欧米第一地域専門科目「コンピュータでドイツ語分析!」 ドイツ語科3年   疋田 景子   

„wie ein Fisch im Wasser“

 

はじめに

日本語には「水を得た魚」という慣用句かあるが、それに当たるドイツ語の慣用句はあるのだろうか。ドイツ語には、“wie ein Fisch im Wasser“という慣用句があり、それは日本語の「水を得た魚」と一見とてもよく似ている。しかし、“wie ein Fisch im Wasser“を「水を得た魚」と訳すこと、またその逆はできるのだろうか。

両慣用句の大きな相違点が一つある。魚が水を「得た」のかそれとも水の中にいる(つまり“im“)のかという違いだ。まず、その違いがどのような用法上の相違をもたらすのかを調べた。“wie ein Fisch im Wasser“ と「水を得た魚」のそれぞれ用例をGoogleを用いて集め、それを比較することで、両慣用句の用法の共通点と相違点がわかった。(T〜V)

 次に、Wasserinをコーパス分析し、“wie ein Fisch im Wasser“ の適切な訳語を考えるための文法的解釈をした。(W)

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T.  “wie ein Fisch im Wasser“の用例 (@〜I)

T−A.  @〜Bの例では、fit」、「munter」、「gesundといった単語とともに使われ、健康を表わしている。

 

    @:水泳は体調を良く保つのによい、ということの例え。気持ちがリフレッシュし、内臓に負担がかからないというようなことが書いてある。

    次に水からは離れるが、Aも同じように、元気なことの例えで使われている。日本でも売っていた、「金魚運動」をする健康器具の紹介のようだ。現代はストレスが多く、(西洋)医学も利かない、として、そんな現代人向けの製品のようだ。ここでは水は直接関係ないとはいえ、これは、実際に魚の動きを促すものなので、「まさにことわざにもあるように…」という感じで使われている。

    以上の@とAから考えると、ドイツでは少なくとも「魚のように(動けば(・・・))気持ちがいいし身体にいい」と思われているようだ。

    生物学の研究のBは、魚も感染症:Infektionskrankheitになりうる、といっているところで、括弧をつけて(「水中の魚のように健康」ではなくて)とあえてこの慣用句を持ち出している。「水中の魚は健康(・・)」というイメージは結構強いのかもしれない。

@          Fitness und Wellness Schwimmen - Fit wie ein Fisch im Wasser http://www.spiegelbild.ch/sport.html

A          Munter wie ein Fisch im Wasser...Unsere hoch zivilisierte und technisierte Welt fordert ihren Tribut. Hektik, Lärm und Dauerstress führten dazu, dass trotz der hervorragenden medizinischen Möglichkeiten die Menschen immer kränker werden.

http://www.chiwell.net/sich_gutes_tun.htm

B Universität Rostock Fachbereich Biologie Inst. f. Zellbiologie und Biosystemtechnik 

Abteilung GENETIK/IMMUNBIOLOGIE/ Forschung/ Die Untersuchung der Immunantwort der Fische ist eine wichtige Aufgabe mit großer wirtschaftlicher Bedeutung, weil die Fischzucht ein immer größerer Wirtschaftsfaktor wird und Fische auch unter Infektionskrankheiten leiden können (nix mit "so gesund wie ein Fisch im Wasser").

http://www.biologie.uni-rostock.de/genetik/genetik.htm

 

以下の例では、直接魚も水も関係ない事柄の比喩で使われている。

T−B.  C〜Eでは、sich fühlenという語とともに使われ、感情を表わす比喩として使われている。

 

    Cでは、父親として自信のない男性が、仕事では「水中の魚のように感じ」、娘の前では「乾いた場所の魚のようにじたばた跳ねる」という風に使われている。ここでの使われ方では、仕事上てきぱき動き回る動作の比喩であることも想像できるが、家の中と対比させ、よりのびのびしている気持ちを、表わしていると考えられる。

    Dはキャリアデザインの話で、「自分のやりたい仕事・自分のキャリアに合った仕事は何か探して、正しい天職が見つかった」場合のことを表わす例えになっている。Cと同じように仕事に関係しており、自分の好きなやりがいのある仕事でいきいきと働く様子を表わしているようだ。また、自分がいきいきと働くために、その環境である仕事選びが大事だというニュアンスも有ると思う。

