2011年10月16日 第5回FINDAS研究会(INDAS国際シンポジウム プレ研究報告会)の報告

掲載日 | 2011年10月17日

10月16日(日) に、第5回FINDAS研究会が行われました。

本研究会は、12月17日~18日に国立民族学博物館にて行われます、INDAS国際シンポジウム”Media and Power in Contemporary South Asia”のプレ報告会です。

内容に関しましては、同シンポジウムにてお聞きいただくことになりますので、発表報告は割愛させていただきます。

なお、当日配布されたレジュメおよび資料をアップいたしますので、ご覧ください。

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報告者1.鈴木義里

タイトル:「ゴアの言語状況と印刷メディア」

報告者2.井坂理穂

タイトル:「現代インドにおける出版業界の変化―グジャラート州の事例」

シンポジウムへのご参加をお待ちしております。

ご報告される鈴木義里氏

ご報告される井坂理穂氏











鈴木義里氏、報告要旨
鈴木義里氏、報告資料
井坂理穂氏、報告レジュメ

2011年7月9日 第4回FINDAS研究会「現代(いま)、タゴールを読む」の報告

掲載日 | 2011年07月21日

7月9日(土) に行われました第4回FINDAS研究会「現代(いま)、タゴールを読む」の報告です。

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「現代(いま)、タゴールを読む」

報告者1.丹羽京子

タイトル:「ベンガル詩人が見るタゴール」

報告:

報告者はまず、タゴールの作品を読むということが一体どういった意味を持つのかという問題を、ベンガル人にとってのタゴールと、非ベンガル人にとってのタゴールという観点から取り上げて紹介した。その後、30年代の詩人(タゴール直後の世代)、今日の詩人(タゴール没後の世代)それぞれにとってタゴールが一体どのような存在であり、どういった影響を与えたのかを述べた。それぞれの時代の代表として、ブッドデブ・ボシュとジョエ・ゴーシャミのタゴール論を考察の対象とした。
オミヨ・デヴは、「世界文学としてのタゴール」という報告のなかで、イギリスの詩人シェークスピアがその後に登場するイギリスの詩人たちに与えた影響力に匹敵するものを、タゴールもベンガル人に対して持っていると言っても見当はずれな予測ではない、と評している。また、タゴールに与えられた「世界詩人」という称号は、彼に先立つゲーテに劣るものではないこと、また、タゴールはベンガル、インド、世界という順番で捉えられるべき存在であり、矛盾なくこの3者を代表するものとしてとらえられる、とデヴは評している。
「彼ら〈タゴール直後の世代〉にとってタゴールを模倣することは不可避であり、そしてタゴールを模倣することは不可能だった」とブッドデブ・ボシュが述べているように、タゴールは30年代の詩人たちにとって、ひとつのジレンマとして立ち現われてきたと考えられる。ベンガル人の中にはタゴール批判に熱心な者たちも登場してくるが、彼ら自身もやはりタゴールに心酔していることには違いなかった。
ジョエ・ゴーシャミは著作『わたしのロビンドロナト〈タゴール〉』の中で、まるで家族の一員のように日常生活のなかにタゴールは常にあった、と言及している。彼は成長していく過程で自分の周囲にいるタゴール信奉者たちの大仰な言葉によって表現されるタゴールと、自身の家族的、個人的なタゴール観との大きな差異に気付き、一度はタゴールから遠ざかってしまう。しかし彼自身、詩人として大成した後、タゴールとその時代のほかの詩人たちの詩を改めて読むようになると、タゴールの偉大さと唯一性にようやく気付くことになった。

報告者2.臼田雅之(東海大学)

タイトル:「タゴールと近代ベンガル人の世界」

報告:

本報告では、丹羽京子著『タゴール』の書評を行った上で、当時のベンガル社会におけるタゴール家、およびラビンドラナート・タゴールの歴史的・社会的位置づけが行われた。

『タゴール』中で著者は、1900年代にタゴールの人生は困難に陥り、そのことがその後の人生における分岐点と位置づけられ、彼が世界詩人となるきっかけとなったと評している。それに対し報告者は、ニロード・チョウドゥリの説などを紹介しつつ、タゴールの人生において1890年代も同様に重要であったことを指摘した。
 タゴールは1890年代に結婚し、東ベンガルの農村で質素な生活を送っていた。幼少期、学業面で落ちこぼれ、兄弟とは対照的に冴えなかったタゴールは、この時期の結婚と農村での生活により、初めて人生の中に癒しを見出したのではないか。また、タゴールはザミンダールであるにもかかわらず、ムスリム農民とも親交を持った。一般的に、中間層は地方からカルカッタへ移住するが、タゴールは、彼らとは異なりカルカッタから地方に移住し、東ベンガルの農村に辿り着いた。そこは彼にとって、ムスリムの小作人との交流の場であり、何よりも、自分がいかに自然の中で孤独に生きていくかを実感する場であった。
 タゴール家は、ピラリバラモンと呼ばれる、いわゆる「堕落した」バラモン家系に属していた。かれらは、とりわけ通婚圏という点で周縁化された。富を築けば通婚の問題を解消できると考えたタゴールの祖父は、宗主国イギリスのパートナーとして働き、蓄財した。祖父の企業家としての活躍により、従来周縁化されていたタゴール家は、活性化し、名家となった。
1847年の世界恐慌以降、タゴール家は地主という色合いを強めた。タゴールの父は、地主として政治的、経済的権力を持ったが、彼が宗主国イギリスに抵抗するには限界があった。そこで彼は、自らの活動領域を内面に求めた。このような考え方は、タゴールの父に限らず、他のベンガル人・インド人エリートに共通していた。すなわち、外的領域がイギリスに支配される世界であるのとは対照的に、内的領域にはインド人の価値観が維持される、と彼らは考えた。歴史研究において、「ウチ」と「ソト」という区別は重視されてきたが、報告者はタゴールの著作『家と世界』にも、「家(=内)」と「世界(=外)」という意味が込められていると指摘し、このことが歴史家であるパルタ・チャタジーの思想にも影響を与えたことを示唆した。
タゴール家は一般的な中間層(madhyabitta)とは区別される市民貴族(abhijat)に属す。このことは、たとえば、タゴール家が、服装や思想など様々な面で中間層を先取りし、ときには批判したことに現れている。タゴールがナショナリズム全盛期にナショナリズムを批判したことは、その顕著な例である。タゴールはインド文明にも西欧文明にも距離をとったと考えられる。
報告者によれば、タゴールは近代詩人であると位置づけられる。「近代」がいつ始まるかについては諸説あるが、報告者は、近代文学はモダニズムの文学であり、歴史的近代と関わりのないものであるという見解を示した。それに従えば、近代の問題を主題として扱い、近代を批判したタゴールの作品は、近代文学の範疇に分類することができよう。

