博士論文要旨

カナダの公用語政策 :バイリンガル連邦公務員の言語選択を中心として

矢頭 典枝

本稿では、筆者がカナダ政府機関内で行った調査をもとに、カナダの公用語政策によって言語使用を規定されているバイリンガルな連邦公務員の言語選択とその要因を実証的に分析することを試みる。優勢(H)言語と劣勢(L)言語が言語政策によって同等の地位を得た場合、これら二つの言語が言語政策の受容者たちにどのように使用されるのか、という視点に立ち、カナダの事例を扱う。つまり、言語が「計画」されている状況における言語使用に着目する。
本稿は第Ⅰ部と第Ⅱ部に分けられている。カナダの公用語政策の政治的・社会的背景と政策の内容についてまとめた第Ⅰ部は、筆者が行った調査について分析した第Ⅱ部を理解するための基盤となる。
第Ⅰ部に入る前に、本研究がどのような視点に立つのか、という点を明確にし、本研究と関連がある先行研究について、第1章序論でまとめている。
第Ⅰ部の最初の章である第2章では、英語とフランス語がカナダでは同等の地位を得ているものの、英語が圧倒的に優勢であることを三つの観点----国際性、言語維持度、言語接触----から論証することを試みる。第3章では、言語状況に関しては世界一詳細に公表されているといわれるカナダの国勢調査の統計データをもとに、多言語国家カナダの言語状況を多面的に分析する。第4章では、カナダの公用語政策の形成過程を歴史的、法的に論じたうえで、現行制度の全体像を示す。そして第5章のなかで、第Ⅱ部の筆者の調査と直接関わる連邦公務員の仕事言語が公用語政策によってどのように「計画」されているのか、また、その「計画」通りに連邦公務員は実践しているのか、という点を筆者の体験を混じえて論じる。第Ⅰ部を締めくくる第6章では、公用語政策がカナダ国民にどのように影響しているか、また、ケベック問題を封じ込めるという公用語政策の本来の目的は達せられたのか、という点を中心に公用語政策とカナダ社会との関係について論じる。
第Ⅱ部のアンケート調査では、オタワ首都圏の10の連邦政府機関において、かなり高度なバイリンガル能力をもつ連邦公務員をランダム・サンプリングによって抽出し、職場の様々な状況(本稿では「サブドメイン(subdomain)」と呼んでいる)において、どのような言語選択がアングロフォン(英語を日常的に使う人々)とフランコフォン(フランス語を日常的に使う人々)によってなされるのか、という点を分析する。さらに、アングロフォンが多い省庁、フランコフォンが多い省庁、といった省庁内の言語集団の比率も考慮に入れた分析も行う。
本調査結果の分析には、バイリンガルなアングロフォンとバイリンガルなフランコフォンが会話する場面において起こりうる次の四つの言語選択の組み合わせを想定した。すなわち、双方が英語で会話する「英語への応化」、双方がフランス語で会話する「フランス語への応化」、アングロフォンが英語でフランコフォンがフランス語で会話する「受動バイリンガリズム」、「アングロフォンがフランス語でフランコフォンが英語で会話する「過剰応化」である。
調査結果は、まず第8章でアンケート回答者の言語選択の全体像を「総合値」という尺度で示し、これに続く第9章でアンケート調査項目の個別集計結果を示す。さらに、第10章で筆者の参与観察の結果をまとめる。最後に第11章で本調査を総括し、調査結果について考察を行う。
参与観察と面談調査の結果も含めて、本研究の調査結果を総括し、その要点を次に記す。
・アングロフォンが多い省庁ほど、職場における言語環境は全体的に英語の支配性が強い。フランコフォンが多い省庁では、英語とフランス語の両公用語が使用される傾向があり、極端に英語に偏った言語選択をする人は少ない。
・バイリンガルなフランコフォンはバイリンガルなアングロフォンに対し、英語に偏った言語選択をする人が多い。しかし、フランコフォンが多い省庁ほど、フランコフォンの英語偏重は弱まる。バイリンガルなアングロフォンはバイリンガルなフランコフォンに対し、フランス語を使う努力が見られる。フランコフォンが多い省庁では、アングロフォンはフランス語を使う傾向がある。
・アングロフォンとフランコフォンの双方によって最も英語が使用される傾向があるサブドメインは「アングロフォンの方が出席者が多い会議」である。
・「最もフォーマルな電子メール(所属する課以外も配信の対象として)」は最も英語とフランス語のバランスが取れた使用が見られるサブドメインである。
・バイリンガルなフランコフォンとバイリンガルなアングロフォンとの間の一対一のコミュニケーションにおいて、フランコフォンが英語を使用する傾向が強いのは、「(専門用語を含む)仕事上の話をするとき」と「バイリンガルなアングロフォンへのインフォーマルな電子メール」といった「効率」を要するサブドメインだと考えられる。他方で、アングロフォンがフランス語を選択する傾向があるのは「会話を始めるとき(相手がバイリンガルであることがわかっているとき)」と「仕事とは関係のない話をするとき」といった「効率」を要さないサブドメインであると考えられる。
・フランコフォンが多い省庁には、フランス語能力が高いアングロフォンが多い。彼らは、OL2能力が高くなければ仕事できないと考えられる「(専門用語を含む)仕事上の話をするとき」、「フランコフォンに対するインフォーマルな電子メール」、「所属する課の同僚達へのフォーマルな電子メール」といったサブドメインでもフランス語を比較的よく使う傾向がある。
・コードスイッチングはバイリンガル連邦公務員によく観察される言語現象であるといえる。OL2からOL1へのコードスイッチングの頻度はアングロフォンの方が高く、OL1からOL2へのコードスイッチングの頻度はフランコフォンの方が高い傾向がある。また、フランコフォンが多い省庁のフランコフォンは、英語とフランス語間の双方向のコードスイッチングを頻繁に行う傾向がある。
・「受動バイリンガリズム」は起こる頻度が低いが、フランコフォンが多い省庁で最も観察されやすい。
・「過剰応化」は起こる頻度が非常に低いが、フランコフォンが多い省庁のにおける幾つかのサブドメインにおいて時折観察されるといえる。
・受動バイリンガリズムを職場のコミュニケーションの手段として容認できると考える回答者は多いが、それを「奨励すべき」と考える回答者は特にフランコフォンに少ない。
・フランコフォンの10人に1人は「頻繁に」あるいは「通常」英語でフランコフォン同士で話すとみられる。
・管理職にある、あるいはそれを目指すアングロフォンの多くは、職場でフランス語を使う努力をしている、と見受けられる。
・フランコフォンのなかには、フランス語よりも英語の方を仕事言語としている人が少なからず存在することが観察される。
・フランコフォンが多い省庁では、インフォーマルな電子メール、あるいは、所属する課に配信するフォーマルな電子メールを、文中コードスイッチングや文間コードスイッチングで書く状況が観察される。
結論として、力関係が不均衡な二つの言語に平等な地位を与えても平等な言語状況は生まれないが、言語が「計画」されている環境においてはコミュニケーションの効率が良い方に向かう「言語的引力」に逆行する力(「言語政策による牽引」)が働き、二つの言語の均衡化が図られる、といえる。このため、優勢言語が依然として支配的ななかで、優勢言語集団が劣勢言語を話そうとする状況がみられる。これは、言語が「計画」されていない自然な言語環境では通常観察されない言語状況である。