    Eでは、昔から長いこと住んでいる人は、その土地での自分の様子の例えとして使われている。慣れ親しみ、勝手を知り尽くしているため、自分らしくいられ自由に行動できる様子を表わしている。さらに、特にCとは少し違い、その土地が、自分が生きていくのに必要不可欠な大切なものだという気持ちも表わしているようだ。

    DとEでは、“wie ein Fisch im Wasser“でいうところのFischにとってのWasserが大事なことから、自分をいかすための環境にもやや重点が置くような使い方がされている

 C Cothern, ClarkWas Väter stark machtVäter nach dem Herzen GottesMedizin für „Papa-ist-unmöglich"-Tage

Walter musste zusehen, wie sein Flugzeug ohne ihn startete.(中略)So fühlen sich die schrecklichen „Papa-ist-unmöglich"-Anfälle an. Fast alle Väter haben schon darunter gelitten. ・ Ich habe mit einem viel beschäftigten Geschäftsmann gesprochen, der sich wohl fühlte wie ein Fisch im Wasser, wenn er den überzogenen Etat seiner Firma wieder ins Lot bringen musste, aber wie ein Fisch auf dem Trockenen zappelte, als seine Tochter sich „mal aussprechen" wollte über „den Jungen, na, du weißt schon", mit dem sie „ging".

http://www.brockhaus-verlag.de/buecher/leseproben/cothern_leseprobe.htm

D Career Delight Ihr eigenes Rezept /

Wenn Sie eine perfect passende Karriere möchten, wählen Sie ein Gebiet auf dem Sie alle Ihre natürlichen Fähigkeiten benutzen müssen.(中略) Wenn Sie herausgefunden haben welche Arbeiten sie verrichten wollen und wie diese in Ihre Karriere passen dann haben Sie den richtigen Beruf gefunden und werden sich wahrscheinlich fühlen wie ein Fisch im Wasser.

http://careerdelight.com/deutsch/recipe.html

E Globus/ Das Magazin für Forschung und UmweltTraumhäuser aus Abrissplatten? / Bericht Uta Greschner

Avina Stine Nilsson: "Ich wohne hier seit 1988. Und fühle mich wie ein Fisch im Wasser. Damals habe ich 39 000 Schwedische Kronen dafür bezahlt. Kürzlich bmir jemand 125 000 dafür. Aber ich verkaufe nicht. Ich bleib hier wohnen bis an mein Lebensende."

http://www.orb.de/fernsehen/ard/globus/20020710/abriss.html

 

T−C.  F〜Hの例では、T−Bと同じように、主に自分の自由に動けるという気持ちや環境を表わしているが、こちらの方は、境界や制限を越え自由に活動するという意味が強い。

 

    Fは、『Um alles in der Welt』という歴史小説についての、『シュヴァービンクの水の中の魚』と題する書評からの抜粋だ。第一次大戦前にシュヴァービンク(ミュンヘン北部の住宅地)でレーニンが活動する場面を、「ボヘミアン、アナーキスト、社会主義者、えせ革命家、真の革命家の間で、まるで水中の魚のように泳いだ」、と表現している。政治的主義の違いを境界とするならば、その制約もなく、かなり自由に交流している(揺らいでいる)彼の政治的活動を例えていると考えられる。また、この小説を「(歴史的出来事を)感じ、におい、味わい、を感じることが出来るような読書の魅力(Reiz der Lektüre)がある」と評価しており、ここでも、いきいきとした様子の例えとしても使われているのかもしれない。

    次に、「情報技術の見通しを探るコンピューターメッセ「Cebit2000」」、と題するGは、「ネットの技術サ−ビスがかなり簡単になれば、いたるところでネットで結ばれた人々が、水中の魚のように、インターネットの中をいとも自然に元気に動き回れる」、といっている。これは、速さや便利さが改善されて、インターネットの利用が素早く自分の思うようにできることを表わしている。

