論文とはなにか

 

■論文とは何か

「論文」とは何でしょう。たとえばレポートとはどう違うのか。

おそらく皆さんは、これまで受けてきた大学の授業で次のように言われたことはなかったでしょうか。

「小学校から高校までは与えられたものを消化すること(覚えること)が勉強だったが、大学での勉強というのは「自分の頭で考える」ことだ」、とか、「問題意識を持つことが重要だ」とか。

でも、「自分の頭で考える」にはどうすればいいのか、あるいは「問題意識」なるものはどうやったら持てるようになるのか、いやそもそも「問題意識」って何?

でもまあ、言わせてもらえば、「自分の頭で考える」ための、また「問題意識を持つ」ためのその具体的な道筋を示すことなしに「問題意識を持て」などと繰り返すのは、まあ、単なるお説教にとどまっているわけで。

一言でいれば、「自分の頭で考える方法」、あるいは「問題意識を持つ方法」とは、「問いを立てること」です。そして、その「問い」に対する「答え」を見つけようとすることです。

皆さんは「なあんだ」と思うかもしれません。でもこれがなかなか難しい。

「論文を書く」ということは、しっかりした問いを立て、その問いに対して答える、という作業そのものです。

毎日の生活では、何か疑問を抱いても生活の忙しさの中でそれを突き詰めることはなかなかしないし、また疑問によってはすぐに答えが見つかるかもしれない。また勉強でも仕事でも、言われたことをただ言われたとおりにやっているだけではあえて「問い」を立てることもしないでしょう。

しかしどのような仕事であっても、もしも本当に自分の創造性を発揮してやっていこうとしたときには、必ず取り組むべき問題について自分の頭で考えることが必要になってくるわけで、そうした時、私たちは必ず問いを立てているわけです。何を実現するのか、そのためにはどうすればいいのかを考える。問いを立てて、その答をみつけようとするわけです。

論文も同じです。それをもう少し理屈っぽくやるだけの話。つまり、論文とは、筆者がある問いを立て、それに対して筆者が与えた回答である、ということです。

このことを言い換えれば、論文は必ず「問い」(問題提起)と「答え」(結論)を持ちます。しかも、その「答え」は資料的な裏付けをもち、確固とした論理で導き出された(論証された)ものでなくてはいけません。

別の言い方をすれば、問いと答えがないものは論文とは呼べない、ということです。一番わかりやすい例は辞書、あるいは教科書などがそうです。また学生諸君がよく書くレポートなども多くの場合、論文ではありません。「調べたこと」をただ書き連ねているか、あるいは(調べもせずに)自分が思っていること(あるいは感想)を書き連ねたものは、上の定義からいっても論文とは言えないことが分かります。ただ、レポートでも、最初に問いが立てられ、しかも最後にそれに対する答え(結論)が書かれており、そうした結論に至る論証がしっかりなされていれば、それは立派な論文と言えます。

 

■すぐれた論文を書くにはどうすればいいか(その1) すぐれた論文とは何か

ある論文が優れたものであるか否かは、3つのチェックポイントから評価できまず。すなわち、

(1) 提起されている問いが優れたものか、あるいは鋭いものかどうか。

(2) そうした問いに対して、斬新な回答が与えられているか(この回答が、論文のテーゼとなる。つまり、優れた論文であるからには、その主張=テーゼが斬新なものであることが求められる。)

(3) そうした回答は説得的なデータと論理によって裏付けられているか。

まず(1)の問いですが、優れた問いには大きく二つの種類があります。

第一の種類の問いは、これまでさまざまな人々が提起しながらも、それに対する説得的な回答が与えられていないものです。生命とは何か、宇宙に果てはあるのか、人間にとってもっとも重要な価値は何か、歴史は進歩に向かって進んでいるのか、等々、これらの問いはくりかえし提起されながら、しかし今なお説得的な回答が与えられていません。ですから繰り返し繰り返し、問い直され、それに対してさまざまな人が答えようとしてきたわけです。

第二の種類の問いは、これまで人が考えつかなかったような問いです。そうした問題があることにそれまでは誰も気がつかなかったそうした問いです。言い換えれば、それまでは誰にも見えていなかった問題に初めて着目したということになるわけです。

