ベルギーの歴史と言語紛争について

倉嶋典子

 

0.はじめに

 ここでは、1830年のベルギー成立までの大まかな歴史的経緯と建国後から1993年の連邦化に至るまでの状況を概観する。

 

1.ベルギー独立まで

 ネーデルラント(低地地方。「低い土地」を意味する)地方がはじめて文献に現れるのは、ユリウス=カエサルの『ガリア戦記』においてであるが、もともとこの地方にはケルト系ベルガエ人が居住しており、さらにライン河の三角州にはゲルマン系の諸民族が居住していた。前56年、カエサル率いるローマ軍はベルガエ人を破り、この地方を属州ガリア=ベルギカと称した。

 三世紀以降、ゲルマン民族の一部族フランク人はライン河をこえて帝国領内に侵入し、ローマはケルン―ブーローニュの軍用道路の線まで撤退し、こうしてフランデレン・ワロンを分ける言語・民族境界線が生まれ、今日に至るまで大きな変更はないとされている。

 中世期のネーデルントでは、一連の領邦が形成され、その中でもフランデレン伯領が最も力を持っており、独立した領邦へと発展していった。中世末期には、低地地方の多くがブルゴーニュ公の支配下に入ったが、15世紀後半に、ハプスブルク家の手に渡った。

 16世紀後半、スペイン王フェリペ二世の集権化と新教弾圧に対して反乱が起き、ネーデルラント北部の七州は、1648年のミュンスターの講和をもってオランダ連邦共和国として独立したが、南部ネーデルラントはスペイン領として残った。1713年、スペイン継承戦争の結果、南部ネーデルラントはオーストリア領に帰属することとなったが、1789年のフランス革命の勃発に鼓舞されて、ブラーバント革命が起こった。その後1794年に、南部ネーデルラントは革命フランス軍によって占領され、フランスの統治下に入った。ナポレオン没落後の1815年、南部ネーデルラントはオランダに編入されたが、ウィレム一世の専制主義とオランダ優先主義に対し、1830年、パリの七月革命に鼓舞されてブリュッセルで暴動が起き、同年11月、ロンドン国際会議においてベルギー王国の独立が承認された。

 

2.独立以降の状況および言語紛争

 梶田(1987)では、A.Zolberg[1]の分類に基づいて、フランデレン運動を、その発生からおよそ1970年代まで四つの時期に分類し、さらにフランデレン運動に対する対抗運動としてのワロン運動の発生と経緯について述べているが、以下ではその概略を挙げるとともに、1970年代以降から1993年の連邦化までの道のりを簡単に見ていくことにする。

 

 2.1.背景

 1830年の独立運動の主な担い手は、フランス語系の上層ブルジョワジーであり、彼らはフランス国家に範をとった国民国家の形成を目指した。独立時の憲法では、「言語の自由」が歌われていたが、実際は圧倒的にフランス語が優位であった。

 独立当時、フランデレン地域は、経済的、社会的にみて貧しく後進的であった。その一方で、ワロン地域は、石炭と鉄鉱石を多く産出し、石炭業、製鉄業が栄えていた。

 

 2.2.フランデレン運動

第一期 (1830~40年代)。フランデレン文化の復興ないし形成がはかられ、文化面での平等

   が追求された時期。

   ―フランデレン語にかかわる言語要求は登場していない。

   ―運動の担い手は、カトリックの下級聖職者や知識人。(当時のナショナリズムと

    ロマン主義の影響)。

第二期 (1840年代~1900年代)。「二言語主義」(bilingualism)の実質化を通じて、言語面で

   の平等が追求された時期。

   ―1965年、無実のフランデレン人が、フランス語を理解しないため殺人罪で死刑に

    なる。(これによって、フランデレン運動は、文化運動から政治的・社会的性格を

    おびた運動へと移行。以後、公的な場面での二言語主義が追及され、実現してい

    く)。

   ―1873 地方法廷で、76~78 地方行政で、83 フランデレン地域における

    中等教育で、オランダ語の使用が許可される。

   ―1896年、法律上、フランス語とオランダ語は平等となり、勅令、法律条文は両言 

    語によって書かれることとなる。

第三期 (1900年代~40年代)。「地域言語」という考え方が新たに導入され、運動の目標も

   「二言語主義」から「複数の一言語主義」(plural monolingualism)へと転換がはか

   られ、地域間の平等が追求された時期。

   ―1932 行政・教育、35 裁判、38 軍隊に関して、一言語主義にもとづ

    く言語法が制定され、言語の地域化が促進される。フランデレン地域とワロン地

    域が一言語地域として定められ、ブリュッセル地域、言語境界線地域、および30%

        以上の言語的マイノリティをかかえる自治体においてのみ二言語主義が許される。

第四期 (1940年代~)。地域間の平等が追及され、言語地域問題がベルギーの政治構造、憲     

   法構造の変革にまで及んだ時期。

   ―戦後処理の問題(対独協力者の問題および国王問題)

   ―1956年、フランデレン人民同盟(VU)の結成。最初の言語政党。フランデレン

    運動の中心的主体となる。

   ―1961年、言語境界線の凍結

   ―1963年、新たな言語法の制定。1930年代に制定された三つの言語法に加えて、地

    域別の一言語主義が強化される。これによりベルギーは、オランダ語、フランス

    語、両言語、ドイツ語という四つの言語地域に分割される。

   ―ルーヴァン大学問題

   ―1968~70年の憲法改正によって、ベルギーは、三文化社会(オランダ、フラン

    ス、ドイツ)、四言語地域(オランダ語、フランス語、両言語、ドイツ語)、三地

    域社会(フランデレン、ワロン、ブリュッセル)という三つのカテゴリーに大別

    される。

 

 2.3.ワロン運動

 ワロン運動は、1960年代、すなわちフランデレン運動の第四期になってはじめて形成された。フランデレン地域が、人口増加とエネルギー革命によって経済的に繁栄し、フランデレン運動をさらに強めつつある一方で、ワロン地域では、人口が減少し、1950年代からはじまった石炭から石油へのエネルギー資源の転換によって経済的に衰退した。このような人口、経済的状況を背景にして、フランデレン運動に対する「対抗運動」としてのワロン運動が形成された。1960年代以降、労働者を中心として運動が活発化し、ワロン地域における言語政党としてのワロン連合(RW)が登場した。

 

 2.4.1970年代以降から1993年の連邦化まで

 1970年代以降は、1980年の憲法改正により、地域に議会と政府が設置されることが決定され、1988-89年の憲法改正で、ベルギーは実質的に連邦主義国家への途を踏み出し、1993年の憲法により連邦主義国家へと移行し今日に至る。

 

参考文献

森田安一(編) 1998,『スイス・ベネルクス史』山川出版社

梶田孝道1987「ベルギーにおける言語ニ地域紛争の展開―フランデレン・ワロニー・ブリュッセル―」津田塾大学『国際関係学研究』N0.14

Blamapain, D. ; Goosse, A. ; Klinkenberg, J.-M. ; Wilmet, M. (dir.) : 1997, Le Français en Belgique  Une langue, une communauté, Duculot Ministère le la Communauté française de Belgique (Service de la langue française)

 



[1] Zolberg, A. R., 1975, Trasformation of Linguistic Ideologies : The Belgian Case, Savard, J.-G. and Vigneault, R. eds., Les Etats multilingues/Multilingual Political Systems, Les Presses de l’Université Laval.(梶田, 1987より)