報告者3.外川昌彦(広島大学)

タイトル:「タゴールとその周辺」

報告:

報告者は、「これまで様々な視点からタゴール研究がなされてきたが、「世界的、歴史的に評価されているタゴール」という問題に焦点が置かれがちであり、「等身大のタゴール」特に「文学者としての等身大のタゴール」を描くことが不足していた」と指摘し、「丹羽京子氏の著書『タゴール』が、この盲点を埋めるための画期的な役割を担うであろう」と、評価した。次いで、タゴールに纏わる諸問題として、「タゴール評価の逆説」「タゴールの周辺の問題」「周辺から見るタゴール」という3つのテーマについて、以下のような疑問・問題が提示された。
①「タゴール評価の持つ逆説」
・インド社会の中においても、ベンガル語を母語としない人々は作品自体ではなく、歴史的コンテクストの中でタゴールを評価している。ベンガル語の分からない人にタゴールをどのように理解してもらうのか?
・「ギタンジョリ」の持つベンガル語の音の美しさ、それは他の言語に翻訳不可能である。しかしその一方、ノーベル賞受賞は英語に翻訳された「ギタンジョリ」が評価された故である。タゴール評価の焦点は何か?
・アマルティア・センの指摘した「『深く有意義で多面的な現代思想家としてのタゴール』というインドやバングラデシュにおけるイメージと、『同じことばかり繰り返している遠い国の精神主義者』という欧米でのイメージとの間にある落差」が近年、さらに顕著になっている。しかし同時に、欧米での評価や歴史的交流があったからこそ歴史的現象としてのタゴールをベンガルの一詩人以上の存在にしている。
②「タゴールの周辺の問題」
・日本とタゴールの関係を論じる際、必ず触れられるのが「岡倉天心と深い親交があった」ということである。既存の記録によって、ノーベル賞受賞以前からタゴールと岡倉の間に交流があったことは確認されているが、それと同時に、二人の親交が「思想的親交」まで行き得ていたのか疑問に残るような記録も残されている。二人の「親交」の意味については再検討を要する。
・堀至徳はタゴールがシャンティニケタンに開いた学園の最初の外国人留学生である。学園が国立大学となり国際交流の場となっていく以前にこうした人物がいたということは、見逃すことができない点である。
・野口米次郎は「昔からあることを同じように繰り返しているに過ぎない」と、タゴールに対して批判的であったが、これは野口のタゴールに対する理解が非常に表面的であった故であり、互いに対する認識のギャップが1938年に勃発するタゴール・野口論争の背景となっていくのではないか。
③「周辺からみるタゴール」
・岡倉天心の「アジアはひとつ」という着想は1902年、インドにおいての体験によって生み出されたとされる。インド体験を通してアジア認識を通して広げた岡倉は『東洋の覚醒』の中でインド人の若者を鼓舞する内容の文章を残したが、日露戦争とともに発行された『日本の覚醒』では一転、欧米に日本文化への理解を訴える立場を取る。それに対し、タゴールは1901年の著書で「東洋の文明と西洋の文明には大きな相違がある」、「ナショナリズムとは西洋の言葉でインドにはない」という観点を強調していたが、1908年の著書では「普遍的な人間性や宗教への探求が東西の矛盾を克服する視点を導く」という立場へ転向している。このタゴールの意識の変化によって、言語の壁を超えて共有される知的世界を創造するべく、「英語版ギタンジョリ」が生み出されたのではないか?また、同じ時を過ごした岡倉天心とタゴールの西洋に対する態度の変化を対比することも必要である。

●質疑応答

質疑応答では、タゴールが他の文学者から抜き出た存在感をもった理由について、主に議論が交わされた。その中で、ベンガルの近代文学における他の文学者の背景や、その言語の教養などを考慮する必要があることが指摘され、比較研究の重要性が明らかになった。
その後、タゴールがインド独立期に行ったナショナリズム批判がどのように引き継がれていったかについても議論が行われた。タゴールは、ガンディーに批判的であったが、シンボルとして民族運動を束ねる存在としては彼を認めていた。タゴールはnation-shipの持つ排他性の危険性を批判したが、具体的な運動は行わなかった。それゆえ、タゴールの運動は目立った形で現れてはいない、と評された。

