2010年11月13日 第3回FINDAS若手研究者セミナー「文学とメディア」報告

掲載日 | 2011年01月25日

第3回FINDAS若手研究者セミナーのご報告

FINDAS外大拠点では11月13日に東京外国語大学の博士課程で研究されている安永有希さんと村上明香さんを発表者に、本年度3回目の若手研究者セミナーを開催しました。以下、ご本人がおまとめになられた発表報告を掲載します。

期日:11月13日(土)13:00-17:00
テーマ:「文学とメディア」
場所:本郷サテライト7階会議室
コメント:石田英明(大東文化大学)/ 井坂理穂(東京大学)

●安永有希(東京外国語大学博士後期課程)
発表タイトル:「ヒンディー娯楽小説と印刷・出版」
報告まとめ:

 本報告では、北インドにおける商業出版の発展において、1880年代以降に急成長したヒンディー娯楽小説がどのような役割を果たしていたのかを検討した。
 ヒンディー娯楽小説には、主にデーヴキーナンダン・カトリー(Devakīnandana Khatrī, 1861.7.18-1913.8.1)やゴーパールラーム・ゲヘマリー(Gopālarāma Gahmarī, 1866-1946)、キショーリーラール・ゴースワーミー(Kisorīlāla Gosvāmī, 1865-1932)などのヒンディー作家らに代表される、ティラスミー・アイヤーリー(Tilasmī Aiyārī)小説、探偵(Jāsūsī)小説、そしてロマンスがある。なかでも「幻術使い」や「迷宮」が平易なヒンディー語で描かれているデーヴキーナンダン作品は、ヒンディー小説の分野で初めて一般読者の支持を得ることに成功しており、読者層の確立においても重要な役割を担っている。さらにこれらの娯楽小説は、職業作家・文芸雑誌・読書習慣の確立という役割も担っていると考えられる。
 一方、16世紀中頃にヨーロッパからインドへ渡った印刷技術が北インドに広まったのは1830年頃である。しかし、北インドにおける印刷・出版は当初、ペルシャ語やウルドゥー語を中心に行われており、ヒンディー語による印刷・出版が本格的に発展しはじめたのは1860年代以降であった。その背景として、まず1860年代にみられる出版ブーム(publishing boom)が挙げられる。そして、1870年代にはバーラテンドゥ・ハリシュチャンドラ(Bhāratendu Hariścandra, 1850-85)が精力的に活動し、他の作家へ大きな影響を与えた。さらに1880年代以降にヒンディー娯楽小説が多くの読者を生み出し、ヒンディー小説全体の作品数も大幅に増加した。このように、1860年代以降に見られるこの三つの段階を経て、ヒンディー語による商業出版は活性化されたといえる。

〈主要参考文献〉
Kṛsña Majīṭhiyā, 1978, Hindī ke Tilasmī va Jāsūsī Upanyāsa [Jayapura: Pañcaśīla Prakāśana].
Orsini, Francesca, 2009, Print and Pleasure, Popular Literature and Entertaining Fictions in Colonial North India [New Delhi: Permanent Black].
Pritchett, Frances W., 1985, Marvelous Encounters: Folk Romance in Urdu and Hindi .
Stark, Ulrike, 2007, An Empire of Books: the Naval Kishore Press and Diffusion of the Printed Word in Colonial India [New Delhi: Permanent Black].
Vimaleśa Ānanda, 1990, Hindī ke Kutūhalapradhāna Upanyāsa [Naī Dillī: Anurāga Prakāśana].

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●村上明香(東京外国語大学博士前期課程)
発表タイトル:「ヒンディー映画詩(Filmii Shaairii)―文学と大衆文化―」
報告まとめ:

 ウルドゥー演劇が映画に及ぼした影響と、ウルドゥー語詩人の映画界参入とその背景を追い、今後の映画ソングの歌詞研究の必要性について検討する。
 「ヒンディー映画」はウルドゥー演劇の流れを汲み、その影響を色濃く残している。特に19世紀中葉、ムンバイーやコールカーターを中心に興った「パールスィー劇団」の影響は大きい。パールスィー劇団は当時のリンガフランカであったウルドゥー語の演目を中心に上演するようになった。興業価値の有無を第一義としたこれらの劇団では、芸術性や台本の優劣よりも娯楽性の高さが重視された。当時の文学者の記述から、文学界のパールスィー劇団に対する評価の低さが伺える。20世紀に入り映画という新しいメディア媒体が登場すると、演劇に携わっていた人々が映画界へと移行していき、これまでの演劇伝統が映画界に色濃く反映されることになった。初期の映画に対する文学界の評価も低かった。
 映画界と文学界を結ぶ上で大きな役割を果たしたのが1942年に発足したインド共産党系演劇集団Indian People’s Theater Association(以下、IPTA)であった。IPTAは進歩主義作家運動と密接につながり、二組織一体となって進歩主義文化運動を展開した。IPTAが活動の一部として映画製作に着手し、より多くの進歩主義を支持する文学者や詩人が映画界に参入、脚本家や作詞家として活動するようになった。 詩人たちが映画のために作詞をするのは経済的理由からであるという見解が一般的であるが、彼らの残した手記を参照すると、特にその運動の性質から、進歩主義作家運動に与していた詩人たちは映画の民衆に与える影響力に注目しており、映画を通して社会の諸問題に対する民衆の覚醒を図ろうという目的を持っていたこと、また、映画の歌詞には音楽や表現法の縛りがあるため「純文学」のもつ芸術性の高みに届かないことを自覚したうえで、詩人としてより優れた歌詞を提供しようとする葛藤があったことなどが確認できる。
 近年、映画に関わった詩人の研究書では映画ソングの歌詞への言及が不可欠となっていること、歌詞の選集や英訳本の出版などから、映画ソングの歌詞のもつ文学性が重要になりつつあることが伺える。こうした流れは現在のグルザールやジャーヴェード・アフタルといった詩人たちにも受け継がれており、歌詞の文学的価値を改めて考察する必要があると考える。

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