    Hは、飲食店業(Gastronomie)の品質検査への意見だ。「試験や検査を受けるのは嫌な気がするものだが、他人の期待ではなく自分の要求として試験を捉えて、合格すればいい気持ちがするし悪くない」、といっている。「gesund」という言葉とともに、その合格したときの気持ちの例えとして使っている。gesundは、T−A.のBと同じ単語だが、この場合、身体的な健康というよりはむしろ、試験に対する不安(Die Prüfungsangst)がなくなった解放感、心のかせがなくなることを例えているようだ。

  F AZ Kultur: Der Fisch im Schwabinger Wasser Michael Molsners Roman "Um alles in der Welt"Das Szenarium spannt sich vom Schwabing der Vorkriegszeit, in dem Lenin zwischen Bohèmiens, Anarchisten, Sozialisten, Revoluzzern und echten Revolutionären wie ein Fisch im Wasser schwamm, über Moskau, Zürich und Berlin bis in die USA und zurück. Es ist mit enormer Sachkenntnis und Liebe zum Detail entworfen. Zudem - und das macht den besonderen Reiz der Lektüre aus - spürt, riecht und schmeckt man förmlich mit allen Sinnen, was damals zur einzigartigen "geschichtsträchtigen" Atmosphäre beitrug.

http://m.molsner.bei.t-online.de/rezen-02.htm

G Cebit 2000 lotet Chancen der Informationstechnik ausTummeln wie ein Fisch im WasserFrankfurt/Main - Das Wirtschaften im Internet steht im Mittelpunkt der weltgrößten Computermesse Cebit. Für die Abwicklung der Geschäfte im Netz wird immer leistungsstärkere Elektronik, Software und Leitungstechnik verlangt. Beim Zugang zum Internet hingegen liegen kleine Endgeräte im Trend. Wenn dann auch die Bedienung der Technik endlich einmal einfacher wird, kann sich der allseits vernetzte Mensch so selbstverständlich im Internet tummeln wie der Fisch im Wasser.

http://rhein-zeitung.de/on/00/02/08/internet/news1.html?a

H Vertrauen ist gut, Qualitätskontrolle ist besser Spieglein, Spieglein an der Wand.......wie gut bin ich wirklich?Die Gastronauten Jürgen Friedmann und Jörg van Alen zum Thema "Externe Qualitätskontrolle in der Gastronomie".Wer kennt sie nicht: Die Prüfungsangst. Wenn eigene Leistungen und Zustände oder die unseres Eigentums abgefragt und getestet werden, beschleicht die Meisten ein ungutes Gefühl. Können wir die eigenen Ansprüche erfüllen, können wir den Erwartungen anderer gerecht werden. Fragen über Fragen, die häufig schlimmer sind, als die eigentliche Prüfung selbst. Ob beim Abitur, der Fahrprüfung, der Vorsorge­unter­suchung oder beim TÜV. Wie auch immer, die Spannung fällt erst dann von uns ab, wenn das Prüfungsergebnis vorliegt. Abi geschafft, Fahrprüfung bestanden, gesund wie ein Fisch im Wasser, TÜV-Plakette erhalten. Super, klasse, war alles nicht so schlimm.

http://www.abseits.de/qualitaetskontrolle.htm

 

    また、次の芸術作品解説文からは、水の中の魚には「自由(frei)」というイメージがあることがわかる。

I PauL Van ImpeEnde neunziger JahreTrotz seinem Erfolg erfahrt Paul Van Impe einen neuen Drang zu Änderung:

Paul Van Impe ist kein zerebraler Künstler. Malen ist für ihn ebenso tief und spontan wie Bauchatmung. Der Aufbau, die Farbe, die Geschichte eines Kunstwerkes werden nie zuvor ausgedacht. Malend sucht er das Gleichgewicht, die Spannung… bis es ihn befriedigt. In diesen Kunstwerken wird die Frau auf einen „Korpus“ zurückgeführt, umgeben von symbolischen Fragmenten: das Fahrrad ist die Freiheit, der Ausflug… die Fruchtschale ist die reife weibliche Frucht, die Blumenvase ist die Romantik, der Fisch… ist frei wie ein Fisch im Wasser.

http://www.ignis.org/Van%20Impe%20vita-1.html

 

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U. 「水を得た魚」の用例 (@〜P)