当日配布されたレジュメはこちらからダウンロードできます↓

丹羽京子さんのレジュメ

臼田雅之さんのレジュメ

外川昌彦さんのレジュメ

2011年6月25日 第1回若手研​究者セミナー「<ケーララ・モデル>再考」報告

掲載日 | 2011年07月04日

6月25日(土) に行われました第一回若手研究者セミナーの報告です。

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<ケーララ・モデル>再考: ジェンダーの視点から

報告者1.小林磨理恵(JETROアジア経済研究所)

タイトル:「インド社会の変容と『結婚持参金(ダウリー)問題』:ケーララの事例を中心に」

報告:

本報告は、ケーララ社会における「結婚持参金(ダウリー)問題」の現況を、社会の動態の中に位置づけて検討することを通じて、「ケーララ・モデル」をジェンダーの視角から再考することを趣旨とした。

北インドの一部のバラモンの慣習に起源をもつとされる「ダウリー」は、社会変容と共にその性質を変えながら、地域、宗教、カースト・コミュニティの境を越えて南アジア全域に慣習化されている。かつて大多数のコミュニティが母系制度下にあったケーララにダウリーの慣習化が及んだのも近年の出来事である。

ケーララ北部の一農村では、パンチャーヤット独自のダウリー反対運動が始まった。運動を主導するパンチャーヤット議会とインド中央政府の女性支援組織は、人々がダウリーの増額を危惧して娘を若年で嫁がせる傾向や、ダウリーの支払いに伴う女性側家族の貧困の悪化などを社会問題と捉え、インターネットを用いた「新しい」運動の展開を模索している。当該地域における報告者の聞き取り調査からは、ムスリムコミュニティには1960年代以降ダウリーの慣習化が及んだことが明らかになった。とりわけガルフ諸国への移住労働による送金がダウリーの定着の一助となった。また、「ダウリーは社会悪だと認識してはいるが、娘の結婚のためにその支払いはやむを得ない」と多くのムスリムが語った。一方で、過去に母系制をとった「上位」カーストであるナーヤルは、ダウリーの慣習をもたない母系制度の歴史的背景や、ダウリーは他のコミュニティの慣習であることを訴えながら、「ナーヤルの結婚にダウリーはなく、金(ゴールド)のギフトを娘に与えるのみ」と主張した。ところが、新聞のナーヤルの求婚広告には、「経済的な要求一切なし/要求お断り」といった記述がみられ、あるいは、ナーヤルのカースト組織の役員が、「マラバールのナーヤルは水面下でダウリーを受け渡している」と語り、当事者がことさらに否定する「ダウリー」の実態をうかがい知る事実も指摘できる。また、求婚ウェブサイトや結婚相談所の増加、ゴールドショップの増加と価格の高騰、ブローカーの介入など結婚を取り巻く環境も変化を見、ダウリーの慣習化を促す「結婚絶対主義」の確立を助長したといえる。

母系制時代には、女子の誕生は財産相続の要として喜ばれた。しかし、現在はナーヤルコミュニティにも女児堕胎の増加が報告されている。それには、未婚の娘の存在による経済的・心理的「負担感」が作用しているといえよう。また、結婚に際して、男性側家族が「ダウリー」を「当然」交渉、要求できるという事実が、ケーララにおけるジェンダーの力関係の再編を示唆している。一方で、当事者が語るダウリーの「問題」は「ダウリーを用意できない限り結婚できない」という「問題」であり、結婚が主体形成の第一義的課題であることや、ジェンダー関係の変容といった構造的要因は、概して不問に付されたままにある。社会の変容が私的領域に及ぼした影響は不可視化され、また、男女平等が保たれた「モデル」と化されたことで、ケーララの「ジェンダー問題」は一層複雑さを増しているといえるだろう。

• 喜多村百合氏によるコメント

ダウリーは一般的に北インドの問題とされてきたが、それを南インドの事例から検討したことに意義がある。また、ダウリーをめぐる社会運動と関連づけた点で興味深かった。SEWAは、1980年代以降ダウリーを大問題と捉え、ローンを組む際にもダウリーには用いられないよう注意を払った。ケーララにおいてはSAKIがダウリーは如何に消費されるか分析している。殊にケーララのダウリーは、現金と金とで構成され、耐久消費財をダウリーとする他州とは特徴を異にする。金が結婚後に即時現金化される事実はSAKIによっても報告されており、今回の報告は一農村の事例研究とはいえ、ケーララのダウリーの特徴を捉えているといえるだろう。

次の4点を質問とする。①ダウリー反対運動(Dowry Free Village)について、ダウリーのない結婚をウェブサイトに宣言し、登録した人数1,500名と、結婚成立に至った11組という数字をどう分析しているか。②ムスリムとナーヤルの相違点は何か。③上昇婚は存在するのか。④Praveena Kodothの論文では、ナーヤルは結婚前にダウリーの交渉を重ねており、必ずしも女性側家族が劣位とはいえないと感じたが、どう考えるか。