論文を書く際には、自分が立てる問いは上のどちらであるのかをまずしっかりと把握する必要があります。

その上で、次のような問題があることに気がつきます。

まず第一のタイプの問い(繰り返し立てられながら、まだ決定的な回答が与えられていない問い)の場合には、そうした問いに対してこれまでどのような回答が提示されてきたのかということをまず押さえておくことが必要だということです。これから自分が論文で主張しようとしていることは、ひょっとしたらもうすでに別の誰かが言っていることかもしれない。もし、自分が考えていることを誰かがすでに主張していたとすれば、その時には、自分の考えはその人と同じである、と述べてそれで終わり。新しいことはただ、そうした主張に対する支持者が一人増えた、ということにすぎません。だから何もあらためて同じことを紙とインクを使って書く必要はないわけで、誰々さんが書いたものを見て下さい、と言えばおしまいです。

それに対して、そうした問いに、これまで誰も主張してこなかった答えを考え出したとすれば、そしてまたそうした答え(主張)をしっかりした資料的な裏付けと説得的な論理構成でもって論証したとすれば、その論文は新たな貢献として評価されることになります。でもこれはなかなか難しいだろうことはすぐに想像がつくでしょう。

他方、第二のタイプの問いの場合、すなわちこれまで誰も提起することがなかった問いを立てようとする場合には、まずそのことを示さなければなりません。あるテーマについてこれまでさまざまな問いが立てられてきたけれど、こうした問いが立てられることに誰も気がつかなかった、ということをまず示す必要があります。しかもその際には、このテーマを論じる場合には、この新たな自分が提示する問いはきわめて重要である、ということも示さなければなりません。自分が新たな問いを立てることを正当化する必要があるわけです。というのも、どんな問いであっても立てればいいというわけではないからで、立てるべき問いは意味がある問いでなければならないからです。そうした問いを立てることによって、そしてまたそれに答えることによって現実の新たな一面が明らかになる、そうした問いでなければならないわけです。

こうしてみると、上のいずれの場合でも共通して言えることは、あるテーマについて論文を書こうとする場合には、その前提としてまずこれまでの研究(先行研究と言う)を知る必要がある、ということになります。言い換えれば、あるテーマについて論文を書こうとする場合には、そのテーマに関してこれまでどのような問いが立てられ、それらの問いに対してどのような答え(主張)が提示されてきたのか、これらの答え(主張)は立てられた問いに対して十分に説得的な形で答えているのか、といったことを吟味する必要があるわけです。

このように論文を書くためにはこれまでの研究(少なくとも代表的な研究)について一通り目を通しておくことが絶対の条件であるならば、大学の学部レベルの学生にそれを要求することがまず無理であろうことも分かるでしょう。大変な勉強家の学部学生がいて、これまでの主要な研究にすべて目を通していることもまったくないことはないでしょうが、それはきわめて例外的だと言えます。このことを言い換えれば、学部レベル(さらには大学院の修士課程レベル)の学生にオリジナルな論文(すなわちオリジナルな答え、あるいはオリジナルな問い)を期待するのはほとんどの場合間違いである、ということにもなります。

しかしそれに気がつかない教師や学生が結構いたりする。その場合には、以下のような現象が見られることになります。すなわち、学生は自分がとりあげたテーマについてたまたま入手した文献(先行研究の一部)を読んで、それを適当にまとめて(文献が外国語の場合には翻訳して)自分の論文とする、というものです。実際、私の経験から言っても、大学院に入ってきた他大学の学生に卒業論文を発表してもらうと例外なくこのパターンになっているといっても過言ではありませではありません。

ではどうしたらいいのか。学部の学生の論文はすぐれた論文を書けないのか。そんなことはありません。ただしっかりと手順を守る必要があるのです。

 

■すぐれた卒業論文を書くにはどうすればいいのか(その2)

ではどうしたらいいのか。

それに答えるにはまず資料の性格について話しておく必要があります。具体的には、一次資料と二次資料の区別です。この区別は論文執筆に関する入門書を見ればほとんど必ず載っていることなので、ここであらためて述べる必要はないかもしれませんが、念のため押さえておきましょう。

一次資料というのは研究対象から直接生み出された資料です。これに対して二次資料というのは、研究対象に関して第三者が作成した資料です。

たとえば、キューバの「フィデル・カストロの思想」を研究対象としたとしましょう。そうすると、カストロの演説、著書、論文、インタビューの記録、日記などは一次資料となります。これに対して、カストロの思想に関して第三者が書いた研究書や伝記、評論などは二次資料です。

