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オスマン朝と地中海


このページは、畠山貴志によって作成されました。

オスマン朝東地中海海上覇権確立まで

オスマン朝はアナトリアの西岸に達すると早くから海上に進出し、エーゲ海沿岸から海軍力を持ち始めた。バルカン半島の大半を支配下にした15世紀の半ばまでには、ボスフォラス海峡の最も狭い地点に城砦を築き、地中海と黒海を結ぶ海峡をほぼ完全にコントロールしていた。またそれまでに、エーゲ海とマルマラ海一帯にブルサとエディルネを中心とした、一つの商業圏をも成立させていた。当時まだエーゲ海沿岸各地に領土を持っていたヴェネツィアと、クリミア半島のカッファを拠点にアナトリア黒海沿岸にも領土を持っていたジェノヴァのような地中海経済の担い手が、有名無実と化したビザンツの存亡よりも来るべき対イスラム通商対策を重視していたことは、コンスタンティノープル陥落の翌年にはすでに、両市がオスマン朝と通商条約を結んでいることから推測される。

その後1475年には黒海北岸のカッファを征服し、クリム=ハン国を服属させたことにより、黒海を「オスマンの湖」とする。黒海は、中央アジアからカスピ海北岸を経て黒海北岸に至る交易路と、地中海からロシア平原を目指すルートの交差点に当たり東西交易の諸物産の集積地であった。ビザンツ以来のエーゲ海沿岸地方、黒海における商業の利権を脅かされたジェノヴァが活動の拠点を西に移し、セビーリャなどを拠点に大西洋貿易に乗り出すなど、「大航海時代」の開始にもオスマン朝は無関係ではなかった。

1515年から17年までのセリム1世の東方遠征において、シリア、そしてエジプトを獲得した。中国から中央アジア―イラン高原―シリア―エジプトの「シルク・ロード」のメイン・ルートを握ったことにより、当時ユーラシアを貫通する主要な交易路の拠点を完全に把握した。シリアの領有はインド洋貿易に接続された地中海貿易の発展の契機となり、北部シリアのアレッポは16世紀オスマン朝の地中海貿易の中心となる。セリム1世はエジプトから凱旋するに当たり、10世紀半ばからカイロが果たしていたイスラム世界の文化的・経済的中心地としての役割をイスタンブルに移すために都市の有力者、大小商人、ユダヤ、キリスト教徒の有力者、特殊技能を持つ職人、芸術家、著名なウラマーや法学者などの知識人、大勢の行政官などを強制的に連行、移住させた。マムルーク朝滅亡後、それまでのイスラーム経済圏の基軸であったエジプト・紅海軸ネットワークが衰退し、代わりにシリアを通過するルートが栄えた。

オスマン朝のシリア、エジプトの領有はこの方面の海上の安全を脅かす存在の排除が課題となった。ロードス島、キプロス島、クレタ島のキリスト教徒の海賊達が、エジプトから毎年オスマン帝室に貢納される金貨を狙っていたためである。1522年スレイマン1世第2回の親征によりロードス島が征服され、そこを拠点にムスリムに対し海賊活動を行っていた聖ヨハネ騎士団を追放し、イスタンブル・カイロ間の海路の安全を確保し、ここに東地中海の制海権を確保した。

オスマン朝は拡大を続け、バルカン半島においてはハンガリーからオーストリアまで侵攻が進み、北アフリカにおいては16世紀半ばまでにはアルジェリア、リビア、チュニジアの順に征服が進んだ。それまで北アフリカはハフシド朝の衰退とともにトリポリ、チュニス、アルジェ、ブジ、グレッタなどの港湾都市がムスリムの海賊達に占領され、スペイン、イタリア、フランス南海岸の豊かな港を襲撃、略奪する拠点となっていた。その中、アルジェリアを占領し君主となっていたフズル・バルバロス(ハイレッディン)が1518年、保身を目的にオスマン朝に帰順を求め、形式的な支配を認めた。これから海賊国家のトルコへの従属が開始した。1534年にはスペインに従属していたチュニスを奪取し、北アフリカにおけるトルコの地位が強化され、以後、トルコ艦隊はイベリア半島、イタリア半島、地中海島嶼部、チュニス北岸のカール5世の領土を脅かし、キリスト教国とオスマン朝の一連の戦争のきっかけとなった。当時の地中海ではもはやヴェネツィアは二級の勢力と化し、オスマン海軍の抗争の相手はハプスブルグ家であった。