• 質疑応答

*喜多村氏に対する返答

① ニランブール・グラーマ・パンチャーヤットでは、2010年秋にパンチャーヤットからナガラ・サバーへと政治体制が変化したが、その際に「Dowry Free Village」への登録情報が移動され、現在はどこに保存されているのかはっきりしない状況にあるという。また、ウェブサイトは公開された状態にあるが、実際上はシステムに障害が生じており、登録はできない(2011/07/01現在「工事中」の表示に変化した)。運動に加わった層を特定し、今後の運動の展開を練るためにも、「1,500名」の年齢や属するコミュニティ等を分析する必要があると報告者は考えるが、その情報については誰も把握しておらず統計もとっていない。パンチャーヤット総人口(約40,000人)からして登録人数は多いとはいえないだろう。

② ムスリムの中でも特に貧困層は、ダウリーの支払いに伴う困難を滔々と語る一方で、ガルフ移民を多く持つ家族は、比較的高額なダウリーの受け渡しを認めながらも、違法性を認識し通報を恐れて饒舌には語らないといった特徴がみられた。一方で、ナーヤルはダウリーの受け渡しの事実そのものを強く否定した。ナーヤル20世帯を対象にした聞き取り調査の中で、はっきりとダウリーと認められたのは1件のみであった。他の研究では、マラバール(ケーララ北部)とは対称的に、トラヴァンコール・コチ(南部)のナーヤルは、ステータスシンボルとしてダウリーをオープンに受け渡すという特徴が指摘されていることも付け加えておきたい。

③ ケーララの他地域を対象にした調査では、多額のダウリーを支払うことで経済地位の高い家庭に嫁ぐという事例が挙げられているが、本調査ではそのような「上昇婚」の事例はみられなかった。

④ ダウリー額を決定するまでに数々の交渉を重ねているとはいえ、最終的に女性側家族が男性側家族にダウリーを支払うという事実だけで、少なくとも両者が同等であるとはいえないのではないか。

*その他の質疑応答

Q.特定のカーストやコミュニティでダウリーが高額であるなどといった、体系的なダウリーの調査研究はないのか。

A.ダウリーは1961年に「ダウリー禁止法」によって法的に禁止されており、それ以降ダウリーの額が公的に調査されたことはない。個々の研究者が個別具体的に挙げた事例を参考にしたり、インフォーマントに自己申告を求めたりすることで、ダウリー額を把握するしか方法がない。

Q.求婚広告に見られる「女性性」は、「賃労働をしない主婦」という特徴だけでなく、もっと多様ではないか。他の研究では、英字新聞には「共働きをする男性募集」という「新しい女性像」を示唆する記述があると指摘されている。

A.体系的・継続的な求婚広告の分析は今後の課題であり、現段階で明確な説明はできないが、これまでのところ、マラヤーラム語新聞二紙からは「新しい女性像」を描き出す記述はみられない。女性の求婚広告の中に自らの職業について言及しているものもあるが、概して「教師」であり、「子を教育する母」という「従来の女性像」の枠組みで説明されてしまう。

Q.消費主義の確立というよりも、19世紀以降の「近代化」の流れをくむ「お金文化」の浸透の影響が強いのではないか。近代化、ないしは現代化の進展の度合いを地方都市と農村とは異にしているが、それらの差異はどのような点でみられるか。

A.本報告の中で商業ベースのケーララ専用の求婚ウェブサイトが数多く存在することを紹介したが、農村における聞き取り調査でこれらのウェブサイトに求婚登録をした者はいなかった。他方で、農村調査では結婚ブローカーに仲介を依頼し、多額の仲介料を支払うという事例が少なからず存在した。また、ブローカーが仲介する結婚には高額なダウリーの受け渡しがあるという特徴がインフォーマントから指摘された。

Q.ナーヤルにおいてダウリー問題が不可視化されていると説明していたが、本当にナーヤルのそれは「ダウリー」なのだろうか。報告者が「ダウリー」と説明することで、一般的な結婚時の財産移動を取り立てて「問題化」しているようにも感じられる。報告者自身はダウリーをどのように定義し、ナーヤルはダウリーをどのように捉えているのか。

A.多くの研究者やフェミニストの間で「ダウリー」の定義に一定の見解が得られておらず、同時に当事者の視点が見落とされてきた研究の動向に鑑み、報告者自身は予め「ダウリー」を定義することはせずに当事者の視点を重視する姿勢をとった。ナーヤルは「ダウリーの授受は行わない」と主張しており、ナーヤルの言葉では結婚時の財産移動は「ギフト」である。しかし、ナーヤルの求婚広告には「要求一切なし」という記述が見られる他、娘に対する「ギフト」の額の決定には新郎側家族も加担している。報告者自身がナーヤルの財産移動を「ダウリー」だと主張することはしないが、他の研究で指摘されるダウリーの特徴をナーヤルの「ギフト」は内包するということはいえるだろう。

Q.ナーヤルとムスリムというコミュニティ別の比較が主だったが、男性と女性の語り方の相違を抽出する必要もあるのではないか。

A.聞き取り調査で家庭訪問をした際、男性がいれば必ず男性が質問に応じ、女性に対して同様の質問をすると、「夫/父と同じ」という答えが返ってきた。家庭訪問をした際に女性固有の考えを聞き取ることは非常に難しかった。男性がいない場で女性に対して質問をした際の女性の反応は、概して「ダウリーには反対している。ダウリーは悪魔だ。」というものであり、男性も同様の返答をしている。このように、「ダウリー反対」という男女の共通項を抽出することはできたが、細かな差異を聞き取り、分析することは今後の課題としたい。

