外国語教育学会 第8回大会
シンポジウム 早期外国語教育 −可能性と現状−

2004年10月24日 於 東京外国語大学

本ページの内容を引用される場合は 『外国語教育研究8』外国語教育学会編、 2005年、pp.92-123 という出典を明らかにしてください。© 2005 外国語教育学会 (JAFLE)。

司会:現在日本では、早期外国語教育の導入について、現在賛否両論あり、明確な結論は出されていません。そこで、このシンポジウムでは、まず数々の現場を見てきた伊藤嘉一先生に早期外国語教育の可能性と現状について語っていただき、それを受けて、アレン玉井光江先生、西澤弘行先生、富盛伸夫先生には、それぞれの専門領域よりこのテーマについて議論いただきたいと思います。

(司会 根岸 雅史 東京外国語大学)

基調講演

伊藤 嘉一

現在小学校での英語の実践率は88.3%です。親たち、そして子供たちの80〜90%以上が小学校で英語をやってほしいと望んでいます。しかしできないのは、「やらなくてもいい」というきまりがあるからです。日本では子供たちの英語を学習したいという権利の不平等が生じています。外国だったら親たちが教育委員会にクレームをつけるところでしょう。
現在、日本の小学校での課題は「評価をどうするか」ということです。総合的な学習の時間では評価を出さなくても良いことになっていますが、教育的な観点からは何を教えるにも評価は必要だと思います。そして、小学校では英会話を主体として文字は扱わないという原則がありますが、本当に文字は必要ないのかという疑問が生じます。文字がある方が会話も上達するのではないか、自然なのではないかという考え方があります。それから一番の問題点は、小学校でやったことを中学校にどうつなげるかということです。私が指導している文部科学省の実験校の1つである成田小学校での調査によると、小学校での英語学習が中学1年生の内容と80%重複していることがわかりました。そして中学2年生の内容とは50%重複しています。しかし重複は避けられないのです。中学や高校では文法中心に教育されていますが、小学校の場合は言語体験が中心だからです。しかし子供たちは受動態や仮定法の文でも全く抵抗なく学んでいます。小学校の基準は英語を使って体験させることです。例えばハロウィーンやクリスマスを楽しむために必要な表現を教えるのです。中学校とは発想が違うので必然的に重複が生じます。したがって、小・中の連携は不可欠であり、全国的にその動向が高まっています。
今まで小学校で英語が充実しなかった最大の理由は、校長が英語をやろうとしても教員が反対するとなかなか実現しないことになります。その逆の場合もあります。それに、同じ地域で英語をやる所とやらない所がでてきてしまいます。そのため、最近では自治体(教育委員会)中心になっています。教育委員会がカリキュラムを設定しています。荒川区もその一つです。そこでは特区申請をして、小学校で教科として英語を教えています。そして指導指針を作成しました。各学年の目標、扱うべき内容などが盛り込まれています。荒川区全体で一定のレベル以上の教育を行うことが目標となっています。そして、小学校の先生に英語教育などを指導する英語教育アドバイザーを採用しようと考え、各学校から1名を選びました。先生たちが発音に自信がないということで、音声教材(バーコードシステム)を作りました。もう一点は、研修を徹底的に行ったことです。夏休みを利用して数日間行い、教育実習など色々やりました。最近では先生たちが自信を持って教えられるようになり、子供たちの上達もすばらしいものになっています。
小学校で英語教育を行う目的は、3つ考えられます。1つは国際理解教育、国際感覚を養成することです。もう1つは国際コミュニケーション、英語を用いて世界の人々とコミュニケーションを行うことです。それからもう1つは本学会に関係あるのですが、将来学ぶかも知れない全ての外国語の基礎として英語を学ぶことです。もちろん、一般的には総合学習の時間に英語教育が行われていますので、人間教育という側面もあります。人間教育の側面とは国際理解教育を受けることによって複眼的視点が得られ、日本人や日本文化の改善が可能になるという考え方です。
現在英語教育特区が16くらいありますが、ほとんどが教科として英語を教えています。さらに66校以上が実験校となり、そのいくつかでは教科としての英語教育が実践されてきましたので、データはかなりそろっています。東京外国語大学の学長であった中嶋先生が中心となり、中教審の外国語専門部会で小学校の英語を教科にするか検討中です。読売新聞の調査によると、日本人の87%が小学校の英語を教科にしてほしいと希望しています。私も、教科にしないとどうしようもない時点に来ていると思います。なぜかというと、子供たちの英語学習権の不平等が生じているからです。やっていてもお遊び程度のものである所もあれば、成田小学校のように全学年毎日英語をやっている所もあり、格差が広がっています。このままでは不平等は解消できません。もう一点は、英語教育の目標も内容も方法もバラバラであるということです。それから、教科にならないと教員養成ができないということです。まだあります。小学校から中学校へのカリキュラムの接続ができないことです。さらに言えば、日本は経済的・政治的側面において世界に遅れをとることになります。既に中国や韓国では英語教育が非常に盛んに行われていて、成果もあげています。日本は物を作る創造性は高いのですが、外国語の面では水をあけられています。私の考えとしては、英語は高等学校卒業の時点で完成すべきです。大学では専門分野の英語、学生が必要とする外国語をいくつでも与える、そのように進んでいかないと日本人が高校を出た後、海外で活躍する場合に色々な面で遅れを取ってしまうと思います。小学校で教科として充実させることにより、今言ったことが可能になると思います。そして私自身の希望としては、高校では英語以外のもう一つの外国語を必修として導入してもらいたいのです。韓国の場合は中学・高校で英語以外の外国語をやっています。日本の場合、小中学校では原則として英語をやり、高校では英語以外にもう1つの外国語をやってほしいと思います。
小学校では英語を教科としてやっている特区や研究開発校がありますが、そこでの研究を基に教科として英語を早く導入して、同時に高校以降では色々な外国語の教育も充実させて欲しいと思います。これが本学会の願望でもあると思います。

(東京学芸大学名誉教授、外国語教育学会名誉会長)

司会: 伊藤先生、具体的な御提言をありがとうございました。それでは、次に、東京外国語大学COEプログラム「言語運用を基盤とする言語情報学拠点」において作成された英語教材の内容の紹介とそれを用いた指導実践報告を行ってもらいます。

事例報告 TUFS言語モジュール・英語教材会話(D)モジュール
「えいご for KIDS」附属指導者用資料TM作成:その内容と実践報告

鵜澤 菜摘子

はじめに
ここでは東京外国語大学21世紀COEプログラム「言語運用を基盤とする言語情報学拠点」において作成が進められている17言語モジュールのうちの1つ、英語教材会話(D)モジュール「えいごfor KIDS」及びそれに附属する指導者用資料(以下TM)の概略について紹介し、実際に英語会話(D)モジュールを使って授業をした様子の実践報告を行なった。

