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特集 西ヶ原キャンパスの思い出


内容


西ヶ原と私・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田 島  宏
私の「西ヶ原」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・滑 川 明 彦
「西ヶ原」と大学院と・・・・・・・・・・・・・・・・矢 島 猷 三
Mille mercis au campus de Nishigahara
・・・・・・・  鳥 居 正 文
西ヶ原の想い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・甲 斐 基 文

西ヶ原と私

田島 宏


 今からおよそ50年前、1949年(昭和24年)に設立された東京外国語大学の授業は、ごく初期には東京工業専門学校の一部を借りた、石神井の仮校舎で行われたが、2年後の51年からは西ヶ原のキャンパスに移っての授業が始まった。そしてたまたま、私がフランス学科の助手に任命されたのもその年4月のことだった。西ヶ原と私との結びつきは、21世紀を迎えようとしているいま、その意味で何か宿命的なものさえ感じる。

1.戦時下の西ヶ原

 もっとも、私の個人的な西ヶ原との関係はもっと早く、1941年(昭和16年)に遡る。その年東京外国語学校仏語部に入学した私は、田端近くの自宅から、毎朝お堀端(現在毎日新聞社の本社があるところ。私たちは普通「一つ橋」と言っていた)の、いわゆる<鶏小屋>校舎で行われていた授業に通っていた。しかし、入学当初から野球部に入っていたので、午前中のフランス語の時間にはたいてい出席したが、午後になると、名札集め(出席確認のため、事務職員が緑色の袋を持って一人一人の席を回り、名前の書いてある木片を集めること)が終わるや否や、先生が黒板のほうを向いている隙にエスケープすることがしばしばだった。そして、その頃はまだ市電という名前だったチンチン電車に乗って滝野川(西ヶ原のことを私たちはそう呼んでいた)へ行く。つまり、授業をサボって野球の練習に出掛けるという、あまり良い生徒ではなかったけれども、せめてスポーツをやることによって、戦争の跫音がそれとなく聞こえてくる、ある種の圧迫された雰囲気から少しは開放された気分になることができた。私にとって最初の西ヶ原とは、殺風景で、グランドの設備も全くお粗末だったが、その敷地全体が好きなことをやれる楽しい場所という印象だった。
 ただし、そのグランドも、太平洋戦争が始まると、配属将校の命令一下、
「練兵場」と呼ばれ、銃を持っての駆け足や匍匐訓練の場として使われるようになる。そうなると今度は、西ヶ原へ行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。人殺しの練習なんかやりたくないと心の中では思いながら教練をやっていたのだから、その点数は案の定「丙」だったが、それはともかく、教練と重なった西ヶ原の思い出は、今度は、ひどく不愉快なものになってしまった。
 1943年12月、私はいわゆる学徒出陣で海軍に召集された。従って、その後数年間の外国語学校--西ヶ原にせよ、一つ橋にせよ--についてはほとんど何も知らない。ただ、翌年、皇居が火事になってはいけないという配慮から、宮城前の校舎を取り壊して西ヶ原に木造校舎を建て、そこで授業が行われたらしいが、その新校舎は次の45年4月の大空襲で焼失したとのことである。
 なお、一つ橋で行われていた1940年代前半の授業については、私の3年ほど後、その焼け落ちた西ヶ原の校舎で授業を受けられた滑川明彦さんが、フランス語の先生方のプロフィルなどをこの雑誌でも詳しく述べられているので、ぜひお読みになっていただきたい。そこで取りあげられている諸先生が私の時期にもフランス語を担当されていたからである。ただし、41年には、実用フランス語のベテランで、「巧まざるユーモアにあふれていた」(山内義雄さんの言葉)増田俊雄先生や、浦和高校と兼任されており、ロシア語もおできになり、独特な風格の持ち主だった大森鉱三先生、それに外国人講師で、40歳を過ぎてもまだ「マドモワゼル」を固執されたマリ・ボネ Marie Bonnet 先生(生徒たちが " Madame."  と呼ぶと、必ず "Non, mademoiselle." と直されたが、それが面白くてわれわれ悪童どもは、なにか質問されるとわざと " Oui, madame." と返事をしたものだった)などもおられたことをつけ加えておこう。
 一つ橋の学生時代のことについては、そこに登校していた12月8日の昼前、太平洋戦争--真珠湾攻撃の開始を知ったばかりでなく、そこから「出陣」したところなので、その頃の学校全体の雰囲気、芥川多加志や北村太郎(本名松村文雄)を初めとする友人たちのことなど話したいことも多いが、それはまた別の機会に譲ることにする。しかし、ぜひ言っておきたいことは、フランス語などという敵性語を勉強するといって世間からは白い目で見られたけれども、校内では、少なくともフランス語に関する限り、自由で、思想的な統制などのない授業が行われていたということである。そこには、勉強自体は決して楽ではなかったが、圧迫された戦時下のわれわれに、授業を通じて伝わってくるさわやかなフランス的な世界があった。すばらしいことであった。
 当時の西ヶ原は、王子、赤羽といった工場地帯に近く、いわば東京の場末で、グランドから見えるものといえば、飛鳥山のほうに拡がる平地に建ち並んでいる貧相な庶民住宅だけだった。染井の墓地に接していることは今と変らないが、墓地の中を歩いて通う西ヶ原には、何かうらぶれたところヘ足を運ぶ感じがした。ただ、墓地の桜は--現在でもまだ大部分残っているようだが--実に見事だった。そしてその同じ「染井吉野」が何本か校門の付近にもあり、4月になると、われわれの目を楽しませてくれたことは忘れられない。しかしそれらの桜の樹は、やがて戦後の一時期、駐車場を作るという口実から、無残にも切り倒されてしまった。