• 所感

本研究のそもそもの問題関心は、19世紀末に始まるナーヤルの社会改革運動とそれに連なる「近代化」にあった。「近代化」の所産ともいえる「新しい」ジェンダー規範の浸透やダウリーの慣習化を、ナーヤルの母系制解体と関連づけて論じることを研究の課題としていた。しかしながら、史料からダウリーの実態を読み取ることはできず、また、聞き取り調査においては「ダウリー」の授受を否定されるという「困難」が伴い、ナーヤルの「ダウリー」を母系制解体の歴史的変遷の中に位置づけて論じることができなかった。そのため、本研究は一農村の現地調査に基づく現状を報告し、若干の考察を加えるという狭義の「事例研究」の枠を脱し得ず、また、方法論も定まっていないという基本的な課題を残しており、研究会で議論されるには至らないものだったのではないかと感じている。

本研究会の共通論題は「『ケーララ・モデル』再考―ジェンダーの視角から」であった。ダウリーの慣習化の背後にあるジェンダーの力関係の変容を抽出することが「ケーララ・モデルをジェンダーの視角から批判する」ための要件だったと考えるが、報告後の議論の展開が「ケーララ・モデル」の再考に至らなかった点で、ダウリーの「ジェンダー分析」も不十分だったと反省している。また、小林報告は、「近代化」に際して「新しい家父長制」が構築される中でジェンダー規範が浸透したという従来の議論を基本的に踏襲していた一方で、町田報告では、「新しい家父長制」に抗う女性の行為主体性を読み取る努力がなされた。両者の論じ方の差異を明確化し、「ケーララ・モデル」の批判的研究動向に如何に位置づけられるか議論することも有用だっただろう。

以上のような課題を残す研究/研究会であったと省察しているが、課題を残したことが、今後の研究の可能性を示唆するものと前向きに捉え、研究に活かしていきたいと考えている。

大学院生時代には粟屋利江先生や杉本浄さんを始め、FINDASの先生方には大変お世話になり、大学を離れた後もこのような報告の機会をくださったことに心より感謝を申し上げます。

報告者2.町田陽子

タイトル:「インド、ケーララ州における社会変化と女性の生:女性の『ライフ・ヒストリー』調査を通して」

報告:

現代ケーララ社会における女性に対しては二つの大きく異なる評価がなされている。一つは他のインド地域の女性と比べて社会指標上で高い達成を成し遂げているという評価であり、もう一つは、現代ケーララ女性も他のインド女性同様、政治・経済・社会など様々な領域で制約を受け、多くのジェンダー問題に直面しているという評価である。

ケーララ州においてこうした「ジェンダー・パラドクス」が生じた背景として、家族制度の「家父長主義化」や「新しい家父長主義」の出現がその理由であるとの指摘がなされてきた。現代ケーララ社会の特徴を、「家父長主義化」や「新しい家父長主義」の出現として捉えた場合、現代ケーララ女性の「行為主体性」は、家父長主義的な家族・社会構造やジェンダー規範によって規定されるものとされる。しかし、そうした理解は現代ケーララ女性の「行為主体性」を十分に捉えるものであるといえるであろうか。

 本報告では、行為主体性を、単に「自律的な選択による行為」を行う主体性としてではなく、ギデンズの「構造化」の議論を援用し、「ルールや規範、機会や資源に依拠して行われ、なおかつそれらを再構成する行為」を行う主体性として捉える見方を示した。その上で、現代ケーララ社会に住む年齢層の異なる22人のムスリム女性のライフ・ヒストリーにおいて語られた「教育の選択」を考察した。

 本報告では、調査対象者を最終学歴別――未就学・初等教育レベル、前期・後期中等教育レベル、高等教育レベル――に分け、未就学や中退の理由、進学の動機や選択について検討した。未就学・初等教育レベルの未就学・中退の理由には、時代背景、経済的理由、本人や親の教育に対する無関心など多様な内容が見られた。前期・後期中等教育の中退・修了後の非進学の理由には、未就学・初等教育の中退には見られない二つの理由――結婚と修了試験の不合格――が見られた。中等教育レベルまでで教育を終えた者の「教育の選択」は、「ルールや規範、機会や資源に依拠した行為」として説明をすることができる。その一方で、その理由の多様性や複数性は、社会に共通して存在する「ルールや規範、機会や資源」がなかったことを明らかにした。

高等教育の進学者・修了者の教育経験の特徴は、両親もしくは片方の親が教育熱心であり、教育投資と激励がなされていた点にある。一方、これらの女性の大学や専攻の選択は自由に行われているわけではなかった。50~60代の女性の選択は、求められる「女性らしさ」に依拠しておこなわれたが、10~20代の女性の選択は、求められた「女性らしさ」ではなく、新しい資源や新しい機会に依拠しておこなわれた。高等教育進学・修了者の「教育の選択」もまた「ルールや規範、機会や資源に依拠した行為」として説明をすることができる。しかし、若い世代の行為は、単に既存の「ルールや規範、機会や資源」を再生産するだけでなく、新しい「ルールや規範、機会や資源」を再構築したといえる。