本教材の内容、そのダイアログと附属機能

英語モジュール教材は他16言語が大学等高等教育機関において使われることを念頭においているのに対し、初等英語教育と大人のフォールスビギナーのために作られている。17言語モジュールを同じ40機能で統一して作成することになっているため、ダイアログには全く初めて英語を習う子供には難しいものも含まれる。しかしながらこの点は4つのモジュール、すなわち音声を学ぶPモジュール、語彙のVモジュール、会話のDモジュール、そして文法のGモジュールが完成すれば、各々を必要に応じて選択的、かつ総合的に利用して学習することが可能になり、解消されるようになっている。
今回話題とするDモジュールはダイアログを独学で学べるようになっている。学習者は「教室用」と「学習者用」いずれかの学び方をウェブページ上で選択することが可能である。
教室用ページは、教室で教師が多数の生徒に授業をする際使えるようにレイアウトされている。1つのページ内でダイアログを見聞きし、英文や訳、語彙、文法を表示させることができ、練習問題も同ページ内で選択できる。大人数の学習者の前で操作するのも簡単なように作られている。これに対し学習者用ページを選択すると、リスニング、リピートだけでなく、ライティング、リーディングと、4技能を個人で学べるようになっている。
学習者用ページの最初のページではダイアログを見て聞くだけになっており、音声から入る授業ができるが、下に日本語訳を表示させることもできるようになっている。この日本語訳は直訳ではなく口語訳で、単語一語一語に捕らわれることなく、全体の意味を把握するのに役立つ。
ダイアログを一度目と耳に触れさせたら、次のページでリッスン&リピート活動に移る。途中で止めたり、何度も繰り返して聞いたりすることができ、発話できるようになるまで練習を続けることができる。
音声を入力した後は、文字を確認しながらの音の確認となる。文字導入に慣れていることの多い大人のフォールスビギナーには特に有効なページだと言えるだろう。
学習者用ページの最終ページはパート練習になっている。人物のアイコンを選択してクリックし、A,Bどちらかの台詞を担当し、ダイアログ内のもう片方の人物と会話ができるようになっている。英語を表示させて読むことも、日本語訳を表示させて、暗記した文を発話することも可能である。自らの発話の録音・再生機能も準備されている。
この段階的指導でダイアログを習得したら、各ダイアログのターゲット表現について、ページにリンクしている練習問題でチェックすることができる。練習問題は日本語の問題文、英語の選択肢全てを音声で聞くことができ、正解すればチャイムないしは賞賛の声が、間違えればブザーか励ましの声が聞こえるようになっている。ダイアログの会話に出てきた内容に関する問題の場合、ページ内のボタンをクリックすればその会話をもう一度聞くことができる。また練習問題にアクセスするたびに解答の選択肢の順番が変わるようにもなっており、飽きやすい子供たちに何度もトライしてもらえるよう工夫されている。選択肢には色彩豊かな画像が使われ視覚的にも学習者に訴えかけるようになっている。見るだけでも楽しく、何度も学習したくなる教材だ。

附属指導者用教材(TM)について

附属指導者用教材(TM)は、英語教育になじみのない小学校教員がこの教材を少しでも効果的に使える手助けとなるよう作成されたものである。TMは5つの内容から構成されている。TMの構成、内容、およびその理論的枠組みについて、詳しくは向井・鵜澤・加藤(本会報)を参照されたい。


実践からわかった問題点

本学では、大学院の学生主催で毎年、一般から生徒を募り、院生たちが教師を務めて言語を教えるサマースクールが行われている。その中の英語サマースクールにて本英語教材を使った講座を開講した。中学生を対象としていたが、集まった生徒の年齢は多様で、主婦の方から大学生、中学生、小学生までがTUFS言語モジュールを使った学習に参加した。
そこからわかったこの教材の長所は、言葉に頼らない問題やダイアログの説明のために、視覚的・聴覚的情報が非常に豊かなこと、文字導入が難しく、耳の良い子供たちに合わせて音声から入れる学習ができること、実践的コミュニケーション能力を身につけることにおいて重要な、言語の機能を重視していること、大人や英語に触れたことがある学習者にも対応できるよう、文字や文法等の解説にも詳しいこと、そして、多彩な活動案があることが挙げられる。
特に強調したいのは「すぐに使える」ということである。コンピューターが一台のところでも、スクリーンが無くても、この教材をベースに授業を作ることができる。そしてそれはTMの存在があるからに他ならない。訳や文法解説だけでなく、活動案やバリエーションまで揃え、ダイアログとweb上にあるリピート活動等を終えてからできる事柄が揃っている。授業、教材共にアイディアを求める小学校の先生方が今日の授業から使うことが可能である。
問題点については参加者から技術的な事項が多く寄せられた。教材等を評価している評価班作成のアンケートによれば、ページのレイアウトやアイコンにわかりにくさがあったことや、PCの操作に不慣れなため、英語能力があるにも関わらず教材をうまく使いこなせないとの回答があったことがわかった。
教師と評価者の観点からは、リピート等の自分の発話を聞きとる力に差があることが認められた。自分の発話とモデルの発話が違っていること、または、違っているのがどこなのかということが把握できず、不正確な発音、アクセント、イントネーションのままページを進めてしまう生徒が見られた。またそれは年齢が高くなるほどよく見られる現象であった。アクセントやイントネーションについては、Gモジュールで何らかのマークを付けて表現することが討議されている。
この他に、音声が速すぎて聞き取れず、延々と聞き続けている生徒も見受けられた。ここも改善の余地があるが、速度についても変化させられるよう意見が出されている。
TMの問題点としては、まずは年間シラバスの提案の必要が考えられる。この40ダイアログそのものの順番がシラバスになっていると言えるが、現在小学校で行われている授業は、時間数等に差があり、それらに対応できるよう、様々な例に応じたシラバスの提案が必要であろう。
次に、この教材を使った詳しい授業案の提案が挙げられる。クラス、個人で使う場合を含めて、50分間での授業案提案は、現場の大きな助けとなるだろう。
最後に、活動案の増強が挙げられる。現在の案は、小学校ないしは中学校程度を想定して作られているが、この教材は使い方次第で高校、大学等でも使用が可能である。多様な生徒に対応する活動案の作成が必要だろう。

おわりに

本教材並びに附属TMはインターネット上http://www.coelang.tufs.ac.jpで、無料公開されている。
全17言語を、気軽に自宅で、また、学校での言語ないしは国際理解の教材として、楽しみ活用して頂きたい。

(東京外国語大学大学院博士前期課程)

参考文献

<欧文>
Harmer, J. (1991)The Practice of Engsich Language Teaching. New York: Longman. [渡邉時夫・高梨庸雄(監訳) (2002). 『実践的英語教育の進め方―しょうがくせいから一般社会人の指導まで―21世紀の英語教育を考える』 ピアソン・エデュケーション]
Johnson, K. and Johnson, H. (eds) (1998). Encyclopedic Dictionary of Applied Linguistics: A Handobook for Language Teaching. Oxford: Blackwell. [岡秀夫ほか (訳) (1999). 『外国語教育学大辞典』 大修館書店]

<和文>
伊藤嘉一 (代表), 外国語教育学会 (編集・発行) (1998). 『外国語教育研究第1号』 暁教育研究所.
伊藤嘉一 (代表), 外国語教育学会 (編集・発行) (1999). 『外国語教育研究第2号』 暁教育研究所.
伊藤嘉一 (代表), 外国語教育学会 (編集・発行) (2000). 『外国語教育研究第3号』 暁教育研究所.
伊藤嘉一 (代表), 外国語教育学会 (編集・発行) (2001). 『外国語教育研究第4号』 暁教育研究所.
伊藤嘉一 (代表), 外国語教育学会 (編集・発行) (2002). 『外国語教育研究第5号』 三鈴印刷株式会社.
伊藤嘉一 (代表), 外国語教育学会 (編集・発行) (2003). 『外国語教育研究第6号』 三鈴印刷株式会社.
久埜百合(監修) (2002). 『教育シリーズ:これならできる!小学校英語ガイドブック―先生のためのNHK「えいごリアン」徹底活用術』 NHK出版.
小池生夫(編) (2003). 『応用言語学事典』 研究社.
SLA研究会(編), 小池生夫(監修) (2001). 『第二言語習得に基づく最新の英語教育』 大修館書店
米山朝ニ(2003). 『英語教育指導法事典』 研究社.