U−A.   @〜Bは、直接水に触れる行為に関係があり、どれも楽しさを伝えている点で共通している。
 
@とAは水に入る楽しさ、うれしさ、はしゃぐ様子を例えている。
さらに、Aは子供の頃の思いがよみがえり、昔の自分に戻るというニュアンスもある。
Bは、飲料用水の浄水器の宣伝。良い水を飲むことで、楽しく、健康で、いきいきとした生活をする例えに使われている。  

@「水も得る」子供たち/6/18(月),朝会でのプール開きの後,いよいよ水泳学習が始まります。今度はまさに「水を得た子供たち」になります。 http://www.edu.city.yokohama.jp/es/sugeta/txt/dayori/13-6.htm

A 旅について/ 四万十川は、子供の頃と同じように透明で冷たく、優しく私を受け入れてくれた。水の中に入ると、私は100%子供になってはしゃぐことができる。浮かんだり、潜ったり、まさしく「水を得た魚」。本当に、水の中にいるのが嬉しくてたまらないのだ。

http://www.jal-europe.com/langs/japanese/jmb/jmb2/EssayComp/contest_1/ipan/contest_yushu.html

B 新生活にほしいもの/水が変わる、水があう、水に慣れる・・・引っ越した先の水によって、新生活も楽しくなったり、不愉快になったり。毎日の体調、健康に大きな影響をおよぼす水とうまくつきあいましょう。おいしい水とは、ミネラルをほどよく含み、バランスのよい硬度を持ち、弱アルカリ性で適度に冷たいこと(1015度)です。ミネラルウォーターをその都度、買うのは不経済。浄水器を使うのがおすすめです。おいしい水を飲んで、新天地でまさに水を得た魚のように生き生きと暮らすあなたがいるはず。

http://wwwt.mew.co.jp/wellness/club/ikiiki/iki_bn/0103/ikiiki2.html

 

以下は、直接水や魚とは関係ない

U−B  Cは、好きなことを、楽しみ、いきいきとしている様子を表わしている。
 

C 私の夫はバイクがだーいすき!、と、言っても、安全運転で、たいしてパワーのでないホンダドリームで、「歩ッ、ポッ、ポッ、、。」と、走るのが好きなのです。それでも、バイクを手にすると、水を得た魚のようにイキイキとしてしまいます。 http://aldela.tripod.co.jp/phuket.html

 
U−C  D〜Iは、自分にあったある環境が与えられることで、蘇ったようにいきいきと楽しむ事、活発になること、器用に活躍することの例えとして使われている。また、解放感というニュアンスをもつ使い方もある。Dは、「自分の感情の抑制からの開放感がある」ということも表わし、Gも、単に新しい環境だけでなく、自由が認められていきいきしている様子を表わしているかもしれない。
 
D       韓国語を学びにソウルに来た私は、ストレートで、激しく、エネルギーが有り余っている韓国人たちに出会って、自分が水を得た魚のように生き生きするのを感じた。他人に迷惑をかけず、自分の感情を抑制して表にあらわさない日本では、味わったことのない開放感だった。http://www.sofukan.co.jp/books/123.html

E 目先の目標や塾通いなどで疲れている子ども達が、キッズ・パーティに行けばホッとでき、年齢や学年を越えて交流することで、子ども達の多様な価値観や自主性を養うことを目的としています。大勢の中では、目立たない子が、ある特定の場所では水を得た魚のように元気がでるのを見て、「子ども達が素直に自分を表現し、屈託なく過ごせる場所があったら、登校拒否など少しは改善されるのではないか。」という思いからスタートいたしました。

http://www.pluto.dti.ne.jp/~pearl/kizzu.html

F 新八犬伝、真田十勇士/新宿の手相見はよく当てたもので、わたしが40才になった時、NHKテレビの新・八犬伝の仕事が舞い込んだのである。水を得た魚のように、自分が蘇るのを感じました。(中略)このテレビの仕事のおかげで、やっと人形も売れるようになりました。

