■総論
わたしにとって、「社会」とは、次のものが同心円状に広がったものを指します。
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自分が暮らす地域社会/コミュニティ(東京都調布市深大寺)
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自分が育った地域社会(関西北摂地域)
l 15年間通っているモザンビークの村々(モザンビーク北部農村)
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アフリカ・ゼミのコミュニティ(アフリカ・ゼミの卒業生・現役生)
l 職場のコミュニティ(東京外国語大学)
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研究のコミュニティ(東京外国語大学/アフリカ・平和・国際関係の諸学会・研究会)
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ヴィジョンを共有し、共に努力する仲間たちとのコミュニティ(NGOやボランティア活動など)
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日本社会
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国際社会
それぞれが、それぞれに重要であり、時間の割き方もその時々に違っているのですが、ここでは何をやってきたのかを紹介します。
■NGO・ボランティア活動
高校生の頃から国際交流活動にボランティアで関わり、1991年に国際ボランティア活動を普及する団体を立ち上げて以来、いくつかのNGOの立ち上げに関わってきました。
国連ボランティアとして関わったモザンビークの平和維持活動(PKO)から帰国してすぐ、1995年1月に阪神淡路大震災が発生したため、3日
目に神戸市に駆けつけ、中央区役所で震災ボランティアのコーディネイト(中央区震災ボランティア)を行いました。半年間区役所での寝泊りや活動を行って、
ボランティアの派遣、多言語かわら版の発行、「神戸わんぱく祭」の開催などに従事しました。最後には、「燃え尽き症候群」になってしまい、しばらくボラン
ティア活動から遠ざかっていました。
その後、2000年にモザンビークで大洪水が発生したため、「モザンビーク大洪水被害者支援ネットワーク」を立ち上げ、サバイバー(生存者)の中でも特にシングル・マザーの支援を行いました。その過程で、長年にわたり日本政府がモザンビークに贈っていた農薬が、使われないまま水浸しになり環境汚染を起こしているとの情報を知り、この問題を考えるためのNGO(「食糧増産援助を問うネットワーク(通称2KRネット)の立ち上げに関わりました。日本で使われなくなった農薬が最初はアジア諸国へ、アジア諸国での監視が厳しくなるとアフリカへ贈られ続けた事実を突き止め、援助による農薬供与は原則禁止を実現しました。また、モノの援助に偏重してきた農業支援から技術支援などを中心とする援助に転換するよう働きかけを行った結果、「食糧増産援助」は「貧困農民支援」と改称されました。
このようなアドボカシー(政策提言)活動を2000年から取り組んでいる中で、TICAD
III(第3回アフリカ開発会議)に市民社会の一員として参加して、非常に問題を感じました。大金を使った会議を開催しながら、アフリカの政府にも国際機関にも、市民社会にもメディアにも注目されない、実質的な意味を伴わない会議だったからです。同じ会議に参加したアフリカ市民社会から、「こんな会議を許す日本の市民社会が問題」との指摘に発奮し、2004年に「(特定活動法人)TICAD市民社会フォーラム(略称:TCSF)」を結成しました。
同フォーラムは、アフリカ市民社会の声を日本の政策に反映させることを目的として、様々な活動を日本・アフリカ・世界で展開するとともに、日本のアフリカ関係NGO・53団体によって構成される「TICAD IV・NGOネットワーク(略称:TNnet)」の事務局を務めました。結果、日本の対アフリカ援助の増額、TICADプロセスへの市民社会の参加などを実現し、5年の時限団体として設置されたこともあり、2009年3月に解散しました。
同フォーラムでは、以上のアドボカシー活動の他に、新聞・外交団・政府・JICA・日本陸連・アーティスト・企業家・国会議員・国連などとの多様な関係者とともに、日本の中でアフリカ理解をプロモートするためのキャンペーン「アフリカ2008キャンペーン」を展開し、「アフリカエッセイ・コンテスト」や「Run for Africa」などの事業を実施しました。
■国際協力
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