公立小学校での英語のリテラシー教育について

アレン玉井 光江

はじめに

公立小学校で初めて英語活動が導入されたのは平成4年度であり、大阪の二つの市立小学校と中学校で実験が始まった。それ以来徐々に研究指定校の数が増え、少なくとも各都道府県で1校は研究校に指定され研究が続けられた。その間文部省の指導とは別に都道府県、市町村レベルでも独自に研究が続けられ、概ね全ての研究において児童、教師、保護者ともに英語活動に肯定的であったと報告された。文部科学省は平成14年度より小学校から高校までの課程において「総合的な学習の時間」を新設し、小学校ではその時間を使い「国際理解教育」に取り組むことを決めた。目的は異なる文化をもつ人たちと積極的に関わろうとする態度を育成することにあるが、その枠内で英語活動を導入することが可能になり、公立小学校の教育課程の中に正式に英語活動が導入されのである。

公立小学校での英語活動の実態と展望

小学生に対する英語教育に関しては賛否両論、甲論乙駁である(大津&鳥飼、2002など)。現在はさらに議論が深まり、英語を小学校でも教科にするかどうかも討議されている。反対派は不十分なカリキュラム、また教員の資質(教員養成も含め)、他教科の時数への影響、中学校との連携などを理由に慎重にするべきだと述べる。また、元来「総合的な学習の時間」の「国際理解教育」における「外国語会話」と規定されているのにもかかわらず、英語の技術的な教育のみが行われている現状に警鐘をならす教育者もいる。しかし、賛成派は国際社会の一員として日本人が自らのアイデンティティーを保ちながら、異なる文化の人々とともに暮らしていくためには英語が欠かせないとと考える。アジア諸国でも小学校から英語教育に取り組む国が多くある中、英語を教科化すべきであると主張する。
 現場の対応は千差万別で、年間70回(週2回)ちかくの授業を行う学校からALTの訪問にあわせて年間12回程度行っている学校まで様々である。その実態を英語活動の年間平均実施時間数から見ると、1,2年生に対しては7時間、3〜5年生には11時間そして6年生には12時間となっている。また、授業の実施頻度をみると、週1回程度(年間35時間)行っている学校は1、2年生で全体の3%、3年生以上で10%、また週2回(年間70時間)以上となると1,2年生で全体の0.5%、3年以上で2%程度となっており、ほとんどの小学校では1学期に1〜3回程度の活動をするのに留まっている(文部科学省平成16年度5月調査)。
これからの小学校での英語活動を考える際、研究開発校での研究テーマからその方向性を探ることができる。国が指定するものに限らず、都道府県、市町村の単位で政治的な思惑も絡まり多く学校が研究の指定を受けて英語教育に取り組んでいる。金沢市または岐阜市の全市、広島市西條小、浜田市雲城小などは英語を「英語活動」という枠組みではなく「英語科」もしくは「表現科」などと呼び、教科化を見越しての研究に取り組んでいる。教科にちかい形で英語を導入するの場合、重要になってくるのは中学校との連携であり、西尾市寺津小、大阪天野小、などでは小学校と中学校の連携を研究テーマに、英語教育に取り組んでいる。幼稚園・保育園も含め、校種を超えた連携を模索しているところもある。6―3―3の学制を変更し、小学校で4年生までを学級担任が全教科を教え、5,6年生は教科担任制が行なわれている学校もすでに存在する。このような試みは英語導入のためではなく「学力低下」を阻止するために高学年には専門的な指導が必要であるという考えから始まっている(例:福島県石川小)。
また小学校英語教育の内容的な研究としては埼玉県春日部市粕壁小学校でのリテラシー教育と岐阜県笠原小のコンテントベースのカリキュラム作りが注目を集めている。前者は多くの学校でもすでに行なわれているように単語を導入する際、文字も一緒に提示し、自然に子ども達に文字言語を身につけさせようという、いわゆるwhole word methodもしくはlook Say Method (アメリカで視覚障害児のために開発された教授法)を使用したものである。またこの小学校では、研究テーマとしてはフォニックスの導入も考えられている。後者のcontent-based approachというのはいわゆる言語教育において「目標言語を教える」のではく「目標言語で教える」という考えかたである。このアプローチでは「言語はそれを使って何か他のこと(多くの場合は教科)を学ぶときに最も効率的に学習される」という言語教育観に従って教育がなされる。このアプローチは適応されている学習環境、プログラム、目的、学習者数などによって様々なモデルができあがるが、全てのモデルに共通するのは言語教育と教科教育の統合である。
以上のように小学校における英語教育の内容的な面については2つの大きな課題がある。しかし、ここではこれからの小学校の英語活動の中で必ず真剣に討論され、かつ研究されなければならない課題として、リテラシー問題に絞り考えてみたい。

初期段階における英語のリテラシー教育

文部科学省は公立小学校の英語活動において「読み」「書き」の指導を導入することに関し当初よりあまり積極的ではない。それは(1)中学校英語の前倒しになり英語の授業が楽しくなくなる、(2)小学校段階においては音声教育を中心に授業を行うべきである、(3)リテラシー指導をする学校とそうでない学校の差が著しくでてくる、などの理由によるものであろう。しかしながら現場では、子どもたちが自然に文字に対して興味を示すことを無視できず、英語活動を導入している学校のうち1,2年生で14%程度、3,4年生で20〜25%、5,6年生で31〜34%の学校がすでに「文字にふれる活動」を導入している。
確かに通常の言語獲得に関して考えれば、私たちは言語音の理解から始めるので、よく言われる「英語は耳から」という考え方はそれ自体間違いではない。しかしそれだけでは言語は十分に獲得されたとはいえない。子どもたちは、感覚を通して習得した言語を、個人差はあるが小学校高学年になると対象化して、理論的に学習することを望むようになる。研修会などに参加すると、現場からはこのように高学年になり知的好奇心の高まった児童たちの指導が大変困難であるとの報告が続く。残念なことに、小学校、またはいままでの中学校以降の英語教育においても、音声教育から文字教育への移行について十分に考慮されおらず、著者はそこが日本の英語教育の大きな欠陥であり、小学校で英語を導入するのであれば是非ともこの掛け橋を作らなければ意味がないと考える。

Phonological AwarenessとReading能力の関係

 英語圏においては幼児,児童のphonological awarenessとreading developmentには強い関係があると報告されている(Wagner &Torgesen, 1987参照)。日本人を対象とした研究においても同様にこれら二つの因子には強い相関関係があることが報告されている(天野, 1986)。移民の子ども達に対する英語教育が大きな課題となっているアメリカでは効果的なリーディング指導を探るため調査が行なわれた。その内容は音素認識指導がリーディングとスペリング学習に及ぼす影響を査定するものであり、大量のメタ分析がリーディングの国家委員会によって行なわれた。エフェクトサイズの分析により音素認識指導はリーディング、スペリングに対して適度、かつ統計的に有意なインパクトを与えていることがわかり、音素認識指導は、単語を読むだけでなく文脈の理解にも役立つことが報告された(Ehriその他,2001)。これからも読み・書きに入る前の音に対する教育の重要さが窺える。
Phonological Awarenessは、“one’s awareness of and access to the phonology of one’s language” (Wagner & Torgesen, 1987, p. 192)と定義されているが、筆者は日本人の幼児・児童がもつ英語のPhonological Awarenessについて平成14年、15年度の科学研究費で著者は幼稚園児、小学校1年生を対象に英語の音韻認識能力について研究した。その際、母語である日本語の音韻認識能力が英語のそれに影響を与えていると仮説をたてた。137名の被験者に英語の音に関するテストと日本語の音に関するテスト、さらに知能テストを受けてもらい、その結果をStructural Equation Modelingという統計方法で処理をし、言語転移をみる仮説の妥当性を検証した。ここでは詳しくその結果を報告する紙面はないが、その結果、英語の音が理解できる力の40%が日本語の音の理解力と知能で説明できることがわかった。残りの60%の力は英語を学習することで獲得しなければならないものかもしれない。それならば英語の音に対するどのような意識を高めるべきなのかを現在続けて研究している。

まとめ

学力低下問題が国民的な大きな関心事にもなり、中山文部科学大臣はついに「総合的な学習の見直し案」を出した。これからも英語の教科化については激しく論議されることであろう。公立の小学校で英語教育が行なわれるというのは今に始まった話ではなく古くは明治初期、一部の学校で実施されていた。1886年(明治19年)に高等小学校校制度が発足すると都市部を中心にその気運は広がった。しかし明治の終わりごろには中学の英語教師を中心に中途半端に英語を学習してきた者への再教育の難しさを嘆く声などが多く出され、結果小学校の英語科は1912年(明治45年)に廃止された。
日本は再びこの繰り返しを行うのであろうか。しかし西洋に追いつけ追い越せと国民総動員で動いていた明治の日本とは違い、世界市民としての生き方を真剣に求められる日本において、幼い人たちの「生きる力」として英語の役割はどのようなものなのだろうか。小学校における英語教育については、21世紀を生き抜く日本人として初等教育の段階でどのような力を身につけておくべきか、この原点に立ち、教育者のみならず国民全体で討議すべきだと考える。

(文京学院大学)

参考文献
天野清 1986 『子どものかな文字の習得過程』 秋山書店
Ehri, L. C., Nune, S. r., Willows, D. m., Schuster, B. V., Yaghoub-Zadeh, Z., & Shanahan, T. (2001). Phonemic awareness instruction helps children learn to read: Evidence from the National Reading Panel’s meta-analysis. Reading Research Quarterly, 36,3, 250-287.
大津由紀雄&鳥飼玖美子 2002 『小学校でなぜ英語?』岩波ブックレットNO.562
Wagner, R. K., & Torgesen, J. K. (1987). The nature of phonological processing and its causal role in the acquisition of reading skills. Psychological Bulletin, 101 (2), 192-212.

