大学で何を教えるか

2000年2月8日

 

 以下の文章は、学部・大学院改革推進委員会(1999年6月〜2000年3月)での外大改革論議の中で行われたアンケートに対して小生が提出した回答です。アンケートは、現在の専攻語の定員が「社会的ニーズ」に見合ったものかどうかというもので、多すぎる、適正、少なすぎるの選択肢から回答させるものでした。小生はアンケートの問いの立て方に強い疑問を感じ、以下のような回答を寄せました。図らずも、その中で、大学で何を教えるかという問題を論じることになりました。ここで表明されている考え方は、小生の日々の教育活動における基本的な立場となっており、あえてここに再録する次第です。なお、再録にあたり、一部語句上の修正を行いました。なにしろ一気呵成に書き上げそのまま校正もせずにメールで送信したものですから。

なお、この文章では、具体的には、「社会的ニーズ」とは何か、本学における専攻語の定員はどのようにして決めるべきか、という2点について述べています。

 

本題に入る前に、まず最初に「社会的ニーズ」とは何か、という問題を一般的な観点から考えておきたいと思います。

そもそも「社会的ニーズ」とは何でしょうか?

たとえば仏文科、哲学科などを卒業する学生は毎年数多くいると思いますが、これらの知識を有する学生をすぐ人材として必要し活用する「社会的ニーズ」なるものがどれほどあるのか。

そもそも企業は大学卒業者がただちに戦力になるだけの知識を有していることなど期待していないでしょう。それぞれの現場に必要な知識や技術については企業の方で研修を行っているわけです。企業が必要としているのは、そうした研修において、あるいは実際の仕事に配置されたときに、新しい知識を柔軟に吸収し適切に対応する基本的能力を備えている人間だと思います。

そうした実践的な知識は、基本的な学力、すなわち、読み書き能力、データを分析し総合する能力を備えていれば比較的短期間で身に付くものです。しかも実践的、実務的知識は往々にしてすぐに古びてしまうものでしょう。

大学に求められているのはむしろこうした基本的な学力の方ではないのか。こうした学力をある程度じっくりと時間をかけて身につけることこそ、大学に求められているというのが小生の考えです。

この基本的な学力の中身についてもう少し具体的にいえば、

(1) 日本語、外国語を問わず、あるテーマに関するデータ、資料、文献を検索、収集する能力

(2) 日本語や外国語を問わず、資料、文献を深く読み取り、理解する能力

(3) あるテーマについて、総合的観点から位置づけ、かつ、具体的な諸側面に関しても分析を加えることができる能力

(4) 論理的で明晰な文章によって問題を論じることができる能力

煎じ詰めれば、(日本語と外国語でもって)どれほど読み、書き、話す能力を身につけているか、そのための訓練を大学で行っている、というのが小生の認識です。

だが、このような訓練を一般的にやることはできないわけで、ある特定のテーマに即して訓練する。その場合、テーマはある意味で何でもいいわけで、たとえば小生の場合には、ラテンアメリカの問題にそくして、テーマの発見の仕方、資料や文献の探し方、資料の分析の仕方や文献の読み方、データの処理の仕方、データをあるまとまった論理にしたがって構成していくやり方、それを明確な日本語(あるいはスペイン語)で論理的に論じる文章の書き方、等々といったことをやっているつもりです。

ですから、ある丸ごとの知識を上から注入して覚えさせるということはやっていない。また、学生がともすれば陥りがちな勉強方法を問い直させるにはどうすればいいのかを常に念頭に置いてやっています。

 

あと、学生時代に身につけるべきなのは教養でしょう。物事を長い時間的なスパンで見ることを可能にさせてくれる歴史的な眼、人間の心理や感情、人生の意味や価値、美しいものを美しいものと感じることができる感覚、言葉の持つ豊穣さ、味わい、レトリックの面白さが分かる能力、一言で言えば、人間がこれまでの歴史を通じて生み出してきたすべてのものに対する関心、好奇心と深い知識。これらの教養こそ、若いときに身につけることが必要なものではないでしょうか。