2.最初の授業

 1951年、西ヶ原で大学の授業が始まり、私がその年助手に採用されたことは前に述べたが、実はその1年前、まだ東大の院生だったころ、私に東京外国語大学に付属する形で残っていた東京外事専門学校(東京外国語学校の昭和19年からの校名--上記滑川さんの記事参照)の非常勤講師として3年生の授業1コマを担当するようにとの話があった。場所は石神井ではなく、49年から戦災復旧工事として建て始められていた西ヶ原の木造校舎だったが、これが私にとって、教壇に立っての最初の授業だった。
 その頃のフランス科の先生方としては、永井順先生はまだご在任だったけれども、増田俊雄、大森鉱三、マリ・ボネの3先生は戦争末期に、また鷲尾猛、工藤粛、小林正、ノエル・ヌエット Noël  Nouet の諸先生は戦後間もなくお辞めになった。その代りに新里栄造、家島光一郎、鈴木健郎の3先生が専任として、松下和則、小宮山寛の両先生が非常勤講師として、マリ・日疋  Marie Hibiki 先生が外国人講師として着任された。いずれにしても1940年代の「東京外語フランス語」というセクションは、戦争の影響を真面に受け、また旧制専門学校から新制大学への移行過程に直面していたこともあって、組織の大改革に巻き込まれると共に、そのスタッフも一変した。私の場合も、恐らく松下先生が49年に辞められたため、閉校になる1年前の専門学校だということもあって、急遽採用されることになったのかもしれない。
 しかし、やる方の当人にとっては、これは大変なことだった。何しろ2年間フランス語を専攻してきた諸君--しかも、後で述べるように極めて優秀な諸君、つまり「手強い相手」--を前にしてテキストの購読をせよというのだから、自分なりにいくらかでも自信のある教材を選ばなければならない。できるものといえば、結局、京大で卒業論文を書き(題目は「 "Madame Bovary" における imparfait について」、泉井久之助教授指導)、東大大学院でもその文体について調べ続けていたフロベールの作品購読ぐらいだったので、その中から " Un cœur simple " を選んで、その表現・文体についてのコメントを加えながら読むことにした。また、時折は京大文学部時代、伊吹武彦先生が使われ、その読み方に感銘を受けたヴァレリーのテキストなども、先生の講義そのものの受け売りに近い形で織り込んだことも覚えている。
 結果がどんなものだったかは、自分では解らない。でも、名簿にあった十数名の諸君は、いずれも熱心に受講してくれ、書いてもらったレポートにも力がこもっていた。卒業後東京銀行へ行かれ、長くパリ支店におられ、欧州東銀(パリ)やミラノ支店長にもなられた原口広君などは、そのレポートをフランス語で書いてこられ、こちらがびっくりしたほどである。またそのクラスには、外務省に入られ、フランスを初めとするフランス語圏諸国で勤務された上、ガボンなどの大使にもなられた柿沼秀雄君、読売新聞で活躍され、退職後は評論家として広く文化活動に従事された牧野拓司君、フランス語・文学関係の出版社として著名な白水社で編集担当の取締役になられた田村巌君などがいたし、また当時英語の先生が少なかったためか、高校の英語の先生のポストについた諸君も何人かいた。斉藤次郎君(同君は後に東京外国語大学に戻られその教授になられた)、片岡政昭君(後に東京工科大学教授になられた)、筑木力君(故郷の新潟県で高校教諭をやられ、後に新潟大学でも教えられた)などがそれである。もちろん、そのほかいろいろな企業に勤められたり、家業をついで自営業者になられた人々もいるが、それら諸君のことも懐かしい思い出として、今でもなおふと頭を過ぎることがある。なお、死亡された木津五郎君(「詩」というタイトルのすばらしい詩集1冊を残して夭折されたが、無名ながらほとんど天才的ともいえる詩人だった)、島根清君(筋の通った社会思想家、評論家として知られていたが、同君もこれからという時に亡くなった。彼の提出したレポートがマルクス「資本論」のエピグラフで始まっていたことを懐かしく思い出す)、特に一昨年亡くなった渋沢孝輔君のことは決して忘れられない。
 渋沢君が日本の詩壇で、読売文学賞ほか幾多の賞をうけた著名な詩人だったことは言うまでもない。しかし、彼はまた、明治大学教授として、フランス文学、とりわけランボー研究を進め、その道での第一人者でもあった。外事専門学校卒業後、新設された外国語大学へ編入学し、さらに東大の大学院(仏文)に進んだ彼と私とは、知り合ってから彼が死去した98年までの48年の間、切れることのない交友関係が続いたが、私にとっての彼は、弟子というより、むしろ同業者であり、飲み友達であり、最も親しくつきあった後輩-友人だった。私が還暦を境に外語大から明大に移ったのも、彼がぜひいらっしゃいと強く誘ってくれたからに他ならない。その後十数年間、フランス語や文学を肴にして、研究室で一杯やったり、神保町や新宿の飲み屋に立ち寄ったりした日数は、とても数えきれるものではない。90年の春には、もう一人の友人も誘ってタヒチにまで足を延ばした。
 こういった教室内外での人間関係については、このクラスばかりでなく、他のクラスについても、今でも親交の続いている人たちの数は決して少なくない。しかし、専門学校最後のクラスだったと同時に、私の受け持った最初の授業だったという意味で、西ヶ原といえば、どうしてもこのクラスのことが真っ先に思い浮かんでくる。私にとって、それは、教育者としての幸せな出発だった。