公立小学校での英語教育への疑義:
発達心理学と社会言語学の視点から

西澤 弘行

今回のシンポジウムのテーマは「早期外国語教育:可能性と展望」であった。広い意味での「早期外国語教育」であるなら、(所謂、諸外国語をはじめとして、例えば、琉球語や本土諸方言やアイヌ語や日本手話といった日本という地理的範囲内で話されている共通日本語以外の言語をも含めた)対象言語の選択、継承語、バイリンガル、少数言語の復興、教育=学習の目的と目標の選択・設定、学習の時期、学習者の諸条件、教育機関、教育の内容、教育の方法など様々なトピックが考えられる。しかし、基調講演からも明らかなように、今回は事実上「公立小学校での英語教育」に焦点が当てられていた。確かに公立について論じることは重要である。なぜなら、公立であればこそ、言語政策、教育政策、義務教育の目的などの本質的な問題を論じる必要が生ずるからである。

1. 社会文化的アプローチ

紙数の関係から詳細には触れないが、現在、公立小学校で既に行なわれている英語に関する教育は、時間的にも内容的にも非常に限定されたものである。また現在文部科学省などによって示されているものを見ても、将来、仮に「教科」となった場合でも基本的な状況は変わらないと考えられる。
 そのような状況での学習によって習得される知識は、言語としての体系・構造を持たない断片(fragments)となる可能性が高いと考える事は必ずしも外れてはいないだろう。そこで「断片的なことば」の学習に積極的な意義を認めようとしている(と筆者には考えられる)発達心理学のなかの一つの考え方である「社会文化的アプローチ」を紹介し、それに対する私見を述べる(以下の記述は、「社会文化的アプローチ」の良き紹介ともなっている田島(2003)に拠っているが、理論自体の解釈・説明、公立小学校での英語教育への適用とその場合の問題点の指摘の内容については著者に責があることは言うまでもない)。
 この考え方は主にソ連の心理学者L.S.Vygotsky、同じくソ連の文学理論家M.M.Bakhtin、現代のアメリカ合衆国の心理学・教育学・コミュニケーション学などの研究者J.V.Wertschの思想に基づくものである。

1.1. Vygotskyの内言
Vygotskyは、「発達の源泉」を「『文化』すなわち『社会?歴史的』に組織された『人間?対象の世界』」、「発達の原動力」を「子供自身が能動的に獲得していく活動」、そして「発達の条件」を、「大人と子供の共同行為過程を通しての社会?歴史的環境(=文化=源泉)と子供の獲得活動(=原動力)の媒介過程の存在」として位置づける。子供が媒介手段を学習することを「内化(internalization)」と呼ぶが、これには「習得(mastery)」と「専有(appro-priation)」2つの側面がある。「習得」は媒介手段を使うための「方法を知っている(knowing how)」こと、「専有」は他者に属していたものを取り入れ我がものとする過程であり、言語は専有に含まれる。認知能力の形成に果たす「言語」の役割については、言語は大人?子供間の相互行為の手段、社会的に学習されるもの、先行世代の認識を凝縮した文化の表現形であり、言語の学習は文化の獲得であるとされる。したがって認知発達と言語は不可分である。他者とのコミュニケーションの手段である言語は内化することで「内言」となり、「内言」は自己内対話の手段となり、さらに思考・行動の統制の手段となる。この理論のポイントは、1 人間の活動はその媒体を考慮することなしは理解できない 2 「道具に媒介された行為」は最小分析単位である 3 道具には技術的な道具と、言語や記号などの心理的道具があるが、認知機能の成立には後者による媒介が必須であり、したがって、認知機能は人間の活動が道具や言語・記号によって媒介されることによって成立する、ということにある。したがって、言語は人間の認知延いては発達そのものにとって必須であると言える。
 ここで重要なことは、Vygotsky(学派)の言う「言語」とは、抽象化されたシステムとしての言語(language)ではなく、人間のコミュニケーションに使われる記号システムとしての発話・談話(speech)であり、社会状況の中での活動の媒介手段だということである。

1.2. Bakhtinの「声」
Vygotsky学派の直接の系譜に属すものではないが、Bakhtinがその文学理論の中で示した「声」という概念も、早世したVygotskyの理論を補完するという意味で重要であると言われている(ここで、ソ連或いはマルクス主義に於ける文学・言語学・心理学の関係は西欧や日本に於けるそれとは異質なものであるという事は押さえておく必要があろう)。Bakhtinは、主体が実際に発する、媒介手段としての言語を「発話」と呼び、これが、言語を用いた相互作用の中で対象に与える/対象から与えられる影響を持つという意味で分析の基本的単位とする。そして、Vigotskyと同様に、発話を抽象化した文法的、形式的側面としての言語は分析の対象には不適であるとする。この「発話」を産出するものが「声」である。「声」とは、主体の意志・志向と、それを表現するアクセントや音色によって特徴付けられているものであり、相手(対象)や場面の声をも反映するものである。ことばはコミュニケーションの中で獲得されるものであり、発話は、他者の声を「借りる」(=腹話する)ことから始まり、自分の声になっていくとされる(腹話性)。自分の声となった他者の声は社会的な声であり、発話の任意性を制御する組織化原理である。したがって発話は内的な「対話」過程であり、これを「対話性原理」と呼ぶ。このような発話に潜む複数の声の間での腹話・対話によって個人の精神機能(認知機能)が形成される。そして、単一言語内や、単一のことばのタイプ内での発話どうしの内的なやりとりだけではなく、様々な腹話形態、とくに単一(おそらくソシュールのラングという意味の)「国語」内での複数の社会的なことばのタイプ(「社会的言語social language」、「ことばのジャンルspeech genre」)間のやりとりや単一文化内での異なる「国語」間の接触などが彼にとっての本当の問題(興味の対象)であったといわれる。

1.3. Wertschの社会文化的アプローチ
上述のVigotsky、Bakhtinの理論を核とした研究方法をWertschは「社会文化的アプローチ」と呼ぶ。その主張は「人間の精神機能を文化的・制度的・歴史的に真空の状態の中に存在しているように扱う心理学研究」への反論である。その中で彼は、Vigotskyが心理的道具として定式化した言語・記号の媒介的特性について、Bakhtinの理論ではその多様性に特徴があるとして、心理的道具=媒介手段である言語・記号を様々な品目を含む「道具箱」に喩える。文脈に応じて異なる道具が使われたり、同じ道具が異なる文脈では異なる使われ方をしたりするという意味である。また、特定の社会的言語(=媒介手段)がある特定の社会文化的文脈状況では他の社会的言語よりも効果的だと見なされることがあり、これを「特権化」ないし「脱文脈化」と呼ぶ。学校に於いては「制度化された科学」のことばのジャンルがこれにあたる。この「学校ことば」を子供は非常に早く獲得する。これは、子供が積極的に特定のことばのジャンルを通して複話するように自らを社会化していることを意味している。この社会化の過程はことばのジャンルを「取り替える」ことではなく、「付け加える」ことであり、また、「使い分けている」ことを示す。

