アルザス地方の言語問題 概述  岡崎 陽介

 

 フランス北東部に位置するアルザス地方の言語問題は、非常に複雑である。それは、この地方が地理的にフランス、ドイツ、スイスの国境地帯に属することと、そのような地域で生まれてきた歴史の言語面での多様性に由来するだろう。

 アルザス地方には、大きく分けて3つの言語が存在する。1つ目は、いわゆるアルザス語である。これは中世のゲルマン民族の移動の際に、アルザス周辺に広く定住を始めたアレマン族の方言の一つである。2つ目はドイツ語であるが、これにはアルザス語のような話し言葉としてのドイツ語方言と、ドイツ語圏内全てに共通な書き言葉としてのいわゆる標準ドイツ語との2種類がある。そして3つ目のフランス語は、教育言語としてのいわゆる標準フランス語と、アルザス地方独特の発音および文法的特徴をもつ、口語形態としてのフランス語である。

 アルザス地方の言語状況の歴史的変遷については、時代順に@古代から中世、A1648年のフランス統治からフランス革命前夜まで、Bフランス革命後から普仏戦争終結まで、Cドイツ第2帝政下、第1次世界大戦終結まで、D第1次世界大戦後、Eナチス支配化、というようにまとめられる。

 @は、原住民のケルト人の土地であったアルザス地方が、ゲルマン族、ローマ軍のそれぞれの侵略後、再びゲルマン民族の一派に支配され、今日の言語状況の元が形成された時代であった。Aの時代には、三十年戦争によりアルザス地方がフランスの宗主権下になり、フランス語の公用語化政策が、行政と司法の面で限定的に行われた。Bの時代、フランス革命によって正当化された「単一不可分の国家」の名のもとに、革命政府によるアルザス地方の言語同化政策は遂行され、フランス語以外の言語、つまりアルザス方言や標準ドイツ語は排除の対象になった。だがそのような政策に反発する住民も多く、言語政策をめぐって様々な場面で衝突が起き、アルザス人自身も言語選択に直面し自己矛盾を抱えるようになっていた。Cのドイツ帝国の支配化では、アルザス地方に再び公用語としてのドイツ語が導入され、それに伴い数々の言語対立が生まれた。同時に、2言語使用の導入の是非がおもに教育面で議論の対象になり始めた。Dの時代、第1次世界大戦が終結し、アルザス地方は再度フランスへ復帰した。当然公用語としてのフランス語がドイツ語に代わり重視されるようになり、その結果としてのドイツ語およびアルザス方言の政策上の軽視がアルザス住民の反発を生み、言語政策をめぐる住民と政府側の対立は深まっていった。Eのナチス支配化では、アルザスにおけるフランス的なものがことごとく排除され、ドイツ的なものへと変換されていった。当然フランス語もその対象になった。

 現在にいたるまでのアルザス地方の言語状況としては、まず第2次世界大戦後の言語変遷を考える必要がある。ナチス支配からの解放後、アルザス地方は再びフランスへ帰還した。そしてフランス語が再度共通の言語として導入され、ドイツ語は一時的に排除された。やがて教育面でのドイツ語およびアルザス方言の導入が不可欠なものと認識され、両言語は復興していった。

 現在のアルザスでは、言語教育面におけるバイリンガル運動が特に顕著である。しかもいまや、フランス語、ドイツ語あるいはアルザス語だけではなく、英語やその他の外国語も取り入れた多言語教育が注目を浴びていて、その多様な言語ゆえに、表出する問題も複雑である。アルザスの多言語教育は、多言語の使用が地理的特性ゆえに利便性を多くもつだけでなく、アルザス自身の独自性を支えるものとなることから、非常に重要である。その方法論を確立するためには、これまで多くの議論が繰り返されてきたが、問題が全て解決しているわけではない。

 現在のアルザスは、圧倒的なフランス語社会であり、アルザス方言は衰退の一途をたどっている。にもかかわらずアルザスの人々には自分たちの財産である方言を守り続けようとするものも多く残っている。それとともに、フランス語やドイツ語をはじめ多くの言語がいかに上手く共存し、より豊かな言語状況をつくっていくか、というのは恐らく全てのアルザス人の願いであろう。