3.初期の大学

 東京外国語大学が設立された当初のフランス学科のスタッフとしては、上に述べたように、非常勤の外国人講師を除いて、永井順、鈴木健郎、家島光一郎、新里栄造の諸先生が専任として在任されているだけだった。そして、それらの4先生はいずれも、1、2年生のフランス語を受け持つと共に、それぞれの専門分野に応じて、フランスの社会事情、文学、語学、経済の講義を担当された。
 永井先生(1917年卒)は、卒業して間もなく渡仏され、現地の日本公館で数年間勤務された後、静岡高等学校教授を経て1940年に外語の教授に就任された。フランス語の大ベテランで、その見事なテームの授業は学内外でよく知られていたが、学生に対する厳しさにも定評があり、不合格で泣かされた学生も少なくない(ただし、私は幸いにもどうにか合格点を得、助手にも採用していただいた)。また、時事問題、社会問題に関心を持たれ、新聞購読なども担当された他、文学関係では、特に演劇の舞台面にも精通されており、「演劇と社会」という講義をずっと持たれていた。なお、大学設置直後の50年からは、教務補導部長(現在の学生部長)の役職にも就かれ、新しく作られた外国語大学のあり方に積極的に発言、参与されたことを付言しておこう。先生が行われた幅広いフランスに関する地域・社会・文化研究という方向づけが、ことばを本格的に身につけた上で、社会の各方面で活躍する優秀な卒業生を生んだ一要因だったといえるかもしれない。
 鈴木先生(東大仏文31年卒)は、ジード、フロベールなど19、20世紀のフランス文学、特に小説がご専門で、多くの翻訳もあり、著名な仏文学者だった。温厚で、面倒見の良い先生のお人柄がフランス学科全体に和やんだ雰囲気をもたらし、放課後やお宅で一杯ご馳走になった学生諸君の数は、私を含めて非常に多い。前に述べた渋沢孝輔君を始め、かなり多数のフランス文学者が卒業生の中から出ているのは、まさしく鈴木先生の影響ではないだろうか。さらに、文学は専攻しなかったけれども、先生に教えられた文学、さらには人間の生き方そのものが忘れられないという卒業生の声は、いまでもよく耳にする。ただ惜しんでも余りあることは、1963年、先生が55歳の若さで逝去されたことであり、フランス学科にとっては実に大きな痛手だった。
 家島先生(1935年卒)は、フランス文法では、50年代からすでに中堅のフランス語学者として高く評価されており、また新しいフランス語教育の開発にも熱心だった。ご専門はフランス語動詞のテンスで、その綿密で、きめの細かい授業には定評があった。私と一回りも違う大先輩だったが、同じ下町生まれということもあって、ずいぶん親しくしていただいた。共著という形で出版した著書、参考書が何冊もあるし、ご一緒にやった仏和辞典の仕事についても深い思い出がある。個人的には、私がお誘いして始められた狂言の稽古を亡くなられる少し前まで熱心に続けられた他、大塚や新宿の飲み屋でのおつきあいは数十回を越え、数百回にも及んだように思う。そのため、人から「ヤジ・タジ」と言われたりもしたが、それからもう二十数年も経ってしまった。しかしこの際、東京外国語大学が、日本の大学のうち恐らく最も多くの優れたフランス語学者を育てることができたのは、まさに家島先生のご功績だったことをぜひ明記しておきたい。なお、この雑誌「ふらんぼー」は先生の退官を記念して1973年に創刊されたものだが(その号と次の第2号には「仏学事初」と題する一文さえご執筆くださった)、その2年後の第3号が先生の追悼号になってしまったことは、鈴木先生の場合と同様、残念極まりない。
 新里先生(1918年卒)については、戦争終了時までは台北で高等師範学校の校長をやられていたこと、戦後帰国され、57年までの10年間外事専門学校、外国語大学で教えられていたことなどが知られている。もっとも、先生と私の授業担当曜日や時間が重ならなかったこともあって、あまりゆっくりお話できなかったが、ご専門は、シャルル・ジードの経済学説だった。著書などの社会的なご活躍については特にお聞きしていないけれども、懇切丁寧なご授業で、学生たちの評判もとてもよかった。しかも、その穏やかなお人柄、ご発言は、戦後のガサガサした大学にあっては、まさに一服の清涼剤だった。退官後は、故郷の岩手県に戻られ、しばらく悠々自適の生活を送られた後、お亡くなりになられたそうである。
 以上の4先生の他に、50年からは、アレクシス・ウッサン Alexis Houssin 神父が、51年からはジャン=ルネ・ルナール Jean-René Renard さんが講師として来られることになった。戦後間もないことであり、在日フランス人の数もわずかだったので、適当な人を探すのは大変だったようだが、幸い2人の適任者を得て、非常勤のため時間数は少なかったけれども、何とかフランス人担当の授業ができるようになった。特にウッサン神父の授業はすばらしく、ヨーロッパの文化に飢えていた学生諸君の願望に充分応えるものだったと言われている。
 それらの先生方に続いて、51年4月からは、フランス学科(その年から第2部第1類という名前に変わり、61年以降はフランス科、さらに64年にはフランス語学科と改称された)に、その助手として私が加わることになる。ただし、最初は専攻語学前期1年生の授業と、一般語学(いわゆる第2外国語)の授業を週計3コマ持っただけだが、木造校舎で、火鉢やダルマ・ストーブで暖を取るという悪条件ながら、一般語学を含めて、それぞれのクラスに出席している学生諸君の熱意には並々ならないものがあった。ことばの原点が音声言語にあるという考えは、鷲尾先生以来外語のフランス語教育で重視されてはきたが、私としては、学生諸君の熱意に応えるためにも、それを教室でどう具体化したら良いかを問題にせざるをえなかった。しかも、その頃はテープレコーダーなどまだ開発されていない時代だった。そこで、フランス人の生の声がSPレコードに録音できる機材を教務課に頼んでやっと購入してもらい、惚れ惚れするような発音のウッサン神父に、教室で使うテキストなどを読んでいただいたわけである。その中にはラマルティーヌの " Le lac " などがあったことを、今でもはっきり覚えている。