ただ、一次資料と二次資料の区別はあくまでも相対的なもので、絶対的なものではないことに注意して下さい。たとえば、「フィデル・カストロ像」、すなわち人々はフィデル・カストロをどのように描き出してきたかという問題を研究対象とする場合には、フィデル・カストロについて論じたものはすべて一次資料になります。つまりさきほど挙げた彼に関する評論、研究書、伝記などはこの場合には今度は一次資料になるわけです。

私の考えでは、すぐれた論文を書くのであれば、資料はすべて一次資料でなくてはなりません。そこが、たとえばレポートなどとは違うところです。レポートは、たとえば、ある本についてその要旨をまとめなさい、といった形で教師が出す課題に応えたものであり、その場合にはそれこそ要旨をまとめればいいわけです。でもこれは論文ではない。

また、小学校以来、よく出される「○○について調べてきなさい」といった課題について書いたものも論文ではありません実は、大学でも論文と称してこうしたものを書かせる教師が少なくありません。そして学生もそれが論文だと思ってあちこちとりあえず目についた本などを横目で見ながら適当に(あるいはまじめに)書いてまとめることが少なくないのですが、実はこうしたものは論文ではない。

まとめましょう。

論文とは何か。それは、1.問い、2.答え、3.論証の3つの柱から成る文章である。そして、そのための資料は常に一次資料でなければならない。

下の表を見て下さい。

論文の性格
問い
一次資料
書評論文 取り上げた本はどのような本であり、どのように評価できるのか? いい本か、悪い本か? どこが良くて、どこが悪いのか? 書評の対象となる本
研究動向論文 あるテーマに関して、どのような人々がどのような問いを立て、その問いにどのように答えているのか? (どこまで合意が存在しているのか? どのような意見の対立、視角の違いがあるのか? どのような問いが未回答のまま残されているのか?、等々。) あるテーマに関するこれまでの研究書、研究論文
研究論文 あるテーマに関して問いを立て、それに対する自分の回答を出す 研究対象から直接生じた諸資料

 

論文には大きく分けて三種類あります。書評論文、研究動向論文、研究論文です。それぞれ、論文を書くときの「問い」、一次資料となるものは変わってきます。

まず問いについて言えば、書評論文の問いは、平たく言えば、「その本はいい本か、どうか」ということです。

研究動向論文の問いは、「そのテーマについてこれまでどのように論じられてきたのか。明らかになったこと、またいまだ明らかになっていないことは何か」ということになるでしょう。

そして、研究論文の問いは、それは研究者本人が立てる問いである。

またそれぞれにとって一次資料は何かと言えば、書評論文の場合には取り上げる本そのもの、研究動向論文の場合にはこれまでの研究成果(研究書、論文)、論文の場合には、テーマに関する生の資料、であることが分かるでしょう。

それでは学部段階の学生が書ける論文はどれでしょうか。

場合によっては、2と3も不可能ではありません。それは研究対象が非常に限定されていて、これまでほとんど研究の蓄積がない場合です。

たとえば、数年前、ある学生が選んだのは、彼がメキシコに留学したときに滞在したことのあるメキシコ南部の日系人の村における日本観についてでした。この村からは10年ほど前から日本へ出稼ぎに出かける人たちが多数出てきたのですが、彼はこうした村の人たちを対象に、出稼ぎ前と出稼ぎから帰った後では日本に対するイメージがどのように変化したのかを調査しました。この場合には、この村を対象にしたこの種の研究や調査は皆無でしたから、彼は最初から研究論文を書くことができました。

ただ、その場合でも、研究の学問的な意義を問題にする段になると、やはり先行研究に言及しないわけにはいきません。すなわち、その事例で引き出された結論はどれほどの普遍妥当性を持つのか、という問題が必ずでてきます。上の例で言えば、その村の事例は、ラテンアメリカの日系人全体の中でどれほど独自なものなのか、あるいは共通するものなのかを問題にしなくてはなりません。ラテンアメリカの日系人の日本観についてはすでに複数の研究がありますから、やはりこれらの研究にあたる必要があります。その上で、両者の結論をつきあわせ、異なる結論が出されている場合には、今度はその理由を説明する、というという手続きが必要となってきます。

また、これもこれまであったことですが、例えば在日日系ブラジル人たちが学校でどのような問題に突き当たっているのか、という問を立てた学生がいます。この場合には、すでにかなりの数の研究や調査が出ていますが、それほど膨大な量にのぼるわけではありませんでしたから、2の研究動向をまず整理してみる、という道がありました。