今の日本社会が本当に必要としているのはこうした教養を備え、物事を見る目と、それらを論じ、問題の解決に独創的にあたっていく能力を持った人間でしょう。それこそが本当の「社会的ニーズ」だと小生は思います。経済性しか頭にない(ひらたく言えば金のことしか考えない)人間が何をやらかすかは、東大出のエリートが大蔵省で、銀行で、一流企業でたとえばバブル時代に何をやったのかを見ればわかります。

 

そうした前提にたった上で本題に入ります。すなわち、スペイン語あるいはスペイン語使用地域に関する知識を持つ人材に対するどれほどの社会的な需要があるのか、またそうした需要に見合った形で新入生の募集をどうするかという問題です。

結論から先に言いますと、現在のような専攻語別の選抜を廃止し、また課程で定員を設けることもしない、入学試験は学部定員の大枠で行い、専攻語は入学後に選択するという方式に切り替える方向で検討すべきだと思います。「方向に切り替える」と断言せずに「検討すべき」としたのは、小生自身まだあらゆる角度からこの問題を考えたわけではないからです。

しかし、各言語に対する当面の「社会的ニーズ」が事前に計測不能であり、また可変的なものであることを考えると、各言語の定員を事前に、かつ不変的な形で固定化することはそもそも不合理だという、論理的な結論にならざるをえないと思います。

おそらくは、各言語に対する需要と供給は、それこそ「市場原理」に委ねる他はなかろう、というのが小生の考えです。ある言語に対する社会的な需要が増大すれば、その言語を学ぼうとする学生も増加する。それがその言語の選択者の数に反映される。ですから、計画経済の原理に基づいて、どれほどの需要があるのかを事前に予測して、それに見合った「生産計画」を立てる、というのは現実的ではないと思います。社会はある言語の修得者を現在どれほど必要としているのか、といった意味での「社会的ニーズ」など、そもそも計測不能でしょう。質問の1と2について直接お答えしていないのもそうした理由です。

 

では、上に述べたような形で学生を募集した場合、教官の定員はどうすればいいのか。これも深く検討したわけではありませんが、いくつかの原則を立ててみました。

1.現在の専攻語の数(26)は維持する。また増加の可能性も認める。

2.その際、各言語について、語学1人、文学1人、地域研究1人を最低の単位とする。(ただ中国語の場合などは少々異なるかもしれません)。

3.ただし、同一言語でも歴史的条件が異なる複数地域については複数の地域研究者とする(例えば、イギリス−米国−オセアニア、スペイン−ラテンアメリカ、ポルトガル−ブラジルなど)。(そのほかに、地域研究については、歴史研究者と現代社会研究者の二人をおく、という可能性も考えられます)。

4.それ以上の教官数は、学生の専攻語選択の状況を見て数年ごとに見直しを行う。  

こうした原則に立った場合、きわめて少数の学生しか選択しない、あるいはまったく選択する学生がいない言語も出てくるかもしれません。しかしその場合でも、その言語の教官は上記の最低3名を維持する。というのも、さまざまな言語を研究、教育しているというところに本学の最大の独自性と存在意義があり、長期的にみればこの独自性を堅持することが最良の選択であると思うからです。

その際に、負担率などの点で教官のあいだに不平等がでてくるかもしれませんが、それは認める。実際には、社会人の受け入れ拡充、大学院教育へのシフトなどの形で、負担率の不均等性を減少させることができるのではと思います。

 

なお、外国語担当教官に関する上の4つの原則に加えて、次の原則も加えるべきだと考えています。

5.ただし、日本研究に関する教官については1の原則にはよらず、より充実をはかる。

これは、第一に、今後いっそう充実を図るべきである外国からの留学生のためであると同時に、第二に、日本人学生への教育の必要性ゆえにです。

さきほどの教養教育との関連で言えば、他の国の言語、文化、社会についての知識を身につけると同時に、日本の古典、文化、社会についての広く深い教養は、外国人とつきあう上で、外国で活動していく上で欠かせないものだと思います。またこうした授業を日本人学生が留学生とともに履修することのメリットもきわめて大きいと思います。現在、ISEPでやられているような、英語によるディスカッション形式の授業を、日本人学生にも広げていく必要があるのではないでしょうか。

 この点については鮎沢さんの提案が非常に重要であると思います。あの構想を発展させる形でぜひ実現していただきたいと強く思う次第です。

以上、きわめて荒削りですが、現在考えていることを書かせていただきました。