 リンガフォンのレコードなども使った。私は、教室では、できるだけその文を暗記するようにと言ったが、このやり方には学生諸君の間でも賛否両論があったらしい。私自身、知的吸収力の旺盛な年齢層の人たちに、こんなことを強制ていていいものかと考え込んでしまうこともあった。しかし一方では、自然の発話を身につけなければ、本当のフランス語が解らないのではないかという思いもあり、ずいぶん悩んだが、そういった試行錯誤は、外国語教育には付きものなのかも知れない。結局、学生諸君の意図や外国語習得能力、さらにはそれぞれの時代が要請する外国語のあり方(今だったら、多くの場合、コミュニケーション可能な能力の修得ということになろうが、当時はまだそのような観点はほとんどなかった)なども勘案しながら、40人のクラス(実際の入学者は、東大の合格発表が遅かったりしたのでもっと少なかった)を複数のグループに分けて教育するのが好ましいという結論に達したけれども、貧弱な国立大学の予算では、そんなことはできっこない。それがどうにか実現したのは、フランス語学科の学生定員が60人に増員された65年からのことである。
 その頃の学生諸君に対しては、最初の数年間は専門の授業を担当しなかったが、それでもかなりの皆さんと色々の機会に会っていたので、今でもよく覚えている人たちの数も多い。たとえば、神奈川大学名誉教授の倉田清さん、早稲田大学教授の会津洋さんなどとはフランス文学・語学の仲間でずっと親交が続いているし、産経新聞から近畿大学の教授になられた川中子真さんとは、特に最近親しかった。ただ、国際政治学者であり、すばらしいジャーナリズム論を執筆された同君が昨99年に亡くなられたのは惜しまる...もっとも、こういった皆さんのことを書き綴っていったらそれこそ切りがないのでこの辺で止めるが、一つだけお話ししておきたいのは、今からちょうど50年前の1950年に、フランス学科最初の女子学生として芳賀祐子さんが入学してきたことである。彼女のことは研究室でもよく話題になった。教室では同級の某君といつも並んで座っていたので、ウッサン神父から    " inséparables! " などと言われたりもしたが、最終的にはパリでフランス人資産家のブリュネさんと結婚、ご主人が亡くなられてからはパリ第7大学で日本語・日本文学の先生になられ、現在もパリ17区に住んでおられる。
 1950年代のフランス学科(第2部第1類)には、大学設立当初ということもあって、新鮮で意欲的な雰囲気があった(府中の新キャンパスでの大学にも、そういった「心機一転」の気持ちが生まれることを望みたい)。とはいえ、52年からやっと建て始められた鉄筋の校舎はひどくお粗末だった--その建物については後で触れるオリガスさんが「駄建築」という名文句(?)を吐かれた--し、図書館なども全く整備されていなかった。戦中、戦争直後に輸入できなかった洋書の欠落部分は余りにも大きく、その上買おうとすれば余りにも高価だった。ただ、開き直って言えば、だからこそわれわれにとっては一冊一冊が貴重で、それを何回も丁寧に読んだことが、今日の情報過多の時代の読み方とは大きく違う、たとえば小林秀雄流の「読み」を共有することができたのではないだろうか。
 私自身も、その頃が一番よく勉強もし、一番よく仕事をした時代だった。教室では、専任講師になってやっと専門科目を担当するようになったが、最初にやったのは、やはり当時私が関心のあった統辞論、特に語順の問題になってしまった。その授業では、疑問文以外で主語の倒置が行われている例文を出席した人たちに探してもらい、提出されたそれらの例文の中でなぜ倒置されているかを一緒に考えていこうといったやり方をしたが、そのクラスには、当時スペイン語の助手で、今ではスペイン語学の権威になっておられる原誠さんなども聴講されたので、ずいぶん緊張したのを覚えている。56年に「現代フランス語の語順(主語の倒置)の傾向について」という論文を学会誌に発表できたのも、一部は、そういった授業をやらせてもらったからだと言っても過言ではない。また一方、辞書(「スタンダード仏和辞典」57年刊・大修館)の仕事にもずいぶん精をだした。何しろ鈴木信太郎先生が中心で、中平解、朝倉季雄、家島光一郎、三宅徳嘉といった大先生の中にあって、私は年齢も最も若く、最も未熟だったので、諸先生の数倍も時間をかけて執筆しなければならなかった。最後の頃にはそれこそ徹夜の連続だった。でも、そういったことをやっているうちに、いくらか私なりのフランス語研究の見通しが立てられたのはありがたかった。
 1957、58年にそれぞれ新里、永井の両先生が退任される。その後任には朝倉剛、篠田浩一郎のお二人が着任され、フランス語の専任は50歳になられたばかりの鈴木先生と40歳代の家島先生を除けば、35歳以下が3人と、大きく若返った。そして59年には、フランス人の先生としてジャック・カンドウ Jacques Candau さんが来られ、やがて大学創設以来空席だった外国人教師(日本人の専任に当たり、持ち時間数も原則として6コマ)のポストが取れたので、それに就任していただいた。一言でいえば、創立当初の大学全体としては、経済的には決して楽ではなく、劣悪な教育環境だったが、研究室内では、自由で活発な討論が行われ、学科の明るい未来像を構築ようとしていたし、教室には、フランス語・フランス文学を中心に、広くフランスの文化を吸収し、あるいはフランスまたはフランス語圏の国々へ行き、その地で活躍しようという学生諸君の気迫が満ち満ちていた。