1.4. 断片でも良い?
ここまで見て来た考え方を外国語教育に敷衍すれば、子供が外国語を学習することは、ことばのジャンルを付け加えることで道具箱の多様性を大きくし、腹話性、対話性を活性化することになる。これは子供の(社会文化的アプローチ的な意味での)発達にとってプラスになるということになる。
 注意すべきはここで言われている「言語・ことば」は、language/langueではなく、speech/paroleであると繰り返し述べられている事である。この事はまた、コミュニケーションに於ける情報伝達モデルとしての「導管メタファー」(言語が導管のように機能し、思考や感情を他者に運ぶという考え方=code(encoding/de-coding)モデル)の否定である。同時にこれは知能に関する(認知心理学の)「中央演算処理メタファー(=コンピュータメタファー)」の否定でもある。道具箱アナロジーに於ける知能は、文脈に状況づけられたスキルの集合体と考えられるからである。この「言語・ことば=speech/parole」という言語観こそが、子供が触れる外国語が断片であっても、それに積極的な意味を見出す事が出来るという主張の根拠である。否、むしろ「文法」の意識的な学習に基づかないという意味で抽象的な言語(=language)ではないという積極的な意味で「断片」であるからこそ意味があると考えられる。
 思考に対する言語の持つ力を重要視する点は、言語学における言語相対説(サピア=ウォーフ仮説から、最近では『「語」とはなにか』(宮岡伯人,2002)に至るまで)の考え方に一見一致するかに見える。また、社会言語学の一部やコーパス言語学などもspeechを重要視していると言えるだろう。
しかし、言語学では(上述の理論、領域も含めて)基本的にlanguageを問題にしてきたのではなかったろうか?languageに基づかないspeechという言語観の基での外国語教育は本当に可能なのだろうか?子供(人間)は外国語を、同一言語内の社会的言語やジャンルと同じように、languageに基づかずにspeech(声)として獲得する事が出来るのだろうか?
 Vygotsky-Bakhtin-Wertschの言語観と、いわゆる「自律言語学」の言語観の違いは根本的なものであり、ここで答えの出せる性質のものではない(前者の言語観についてのオリジナルの論考は、例えば、バフチン(2002)を参照のこと)。上でに述べたように、自律言語学的言語観の基でも、言語の社会性・他者志向性・相互行為性は重要な視点である。しかしながら、社会文化的アプローチの視点(「断片」としてのことばの有効性を認める立場)をとった場合でも、次のような疑問が筆者にはある。すなわち、社会文化的アプローチに於いて道具箱の多様性を大きくし、腹話性、対話性を活性化する前提となるのは、現にその社会の中に「その言語」(この場合は英語)が充分に存在することではないのか。この前提を満たして初めて、言語の社会性・他者志向性・相互行為性が問われるのではないかという事である。日本社会に於いて英語がそのようなものであるかは多いに疑問である。これに関連することは、次項以降に於いても論ずることとする。

2. 社会言語学などからの問い

筆者は公立小学校での英語教育には、現在様々な名称や形態ですでに行なわれているものに対しても、教科化に対しても反対である。以下にその理由を列挙する:

2.1. 教育効果
最も分かりやすいのは教育効果の問題である。これに関する議論の大半は、たんなる思い込みか、外国語環境での英語学習(EFL)と第2言語習得環境での英語学習学習(ESL)やバイリンガルの英語習得や母語習得との混同である(例えば白畑,2004)。教育効果について否定的な結果は白畑(2001)などがあるが、肯定的な研究結果を筆者は知らない。しかし、教育効果は実際には本質的な問題ではない。

2.2. 義務教育の目的
多くの場合に教育効果に焦点を当てて議論を展開している「技術論」的な外国語教育学よりもより広い視野、すなわち(社会文化的アプローチのみでなくより広義の)発達心理学、認知心理学、教育学、それらに基づいた教育政策というより広い視点に立った場合、そして「義務教育」としての小学校教育とは何かという理念に立ち返った時、公立小学校では、英語教育よりも優先すべきものがあるのが現状であると考えられる(1996年の中央教育審議会の答申に見られる教科化をしない理由:「学習負担量の増大」「教育内容の厳選・授業時数の縮減」「国語能力の育成が重要」「中学校以降の改善で対応」、2005年の同審議会初等中等教育分科会教育課程部会外国語専門部会(第6回)資料6の「小学校の英語教育に関する意識調査 結果の概要」に見られる「小学校で英語教育を必修とすべきでない理由」:小学校では他の教科の内容をしっかりと学んでほしいと思うから(保護者66.8%,教員68.2%)も参照)。

2.2.1. 何故「公立」か
とくに「公立」と断るのは、公立小学校の児童数が圧倒的に多く、社会に与える影響が圧倒的に大きく、また、英語教育に必要な(教師養成を始めとする)コストも当然大きいからである。私立なら何をやってもいいと言うわけではない。原則的には公立と同じである。ただ、私立は私立であるが故に自由度は大きいだろう。

2.3. 英語は「必要悪」であるという認識
日本のみならず世界にとって英語は「必要悪」(國広,2004)である。この認識には、社会、経済、歴史などの総合的な理解すなわち我々の住む世界の理解と、(それぞれの言語には価値の差は無いということや言語と認識の関係を始めとして、)言語というものに対する理解が必要である。しかし、この認識は小学校段階では極めて難しいと考えられる。そのような段階で英語を教えることは好ましくない。

2.4. 国際理解教育と英語教育
英語教育と国際理解教育を直接的に結び付ける議論が多く見受けられるが、仮に小学校で後者が必要だとしても(実際にはこれについても議論があるが)、少なくともその内容が日本ユネスコ国内委員会の『国際理解教育の手引き』(1982年)に見られるものであるならば、両者には直接的、必然的な関連はないし、両者を結び付けるべきではない。両者が結びついた場合の「国際理解」は如何に英語がアメリカ合衆国以外の地域で話されていようとも、現実には「アメリカ合衆国の理解」あるいは「アメリカ合衆国の価値観(=フィルター)を通した『国際理解』」へと容易に変わりうる。また、両者が結びついた場合の英語教育は、アメリカ合衆国的なコミュニケーションスタイルの習得を重視するようになり、これもまた「国際理解」=「アメリカ合衆国理解」という結果を生み出すことになる(例えば、上記外国語専門部会(第6回)資料8の「今後重視すべき外国語の力等」には「学校の英語教育では、発音や文法などの言語的なスキルはもとより、文化的なスキルを身につけさせることも重要である」とあるが、ここでいう文化とはどこの文化だろうか?)。世界の「マクドナル化」(リッツア,1999)であるグローバル化と、国際化=インターナショナル化は異なることを再確認する必要がある。
 さらに、2.3.で述べた英語が必要悪であるという認識及び、世界と言語の理解なしに、英語教育が国際理解教育と結び付けられた場合、「国際理解」=「アメリカ合衆国理解」となる蓋然性はより高くなる。

2.5. 「言語とは何か」を教えること
人間にとって「言語とは何か」という問いは非常に重要なものであり、言語の(必ずしも生成文法的な意味でなくとも)普遍性と、多様性を理解することは子供の発達にとって重要である。しかし、それは英語教育によって、しかも、現在小学校での英語教育で考えられているような日常会話中心の英語教育によって可能なものではなく、母語(多くの場合には日本語)を中心とした教育によってなされるべきものである。

2.6. EUとアジア諸国
EUの早期外国語教育やアジア諸地域の早期英語教育を引き合いに出して、日本に於ける公立小学校での英語教育を勧める意見が有るが、EUには二度の大戦を経ての平和を求めるための複言語・複文化主義という明確な目的が有り、また地域により程度や質の差は在るものの日本に比べれば日常に複数の言語が実際に存在する(とはいえ、それは多くの場合英語ではない)。アジア諸地域の場合、地域により目的も状況も様々だが日本とまったく同一の条件の国は見つけ難い。さらにEUにしろアジア諸地域にしろ多くの場合は早期言語教育は始まったばかりであり、結果はまだ分からない(アジア地域の一部についてのある調査では、アイデンティティや民族語の衰退などのデメリットが示唆されている(内閣府による調査:未公表))。