ご発表中の小林さん

ご発表中の町田さん



当日用いられた資料は後日ウェブ上よりダウンロード可能な形にいたします。現在準備中ですので、今しばらくお待ちください。

2011年5月21日 第3回FINDAS研究会(インド文学史科研共催)報告

掲載日 | 2011年05月25日

FINDAS外大拠点第三回研究会(インド文学史科研共済)の報告です。

日時:5月21日(土) 13:00~15:30
場所:本郷サテライト7階 会議室

1.石川まゆみ(東京外国語大・学部4年生)
タイトル:「フィジーにおけるヒンディー文学―現状報告―」

報告:

フィジーにおけるヒンディー文学の現状を、過去4回にわたって実施した現地調査にもとづいて報告した。

最初に、フィジーの地理、歴史、社会、言語、教育、習慣に関して予備知識として必須と思われる事項を概観した。そのうえで、主要都市における公的機関、各種学校、書店などの現状調査、作家や教師、一般市民、政府機関関係者へのインタビューにもとづき、主な作家、文学作品がどのような状況にあるかを、現地で入手した出版物等の文献資料や写真もまじえて紹介した。特殊な歴史的、文化的背景を持ち移民の子孫であるインド系フィジー人たちが抱える様々な現実と問題は彼らの実生活や精神に影響を及ぼし、それらが現地の文学作品に反映されている。しかし現在の彼らの生活のなかで、文学は身近にはなく、本の販売、供給状況は限られたものであり、また時代の移り変わりと共に教育の場では英語を使用することが増え、ヒンディー語を読み書きすることからも離れつつあることで、それが作家たちの執筆、出版活動にも影響を及ぼしている。ヒンディー語による文学の需要と供給、享受はごく限られた人々だけのものとなっている。国内に文学の次代を担う活動的な若手の作家もいないことから、フィジーにおけるヒンディー語文学は消滅の道を進んでいく危惧を抱かざるをえない。フィジーで生まれたがオーストラリアやニュージーランド等に移住し、英語で執筆活動をするインド系の人々もおり、フィジー国内だけではなく国外へ出たこのような作家たちの作品がどのようなものであるか、またどのような視点を向けているか、にも注目してみるべきだろう。さらにフィジー国内でのフィジー語による文学の状況も調査した上でフィジーにおけるヒンディー語文学を対比させ、研究をまとめるべきではないか、とのご意見、ご指導も頂いた。

2.坂田貞二(拓殖大学・名誉教授)
タイトル:「文学の媒体(写本、印刷技術、メディア)―問題提起―」

報告:

19世紀後半の北インドでは、文献を製作する方法が手書きから石版印刷および活字印刷へと移行しつつあった。この過程をトゥルスィーダースによる古代叙事詩『ラーマーヤナ』の翻案Rām-carit-mānas『ラーム・チャリト・マーナス(ラーマの行いの湖)』(1574年に着手)の例で辿ると、つぎのようになる(下記の3点は、いずれも坂田蔵)。

(1)  Rām-carit-mānas (『ラーム・チャリト・マーナス』)。1869 年完成の原文写本。縦27センチ×横20センチ、両面書き447葉(約890ページ)を綴じて本にしたもの。

(2)  Śrīrām-carit-mānas (『聖ラーム・チャリト・マーナス』)。カーシー(現在のワーラーナスィー) の出版社・書店から1869年に刊行された原文の石版刷り本。縦29センチ×横23センチ、全468ページで多数の絵が挿入されている。

(3)  Rāmāyaņa Tulsīdās kŗt sațīk(『トゥルスィーダース作のラーマーヤナ、註釈付き』)。ラクナウーのナワル・キショール社から1888年に刊行された活字印刷で、原文に註釈と現代語訳が添えられている。縦18センチ×横37センチの貝葉型で両面印刷。1,438ページが綴じてないため、貝葉写本の形を保っている。

これらが製作された時期は、1857年におきたインド大反乱が1859年に鎮定され、インドがイギリス帝国の直接支配下に置かれたことに伴い、法令や学校教科書を印刷する技術が急速に広まってきたときにあたる。

上掲(1)の手書き本(写本)と(2)の石版刷り本が同じ1869年に造られ、(3)の活字本がその19年後の1888年に出版されていることからわかるように、手書きからさまざまな印刷へと移行するなかで、技法が並行・並存していたことも窺える。宗教書や娯楽書のなかには、活字が定着した1900年に石版刷りで出版されたものもある。

なおCDやDVDが普及している今日、『ラーム・チャリト・マーナス』の電子版は売れ筋になっている。

2011年4月23日 第2回FINDAS研究会 「出産の医療化―インドと中国の農村地帯から」報告

掲載日 | 2011年04月30日

2011年度 第二回FINDAS研究会の報告です。

<出産の医療化―インドと中国の農村地帯から>

日時:4月23日(土) 13:00より
場所:本郷サテライト4階セミナールームにて

発表者1:松尾瑞穂(新潟国際情報大学 情報文化学部情報文化学科)

