(機能的・構造的音韻理論の批判的検討に基づいた)ヨーロッパ・ポルトガル語強勢母音体系の音韻論的記述 牧野 真也
本論文は,現代ヨーロッパ・ポルトガル語のいわゆる標準語 língua-padrãoにおいて強勢音節の母音音素がどのような対立連関にあるかを,コンテクストごとに示すことを目的として書かれたものである.分析・記述の理論的準拠枠を設定する上で出発点としたのは,フランスの言語学者ANDRÉ MARTINET によって提示された二重分節理論を基盤とする共時音韻理論である.
しかしながら,学の成立について認識論的な前提で大きな見解のずれがあるために,第1章:一般的考察で,彼の定立した原理やそこから導かれる方法・手順を原理的な水準から批判的に検討することを通じて,自らのとる立場と用いるべき操作概念・方法を明示するという手順を踏むことにした.その概要は以下のとおりである.
第1節:現実主義
MARTINET の主張する現実主義・関与性の原理は広義の素朴実在論を背景に有しており,その基盤の上で展開される経験・演繹的研究法は原理的には仮説・演繹的研究法と何ら違いがない.彼の理論が拠って立つ認識論的基盤は,経験的には妥当されても,最終的には論証不能な仮説的命題の集合である.
第2節:機能主義
伝統的な形而上学的真理の概念が不可能である以上,MARTINET 理論の価値は,現実主義とその上に立った経験・演繹法による言語的現実の<正しい>認識にあるのではなく,むしろ,その機能主義的性格と理論を構成する諸命題の経験的妥当性の高さ・内的整合性とによって言語教育などに資する<実践性>を有することにある.
第3節:音素論(音素論が扱う領域の規定)
第4節:音素の継起性
一般に,記号表現を構成するにあたって音素は常に重なることなく順を追って出現する,と定義されるが,音素のこの性格は,言表の線状性だけではなく,<音素は,言連鎖の一点で,その同じ一点にに現れうる他のすべての音素を排除して選択される>という選択の概念をも前提としている.本論文でも,一つの理論的決断ではあるが経験的に妥当されるこの前提の上で操作を行う.
第5節:換入テスト
これは,理念的には,与えられた言表の表現面を構成する音声連続体を音素的線分へと分割してゆく操作であるが,実際的には,それに先立って言表の音声面にはすでに何らかの線分分割が施されている.換入操作に先立って行われる音声分析がそれであり,したがって,換入テストとは連続体を非連続化する方法ではなく,むしろ,それに先立ついわば直観的な線分分割を,弁別機能の観点から見て根拠のある線分分割へと再構成する手立てに他ならない.
第6節:音素的線分の抽出範囲とコンテクスト
音素の機能は単に意味の弁別を行うことだけではなく,記号素(最小の言語記号),および,記号表現をアマルガム化させた記号素群の同定を可能にすることでもあるとの観点から,明らかな記号素境界を含まない記号表現を音素抽出範囲とする.また,音素抽出範囲の決定とは,それにともなって,音素が対立する<コンテクスト>の同定を可能にする基盤を自動的に構成する操作でもある.
第7節:アクセントの経験的把握からアクセント位置の対立に弁別機能を仮設的に認めて音素線分の抽出を行うまで
ポルトガル語のような(制限つき)自由アクセント言語の分析にあたって,アクセント位置の違いに弁別機能を認めるならば,音素抽出に先立って,それぞれの音素抽出範囲のアクセント位置を特定しなければならない.なぜなら,アクセント位置との相対関係が音素対立のコンテクストを構成するからである.そしてこのアクセント位置の特定には音節への分割が必要となる.
第8節:音節概念の導入によるアクセント位置の定量的表示とその帰結
アクセント位置を特定するのに音節概念が必要となるのは,<科学的>研究を旨とする言語学の価値基準によって,定量的表示が望まれるからである.そして,音素抽出範囲が線状形をとる以上,音節を明示するには音節境界を明らかにすることが必要である.つまり,音節境界を特定することによって音節が抽出され,それを用いて定量的にアクセント位置が明示されるのであるから,音節境界は音素対立のコンテクストを構成することになる.ゆえに,これを無視した換入テストの結果は無効とならざるを得ない.