http://www.konishi.co.jp/jusaburo/works/shin_hakkenden/

G ソ連のペレストロイカによって海外渡航の自由が実現すると、ラトビアの映像作家アンドリス・スラーピンシュは、水を得た魚のように活発な活動を始めました。ソ連の極東地域とカナダ・アラスカの双方の北方少数民族の文化を記録することに若い情熱を燃やしていました。しかし、時に祖国ラトビアに戻れば、祖国の独立回復を目指す民衆のうねりを記録していました。1991年1月20日、ラトビアの首都、リガで、ソ連内務省特殊部隊が、ラトビア共和国内務省を襲撃する奇怪な事件が起き、その現場を撮影中のスランピーンシュらは、背後から銃撃され、彼は即死しました。彼の死は彼の家族や同僚、ラトビアの映画界にとっては大きな打撃でしたが、ロシアの民族学者たちにとっても、非常な痛手でした。この夢の時代は、シャマニズムがいまだ、弾圧の対象であった1980年代初期から彼が撮り続け、生前には遂に完成できなかった作品です。http://tokyocinema.net/northern.htm

H 韓国のスキー場が変化している。以前は皆が同じようなウエアを着て、同じようにスロープを滑り降りていただけだったが、今では人それぞれのファッションと新しい技術を披露しながら周りを圧倒する'目立つ'スキーヤーが登場し始めている。その最も代表的なのが'スノーボード'だ。少し前まで仲間外れ的な扱いしかされていなかったスノーボーダーだが、最近になってスノーボード専用スロープができたことにより水を得た魚となった。http://www.koreanavi.com/special/ski/20000128-2.html 

I 首位アヤックス戦ドロー、小野はボランチでも実力を発揮(Number Web/対グラスゴー戦では攻撃手として戦った小野は、出場停止から戻って来たヨン・ダール・トマソンにそのポジションを譲ったが、ファン・ボンデレンが中盤から守備へと移った為、キープレイヤーとしてボランチでプレーし、このポジションで水を得た魚のように何度か華々しいアクションを見せた。

http://www.number.ne.jp/world_soccer/news/holland/2002.03.04.html 

 

U−D   J〜Mは、自分に合った新しい技術・方法を手に入れることで、物事を自在にできるようになること、または、自分流の新しい方法論を見出すことで、たくさんの作品を生み出すこと、を表わしている。
 
J いつかは作ろうと思っていたホームページ。あるきっかけがあって作ることに。そのきっかけとはダイナミックHTML。座標を得たオブジェクトは水を得た魚の如し。 http://homepage3.nifty.com/nakachan/gladseef/gs1.html
K 高齢者情報革命に取り組む米国シニアネット/「以前は、シニアといえば、仕事をリタイアした後、カリフォルニアやフロリダといった気候のよい所に移り、ゴルフ、釣りなどに興じ、椅子に座っていると考えられていました。16年前、サンフランシスコ大学で研究が行なわれ、そうではないことが分かったのです」。 この研究に携わったのがシニアネット創立者、メアリー・ファーロング教授です。彼女の孫が使っていたのと同じものをシニアの方々に差し出すと、皆さんは積極的に使おうし、使ったことによって変わって行くことが分かったといいます。「好奇心は、加齢によってあせるものではなく、かえって増え、シニアの方々にパソコンを与えると文字通り水を得た魚の様になることが分かったのです」。こうして、シニアの生活を豊かにし、彼らや彼女らの経験や知識を共有するために、コンピュータ技術とインターネットへのアクセスの促進と情報技術に関する教育を提供するという使命を抱いて、米国シニアネットはスタートしたのです。 http://www.maiko.co.jp/senior/news/data/0054/0054-02.html
L 柳美里『魚が見た夢』俵万智/本書の「まえがき」の中で柳さんは、自分自身を魚にたとえていた。「私が魚だとしたら、水は痛みだ。痛みがなくなったら、私は書けなくなる。そして書くことで痛みの水位はさらに増していく」と。 私は、『夕鶴』のヒロイン「つう」を思い浮かべた。みずからの羽を、痛みをもって抜き取り、そして美しい織物を織り上げる「つう」。柳さんの小説は、きっとその織物なのだ。だからこのエッセイ集を読む私たちは、「つう」の工房を覗き見る与ひょうのようなものかもしれない。 ただ、柳さんが「つう」と違うのは、羽を抜き取ることによって、命が縮まったりはしないということ。辛いことも、苦しいことも、「書く」という行為によって、それはプラスに転じることができる。「書く」という方法を手にした柳さんは、まさに水を得た魚となって、いくつもの作品を生み出した。http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/401704-3.html