タイトル「母子保健がもたらすもの―西インド農村地域における微細な生政治」
インドにおける母子保健政策、人口政策と女性の関係、さらにマハーラーシュトラ農村における母子保健の現状が報告された。
報告者はまず、インドの人口政策の歴史的な概観を行った。
インド政府が国家政策として人口抑制に取り組んだのは、第一次5か年計画が開始された1952年以降である。1978年のアルマ・アタ宣言を契機に、国家は医療のリソースとしてプライマリーヘルスを重視するようになった。その過程で、近代的核家族は保険証によって価値づけられ、家族計画の重要性への認識がひろまっていった。
 産児制限自体は、植民地期から開始されていた。センサスは1871年に始まるが、社会の発展という観点から人口がリスク化されていくのは、統計学者のP.K. Wattalの著書(1916年出版)が大きな契機となったと考えられる。1931年には、Census CommissionerであるJ.H. Huttonが初めて公的に「人口問題」への憂慮を示した。しかし植民地政府からの介入策はなく、病院での家族計画に関する直接的なサービスも、ほぼ行われていない。
一方で、産児制限活動家が女性解放運動の一環として、家族計画の重要性を説く講演を行っていくのもこの時期である。そうした運動で中核となったのは、イギリス中流女性と現地のカウンターパートとして活躍するエリート社会改革運動家であった。また、都市のバラモン男性を中心とするインド人社会改革者たちは、社会衛生としての産児制限を主張していった。彼らは、新マルサス主義や優性学に影響を受けていたという。その際、リスク集団として「低カースト、貧困層、ムスリム、農民」が想定された。彼らは、これらの「質的不適合者」の人口過剰は、インド社会の発展を妨げる「公的リスク」の要因となりうると見なした。こうした思考は、アーリヤ・サマージのような組織や、ナショナリズムとも結びついていき、独立後のインド政府による人口政策へと継承されていった。
 これらの歴史的な流れを踏まえ、報告者は、マハーラーシュトラ州のプネー県M郡P村の現状を報告した。プネーは、バラモンによる支配を受けた歴史がある。2000年以降プネー市の拡大に伴い、振興工業地帯が近隣に建設され、雇用機会が増加していった。また、道路や交通網の整備を受け、教育・雇用のために日常的に周辺村落と都市との往来が可能になった。
 報告者の調査村では、従来、自宅出産を行う人々が大多数だったが、特に2008年以降、病院における出産が広く普及していった。その背景には、妊産婦ケアやHIV検査を通じた医師との日常的な接触の増加や、産婆(多くはマラーター)の高齢化といった事情がある。また、女性たちが病院に行く機会が増え、多産のリスクを認識するようになったことは、避妊手術の増加につながったと考えられる。そして、避妊手術を受ける人々は、子供の数の選択だけでなく、その性別も間接的に選択している。
避妊手術に至るには多様な背景があるが、多産(2人以上の子供を持つこと)は生活維持を脅かす「リスク」であるという考え方が共有されてきたことが大きな要因として指摘された。避妊手術を受けた人々は、性と生殖について「自分たちで決めた」と語るが、実際には夫や婚家、義両親、親族との関係性の中で決めざるを得ないという側面もある。
 インドにおける人口問題は、公的(国家的)リスクであると同時に、女性にとっては私的(家族的)リスクでもある。それ自体は異なる位相のリスクが、母子保健という文脈において奇妙に接合している。母子保健を通じて、肯定的性格であるはずのケアが、国家による管理と一体化している。村落において母子保健はこのような形で進んでいる。

発表者2:姚毅(東京大学外国人研究員)

タイトル「中国農村における病院分娩の推進と女性経験・主体―農村調査を通して」

発表者:姚毅(日本学術振興会外国人特別研究員)
発表タイトル:「中国農村における病院分娩の推進と女性経験・主体 ―農村調査を通して」

現在、中国の農村地域では出産の病院化・医療化が急速に進行している。本発表では、遼寧省(Q村)と湖南省(B村)の二つの村で行った聞き取り調査を基に、①農村地域における出産の病院化・医療化推進の過程、②出産の主体である女性がこの移行をどう受け止めているか、という二つの点から報告が行われた。
出産による母子死亡率の低下は、中国建国時から掲げられてきた国家目標の一つであった。そのため政府は50年代には接生員(公認産婆)、後には郷村衛生員や郷村医師(はだしの医者)といった、当時の農村における助産者の養成を行った。しかし80年代に起きた改革開放以降、政府が医療領域の制度化・規範化に着手したことから、それまでの農村合作医療体制が瓦解、国家主導の下に出産の病院化が積極的に推進されることとなった。報告者が調査を行ったQ村及びB村においても、1990年代から2000年にかけて自宅出産から病院出産への移行が完了したことが報告された。農村地域に出産の病院化が浸透した要因として、
① 行政により自宅出産の路が閉ざされた:妊産婦の産前産後の管理強化を目的に導入された周産期保険カード(母子手帳)は役所から直接指定の病院へ送付、予防接種は病院の医師のみ施術することが可能、戸籍登記に必要な出生医学証明書を発行出来るのは病院の医師のみ、といった行政制度が機能。
② 病院医師以外の助産者の不在:2001年には接生員、2004年には郷村医師の助産が政府によって禁止され、これを接生員や郷村医師が徹底的に守ったことから、出産の病院化に抵抗する存在がいなくなった。
③ 新型農村医療保険の導入:90年代に都市部と農村の格差縮小を目的として導入され、その費用のほとんどが国からの補助。病院出産の場合は出産給付や出産費用の免除をうけることができるというメリットがある。
の3点が挙げられ、死亡率の減少やリプロダクティブ・ヘルスの一環として病院出産が講じられている一方、人口管理、人口政策、医療改革、医療保険といった国策に絡めとられていることが指摘された。
では、Q村、B村という状況の異なる二つの村でこの移行がどのように推進されたのか。社会主義的新農村のモデルとされ比較的経済状況が良好なQ村では、上記の要因①に該当する「周産期保険カードが病院に送られてしまう」「戸籍登録に不可欠な出生証明書が必要性」や②に該当する「病院医師以外の助産者の不在」といった理由が聞かれ、行政からの干渉による部分が強いこと、それに対し、経済状況の貧薄したB村では③に該当する「新型医療保険による出産給付や出産の無償化」が機能していることが分かった。
出産の病院化が進むと、帝王切開の件数も急速に増加した。自ら進んで帝王切開を選択する都市部の女性と違い、村の女性は医師の勧めに応じて行うケースが多い。病院は「リスク軽減」や「利益追求」といった観点から、様々な理由をつけて帝王切開を奨め、それが帝王切開の急激な増加を引き起こしている。現在の病院出産は女性の立場に立った考えが欠如しており、「女性の身体の不在」が起きていることを看過してはいけない。