2.7. 反英語帝国主義:イデオロギーの問題
「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」(文部科学省,2003)には「(略)国民全体のレベルで、英語により日常的な会話や簡単な情報の交換ができるような基礎的・実践的なコミュニケーション能力を身に付けるようにすると同時に、職業や研究などの仕事上英語を必要とする者には、上記の基礎的な英語力を踏まえつつ、それぞれの分野に応じて必要な英語力を身に付けるようにし、日本人全体として、英検、TOEFL、TOEIC等客観的指標に基づいて世界平均水準の英語力を目指すことが重要」とある。
 同計画が具体的な目標として挙げているのは中学卒業段階では「挨拶や応対、身近な暮らしに関わる話題などについて平易なコミュニケーションができる」であり、高等学校卒業段階のそれは「日常的な話題について通常のコミュニケーションができる」である。しかし、現在及び予測可能な近い将来の日本に於いて、英語は日常生活に本当に必要な言語ではない(そしてそれは幸せな事である。序でに言えば地球上の80%の人々にとっても英語は日常的な言語ではない)。そのような場面の頻度は現実には決して高くない。時折のそのような場面で、英語で「日常的な話題について」コミュニケーションして得られるのは、精々「英語帝国人(後述)」としての誤った満足感や優越感である。また(義務教育である)中学卒業段階の目標設定自体が誤っている。この程度の事が出来て一体何の意味が有るのか。義務教育は職業訓練や実践的な教育の場ではない。さらに「行動計画」の「上記の基礎的な英語力を踏まえつつ、」以降の内容からは、「国民全体に求められる」というのが結局は一部の「英語使いエリート」を養成するための方便であることが分かる。これは欺瞞である。英語が日常生活の言語ではないのに国民全体の目標とすること自体が誤りであるが、にも拘らずそれを義務教育から教えるという教育政策は、「英語帝国主義」的イデオロギー及びそれに基づく言語政策の問題である(「行動計画」の「世界平均水準」という実態のない誤った概念もこのイデオロギーの一つの表れである)。ほんの少し前はこのイデオロギーは「英語第2公用語論」として現れており、この論と現在の公立小学校での英語教育の問題が結びついていることも明らかであろう。英語が必要悪であるという認識はこれに対抗するイデオロギーである。
 一つの考え方としては、学校教育では外国語を選択科目として、アラビア語、インドネシア語、英語、韓国・朝鮮語、スペイン語、スワヒリ語、中国語、ドイツ語、フィリピン語、フランス語、ポルトガル語、ロシア語、所謂日本手話などの、日本人にとって当面有用であると思われる言語の他、出来るだけ多くの言語を学べるようにする方が良い。この場合こそ「外国語教育学会」の本領が発揮されるではないか。
尚、何らかの形で日本にいる外国人に対する情報保証は、基本的には行政サービスの問題でありここでの話題とは別の問題である。それとて、(次で述べる言語権の問題とも関連するが)英語のみで事足りる訳ではないのは、例えば、阪神・淡路大震災の時の事を考えても明らかである。

2.8. 言語的人権:アイデンティティの問題
英語が他の教科と異なってこれほど問題になるのは、時には「強制」さえと感じられるのは、「言語」というものの特殊性、重要性の故であろう。ある言語を話す事はアイデンティティの問題と深い繋がりが有る。ある意味でこれは、ある言語が自分の「中に」在るという感覚である。この素朴な感覚は子供(人間)の発達にとって重要であり、人の存在の根源に関わるものである。ここでの問いは、心の一部となる言語が英語のみで良いのか、である。人がどの言語を話すかの選択は個人の基本的人権(言語的人権・言語権)である。逆に言えばある言語を話さないことも個人の権利である。理念的には、話したくなければ英語など話さなくてよいし、話さないことによって不利益を受けてはならない。にも拘らず私たちが英語を学ぶのは、教育政策によるあからさまな全体主義的押し付けの結果か、若しくは経済的・社会的・文化的な利益不利益を提示する事などを用いての、言語イデオロギーによる方向づけの結果である。
 また、英語の押し付けが、「日本国内」の、琉球語や本土諸方言やアイヌ語といった共通日本語以外の「先住的」言語や、所謂日本手話や、様々な「継承語」などに与える影響(言語権の侵害)も充分に考慮すべき問題である。

結語

公立小学校での英語教育の問題は、外国語教育学会に於いても、単なる教育効果の視点を超えてより広い視点から考えられるべきである。現在の、そして、文部科学省などにより進められようとしている英語教育によって、小学校・中学校・高等学校・大学それぞれの教育が、則ち、児童・生徒・学生が失うもの、現に失っているものは何かを考えてみる必要がある。それは、小学校では、英語よりも優先されるべき、他の教科でしっかりと教えられるべきものであり、「グローバル化」の無批判な受け入れではない真の意味での国際理解であり、言語への深い理解=人間の深い理解であり、多言語・多文化社会(或いは、複言語・複文化社会)への理解と実現等々である。

(常磐大学)

 (小稿の思想は大津由紀雄(大津,personal communication;2004;他)の影響を受けているが、直接の引用はしていない。また、2.以降の項目それぞれの詳細に関しては多くの既存の文献に於いて筆者の意見に近いものを見る事が出来るが、全体の構成と、とくに言語権の問題に関しては筆者のオリジナルのものである。言うまでもなく、文責は総て筆者に有る。尚、脱稿間近に出版された『英語を学べばバカになる:グローバル思考という妄想』(薬師院仁志,2005,光文社新書)の内容も筆者の主張に近いものなので参考として挙げておきたい。)

参考文献
大津由紀雄(2004)「公立小学校での英語教育:必要性なし、益なし、害あり、よって廃すべし」『小学校での英語教育は必要か』(大津由紀雄編著)慶応義塾大学出版会
國弘正雄(2004)「只管朗読と「必要悪」としての英語」『小学校での英語教育は必要か』(大津由紀雄編著)慶応義塾大学出版会
ジョージ・リッツア(1999)『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部
白畑知彦(2001)「追跡:研究開発学校で英語に接した児童のその後の英語能力」『英語教育』10月増刊号,大修館書店
白畑知彦(編著)・若林茂則/須田孝司(著)(2004)『英語習得の「常識」「非常識」:第二言語習得研究からの検証』大修館書店
田島信元(2003)『共同行為としての学習・発達:社会文化的アプローチの視点』金子書房
ミハイル・バフチン(2002)「西欧における最新言語学思潮」『バフチン言論論入門』(桑野隆・小林潔編訳)せりか書房
宮岡伯人(2002)『「語」とはなにか:エスキモー語から日本語を見る』三省堂