4.60年代と学園紛争

 「60年安保」ということばを実感する世代の人たちはもうすっかり少なくなってしまった。しかし当時、反安保という考え方は学内に漲り、60年6月には、校門から巣鴨駅までの短い間だったが、多くの先生方によるデモ行進が行われ、当時の学長岩崎民平先生が校門まで見送りに出てこられさえもした。私自身、さらに、国公私立各大学の先生方のデモや、学生たちと一緒に手をつないで歩く「フランスデモ」にも参加したことを覚えている。大学が象牙の塔に立てこもり、その間に、もし権力者によって戦争に巻き込まれでもしたら、あの忌まわしい太平洋戦争時代の再来があるかも知mれないと思ったからである。その頃の大学のあり方については、私は、今でも肯定的に評価している。
 ところで、63年1月に鈴木健郎先生が病気のため辞任、その翌月逝去された。われわれは先生の「和」がフランス科の和に直結していたことを痛感していたので、これは大きな痛手だった。。学生たちの戯れ言「仏(ほとけ)のフランス語、ホットケのフランス語」は先生を中心にしたフランス科の当時の特徴--ただし、ホットケとは、学生の自主性尊重の意味だと理解してのことだが--を言い当てて妙である。なお、先生の後任には東大の大学院比較文学博士課程に在学中だった岩崎力さんに来ていただいた。
 ここでちょっと、フランス人の先生方に触れておこう。前に述べた通りわれわれはカンドウさんの時代にやっと外国人教師のポストがえられたわけだが、カンドウさんの後任には、大使館と話し合ってフランス政府から「海外協力派遣教員」(coopérant) を送ってもらうことにした。この「派遣教員」というのは若い優れた研究者に限って、兵役の代りに2年間海外でフランス語・フランス文化の教育に当たることが認めれるという制度で、当時はそのほとんどがアグレジェ(教授資格所有者)だった。そして、われわれのところに来られたその第1号が62年に着任したノルマリヤン(高等師範学校卒業生)の秀才、ジャン=ジャック・オリガス Jean-Jacques Origas さんである。
 オリガスさんは、まじめさを絵に描いたような性格で、本当に熱心にフランスw黶Eフランス文学の授業に当られた。しかも、わずか2年の在任だったが、大学、特にわれわれの学科に深い関心を持たれ、帰国後パリの東洋語学校(現在の国立言語文化学院)に勤められるようになってからも、その学校が属していたパリ第三大学と外国語大学との間で後に結ばれることになる大学間交流のお膳立てをしてくださったり、若手の先生や多くの学生を講師あるいは研究生としてフランスに滞在する道を開いてくださったりした。そのオリガスさんが今、フランスで日本語・日本文化研究の第一人者になられていることはご存じの人も多いと思う。なお、この時から後の外国人教師は、80年代まで、ほとんどすべてすばらしい「派遣教員」だった。それらの人たちのなかには、現フランス大使館文化参事官のクリスチャン・モリュー Christian Morieux さん、国際学術センター所長のジャン=リュック・ドムナック Jean-Luc Domenack さんをはじめ、ガリマール社から " Erotique du Japon classique " という500ページを超える大著を出版したアラン・ヴァルテール Alain Walter さん、日本思想史・日本文学研究者として知られている エリック・セズレ Eric Seizelet  さん、ダニエル・ストリューヴDaniel Struve さんなどフランスで大活躍されている人もいるが、そういった外国人教師を持つことができたのは、学科、学生にとって本当に喜ばしいことだった。私個人としても、オリガスさんはじめ、それらフランス人とのおつき合いが今でも続いていることをとても嬉しく思っている。