コメンテーター:松岡悦子(奈良女子大学)

以下、松岡氏によるコメントと発表者の応対、および全体討論の要約を掲載する。

(松岡コメント)

出産の医療化が近年急速に進んでいる背景として、専門職としての助産師が育成されていないことがあげられるのではないか。

松尾:インドには専門職の助産師がおらず、医師とダーイー(産婆)の中間にあたる職が存在しないことが大きな問題である。

姚毅:中国では専門職としての助産師が自立しておらず、すべて医師がおこなわなければならない。接生員(公認産婆)は国の費用で訓練を受けるが、専門医ではない。

・(松岡コメント)

インドや中国における出産と家族共同体との関連や、近代以前の家族共同体内部での出産が核家族における出産/病院における出産へと変容する過程の分析が必要ではないか。また、先進国の中で最も核家族化が早かったオランダの出産の変容プロセスとの比較を加えるとよりよくなるのではないか。

松尾:インドにおいて出産は核家族というより父系家族の関心事として共有されている(ただしカーストによって異なる)。

姚毅:中国では核家族化と少子化が同時進行している。

・(松岡コメント)

西欧においてはreproductive health とreproductive rightsがセットであるが、中国の「生殖健康」という単語はreproductive rightsの意味を包含しない。女性の主体性が覆い隠されているといえる。

姚毅:中国では一人っ子政策により、「rights(権利)」と表現することができない。近代化に対する抵抗感の欠如を指摘した。

・(松岡コメント)

産後母体のケアや、共同体に統合されるプロセスは、しばしば医療化されずに取り残される。儀礼がおこなわれる場合もあれば、その部分さえ商業化される場合もある。どの部分が医療化されるのか?

 松尾:インドには「産の穢れ」という概念が未だに存在しており、伝統的産婆ダーイーが胎盤など処理を行う仕事を引き受け、新たな形で病院医療に取り込まれている。産後のケアは母方の家族が深く関わる。

 姚毅:中国では産後2ヵ月間共同体の中にいるという習慣がある。

・(松岡コメント)

松尾報告の、公的リスクと私的リスクが調和するという言及について、たとえば死亡率が上がるという身体的リスクが医療の文脈に持ち込まれ、政治的暴力が覆い隠されるという懸念が生じる。「医療=恩恵」として理解され、批判ができない状態になるという点が医療の一つの特徴である。

松尾:インドでは出産のリスクは経済的、社会的リスクとしてとらえられる傾向があり、身体的リスクとは考えられていない。

姚毅:中国では病院医療は恩恵として受け止められている(ただし、北京や上海では状況は異なる)。

・(松岡コメント)

女性の身体が近代化される例の一つとして、コントロールされた形での出産を位置づけることができる。一方で、インド、中国はポストモダン的特徴で見たときに、近代とポストモダン的特徴が併存しているのではないか。中国ではポストモダン的な特徴は都会ではみられるのか?インド、中国はプレモダン、モダン、ポストモダン3つが同時に併存する。大きな枠組みで欧米との比較を行ったら面白い。

○全体討論の要約

とりわけ1949年以降の中国とインドを比較すると、政策の浸透度に大きな差がある。例えばインドにおいてもダーイーを訓練する試みは英領時代からあったが、今日に至るまで浸透していない。中国ではステータスの問題があまり機能しない事実とは対照的に、インドではカーストや経済的格差の問題を念頭に置かなければならない。

医療化が進む80年代から90年代、中国は改革開放時期である。個人の自由を許すことは国家の上からの統一に逆行するイメージがあるが、病院は自己採算している。保険証や母子手帳を統制していくか否かは不明である。

中国で女性が主体的に妊娠期や育児期に情報にアクセスし、選択することは可能なのかという質問に対して、姚毅氏は、選択するほどそもそも情報へのアクセスがないと回答した。一人っ子政策は評判が悪いため、避妊医療を受けるか否かを選択できる。一人っ子の証書を持つと、60歳になると手当を受けられる。

 インドでは、事情は生業形態によって異なるが、全体としては乳幼児死亡率が低いので、少ない子供に多額の投資をするという風潮である。

 これに対して中国では、一人っ子政策違反の罰金を払ってでも子供を産みたいと考える人が多い。背景には、教育で出世できること、出稼ぎが多いこと、老後への不安などがある。

  

       松尾瑞穂さん                姚毅さん

   

     松岡悦子さん             全体の様子

<資料>

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