第9節:音節の主観的定義について
客観主義的な基準によって得られた理論的音節はどれも話者の主観的意識にその確かめを負う.なぜなら,学問的に構成された事実の明証性は日常的な経験世界にのみその根拠を置いているからである.したがって,本論文では<音声の発出においてその中断が可能な最小の線分>を<音節>と定義し,<中断が可能であるか否かはそれぞれの言語の母語話者の意識に委ねられる>ものとする.
第10節:音素的線分の同定
前節までの考察で得られた方法・手順を資料に適用することによって,音素抽出範囲を音素的線分へと分割することが可能となる.異なるコンテクストで抽出された音素的線分を同定するには次のような方法がとられる―ある音素的線分をそれだけで他の音素的線分から区別できる関与的音特性を抽出し,その関与的音特性がそれと対立する他の関与特性と取り結んでいる相互連関の総和(関与特徴)を抽出する.そして,同一の関与特徴が抽出された線分を同一音素の実現として認める.
第1章で行われた考察を基盤として,第2章:分析と記述では,コンテクストごとに音素論的分析の操作過程とその結果が示される.操作は複雑であり,とてもその詳細を記すことはできないので,結果のみを要約する.
1. 弁別可能性が最大のコンテクストは<語末の開音節><語中の開音節で,次の音節が[p] [b] [m] [f] [v] [t] [d] [n] [l] [r] [s] [z] [k] [g] [R]で始まる場合><閉音節(語中・語末を問わず)で,その音節が[sh〜zh] [r]で終わる場合>で,ここでは/i/ /e/ /è/ /ä/ /a/ /u/ /o/ /ò/の8音素が対立する(音声学的実現は[i] [e] [è] [ä] [a] [u] [o] [ò] :[ä]は[a]より狭い中舌母音).ただし対立/ä/〜/a/の機能効率はきわめて低い./i//u/と同じ開口度(口の開きぐあいの段階),/ä//a/と同じ後方度(舌の後ろ寄りぐあいの段階)によって特徴づけられる体系内の領域(音声的には[ë]:[ä]より狭い中舌母音)は通常<構造的なあきま>であるが,通常は無強勢の後接語(que[kë], se[së]など)が強勢を受ける場合に利用される.本論文では,このコンテクストの体系が有する構造を基本的構造とし,他のコンテクストの体系ではこの基本的構造に何らかの変容(対立の中和と原音素の成立など)が加えられていると解釈した.
2.<語中の閉音節で,その音節が[L](軟口蓋側面音の[l])で終わる場合>では,対立/ä/〜/a/が中和し,原音素/A/([a]:軟口蓋化した[a])が成立する.したがって,このコンテクストで対立するのは/i/ /e/ /è/ /A/ /u/ /o/ /ò/ ([i] [e] [è] [a] [u] [o] [ò])である.この位置では,後続の[L]の影響により,すべての母音音素が軟口蓋化されて実現する.
3.<語末の閉音節で,その音節が[L]で終わる場合>では,対立/ä/〜/a/の他に/e/〜/è/,/o/〜/ò/が中和し,原音素/A/ /E/ /O/ ([a] [è] [ò])が成立する.したがって,このコンテクストで対立するのは/i/ /E/ /A/ /u/ /O/ ([i] [è] [a] [u] [ò])である.この位置では,後続の[L]の影響により,すべての母音音素が軟口蓋化されて実現する.
