム(中国風には後宮)とは、歴代の皇帝たちが愛妾を住まわせた場所であり、出身地や民族を問わず、様々な女性がここへ連れてこられ、スルタンの相手をさせられた。彼女らの運命はひとえにスルタンの息子を生めるか否かにかかっていた。息子を生めば、次のスルタンの母として地位と権力とを約束されたからだ。そのために、ハレムでは、凄まじい女の戦いが繰り広げられている。『千夜一夜物語』の物語を思いだしもらいたい。

ハレムは、アラビア語のハラム(「神聖な、禁じられた」の意味で、メッカ、メディナを指すこともある)を起源とする言葉で、「外来者の出入り禁止の場」としてやがて「スルタンの寵妃・宮女の住む一般から離れた女専用の部屋」の意味に転じた。ハレミ・ヒュマーユーンが正式名。オスマン帝国の東南欧征服が進むにつれ、通婚の相手がなくなり、スルタンは正式に王妃を迎えなくなったため、王統を絶やさないためにもハレムの必要性がで、1453年以降生まれたとされる。建物の中には迷路や、スルタンだけが往来できる抜穴の道もあった。様々な民族出身の女達はジェッリエと呼ばれ、宮廷生活での礼儀作法や言葉使いの特別な訓練を受け、黒人宦官が彼女達の住む区画の厳重な警戒にあたった。

スルタンの寵愛を幸運にも(?)受けた者は、まず「私室つき(ハル・オダルク)」(西欧語のオダリスクは、オダルク「お部屋様」に由来)か、「幸運(イクバル)」と呼ばれ、その首席はカドゥン(婦人)の称号をえ、懐妊者は即カドゥンになった。母后となると、後宮の中に特別の一画を与えられ権勢を振るったが、スルタンの死や廃位の後には、その女達と母后は、トプカプ宮殿から旧宮殿(エスキ・サライ)へ移された。

スルターナ・ヴァリーデ(息子の王子がスルタンになった者、母后)→バシ・ハトゥン・エフェンディ(スルタンの子供を産んだ者)→ジェッリエ(下級の女性。高官に降嫁し年金と邸宅をもらう習わしがあった)のような区別があり、この制度は変わることなく、ハレムはじつに19世紀まで存続した。

17世紀以後、後宮の女人達の数は千人を超えるにいたったと言われる。殆どのスルタンは専ら女奴隷と交渉をもち、奴隷市場で求められたコーカサス系の女性が評価された。スルタン以外にハレムに出入りできたのは、年少の王子達と、医者や宗教家くらいで、黒人宦官に警備されたハレムの影響力はスルタンに作用し、歴史をも時に変えさえした。

16世紀スルタン・スレイマンの愛妃ロクサローナ・ヒュッレムは美貌より特に才気において魅力的だったといわれ、息子を後継者にするための陰謀は辛辣なものであった。彼女は別の寵后の子で英明の評判の高いムスタファを取り除くため、故意に彼と父スルタンとの仲を裂こう画策し彼を処刑にまで追いやった。後彼女の二子の間で争いが起きたが、結局、無能で酒豪として知られていた息子セリム(2世)が後継者として落ち着いた。彼女はセリムとの争いに敗れたもう一人の息子バヤジッドをより愛していたようだが、自分の子をスルタンにすることは成功したのだ。

後宮の女人達と宦官達の影響は、17世紀に入ると一層強くなっていった。第14代アフメト1世の愛妃キョセムは、息子の17代スルタンのムラト4世の幼少時に事実上国政をとり、彼女の執政時大宰相は次々に交替し財政も悪化した。これに対し、ムラト4世は断固とした態度で財政や帝国の威権の再建に取り組みだし功をおさめたたのだが、彼が若くして没した後その弟で精神に異常のあったイブラヒムが即位すると、母キョセムは再び国政を牛耳り、権勢を奮った。次のスルタン、メフメト4世は国事よりも狩りに熱中して「狩人(アヴジュ)」と言われるほどであった。祖母に当るキョセムは母に当るトゥルハンと猛烈な闘争を後宮で繰広げた末に絞殺されるが、その後は今度はトゥルハンが「スルタンの母后(ヴァリデ・スルタン)」として暫し政治をしきった。所謂、スルタン抜きの女権的な無政府状態である。近代トルコの歴史家アフメト・アルトゥナイは、この時代を扱った歴史書を『女人の天下』と名付けて出版している。