 話を学科自体の方に戻そう。64年から、学科の名前もフランス語学科となり、65年からは、学生定員も60人になった。クラスも30人ずつの2クラス編成が認められたので、入学当初面接を行って、視聴覚(クレディフ)クラスと、購読・文法クラスに分け、学生諸君の希望と能力に応じたフランス語教育の実施に踏み切ることにした。この方式は、主として当時フランス語学科の主任だった家島先生のお考えに基づくもので、学期末ごとに2クラス共通の総合試験をやり、それぞれのクラスの特徴をデータ化した上、分析を行ったりした。学生諸君からは「実験台に乗せられている」という非難もあったようだが、他大学からも注目され、それなりの成果はあったと信じている。ただし、2クラスになったため、持ち時間の関係から一方のクラスしか担当できなかったので、たとえ専任であっても、学科全員の諸君と接するわけには行かなくなってしまった。
 66年には、大学院修士課程が設置され、初年度からフランス語専攻の院生3人を受け入れた(そのうちの一人が69年修了の外国語大学名誉教授小野正敦さん、もう一人が上智大学教授の南舘英孝さんだった)。それまでは、大学を卒業してからさらに研究を続けようとする場合、他大学の大学院に進まざるをえなかった。そして事実、フランス語学・文学関係の人たちだけを拾い上げても、55年以降、窪川英水(都立大学名誉教授)、渡瀬嘉朗(東京外国語大学名誉教授)、高坂和彦(日大教授)、霧生和夫(埼玉大学教授)、矢島猷三(愛知県大教授)さんはじめ多くの皆さんがおり、言語学、国文学、社会学その他の領域に進んだ人たちも決して少なくない。それが、66年以降は本学でも、少なくともフランス語・フランス文学については修士課程の教育ができるようになったが、そこでの教育・研究の成果がはっきり見えるようになるのは70年代後半以後になってからである。
 学生定員増や修士課程設置に関連して専任教官の増員もあった。そこで、その時までは非常勤でまかなわれていた事情関係の授業を専任とし、フランス近代社会史を専門とする二宮宏之さんにお願いすることにした。「事情」という得体の知mれない代物を優れた歴史研究者にお任せすることによって、われわれは、学問的にも高いレベルでの授業を指向することができたのである。その後さらに、留学生課程でフランス語を担当していたフランス語学者の渡瀬さんにも学部に移ってもらった。60年代後半のフランス語学科は、その意味ではまさに成長発展期に属していた。しかし、その最後の頃、「学園紛争」が突発する。
 私は「異議申し立て」( contestation ) が間違っているとは思わない。それどころか、権力者の意向や既成概念に唯々諾々と従うことほど、大学の本質から遠く離れた考え方はないと確信している。しかしながら、申し立ての方法は、あくまで論理的かつ人間的でなければならない。その辺に68−69年紛争の大きな問題点があったのではないだろうか?
 この学園紛争には、実は私は、学生がスト宣言をしたその日に在外研究員としてフランスへ出発し、授業が再開された69年10月に帰国したので、直接関与しなかった。ただ、現地にいても気が気ではなく、知りあいの新聞社の特派員に様子を聞いたり、紛争についての新聞記事(フランスの新聞でもしばしば取りあげられていた。その切り抜きは、今でも手元に保存している)を目を皿のようにして読んだりした。色々な立場の学生諸君から航空便で現状報告を受けたり、意見を求められたりもした。いたたまれなくなって、私は学長に手紙を出し、いつでも帰国の用意があると伝えた。しかし、その必要はないと言われたので、せっかく与えられた留学の機会を大切にして、現地でやりたいと思っていたことをやることにした。もし戻ったとしても、時の流れは変わるものではないし、事情も分からずに適切な判断は難しいと思われたからである。
 帰国後、最初の授業に、授業再開に反対する学生たちが教室に押し寄せて、どうして授業するのかと詰問された。私は、「議論はいくらでもやろう。ただし、ここに出席している諸君(その人たちの眼には、授業を待望する何ものかがあった)は講義を聞きに来ているのだから、君たちの意見だけに従うことはできない。議論は議論、講義は講義だ。今日結論がでなければ、さらには来週にでも、再来週にでも議論してもいい」と言って約30分ほど話し合ったが、結局その連中は、最後には言うことがなくなって退散してしまった。大学は--少なくとも私の担当した授業では--このようにして、徐々に本来の姿に戻っていった。