しかし、スレイマン時代には地中海世界の大半がオスマン朝下に入り、敵対する諸勢力にとっては恐るべき状態であったが、友好関係にある勢力にとっては、航海の安全と東西貿易への参加を認められることを意味した。      

対キリスト教圏交易 :イスタンブル

オスマン朝に限らず中東諸地域では商業、交易は商人だけの専業ではなく、スルタン、有力軍人、官僚、ウラマー達も資本参加や、また自ら従事することもあった。

オスマン朝内部において国際商業(遠隔地交易、イスタンブルへの食糧供給の請け負い)に従事する特権的な「大商人(トゥッジャール)」グループの中、海上ルートの交易はギリシア系、アルメニア系商人の得意とするところであり、彼らは同一の宗教や民族意識を持って結ばれた商業組織や、金融決済と情報のネットワークによって、国際交易に大きな役割を果たしていた。

メフメト二世による急激な拡大とセリム1世のエジプト征服によってイスラム世界の中心地をカイロからイスタンブルへ移し、スレイマン1世によるロードス島征服により東地中海の制海権が握られたことにより、イスタンブルはユーラシアの東西を貫通する陸と海の交易ルートと、バルト海と地中海を南北に結ぶ道との一大中継地となり、ビザンツ以来の繁栄を取り戻した。 17世紀以前のキリスト教諸国との交易品は、まず東から西の流れとしては、インド洋を横切り海路もたらされた香料(胡椒、生姜)象牙、穀物、また砂糖、綿花、金属製品、いわゆる「シルクロード」を通ってきた絹織物などがあげられる。

逆にヨーロッパ側からは、琥珀、木材、イタリア各地の高級毛織物、紙、鉄器、ガラス製品、モレア(ペロポネソス)半島とエーゲ海方面からは、ワイン、オレンジ、海綿などがイスタンブルへもたらされた。

オスマン朝の貿易政策

帝国の経済は基本的に農業に依存していたが、国際貿易による関税収入も国庫に入ることで帝室財政の拠り所となっていたため、貿易全体を禁じたり抑制することはなく、全体としては輸入を奨励する傾向にあった。オスマン朝の関税率はかつてビザンツとフィレンツェのそれを継承し、帝国からの輸出に際してはムスリム:2%、帝国内部の非ムスリム:4%、帝国外部から来た非ムスリム:5%程度であった。輸入に関しては区別なく、おおむね5%であった。

1454年、早くも上の関税率をベースとした通商条約を結んでいたヴェネツィア、ジェノヴァのうち、ヴェネツィアは帝国領内での交易を貢租の支払いを条件に認めさせ、スルタンの宮廷御用商人の地位を手に入れた。何度かの緊張状態をもたらした軍事危機を除けばキリスト教国との関係は平穏なものであり、1569年にフランスの商船の来航が始まるまでは、西ヨーロッパとの通商の主要な担い手であった。 

当時のヨーロッパ諸国が輸出超過が財政を豊かにしうるとの考えから保護関税を中心とする経済の国家統制(重商主義)を引いたのに対し、原則的には国内需要を最優先し、奢侈品や安価な外国商品の輸入は認め、国内需要を犠牲にしての原料産品や食料の輸出には高率の関税を課し(とりわけ小麦の輸出は1555年以降禁止された)、独自の経済単位として、ヨーロッパに対しては通商特権賦与による貿易を基本姿勢とした。