M コンピュータで目覚めたグラフィックの才能/もともと絵を描くのが好きだった土藤さんだが、コンピュータグラフィックスを覚えてからはまさに水を得た魚。自分であれこれ試しては、これまでにもさまざまな作品を描いてきた。ホームページのなかでも、そこそこに作品をちりばめ、梨恵ワールドを展開している。「コンピュータグラフィックスを知ってから、絵を描くのがますます好きになりました。将来はデザイナーになりたい」 

http://www.sakuragaoka.ac.jp/student/js10/internet/obunsya.htm

 

U−E   NとOは、好奇心旺盛に、研究や勉強の未知の世界に踏み込んでいくことを表わしている。
 
N 教育を巡る情況は当時も今も大変です。教科書を使った従来通りのやり方では,多くの学校で授業が成立しないのです。これは一種の懲罰かなと思わせる〈授業〉。そういうことのできない”軟弱教師”は,見事にスポイルされるか果てしないオシャベリの海に埋没します。「こりゃイカン! 生徒さんも教師も共に救われるキー・ストーンは?」−私たちは考えました。「それは授業だ! 内容を変えることだ。」そして物理で勝負したいと人並みの望みを持った私たちは,無謀にも2人でサークルを始めました。物理と教育の広大さを恐れぬのらねこが,筏に乗って航海に出たのです。例会にはみんな,何となくいそいそとやってきます。一人二人と集まって得体の知れないモノを並べ,物理談義が始まります。このゆるやかに流れる時間の濃密なこと。〈水を得た魚〉というか〈ご馳走にありついたのらねこ〉とでもいいましょうか。私たちは有頂天になって,真っ白い帆を一杯に張りました。(中略)しかし,私たちが得た最大の拾い物は,自然そのものです。ものと親しみ,仲間と議論をしているうちに,自然の面白さ,奥深さに魅せられていきます。こうなるともう止まりません。授業がどうの生徒がこうのという前に,私たち自身が最高の文化・遊びともいえる物理を楽しみ始めたのです。 筏は順風を受け,航海の途中で面白い”魚”を釣り上げます。それらは教室や地域で,子どもや父母に還元されます。するとどうでしょう。物理どころか勉強すら屁とも思っていない連中やとうの昔に〈卒業〉した父母から,思わぬ歓迎の声が上がったりします。広大な物理と教育の海に漂う中で,私たちは知りました。ここには確かに魅力的な”魚”がいっぱいいること。わたしたちのような平凡な教師にだって釣ることができるということ。つまり挑戦に値するということをです。http://www.straycats.net/html/circle.htm

O 元気で積極性のある若者求む!/「今,自分はそのような知識を持ち合わせていない」と心配することはありません。むしろ,「機能研に来れば,そのような色々な領域の知識を吸収できる」と前向きに考える人が来てくれることを望んでいます。しかし,知識だけで研究ができるわけではありません。大切なのは,研究を遂行するための柔軟な「思考力」と,達成したいという強い「情熱」です。我々は,3年生までの学業成績と研究を進める力量が必ずしも一致しないことをしばしば経験しています。研究室へ入ってきてから,水を得た魚のようにメキメキと実験・研究で頭角をあらわす人もいます。紙の上での勉強の成績よりも,むしろ,好奇心旺盛で色んなことに積極的にチャレンジできるスピリットを持っていることの方が重要です。 

http://www.achem.kansai-u.ac.jp/kinosei/mes.htm
 
U−F   Pは、自分の熟達している行為をするときの、余裕さえ感じられる様子を表わしている。

 

P 入魂の最後のツアーを凝縮/ クイーンの歴史上最大規模のツアーとなった86年のヨーロッパ・ツアー「マジック・ツアー」のダイジェスト盤。伝説となったロンドン・ウェンブリー・スタジアム、最大動員数を誇るロンドン郊外ネブワース・パーク、東欧初のロック・コンサート(しかもスタジアム)となったハンガリー・ブダペストの各公演からハイライト・シーンをピックアップした、ライヴ・ベストとも言える一枚である。大観衆を前にした彼らのステージングは、水を得た魚のようで、余裕さえ感じられる。http://www.toshiba-emi.co.jp/queen/disc/data/livmag.htm