後宮生活

ハレムの女性達にとって、後宮の庭の散策は、外部とは閉ざされた窮屈な自分たちの生活の中では楽しみの一つであり、散策の際には、外から見られぬように周りに幕が張り巡らされ、休息や食事、礼拝のためのテントも備わり、スルタンもこれに参加した。時には、郊外の行楽地へ出向くこともあった。スルタンの他の宮殿への移行時もしばしば彼女達は同行した。日常、音楽や舞踊、演劇も楽しみであった。外部からこの為の教師が招かれ、外部に女奴隷を派遣して諸芸を学ばせ、トルコ土着のもの以外に西欧の文化・文芸を宮廷内で楽しむことができた。

食事

オスマン朝では、イスラムのしきたりにならい、少人数の食事には、金属製の台の上に丸い大盆をのせて食卓としたが、大きな宴席では、絨毯の上にご馳走を並べた。食べ物は大皿や大鉢で供され、各自は指か、匙で直接自分でとりわけて飲み食いした。スルタンの左右には帝国の大官武将たちが居並び、これを楽しんだ。

スルタンの台所は、宮殿全体の職員達の台所で、多いときには数千人にも及ぶ職員の為に、集会や儀式の際には更に多くの数の人々に、食事を振舞った。建物は一階建てだが、ドームを各々頂く10の石造りの部屋からなり、巨大な釜や鍋が据えられていた。男性からなるコック(アシュジュ)達が調理にあたり、料理の専門家のみならず、菓子づくりの専門家(ヘルバジュ)などがいた。当初はスルタンの食事も作られていたが、18世紀末に、宮廷の職員達と外来者達のための台所となり、スルタンの日常の食事は、かわって内廷の台所クシュ・ハネで作られるようになった。

補佐・官人

ハプスブルグ家大使ビュスベックの書簡を引用すると「スルタン本営は、臣僚・大官・親衛兵でごったがえしていた。その数の割にはかなり静かだった。近衛兵は皆、美目で、背が高く飾り立てた馬に乗り、「アー」の称号をもつ官僚は座り、兵士は立っていた。スィパーヒー、グルバ、ウルフェジらの騎兵か、数千といわれるイェニチェリからなる大集団がいつも宮廷内にいた。争いはなく、門閥による差別もなく、彼らの地位は職分や機能に応じ割当てられた。スルタンは勲功のみを性格等から吟味し、皆、位階に関わらず、踵まで届く長い同じ型の服を着ていた。」という。

宮廷では、サドラザムとよばれる大宰相が、実質的には政治的副スルタンの役割を果たし、彼はスルタンに直接任命された。大宰相の下には、「パシャ」の称号をもつ次席大臣ヴェズィルがいた。スルタンの逆鱗にふれれば罷免・処刑もあった。大宰相はバーブ・アリー(崇高な門)と呼ばれる官邸をもち、能力と運・努力次第では、低い身分の出身者でもこの地位にのぼりえた。ソコルル・メフメト・パシャはデヴシルメ(少年徴収制度)出身者で最も有名である。  

ターバンを被り、長衣カフタンをまとって正装した宰相達はほぼ皆顔に立派なひげを蓄えていた。スルタンの絶対的代理人として絶大な権力を有する大宰相は、スルタンにより指名され、政府を統率する立場にあり、オスマン朝に仕える全官人の憧れの地位だった。だが、突然の解職、流刑、死によってその職を一瞬にして失う不安定さ・危険性もあった。

16世紀後半以降、日常の政務からスルタンが遠ざかると、大宰相が政務の実質的担当者となった。独立の官庁、大宰相府では、多くの書記(キャーティブ)が執務し、18世紀に入ると重要性が増して内政のみならず外交の中心的存在ともなった。こういう実務官僚の中から西洋化改革の担い手が生まれた。