5.70年代から80年代半ばまで

 1972年に家島先生がお辞めになる。先生は、紛争の際フランス語学科の主任をされており、しかもその学科が教授会や大学執行部の措置に反対する声明を新聞その他に公表したのだから、極めて繊細な神経をお持ちだった先生が、文字通り疲労困憊されたことは想像に難くない。そのこともあって、その後暫くして愛知県立大学から礼を尽くした招聘を請けられた時、定年前あえてそこへ移られたと聞いている。しかしそれはともかく、家島先生が鈴木先生の跡を繼がれ、ほぼ十年間フランス語学科主任として果たされた功績は絶大だった。前にも述べたように、各方面でフランス語を使って活躍し、さらに、多くの優秀なフランス語学・文学研究者、フランス語教育者が生れ育ったのは、まさに先生のお陰である。
 72年には、西永良成さんが着任した。そしてそれからは、私が辞めるまで、朝倉、篠田、岩崎、二宮、渡瀬、西永、それに初めは留学生課程でフランス語を担当した小野正敦の皆さんと一緒にフランス語学科をやって行くことになる。当時最年長だった私は学科主任にならざるをえなかったが、スタッフの年齢構成などを考慮して、主任は3年で交代することを提案し、了承された。そして、そのシステムは今でも続いているようである。
 実を言うと私は、学問研究にせよ、学内の運営にせよ、年長者が取り仕切ることに批判的だった。余談で古い話になるが、大学設立後の52年に教官の定年を決めたとき、助手だった私は、まずその会議に参加することを要求し、次に他の若手の先生と一緒になって60歳定年を強く主張した。そのため、年配の先生方の65歳案と対立したが、最終的には62歳案と63歳案とで投票が行われた結果、現行の62歳(東大を除いて恐らく全国の国公私立大学で最も若い定年)になったのである。勿論、社会情勢も変わったし、人間の寿命が延びた昨今、その年齢を変えようという動きも理解できるが、ただ延長すればいいというものではない。大切なことは、人の「華どき」を見極めることではないだろうか。なお、私が60歳で外国語大学を辞めたのも、その数年前にフランス語学科から一般教育でフランス語を担当するポストに移ったのも、多かれ少なかれそういった気持ちがあったからだった。
 1970年代のフランス語学科は、初め二、三年は紛争の余燼がいくらかくすぶっていたけれども、60年代後半の大学成長期を受けて順調に進展していったと言えよう。女子学生の数もずっと増え、教室は華やいだ雰囲気に包まれた(ただし、前にお話しした芳賀さんは特別だとしても、少ない人数の場合は希少価値--こんなことを言うと怒られるかも--で、その一人一人がきらめいていた)。卒業生の多くは一流企業、中でも商社、銀行、報道関係などに就職、そこで活躍している人たちが目立つが、外交官を初めとする公務員や大学教員など、各方面ですばらしい働きをしている人も少なくない。ただ私自身は、学内外の仕事(留学生課程主事とか、文部省の大学設置専門委員などのほか、学会関係にもよく引っ張り出された)以外に、本や雑誌に対する執筆--当時「基礎フランス語」という雑誌の編集に携わっていたこともあり、毎月締め切りに追われていた--が増えて、大学院はともかく、学部の授業にそれほど専念できなくなってしまった。しかし、朝倉さん初め同僚の皆さんが大変熱心に努力して下さったので、学科全体としてはとても上手く行っていたと思う。
 特にこの時期、設立後間もない大学院には活気が満ち溢れていた。そこで語学あるいは文学の研究を行い、さらにフランス政府給費留学生または文部省留学生などとして渡仏した院生は大変多く、しかもそれらの諸君の大部分は、少なくともフランスの大学で修士号または D.E.A.(博士論文執筆資格)を取得し、何人かは、その頃は稀だった博士号さえ取得して帰国した(その一人に、現教授の敦賀陽一郎君がいる)。その上幸いにも、80年代の初めまでは、全国の大学でフランス語の先生のポストにまだ余裕があったので、希望する修了生は、しっかりした業績さえあれば大抵どこかの大学に就職することができるという、まさに「古き良き」時代だった。そして、それらの修了者の多くは今、現役の優れた語学・文学研究者、フランス語教育者として、第一線で活躍している。 そのなかには、私との共著、共編、共訳という形で一緒に仕事をした人たちも少なくない。ちょっと思い起こしただけでも、曽我祐典(関西学院大学教授)、大浜博(松山大学授授)、西村牧夫(西南学院大学教授)、故中川努(関西学院大学元教授)、鳥居正文(青山学院大学教授)、佐野敦至(福島大学教授)、練尾毅(南山大学教授)、小石悟(獨協大学教授)などの諸君の名前が浮かんでくる。もっともこれは、私自身本来怠け者で、独りでやっていてはなかなか捗らないが、共同作業なら他の人に迷惑が掛からないように何とか努力するという「非学者的」人間だからのことかもしれない。でも、いつも楽しく議論をし、一緒に作業ができたのを今もとても良かったと思っている。
 ここまで書いてくると、やはり「ふらんぼー」のことに触れたくなる。なぜなら、そういった諸君のイメージと「ふらんぼー」のイメージとがどこかで重複して現れてくるからだ。
 1973年にフランス語学科研究室の論集として発刊されたこの雑誌は、その後、20年以上たゆみない歩みを続けてきた。私はその「創刊のことば」の最後に、残された問題は、この雑誌が、活力をもって生き続けることができるかどうかということである。もし特別な事情なしに、第二号、第三号と続刊しえないとすれば、これは、われわれの怠慢ということになろう。われわれは、その語源的な意味において " Vive le Flambeau. " と願わずにはいられない。
と書き、第10号では、この雑誌について、
  まさに、燃え上がっている flambeau である...
と記した。私自身はそのことばを述べた2年後に退職するが、この雑誌はその時までの私にとっては、大学院研究科そのもの、その成果のシンボルだった。そしてその刊行を、立派な論集として現在まで維持してこられた研究室の先生方や修了生・院生諸君に、この際、心から感謝の意を表したい。

