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モザンビーク

モザンビーク共和国

○基本情報 面積:80.2万ku(日本の約2倍
モザンビーク 人口:2,010万人
宗教:キリスト教・イスラム教・その他
首都:マプート
気候:熱帯性・亜熱帯性
時差:7時間
政治:多党制民主主義

モザンビーク は国の東側が青い海に面しているため、海の幸が豊富に採れる美しい国である。また、本土から少し離れたところには美しい島々が点在していて、最近ではレジャー施設の建設も盛んに行われモザンビークている。 なかでも、モザンビーク島は、1991年に世界文化遺産に登録され、その町並みはポルトガル様式のキリスト教建築物、アラブ様式やインド様式の建物が見事に調和していて、歴史の深さを垣間見ることができる人気の観光スポットとなっている。


○モザンビークの歴史と政治

現在、多党制民主主義体制をとるモザンビークの政治背景を、歴史を追ってみていこう。

○年表
10世紀ごろ
現在のモザンビークにバントゥー系の人びとが移住
1498年
ヴァスコ・ダ・ガマ 到着
ポルトガル人航海士ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回り、モザンビークに到着。当時、この地域に暮らしていたバントゥー系の人びとと交易のあったアラブ勢力を追い出し、東アフリカインド洋交易への介入開始。
1544年
ロレンソ・マルケス(現マプート)に貿易拠点設立
17C

北部(ザンベジ渓谷近辺)ポルトガル人や混血による支配体制確立
大農園経営等を経て支配をすすめ、事実上の独立国家に。この地域から、多くのアフリカ人が奴隷として当時のポルトガル植民地各地に送られる。

1884-85年
ベルリン会議 において列強諸国によるアフリカ分割が取り決められる。モザンビークはポルトガル領東アフリカとして正式にポルトガルの「所有物」に。(現在の領土の確定は、1891年。3C政策を掲げる英国との間での合意に基づく)
1933年
ポルトガル本国で制定された植民地法により、本格的な支配が開始し、綿花の強制栽培が導入される。
1962年
3つの解放勢力が集まり、タンザニア(当時はタンガニーカ)のダルエスサラームにFRELIMO(モザンビーク解放戦線)結成。 
1964年
対ポルトガル武力闘争開始
1975年
独立  FRELIMO書記長のサモラ・マシェルが初代大統領に就任しマルクス・レーニン主義を掲げた社会主義国家を目指す。この頃から 反政府武装集団モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)が武力闘争を開始。マシェル死後FRELIMOのシサノが大統領に就任、民主化を推し進める。
1990年
マルクス・レーニン主義と一党体制の放棄。憲法で多党制へ移行。
1992年
RENAMOとの間で和平協定締結  国連モザンビーク活動(ONUMOZ)の監視下で、武装解除、新国軍創設、総選挙が実施。
1994年

初の複数政党制民主選挙の実施。FRELIMOが250議席中134議席を得て第1党となり、シサノ大統領が新大統領に就任、RENAMOは最大野党となる。その後、1999年、2004年、2009年にも大統領ならびに国民議会選挙が行われ、FRELIMOが勝利し、政権を握り続ける。

現大統領は2004年に選出されたアルマンド・ゲブーザ大統領。

○モザンビークの文学

モザンビークの文学は歴史が浅いが、多くの著名な作家の活躍により、ポルトガル語圏の文学を語るには欠かせないものとなっている。特に詩・散文・戯曲の分野において、多くの優秀な作家を輩出している。例としてあげられるのは、植民地支配の末期に活躍した混血の詩人Noemia de SousaやJose Craveirinha。独立後に世界のポルトガル語文学をリードする、Mia Couto(文学)などである。
ただし、全般的には、モザンビーク文学は国民活動の中では低調で、その理由は次のようなものとなっている。
第一に、モザンビークの歴史において、モザンビーク人が学校に通いポルトガル語を学ぶ権利を与えられなかった時代が長かった。この時代には、モザンビーク文学はポルトガル人とその子孫によってのみ担われていた。
第二に、モザンビークでは民族言語を含め多くの言語が話されており、それらの言語は話し言葉であって書き言葉ではなかったため、口承伝統の歴史は古いものの、文学としては発達しなかった。


○モザンビークのスポーツ

水泳・テニス・ヨット・サーフィン・柔道・空手・ボクシング・サッカー・陸上・バスケ・ホッケー・エアロビクスが盛ん。
柔道や空手は、2000年に開設した日本大使館の館員たちが、手弁当で普及させた。
なお、ポルトガルの植民地支配下にあったモザンビークでは、数あるポピュラースポーツの中でもサッカーがとびぬけて人気の高いスポーツとなっている。
現在66歳になるEusebioは、国籍こそポルトガルであるものの、モザンビーク生まれモザンビーク育ちのポルトガル代表選手です。アフリカ出身の彼はその俊足から「黒ひょう」と呼ばれ、親しまれている。
ポルトガルで7度の得点王に輝き、1966年のワールドカップにおいてもその称号を得た彼は、日本の新聞紙でも取り上げられた。
「世界で最も優秀なサッカー選手」第3位にランクインしたほどのモザンビークが誇るべき偉大なアスリートの一人。
アフリカ人の活躍が目立つ陸上競技。
Maria Mutola de Lourdesは、世界陸上に5回出場し800m走で3度金メダルを獲得した。2000年のシドニーオリンピックではモザンビーク人として初のリンピック金メダルを手に入れた。
つらい紛争経験を経て得たこの結果は多くのモザンビークの子供たちに夢と希望を与えることとなった。
また、スポーツ協会を自ら設立し、モザンビークの新世代のアスリート育成・スポーツの発展に大きく貢献している。


○モザンビークの料理

モザンビークの料理は、長きにわたる植民地支配によるポルトガルの影響を強く受けている。
主な食材としては、主食として食べられる米・パン・スパゲッティ、そしてジャガイモ・とうもろこし・人参・トマト・玉ねぎといった野菜、それから実は日本への輸出の多いエビ、鶏肉などがある。これらを使用した料理は多種多様で、その味は日本人にもよく合うと言われている。
その調理法は至ってシンプルで、煮るか焼くか揚げるかの3パターンに限られている。

シーマ:米に代わる主食。
とうもろこしを粉上にし、水で練りあわせ蒸したもの。日本でいうご飯のようにおかずと共に食べられる。
モザンビーク人1人当たりの年間のとうもろこし消費量は60kgにも及び、モザンビーク人の重要なエネルギー源となっている。
ココナッツ:モザンビークの料理にはココナッツが多く利用される。
その代表的なものがカレー。 野菜から出る水分とココナッツミルクだけで煮込んだカレーはマイルドで非常においしいと評判。米もココナッツミルクで炊いている。

 
 
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