4.<語中の開音節で,次の音節が硬口蓋子音[sh][zh][lh]で始まる場合>では,個人語によって体系内の構造が若干異なる.ある個人語では対立/e/〜/è/〜/ä/が保持されるの対して,別のある個人語では/e/〜/è/が中和して原音素/E/([è])が成立するがこの原音素と/ä/([ä(j)])の対立は保持される.また別の個人語では/e/〜/ä/と/è/〜/ä/の後方度における対立が中和して原音素/<e/ä>/と/<è/ä>/([e]と[è])が成立する.他方,体系内における/i/ /a/ /u/ /o/ /ò/ ([i] [a(j)] [u(j)] [o(j)] [ò(j)])の位置には構造的な変容はみられない.したがって,このコンテクストで対立するのは,個人語によって/i/ /e/ /è/ /ä/ /a/ /u/ /o/ /ò/, /i/ /E/ /ä/ /a/ /u/ /o/ /ò/, /i/ /<e/ä>/ /<è/ä>/ /a/ /u/ /o/ /ò/である.この位置では/i//e//è/以外の母音音素が[j]をともなって実現されることがある が(個人変異または自由変異),この非弁別的要素は,母音音素と後続する硬口蓋子音とのあいだに生じた調音重複地帯<わたり>と考えられる.
5.<語中の開音節で,次の音節が硬口蓋子音[nh]で始まる場合>でも,個人語によって体系内の構造が若干異なる.ある個人語では対立/e/〜/è/〜/ä/が中和して原音素/<E/ä>/([ä(j)])が成立するのに対し,別の個人語では/e/〜/è/が中和して原音素/E/([e])が成立するがこの原音素と/ä/([ä])との対立は保持される.さらに,どちらの型の個人語においても/o/〜/ò/が中和して原音素/O/([o(j)])が成立する.他方体系内における/i//a//u/の位置には構造的な変容がみられない.したがって,このコンテクストで対立するのは,個人語によって/i/ /<E/ä>/ /a/ /u/ /O/あるいは/i/ /E/ /ä/ /a/ /u/ /O/である.ここでも4.と同じく/i//E/を除く母音音素が[j]をともなって実現されることがある(個人変異または自由変異).
6.<無強勢母音[ë][ä][u]の直前に位置する開音節>では,対立/e/〜/è/〜/ä/と/o/〜/ò/が中和して原音素/<E/ä>/([ä(j)]) と/O/([o]) が成立する.したがって,このコンテクストで対立するのは/i/ /<E/ä>/ /a/ /u/ /O/ ([i] [äj] [aj] [u] [o])である./a/も/<E/ä>/と同じく[j]をともなって実現されるが,この[j]は弁別に非関与的な義務的付随要素である.
7.<絶対語末の[j]の直前,あるいは,直後に子音(ただし音節初頭の[sh][zh][lh][nh]を除く)が続く[j]の直前>では,対立/e/〜/è/〜/ä/が中和して原音素/<E/ä/([ä])が成立する.さらに体系内における/i/の位置が構造的なあきまとなっている.したがって,このコンテクストで対立するのは/<E/ä>//a//u//o//?/([ä] [a] [u] [o] [?])である.
8.<内破音[w]の直前>では,対立/ä/〜/a/が中和して原音素/A/([a])が成立する.さらに体系内における/u//o//ò/の位置が構造的なあきまとなっている.したがって,このコンテクストで対立するのは/i/ /e/ /è/ /A/ ([i] [e] [è] [a])である.この位置では後続の[w]の影響によりすべての母音音素が軟口蓋化されて実現される.
9.<無強勢母音[ë][ä][u]の直前に位置し,かつ[j]で終わる閉音節>で対立するのは/u/ /o/ /ò/([u] [o] [ò])だけであり,体系内における/i/ /e/ /è/ /ä/ /a/の位置は構造的なあきまとなっている.
10.ポルトガル語の伝統文法において<二重母音>と呼ばれてきた音連続のうち,[j][w]の後に何らかの口母音が続いて形成された<上昇二重母音>はすべて二母音音素の連続として解釈される.他方,何らかの口母音の後に[j] [w]が続いて形成された<下降二重母音>は,無強勢母音[ë][ä][u]の直前に位置する[äj] [aj] (/<E/ä>/ /a/,cf.6)を除くと,すべて,母音音素+子音音素/j/あるいは/w/の連続として解釈される(cf.7,8,9).
この学生は目下、川口の指導のもと博士論文の準備をしています。