オスマン朝では富裕な商人の存在を特別なものとして、宗教の別なく歓迎し、外国人の活動も保護された。16世紀までにジェノヴァ、ヴェネツィアをはじめとするイタリア諸都市に出された、関税の支払いを条件に帝国内を自由に往来し交易を行う権利を認める特許状の延長として、西ヨーロッパの商人たちにも恩恵的特権が与えられた。

スルタンが在留外国人に認め、その尊重を約束した恩恵的特権賦与は在留外国人の法的地位と、帝国内にすんで商いを営む際の条件を規定するもので、最初に1569年、セリム2世がフランスに授与したといわれる。それはハプスブルグに対抗する関係上、フランスを支援していたオスマン朝が西ヨーロッパ諸国に与えた最初の通商特権であり、この条約によりその後各国の公式代表部のイスタンブル駐在が可能になった。フランスはイスタンブル、イズミル、キプロス、アレキサンドリア、トリポリ、チュニス、アルジェなど東地中海の要港に大使館、領事館を開設し、領事裁判権、宗教的自治を認められ、キリスト教徒や外国人によってオスマン領土に輸入される全商品に対し領事証明書を徴収するなど、通商上非常に有利な「旗の権利」を得て、自国旗のもとに自由に貿易をすすめた。

イギリスは1580年、オランダは1612年にこれら特権を獲得し以後、フランスと激しい競争を演じた。オスマン帝国が、ヨーロッパ諸国に恩恵的特権を賦与したのは、政治的な意味あいと同時に、彼らの担った奢侈品の交易がオスマン帝国にとって魅力的であったからである、といわれている。

17世紀末にはヨーロッパの大半の国が得ることになるのだが、「経済進出の道具」は18、9世紀にはカピチュレーション(イムティヤーズ)条約として乱用され「経済支配の道具」と化し、1923年ようやく廃止される。

オスマン朝の海軍

次に、オスマン朝の地中海支配を可能にした、海軍力に関して述べる。

エーゲ海岸に進出してから持ち始めた海軍力は1453年には300隻の艦船を動員しうる状態になり、また歴代スルタンの治下、海軍力の増強が図られた結果、ヴェネツィアをしのぐ海軍力を保有するようになった。

内陸部出身のこの国家では海に関係する技術、技師、船員などはギリシア人とイタリア人に依存し、オスマン朝の海軍提督はイタリア語起源の「カプタン」と呼ばれた。艦艇は、ダーダネルス海峡ヨーロッパ側のゲリボルとガラタの造船所で建造され、後に後者が優位をしめるようになり、アナトリア黒海岸シノプ、イズミル、或いは造船指示の調達に資金の場所に作られた臨時の造船所は、必要に応じて稼働した。。

黒海、北アフリカ沿岸に至る地中海、紅海にまで帝国は拡大し、スレイマン1世在位中から16世紀の半ばまで地中海の制海権はトルコに握られた。この成果には(1)艦隊の建造に必要なすべての原料が確保できた。(2)ムスリムの海賊たちを巧みに柔和し、軍事力として利用した、という二つの状況が寄与していた。

オスマン勢力の海上での拡大に決定的な役割を果たしたのが、1533年のバルバロス・ハイレッディンの帰順であった。彼はその後、彼の帰順によって一挙に巨大化し、強化されたオスマン海軍の最高司令官である大提督(カプダン・パシャ)に任ぜられた。

オスマン艦隊は主としてガレー船の集まりであり、150人の漕ぎ手で動き、司令官と何人かの砲手、数十人の兵卒を乗せていた。漕ぎ手には戦争捕虜や、犯罪者、地方から戦時税の名目で徴発された平民で構成されていた。平時は主に海上交易路の保護と領内の連絡を確保するために活動したが、オスマン朝に専門的な海軍部隊がないために陸軍部隊であるイェニチェリと、シパーヒー達が戦時には投入され、大遠征時には、100から150隻の規模で艦隊が展開された。

 


参考文献


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