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V.  「水を得た魚」との比較

 

wie ein Fisch im Wasser

水や魚に関係する事柄を表わすとき

A.  fit」、「munter」、「gesund」といった単語とともに使われ、健康を表わす。

         (「魚のように動くこと」が、「気持ちがいい」し「身体にいい」と思われている。また、水中の魚は健康を連想させる。)

直接魚も水も関係ない事柄を表わすとき

B.               sich fühlen」という語とともに使われ、主に次のような感情を表わす。

のびのびしている気持ち、自分の好きなやりがいのある仕事でいきいきと働く様子、自分らしくいられ自由に行動できる様子などを表わす。また、自分をいかすような環境にいる、またはそのような環境が大切であることを表わすこともある

           .  T−Bと同じように自分が自由に動ける感情や環境を表わす場合でも、境界や制限を越え自由に活動するという意味が強調された使い方がある。制約なく自由な活動、技術改善されて素早く自分の思うようにできること、心のかせがなくなった解放感などを表わす。

「水を得た魚」  
水に触れる事柄(水に入る、水を飲む)を表わすとき
.  どれも楽しさを伝えている点で共通している。)
・水に入る楽しさ、うれしさ、はしゃぐ様子を表わす。
     それによって子供の頃の思いがよみがえり、昔の自分に戻るというニュアンスを含むこともある。
      良い水を飲むことで、楽しく、健康で、いきいきとした生活をする事を表わす。
      直接魚も水も関係ない事柄を表わすとき
B  好きなことを、楽しみ、イキイキとしている様子を表わす。
C  自分にあったある環境が与えられることで、蘇ったようにいきいきと楽しむ事、または活発に・上手に活躍することを表す。
それによって得られる、解放感というニュアンスをもつこともある。例えば、自分の感情を抑制するものからの解放感や、自由が認められてイキイキしている様子を表わす。
D   自分に合った新しい技術を手に入れることで、自在にできるようになること、または、自分流の新しい方法論を見出すことで、たくさんの作品を生み出すこと、を表わす。
E   好奇心旺盛に、研究や勉強の未知の世界に踏み込んでいくことを表わす。
F   自分の熟達している事柄をするときに、上手であり、余裕さえ感じられる様子を表わす。

比較

Googleで検索して先ず気付いたことは、ドイツ語のwie der Fisch im Wasser“と、日本語の「水を得た魚」のどちらについても、水に入るときに使っているもの圧倒的に多いということだ。ただし、比喩が弱いので、ここにはあまり載せなかった。具体的にいえば、「海、プール(ドイツ語ではSee:海,湖 など)」という言葉とともに使われ、「泳ぐ,(ドイツ語ではschwimmen:泳ぐ やtauchen:潜る)」ことを修飾している。

全て肯定的に使われ、どちらも水の中に入るうれしさや楽しさを伝える文が多かった。このことは、日本語の「水を得た」が、魚の陸上にいるときとの様子のギャップを連想させるために、息を吹き返す感じや泳ぎのしなやかさや素早さのイメージがあるのに対し、ドイツ語のほうでは、その連想が必ずあるとは限らないので、肯定的に使われるかどうか判らないと思っていたので、私にとって発見だった。

しかし、この使われ方の中にも日独での違いもあった。

     ドイツ語の場合、楽しさや気持ちよさも表わしているが、ほとんど、スイミングスクールのHPだったり、trainieren:訓練する という語とともに使われたりしており、魚が泳ぐのが上手だということにかけている。日本語のほうでは、スイミングスクールや訓練などの例はほとんどなく、必ずしも上手さにはこだわっていないようだった。上手に泳ぐ比喩は少なく、むしろ、いきいきと泳ぎを楽しむ様子を伝えることのほうに使われていることが多い。