文部科学省関連の資料は同省HPより。

EU諸国における早期外国語教育
- EUとスイスの事例から -

富盛 伸夫
0. 言語教育、特に早期外国語教育の問題は、関連領域である発達心理学や対照言語学的な研究が基盤にあり、そこからの知見がまず全体の枠組みを構成すると思われるが、言語学の分野からは、この問題に対して言語研究がどのような貢献ができるのかを問い直さねばならないであろう。とりわけ言語研究者が強く関心を抱くのは言語習得における「臨界期」の問題であり、言語能力の発達に関する研究のみならず、近年では言語政策上の観点からも、注目されている。ここでは後者の点について、EUおよびEUには属していないものの多言語教育のモデルとなりえるスイスの事例を考慮に入れつつ、早期外国語教育について所見をまとめたい。 1. 筆者の研究分野であるスイスの多言語状況はヨーロッパ統合で焦点のひとつとなってきた言語コミュニケーションの理念と効率性という相反する問題の格好なケーススタディーであろう。スイスには連邦憲法に明記された四つの公用語があるが、それらのおかれている状況は全くと言っていいほど一様ではない。1990年の国勢調査によれば、公用語である、ドイツ語(63.6%)、フランス語(19.2%)、イタリア語(7.6%)、そしてロマンシュ語(0.6%)となっており、スイス東南部アルプス山岳地帯であるグラウビュンデン州で話されているロマンシュ語は言語人口39,632人という少数言語である。(ロマンシュ語連盟 Lia rumantscha のサイトを参照)  1938年以来の憲法ではこれまで国語の一つにすぎなかったロマンシュ語は、1996年国民投票で公用語のステイタスが与えられた。その1%にも満たない少数者の言葉を、グラウビュンデン州政府はもちろん連邦政府は、この言語の復興と保存を助成する方針を画定するとともに、ネイティブの人々がその言語で議会など公の場で意思表明をする場合、それを尊重することを保証したのである。つまり、少数者のロマンシュ語話者がロマンシュ語を用いる権利を与え公的なコミュニケーションにロマンシュ語を加えたのであるから、文書の翻訳や同時・逐次の通訳などが必要になるわけであり、その多大なコストまで覚悟する、ということになる。ロマンシュ語の内部に共存する5つの方言を人為的に統一した共通書き言葉 Rumantsch grischun を開発し、同時に翻訳・通訳者の養成も緊急の課題となったのである。  スイスでは多言語・多文化の共生こそがスイスという複合国家の国是であるという認識から財政的犠牲を覚悟でこの決定をしたのであるが、コミュニケーションのパラドックスを含めつつ二律背反した影響は否めない。ヨーロッパの小国スイスにみられるこのような事例は、ほとんどそのままEUの直面している言語政策および言語教育の縮図として参考になることは強調しておきたい。 2. 次に、「拡大EU」といわれるようにEUの当初の理念を揺るがすような大規模で、根元的な多言語・多文化的複合体に変容しつつある現在、この変化が言語教育にどのように関わるのかをみてみよう。  「ヨーロッパ」という概念は、歴史上様々な意味を込めて使われてきた(樺山、1993)が、EUにおける統合的文化的アイデンティティーと多様性の認識は、国家のレベルでも地域のレベルでも、言語・文化的独立性が強いことが特徴である。なかでも言語は、文化的同一集団に属するもっとも根本的な要素であり、EU統合の政策のうちで最優先すべき事項であるとされている。「言語の多様性はヨーロッパの文化遺産である。すべての言語が平等である。母語およびEU の言語教育の推進は、政治的・経済的な成功をもたらし、多様な言語の人々との交流、異文化理解を促進し、偏見・レイシズムを根絶するのに役立つ」というテーゼは当然、政策として「複数言語能力の育成」と「多文化理解」への方向性を持つこととなった。 3. ここで、EU統合の理念である多言語・多元文化共存主義の必要とするコストを概観してみよう。2004年5月までEU加盟国は15ヶ国で公用語は11言語であった。これらの言語を公的な場所ですべて使うとすると、通訳は11言語x10組み合わせで110方向が必要となり、行政面のみであるが、年間概算で翻訳は120万枚がこなされなくてはならない。これは8億ユーロの規模であり、EU予算の17%に相当する。つまり約1000億円超の翻訳市場の創出ともなる。  さらに、2004年5月以降の拡大により主に中央ヨーロッパの国々、 すなわちキプロス、スロバキア、スロベニア、チェコ、ハンガリー、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、そしてポーランドとマルタが加わり、加盟国は25ヶ国、使用言語が20言語となると、必要な通訳の方向は、20言語x19言語で380方向、翻訳枚数の概算はほとんど不可能といってよい。予算規模は3.7倍となり、EU総予算の50%を超えてしまうという「理論値」となる。さらに、スペインのバスク語やアイルランドのゲール語のような地域語が言語権を主張し、地域語による意思表明を希望する趨勢にある現在、このような理念と現実の離反から、国際的なコミュニケーション・ツールとしての英語が再度注目されていることは否定できない。(ブリュッセルにあるEU委員会内の通訳総局では、コスト削減のための通訳方式の改革を進めつつあるがここでは割愛する) 4. このような絶望的な試算をふまえつつ、EUの未来にとって切実かつ重要なことは、会議参加者の言語能力の確保・開発とともに、加盟国各国の内部での複数言語教育の効率的な実施である。1999年にボローニヤで開催された会議では、EUを含む33カ国で高等教育分野 (Genuine European Domain of Education) における言語教育政策を2010年までに立てるという採択がなされた。(その後2006年に前倒しされた)  EUの共通な枠内で、一般の人々を対象とした外国語教育をどのように方向づけるか、の問題については様々な矛盾的様相がある。まず、多くの場合個人は多重の言語生活を送っている。モノリンガルといわれる人であっても、方言やパトワ(patois)はもちろん、地域共通語、教育標準語、メディアでの共通語、習得した外国語を日常的に使用することは稀なことではない。国家はそのための内向けの方策を用意している一方で、新語の導入制限など英語に対する慎重な態度をとる例も少なくない。言語教育のシラバスやカリキュラム・デザインに関して欧州共通のフレームワーク(枠組み)を作ること、これはEU規模で目標達成に明確な線を引いて示すための「欧州共通フレームワーク」“Common European Framework of Reference for Languages”(CEF)という試みであるが、はたしてこれがハンガリー語やフィンランド語といった言語類型の異なる言語においても同じように共通の枠組みを示すことができるのか、そして一定のレベルまで義務教育で終えるという到達目標が設定されているが、実際はどうなのか等に興味がある。  2001年は「ヨーロッパ言語年」(“The European Year of Languages 2001”)とうたわれ、次のような目標が定められた。  (1) EU諸国の言語の多様性の豊かさを認識すること
 (2) 言語運用能力を発揮することの利点を最大限に活用すること  (3) 生涯にわたる言語学習を奨励すること  (4) 語学教育および学習に関する情報を収集・普及させること  (5) 特に、早期外国語教育の導入を強調し、従来の教授法から脱皮した新しいコミュニカティブ・アプローチの教授法を導入すること
 また、欧州議会で提唱された、スキル別の達成度を記録し学習者に対して目標を明確にさせるための言語パスポートや履歴の保存のためのバイオグラフィを作って持たせるというアイデア「ヨーロッパ・ランゲージ・ポートフォリオ(ELP)」の策定は、生涯教育の中に言語教育を位置づけという重要な意味がある。言語教育では、学習者に自分の言語能力を自覚させ、到達度を知らせるのが絶対必要であることは改めていうまでもない。これは大学を含め、日本の教育制度でも参考になると思われる。
5. ここでEU主要加盟国の早期外国語教育の実際を検討することにしよう。EUでは、総合的な教育計画「ソクラテス」(socrates)のなかで、理念にもとづく目標の設定、方法・政策の策定、実践の支援・予算化、評価、改善を示している。言語教育は、初等・ 中等教育計画である「コメニウス」(Comenius)と平行して、特に外国語教育計画「リンガ」(Lingua)や14?18歳の青少年相互交流計画である「ジョイント教育プログラム」(JEP)などにおける位置づけがなされている。  このようなEUレベルでの施策の影響下にあって、EU加盟国の小学校における外国語教育は現在、著しく拡充傾向にある。若干の例を挙げると、複数言語国家であるルクセンブルクでは、100%がドイツ語を第一外国語として学び、第二外国語は82%がフランス語を選択する。これら二つの言語に重点をおき英語を特に早期に学習しないのは、地理的な要因もあるのであろう。早期外国語教育の観点から他の事例をみると、児童に何らかの外国語(lケ国語)が必修となる年齢は、フィンランドは7歳、スペイン・ドイツは8歳、イタリア・ギリシャ・オーストリアは9歳、ベルギー・スウェーデンは10歳である。英語の選択については、なかでもスペイン、ポルトガルの英語教育率の高いことが特記される。多くの国で中等学校では60%以上が英語を第一、第二、第三外国語として教育しており、目標も高く設定されている。(平尾節子、2002)  イギリスは外国語教育政策に非常に大きな問題を抱えており、1998年のNuffield Inquiry 調査では、外国語教育は壊滅的であるとまとめられているほどである。これは現在の日本の状況に近いことを思うと、対岸のこととはいえない。同報告書の提言では、教育ターゲットのスキルとしては、数理解析能力、英語運用能力、情報操作能力に外国語能力を加えるべきだとされ、それが実行に移されようとしている。(国際交流基金のサイト http://www.jpf.go.jp/j/ japan_j/publish/euro/pdf/02-8.pdfを参照)