このように、問いの立て方によっては、学部の学生でも研究動向論文や研究論文に取り組むことができないわけではありませんが、もしもそうした問いがたてられない場合には、まずは自分が関心を持つ分野について一冊本を選び、その本を直接の対象(一次資料)とした研究に取り組むのが一番確実です。すなわち、その本はどのような本なのかを論じる書評論文です。

このようにしてまず一冊の本から出発し、その本を徹底的に読み込み、著者の議論を吟味し、著者の立てた問い、その答え、それを導き出した論理展開についてその是非を考え抜く。その次には別の本に取り組み、同じ作業を繰り返すと同時に、二冊の本を比較してみる。それぞれの論者はそれぞれどのように論じているのか、彼らの議論の間にはどのような共通点と対立点があるのか、それはなぜなのか、といった点を考え、論じる。そしてさらに別の本を、という形で、そのテーマに関する代表的な研究を一つひとつ吟味していくわけです。

そうした作業を通じて、自分が選んだテーマについては、どのような議論がなされているのか、全体の見取り図がはっきりしてきます。そしてその図の中で、いまだ黒く残されたままになっている部分がどこなのかも見えてきます。そしてまさしくそれこそが、自分が取り組むべきテーマだというわけです。

おおざっぱに言っての話ですが、学部レベルでは複数の書物に関する書評論文をまとめ、大学院の修士課程で研究動向論文を、そして博士課程でいよいよ研究論文を、というのが道筋となると言えるのだと思います。

 

 

 

書評論文をどう書くか

 

■作業の進め方

パソコン(ワープロ)で二つのファイル(文書)を作る。

(1) 一つは、本の構成にそって、ページ順にその内容を要約していくファイル。

・まず本の目次を入力し、そこに要約を書いていく。

・その際に、思いついたこと、ひらめいたことがあったらそれも必ずメモしておく。

(2) もう一つは書評論文の基礎となるファイル。

・このファイルには下記の項目を立て、それぞれの項目に該当するデータを入力していく。

・はじめはメモ程度でよい。ある程度データが蓄積されたら、あるいは発想が湧いたら文章化してみる。

・「議論の展開」に関する項目(後述)では、第一のファイル(要約ファイル)での一段落一行の要約を土台にしながら読みやすい形に整形していく。

 

■書評論文の項目 書評論文には、最低限、以下の項目を含める。

◆自分がなぜこのテーマを選んだのか

◆どのような本を選んだのか

◇基本となるデータ(著者、タイトル、発行地、発行所、発行年)

◇どのような本か(単著か共著か、研究書か啓蒙書か、どのような経緯で本になったのか:もともと博士論文だった等)

◇著者は誰か、どのような人か:経歴、職業、他の著作、学界での評価

◆著者の問題意識(問い)は何か、著者は何を明らかにしようとしているのか

◇基本的な問題意識(問い)は何か

◇より個別的、具体的な問題意識(問い)は何か

◇著者はなぜそのような問題意識を持つにいたったのか、研究の動機、きっかけは何だったのか

◆研究史

◇これまで、こうしたテーマでどのような研究が行われてきたのか

◇著者はこれまでの研究をどのように評価しているのか

・到達点はどこか

・未解決な点、不十分な点は何か

◆著者はどのような結論(問いに対する答え)を出しているのか

◆著者はそうした結論をどのようにして導き出しているのか(=方法論)

◇データをどのように収集しているのか

a) フィールドワークによる場合:

・調査時期はいつか、調査地域はどこか

・標本調査なのか、参与観察なのか、インタビューなのか

b) 文献資料による場合:

・使用した資料・文献はどのような性格のものか(一次資料か、既存の研究書か)

◇どのような理論的な枠組を用いているのか

・理論的な枠組があるのか、それはどのような枠組か

・キーとなる概念は何か

◇どのように議論を展開しているか

・本の構成はどのようになっているのか

・各章はどのように展開されているか

◆評価

◇どれほど鋭い問題提起をしているのか

◇どれほど斬新な結論を出しているのか

◇論理の展開、実証の仕方はどれほど説得的か

◇研究史の中でどのように位置づけられるのか

・どのような点が新たに解明されたことなのか

・解明されずに残された課題は何か

・従来の見解の繰り返しに過ぎないのか、それとも定説を否定、修正するような新しい見解の提示があるのか