     また、日本語の場合、「水を得る」というところから、水を飲むことの例えや、プール開きの例えに使うことができるが、ドイツ語のそのような例は見つからなかった。

この2つの相違点は、「水の中」と「水を得た」というもともとの語句の違いによると考えられる。

また、元気さや生き生きとしている様子を表わすことでは、ドイツ語も日本語も共通している。

しかし、ドイツ語のほうが、「健康」であることの比喩に使われる事が多い。日本語の場合は、良い水を飲むときにのみ、「健康」との結びつきが見られたが、比喩としてはかなり間接的ではある。水の中に入ることを表わすときに、健康の比喩として使われる例は見られなかった。なお、ドイツ語で健康の例えで使われるのは、ほとんど直接水や魚に関係がある行為をするときだった。水の中にいる様子や、魚の動きなどと直接関係があり、動的感覚・身体的感覚がより強くイメージできるような行為をするときに、「健康」の例えに使われるのかもしれない。

水や魚から離れた使い方では、ドイツ語でも日本語でもほとんど同じだった。

しかし、全体的に、日本語のほうが動作的、ドイツ語のほうが状態的なことを表わす傾向があるようだ。例えば、

     日本語の場合、新しい環境に入り挑戦の結果としていきいきとする、というような使い方ができるが、ドイツ語ではあまりない。

     逆に、ドイツ語のwie der Fisch im Wasser“では、魚が水中で自由に動くことから、境界に阻まれず制限を受けずに、というニュアンスがややはっきり出るのに対し、日本語の「水を得た魚」では、境に阻まれずという意味が、いきいきしたという意味よりも前面に強く出す使い方は難しいと思う。例えば、T−CのFの例に、「水を得た魚」と当てはめてみると、ニュアンスが変わってしまう。

     また、日本語では、長年住んでいる人がその土地にずっと居続けているのに、「水を得た魚のようだ」とはあまりいわないのに対し、ドイツ語ではwie der Fisch im Wasser“ということができる。

  これらの相違も、「水の中」と「水を得た」というもともとの語句の違いによると考えられる。

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W.  In Wasserについて  (参考サイトhttp://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/st.htm#b1

T〜Vでは、“im Wasser“を「水の中」と和訳したが、その訳で良いだろうか。

まず、ドイツ語の前置詞 in の使用法だが、日本語の「中」と違い、その物の一部さえ中に入っていれば i nを使うことができるという。ドイツ語の表現、unter Wasser schwimmen (水中を潜って泳ぐ)やim Wasser schwimmen (頭を出して)泳ぐ)をみると日本語との違いがわかりやすい。とすると、この慣用句の場合では、魚の体全てが水面下に無くてもいいということになる。それが正しければ、必ずしも「水の中」という訳では表わせない用法があると思われる。

また、日本人の「場所」の捕らえ方と異なり、「まわりの空間から切り離されて独立した、一定の広がりをもつ空間」を「領域」と呼び、「in という前置詞の主要な働きは、領域を表現することだ」という仮説を立ててみると、

 

では次に、ドイツ語の名詞である“Wasser“についてはどうだろうか。

日本語の「水」と違って冠詞の有無が問題になる。

 コーパス分析でWasserの直前の単語をみてみると、次のようになった。

Wasserの前につく単語 上位17位まで(使用したコーパス:MK1、分析ツール:TXTANA

Word

das

dem

im

ins

mit

unter

und

olnisch

liter

warmes

von

zu

wie

voll

viel

eiskalte

sich

その他

180types

 

Count

65

27

27

26

16

14

12

8

8

7

7

6

5

5

4

4

4

207

 

452

             

             

             

 

 

Wasserは「物質名詞で冠詞は取らない」という用法だけは無いことがわかる。

独和辞書を見ると、

@《ふつう単数》(様様な種類・状態・用途の)水    *無冠詞。

A (集合体としての)水(たまり水、流れ、池、湖、海) *不定冠詞・定冠詞あり。

B《単数》体液    *無冠詞か定冠詞

というふうに大きく分けられている。この慣用句では、定冠demがついているのでAにあたる。日本語の「水」と異なり、物質としての水のイメージから区別された場所的なイメージに限定されているといえるかもしれない。1の用例を振り返っても、ドイツ語“im Wasser“の場合は確かに、水そのものの感触を楽しむというよりは、水のある空間での行為のイメージが強いようだ。