2012年度 第1回FINDAS研究会(4月15日(日))の報告

掲載日 | 2012年06月13日

4月15日(日)に行われました、2012年度第1回FINDAS研究会の報告です。

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テーマ:ダリト・フェミニズムの現在―文学の視角から

発表者1:粟屋利江(東京外国語大学)
タイトル:「グローバル状況下のダリト運動概観:ダリト文学・フェミニズム研究動向を中心に」

要旨:

本報告では、ダリト文学・フェミニズム研究動向を中心に、グローバル状況下におけるダリト運動の概観を行った。

1990年代以降、ダリト運動に新たな展開が見られることが指摘された。第1は、運動・言説のグローバル化であり、2001年のダーバン会議におけるダリトの活動や、National Campaign on Dalit Human Rights, International Dalit Solidarity Networkなどの組織化が典型である。こうした中でダリトの権利主張は国際人権言説に結合される。第2にグローバル資本の展開に対応するように、2002年のボーパール会議では、アメリカのアファーマティブ・アクションをモデルとした(留保reservationではなく)Diversity(多様性)というコンセプト導入が提起された。第3は、ダリト・フェミニズムの登場である。3重に疎外された存在としてのダリト女性の主張は、既存のインド・フェミニズムならびに、ダリト運動に対する異議申し立てといえる。ダリト・フェミニズムはカースト秩序とジェンダーとの不可分の関係性について、さらなる考察を要求している。

次に、ダリト文学の登場の略史がサーヴェイされ、近年のダリト文学の英語翻訳出版ラッシュについて指摘された。ダリト文学をめぐる議論のなかで、ダリト文学とは何か?ダリト文学を書くのは誰なのか?ダリト文学固有の美学とは?といったテーマが論じられてきた。留意すべき点としては、「ダリト」という語は多様であること、ダリト文学の「ダリト」が女流作家の「女流」をめぐる議論と共通すること、すなわち、無徴のものがメインストリーム文学とみなされる前提のもとで「ダリト」、「女流」文学が想定されるという、ある種の権力構造が存在すること、さらに、ダリト文学における「主体」の在り様が、「個人」であるよりも「集団」であること、地域ごとの歴史状況・政治状況・社会状況に左右されて、ダリトの主張も変わってきていることなどが指摘された。

そのほか、グローバルな舞台におけるダリト運動や、ダリト・フェミニズムにおける女性の主張において、「暴力」の問題が前景化されていること、アカデミック、あるいは出版界からの反応からは、「ダリト・インテリ」の存在感が増し、彼ら/彼女たちの発言に真正性が付与されつつあることがみてとれること、ただし、ダリト文学の英語翻訳ラッシュは、グローバル市場におけるメディアのマーケティング戦略ともかかわっているという側面もあることなどにも注意が喚起された。

1990年代以降のダリト運動の中で、「カースト」を公けの場で論ずることを「後進的」とみなしてきた状況に対して異議が唱えられつつあるともいえ、ダリト文学、ダリト・フェミニズムの動向は、インド民主主義の動態と行方を考えるときに決して無視してはならない問題であると提起された。

報告後の討論では、言論における政治的対抗関係が1990年代以降に変化したこと、新自由主義の言説のなかではカーストについて語らない傾向が強くなったこと、そしてカーストについて明示的に語ることが対抗的言説としての意味を持つようになったことが確認された。また、ダリト文学が集団的な試みとして受容されるかどうかについての、地域的な違いについても今後の議論の課題として提示された。

発表者2:石田英明
タイトル:「ヒンディー・ダリト文学と女性」

要旨:

本報告では、1990年代以降のヒンディーのダリト文学作品における女性という存在の多様な描かれ方を、具体的な作品をもとに検証していった。

そもそもヒンディー語のダリト文学というものは、古くは20世紀初頭に雑誌等にも出ている。しかしこれはほとんど例外的なものであり、低カーストの人々が書いた作品というのは1970年頃からみられはじめ、1985年頃から雑誌に発表されるようになった。それでもこれらの作品が広く認知されていたとは言い難い。ヒンディーのダリト文学の存在が公の場に出てくるようになるのは1990年頃からである。

今回は、主としてRamanika Guputaの編集した作品集(1997)とKausalya Baisantriの自伝(1999)、そしてRajat Rani Minu編の作品(2001)を取り上げた。報告では各作品を丹念にみつめ検証していったので、ヒンディーのダリト文学作品を読んでいない人にとっても大まかなイメージをつかむことができるものとなった。

たとえば、Ramanika Guputaの編集した作品集(1997)Dusri Duniya Ka Yatharthに収められている、Ratankumar SambhariyaのShartという作品の内容は以下のようである。

地主の息子がBhangiの娘を犯し、結婚間近であったその娘は破談になってしまった。地主がBhangiに和解を申し入れると、Bhangiはその条件として地主側も一晩娘を差し出すよう言った。その後地主は息子を銃殺し、自らも心臓麻痺で死んでしまう。Bhangiは、その死んだ地主を踏みつけ、地主の息子の死体に唾を吐く。

このような女性に対する暴力的描写は他の多くの作品に見られる特徴である。

討論では、ダリト女性と中間層の女性の自伝にみられる特徴の違い、アカデミアで活動するダリト女性が英語と現地語を使い分けている点、ヒンディー語出版物におけるローカル色の大きさ、左翼文学との関係などが議論された。また、ダリト女性がどのような意図のもとに書くのか、その社会的意味とインパクトはどのようなものか、そしてそれを出版する出版社の意図はどのようなところにあるのか、といった論点が提出された。

下記、クリックされますと、ご報告資料がダウンロードできます。

粟屋先生 報告資料

石田先生 報告資料

当日の研究会風景

報告される粟屋利江氏

報告される石田英明氏