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アフリカ

サントメ・プリンシペ民主共和国について

1. サントメ・プリンシペの歴史

アフリカの西・ギニア湾すなわち赤道直下に位置するサントメ・プリンシペは、高温多湿の気候で、2つの主要な島からなる。南にあるのがサントメ島で、北にあるのがプリンシペ島である。もちろんその他小さい島々も多く存在する。アフリカ

  サントメ・プリンシペは、1469年にポルトガル人が上陸するまで、島には誰も住んではいなかった。
ポルトガルの探検家Joao de Santaremは、アフリカ開拓の足掛かりとしてこの島が最適であると考え、この島への入植を決めた。1486年には、初めての入植者が足を踏み入れたが、それはポルトガルの牢屋に入れられていた罪人であった。以来、この島は罪人を収容しておくための島とされたのである。

16世紀に入り、ポルトガル王室によってサトウキビの栽培が開始された。同世紀末には、砂糖の生産が確立し、その労働者のほとんど全てがアフリカ大陸から連れてこられた奴隷であった。1530年に、最初の抵抗暴動が起こり、植民者らはより抵抗の少ないブラジルへと移動していったが、奴隷貿易を伴った砂糖生産は当時の経済の大きな支えであることに変わりはなかった。1537年には、ポルトガルによる完全な支配が開始される。しかし、流行病の影響により、この島の人口が減少するのと同時にサトウキビ栽培も衰退していった。
衰退の一途を辿っていたサントメ・プリンシピであるが、1800年、コーヒーの登場によって大きな変貌を遂げた。19世紀の終わりには、世界のコーヒー生産の11.5%がこの島で行われたほどであった。この頃カカオ生産も同時に開始された。
1960年には、サントメ・プリンシペ解放委員会が設立され、独立に向けての運動が本格化した。1974年、リスボンでのクーデターを受け、ポルトガル革命新政権は植民地からの撤退を決め、1975年7月にサントメ・プリンシペは独立を達成。サントメ・プリンシペ民主共和国が誕生した。初代大統領はサントメ・プリンシペ解放運動を指揮したManuel Pinto da Costaが就任した。
以下は、同国の国歌とその翻訳である

 
Independencia total
Glorioso canto do povo
Independencia total
Hino sagrado combate
Dinamismo
Na luta nacional
Juramento eterno
No pais soberano
De Sao Tome e Principe&
(以下省略)
完全なる独立
輝かしい人々の歌声
完全なる独立
聖なる賛歌は戦う
国民の戦いにあるダイナミズム

素晴らしい国家にある永遠の誓い

サントメ・プリンシペの

 

参考資料
Pagina oficial do Governo  http://www.gov.st/

 
2. サントメ・プリンシペの政治

サントメ・プリンシペ民主共和国は、その名のとおり、共和制ならびに半大統領制をとる立憲国家である。首相・大統領をはじめ、外務大臣や各州の知事などによる閣僚評議会は日本の内閣に相当するものである。主要政党には、現大統領の所属する変革民主運動勢力・自由党(MDFM)のほか、独立から1991年まで政権を握っていた左派のサントメ・プリンシペ解放運動・社会民主党(MLSTP-PSD)、独立民主行動(ADI)などがある。
1975年7月に植民地支配からの独立が現実のものとなって以来、サントメ・プリンシペ解放運動・社会民主党の一党制のもとこの国の政治は行われてきた。1990年、現行憲法が施行されると複数政党制が認められ、現在の共和制国家となったのである。

参考サイト
外務省;サントメプリンシペ共和国
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/area/stp/index.html
Comunidade dos Paises de Lingua Portuguesa
http://www.cplp.org/Pagina_Inicial.aspx?ID=115
Republica Democratica de Sao Tome e Principe
http://www.gov.st/data/filestorage/docs/sobrestp02.htmg

 
3.サントメ・プリンシペのスポーツ

サントメ・プリンシペは大変小さな国であり、人口も少ないため、優れたアスリートを多数輩出することは難しいという現実を抱えている。例えば、今日、世界中で人気のあるサッカーは、アフリカ全土で見ればそのレベルは確実に上がってきている。しかし、サントメ・プリンシペ代表に関していえばそのレベルというのは残念ながらとても低い。この国において、競争を伴うスポーツはほとんどないが、娯楽のためのスポーツは大変盛んである。

平均気温が21度〜27度と温暖なサントメ・プリンシペは、多様なスポーツに最適の場所である。その一つが登山である。また、美しい海を持つこの国ではマリンスポーツも盛んであり、その中でもダイビングが最も人気のスポーツとなっている。

参考サイト
Sao Tome e Principe paradise on earth? http://www.saotome.st/index.php
Zerozero.pt? http://www.zerozero.pt/home.php
Site Oficial da Direccao do Turismo e Hotelaria de Sao Tome e Principe? http://www.stptourism.st/index.htm

 
4.サントメ・プリンシペの音楽

大航海時代・植民地支配・奴隷貿易の背景から、サントメ・プリンシペの文化には様々な国の影響がみられる。音楽に関していえば、旧宗主国のポルトガルをはじめ、ブラジル、それから同じポルトガル領であったアンゴラ・モザンビーク・カーボヴェルデなどの影響がある。

http://www.sao-tome.st/ezimagecatalogue/catalogue/variations/639-500x700.jpg○Tchiloli:ヨーロッパ起源のこの音楽スタイルは、16世紀末ポルトガル人によってもたらされた。音楽というよりも演劇といった方が正確であろう。左の写真は、狩猟中に起こった殺人事件をめぐる裁判の物語で、登場人物も多様である。太鼓や笛を使いミステリアスな音が奏でられる。    
○Ussua:ヨーロッパの影響を強く受けたこの音楽は、太鼓とアコーディオンに合わせてサロン・ダンスが踊られる。アフリカ舞踊でありながら、ヨーロッパ貴族社会を思わせるとてもエレガントな音楽である。?
○Socope:16世紀にブラジルよりポルトガルにもたらされ、その後17世紀にここサントメ・プリンシペにもたらされた。この音楽は、すべての階級・人種ごとの集合体を統一させたという意味で重要な役割を果たした。
○Puita:アンゴラのSembaに大変似通っている。相違点は、Sembaが先祖を崇拝するのに対し、Puitaにはその要素が見られない。Puitaという名は竹の実からきている。そのダンスはとてもエロティックで、夜にかけて太鼓がさらにそれを輪をかける。サントメ・プリンシペで最もポピュラーな音楽である。

参考サイト
http://www.dancasafricanas.com/index2.php
http://www.turismo-stp.org/pages/pt/index.htm
http://www.sao-tome.st/article/archive/13/

 
5.サントメ・プリンシペの料理

サントメ・プリンシペは、基本的に自給自足の国である。
その恵まれた気候により、カカオ・ココナッツ・タロイモ・バナナ・キャッサバなどの栽培が行われ、余剰の輸出も行っている。


pounding fufu togolese cuisine is renowned throughout the region○Fufu:キャッサバをこねて作った主食。肉や魚の煮込み料理と共に食べる。

とうもろこしでできたパン○Pao de milho:トウモロコシでできたパン。
 
 
 
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