6. さて、スイス、とくにグラウビュンデン州を例に挙げて早期外国語教育の特色をみると、州の言語としても17%にすぎないロマンシュ語によるイマージョン教育がすべての子供になされている、ということである。保母には州都クールの研修センターでロマンシュ語を習熟させており、ロマンシュ語が(部分的にしても)話される地域、58町村80カ所の幼稚園でロマンシュ語が教育されている。小学校では(日本式にいうと)3年生まで教育媒介言語としてロマンシュ語で全ての教科を教える。しかし4年生からはドイツ語で授業が行われ、この移行が多くの小学生に問題を生じさせている。逆にロマンシュ語は週2時間になり、言語科目としての位置づけが与えられる。中学校からはロマンシュ語がコミュニケーション・ツールとしてではなく、伝統文化教育の一環としてのみとりあげられ、他方で英語の授業がが増えていく。言語政策としては外来の言語による借用を増やすよりロマンシュ語の語彙や表現を充実させるべく努力を怠らないが、ラジオやテレビなどは主にドイツ語やイタリア語によって構成され、週に数回のロマンシュ語による番組しか存在しない現在、ロマンシュ語の言語教育に重点をおくより、外に向けたコミュニケーション言語を習得させるメリットを重視していることが顕著にあらわれている。
7. 以上のヨーロッパにおける外国語教育の実際と比較すると、日本では、特に早期外国語教育においては、理念そのものが定まらず、場当たり的な「ニーズ」に揺れているというのが一番の問題といえる。言語教育は異文化の発見であり、文化の多様性の認識から地球的規模の多元的文化への理解へと向かうはずである。これは、決して、早期英語教育という商業主義とイコールではない。拡大EUではさらに多言語主義を尊重することから多文化共存を基盤とせねば、もはや成り立たないところまで来ている。母語の他に2言語を教えるプログラムは、日本でも絶対必要な政策であると思われる。外国語として英語だけをとりあげてしまうのでは逆に国際理解教育から外れていくのではないだろうか。日本語+2言語に向けた教育カリキュラムの模索・試行がなされなければならない。さらには、上述の言語パスポート、言語バイオグラフィーなどを参考に、教育全体における早期外国語教育の再定義が現在の課題であろう。そのためにも、関連分野の研究者との交流を深め、多言語を前提とした言語教育の意見交換が積極的に行われ、新たなる教育法の開発がなされるべきではないだろうか。
[参照資料]
Commission of the European Communities, European Year of Languages 2001. Commission of the European Communities, Higher Education in the European Community, 1999. Council of Europe, Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment. Cambridge University Press. 2001. Council of Europe, LINGUA Programme, 2000. Council of Europe, LINGUA Activity Report, 1999. Council of Europe, Modern Languages: Learning, Teaching, Assessment, 1999. European Commission, SOCRATES: Guidelines for the year 2000. European Commission, The New EU Education and Youth Programmes, 2000. European Commission, LINGUA Action A, B, C, D 1998. F.U.E.N. (The Federal Union of European Nationalities) . http://culture2.coe.int/portfolio/documents-intro/common-framework.html http://culture2.coe.int/portfolio/documents/ http://europa.eu.int/activities http://europa.eu.int/institutions http://www.coe.int/T/E/CulturalCooperation http://www.fuen.org/pages/english/e_2002.html http://www.jpf.go.jp/j/japan_j/publish/euro/pdf/02-8.pdf http://www.liarumantscha.ch/en/index.html Little, D. & R. Perclova, European Language Portfolio: Guide for Teachers and Teacher Trainers. Council of Europe, Strasbourg., 2001.

文化庁(2003)『EU拡大 と言語政策に関する調査研究報告書』.
Hidasi, Judit (2004) How to Maintain Identity within the Integration Process in EU? 「EU統合化にみる多言語政策」神田外語大学『異文化コミュニケーション研究』第 16 号
平尾節子(2002)「 EU(ヨーロッパ連合)における言語政策の研究」愛知大学『言語と文化』第8号
樺山紘一・長尾龍一 編(1993) 「ヨーロッパのアイデンティティ」 新世社

(東京外国語大学、外国語教育学会会長)

自由討論

司会:多言語の教育ということですが、一つはメジャーな言語を、もう一つはマイノリティの言語を選択するようにとの提案がEUではされていました。ドイツの場合、英語とフランス語ではなく、英語の他に非常に小さな言語を選ばなければいけないという感じです。さて、政策的な面の話と言語習得や発達に関わる話に分かれるかと思いますが、どなたかそのようなお話はありますでしょうか。先程臨界期の質問がありましたが、それについてお願い致します。

西澤:臨界期という概念が現在ほとんど使われていないことは説明の必要もないかと思います。動物に関するもので、人間には当てはまらないといわれています。それでも敏感期というものはあるのではないかと思います。音声については非常に早い時期に習得されますが、それを過ぎるとどうなるかははっきりしていません。文法に関しても相反する報告がされています。問題は、敏感期とは大脳の問題なのかということです。ヨーロッパ人とそうでない人を対象に実験してみると、敏感期の有無が分かれています。ヨーロッパでは多言語社会なのでそこに要因があるのかも知れません。つまり、環境が問題だと示しているわけです。教育の時期が遅れるほど能力が段々に落ちていくということは、早期の方がいいのではないかと思われますが、それもわからないのです。段々に落ちていくのが脳の問題なのかとなると、わからない部分が多いのです。私は多分そうではないと思います。どんなことでも時間をかければスキルが身に付くと思います。結局、基本的には早くやるということはそれにかける時間が長いということにつながるに過ぎないと考えています。その時に、何が犠牲にされているのかという視点が落ちる傾向があります。臨界期については以上です。

富盛:早期教育についてお話しいただきましたが、早く覚えれば早く忘れてしまうということがあります。しかし例えば帰国子女において、その言語を忘れてしまったとしても、言語能力が何らかの形で開発され、他の言語が覚えやすくなるのか、それについて何かご意見があればお話しいただきたいと思います。

峰:明治大学の峰と申します。今先生がご指摘されたことについてですが、私自身が帰国子女で、9歳から5年間中南米でスペイン語を学びました。帰国後はいきなり中学2年生でひらがなしか書けませんでした。スペイン語の方が得意だったんですが、1年するとスペイン語は忘れてしまって、失語症と同じで言っていることはわかるのに言えない、そういう大変な時期がありました。英語は全く習ったことはありませんでしたが、中学の時に英語を読めと先生に言われ、I am a boy.を「イー・アム・ア・ボーイ」とスペイン語読みで読んだんです。すると、「君は外国に行っていたのに英語が読めないのか?」と言われた覚えがあります。しかしスペイン語をやっていたせいか、英語は非常にすんなりと頭に入ってきました。スペイン語を何とか元に戻そうと神戸外大に入りましたが、入って1年もしないうちに元に戻りました。ですから、脳のどこかに外国語を学ぶというスイッチが入っているのかも知れません。そのような体験をしています。

司会:ありがとうございました。アレン先生、もしこれに関係して何かあれば宜しくお願い致します。

アレン玉井:子供たちを見ていると、4年生くらいから言語を対象化して形式的に考えることができるようになった時に、日本語で言葉を把握している子、もしくは学習ストラテジーが入っている子はものすごく早いんですね。そうでない子はこちらが教えたものが残らないんです。どうやってセンテンスを構成してlanguageを積み上げてあげられるのだろうと苦労するんです。日本語の言語技術を知っている子供の能力を転移させて、教育方法を変えていく方が子供たちにとってはいいと思います。母語でも言語と意識して使いこなし始めた子供は飛躍的に伸びていきます。音声を与えても日本にいる限りは無理なので、視覚から、音声で与えきれないものを与えていくことが重要だと感じます。

司会:ありがとうございました。このテーマは色々考えることが多く、一回限りではカバーしきれないということが予定時間の超過により明らかになってしまい、申し訳ありませんでした。また別の機会を設けて、もう少しトピックをしぼって議論できればよいと思います。本日は3人の先生々、そして大学院生の方々、ご協力ありがとうございました。これにてシンポジウムを終わります。

(原稿校正 杉山香織・川口裕司)