黒人宦官

後宮の監督者は、シャー・アーだった。多くはヌビア生まれの黒人奴隷から形成されエジプト総督によって供給された。女人達の世話や外部との通信交渉も担い、官長は、「至福の家の長」・「娘達の長(クズラル・アース)」と呼ばれ、16世紀以降、白人宦官にとってかわり内廷と後宮の全体の長となった。後宮での影響力が増していくと、黒人宦官長は、表の最高権力者の大宰相と並んで、裏の最高権力者となった。

白人宦官・小姓

男達の宮廷内での居場所である内廷の職員は、アク・アーとイチ・オウランで、白人宦官達は内廷でスルタンに奉仕し小姓らを監督・訓練した。その長は、「至福の門の長」と言い、トプカプ宮殿内の「至福の門」の守りを最大の任務とし、全内廷の長として16世紀末までは後宮も支配していた。

白人宦官長は、黒貂(サームル)をぬいつけた長衣を着ることを許されていた。小姓はデブシルメ(少年徴収制度)の少年らの中から精選し、これに購入や贈与・没収でえた少年奴隷や人質としていた近隣諸国の王族の子弟が加わった。特に優秀で容姿端麗の者のみが他の宮殿で訓練を受けた後にトプカプ宮殿に集められ、「大・小部屋」の勤務から更に選りすぐれられ、遠征室、食料室、財宝室の係、最高のスルタンの私室(ハス・オダ)に昇進していった。この間彼らは、イスラムの教義やトルコ語を始め、アラビア語、ペルシャ語、武術や馬術を学んだ。小姓の長は、16世紀末まではスルタンの私室の長だったが、シラフタール(太刀持ち)がそれに替り常にスルタンの後に従った。急速に台頭した彼らは大宰相のような高官に就いていった。

スルタンの私生活

生活は、寝室のある内廷のハス・オダ(私室)を中心としていた。スルタンは1日5回戒律通りに礼拝を行なう。金曜の昼の共同礼拝には、行列を組んで市中のモスクに赴く。年に1度、断食月の15日にはムハンマドの外套を納めたと言う内廷内の「聖なる外套の間」に参拝する。平日の日中外出しないときは、私室に仕える小姓達に近待されながら内廷と後宮の境にある「境の間(マーベイン)」で大抵過ごす。気が向くと庭の散策をする。食事は昼と夜の2回、真夏には夜食を加えた3回である。

古くは、メニューは簡素だったようだ。朝は肉抜きのパンとサラダと甘い菓子に飲物くらいで、夕食は肉料理、スープ(チョルバ)、それに蜜を吸わせたパイ菓子のバクラヴァか、米粉で作ったプディングのムハッレビが供された。飲物は香料かシロップを水と加えたシェルベットが出、スルタンは砂糖と香料入りのレモネードか、においすみれで香りをつけシトロンと砂糖を加えたものを好んだ。だが、18世紀末の記録には、1回の食事で5、60皿もの料理が供されたとあり、次第に贅沢になっていったようである。

スルタンの服装

普段着については殆ど知られていないが、豪奢を極めたものであった。服としては、前開きでボタンで前を留める形式の長衣であるカフタンをまとう。通例高価な絹織物を素材とし、しばしば金糸を用いて豪華な刺繍が施されていた。カフタンの上には、毛皮のついた袖無しの長衣を羽織る。毛皮としては、北方からもたらされる高価な黒貂(サムール)が好まれて用いられた。スルタンは折にふれ、高官や外国の大使にカフタンを下賜品として与えた。絹を使用した内カフタンの上に、毛皮の縁取りの外カフタンをまとい、頭にはターバンを被る。高価な宝石を用いたサルグチュという飾りが就けられた。総称してセルプシュと呼ばれるかぶり物には多くの種類があり、スルタン達も時と場合とで使い分けた。新型のターバンを考案したスルタンのターバン(セリム1世のセリーミー、スレイマン大帝考案とされるユースフィーなど)は後代に受け継がれた。スルタンの服装は高価な素材を用い、豪奢を極めたので、多額の出費を要した。しかし人を圧倒するほどの奢侈により、外国を畏服せしめれば戦費よりも安いという考え方もあった。


参考文献


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