6.結び

 もうかれこれ16年も前の1984年の春、私は外国語大学を辞め、西ヶ原を去ることになった。助手になってからでも34年間、グランドに通った1941年から数えれば、このキャンパスは足掛け43年という私の半生以上のおつき合いだった。決していいキャンパスだとは思わなかったけれども、そこで、文字どおり「自由に」研究・教育をやらせていただけたことには、感謝のことばもない。なお、最後の年の2月24日、最終講義として「言語研究と外国語教育のあり方」というタイトルの話をしたが(「ふらんぼー」12号に「雑感」という題で、その時の内容を下敷きにした雑文が掲載されている)、その際いただいた寄せ書きのうちの1枚を、これもまた私の「思い出」としてお目にかけよう。



 ところでその「ふらんぼー」だが、大学自体がこの秋、新しい府中のキャンパスに移るということなので、この号が西ヶ原での最終号になるはずである。前に述べたように25[-26]号という節目にもなっている。といっても、これからのことは、もちろん発行者である研究室の「フランス研究会」の皆さんにお任せする以外には方法はないが、ただ、創刊号以来関係してきた者の一人として、思いついたままの意見を、この際、最後に一言述べさせていただくことにしよう。
 ご存じのように、一昨年の98年にはとうとうこの雑誌が出せなかった。その前2号も、本文はそれぞれ54ページ、43ページだった。それを、たとえば創刊号の158ページ、10号の178ページと比べてみると(組み方や字の大きさに違いがあるにしても)ほぼ三分の一のページ数にしかなっていない。学問研究が「量」にではなく「質」にあることはいうまでもないが、それにしても全体としてかなり下降線を辿っているような気がする。もっとも、以前の18、19号もいささか貧弱だったが、それを何とか乗り切った後またこうなったわけだから、問題はかなり深刻である。その原因は一体何だろうか?



 私はそれを研究室の諸先生、院生や修了生諸君の熱意不足だなどとは断じて言わせない。ただ、「ふらんぼー」をとりまく状況が一変したのである。まず、1970年代には、大学院生などの若い研究者が自分の研究を発表したくても、なかなか適当な場が見つからなかった。学会誌に掲載してもらうことも容易ではなかったし、大学の紀要類も整備されていなかった。しかしその後、研究発表の場は年とともに拡がっていった。そのため、この雑誌の必要性が弱まったのである。次に、財政的にも、出発点では大先輩の増田俊雄先生のご遺族からいただいた基金があったし、また90年頃までは尾上貞五郎先生からのご寄付などもあって、ある程度余裕のある資金繰りができたが、それも底をついてしまった。自分の詩や小説を掲載する同人誌ならともかく、研究誌の場合、自力で刊行することは大変難しい。奇特な篤志家でも現れない限り、今のやり方でこの雑誌を続けて行くことにはかなり無理があるような気がする。そして最後に、92年、大学に博士課程は設置されたが、地域文化研究科ということで、かつてのフランス語・フランス文学を専攻する集団=フランス語学科というイメージが薄れ、95年にはその「フランス語学科」という名称もなくなってしまった。そうなってくると「ふらんぼー」という雑誌名も、もはや大学内で発行するには似つかわしい名前とはいえないかもしれない。結句、この雑誌はもう廃刊するしか方法がないのではないとさえ思われてくる。その上、見方によっては「ふらんぼー」が西ヶ原とともに消えていくのは一つの美学でもある。
 しかし一方、この秋からは府中の新キャンパスでの研究・教育が始まる。それはそれで大変結構なことだが、いくら建物が立派になっても、いわゆる「法人化」問題を含めて大学に政治的圧力が加わり、経済性とかいう、学問の本質と矛盾した考え方が大学を支配したのではどうしようもない。また、「国際化」の美名のもとに、雑駁、軽薄な研究・教育が大手を振って闊歩する可能性もあるが、それによって、輝かしい伝統を継承し、奥行きの深い個個の言語・文化研究をないがしろにすることを許してはならない。われわれの場合についていえば、外国語学校創設以来100年の歴史を持ち、しかもたえず新しい動向を踏まえ、時代に即して精一杯やってきたフランス語・フランス文学研究を軽視されたのではたまったものではないのだ。そして、そういった研究--もちろんそこには、フランス史その他の「フランス学」ともいえる文化関連領域が含まれてもいいし、新鮮で魅力あふれる語学・文学の研究分野はいくらでもある--の拠点として「ふらんぼー」が改めて活躍する余地はないだろうか。なぜなら、発刊以来25年の蓄積は貴重な財産であり、それを足場にすることによって、歴史と現実とを結びつけた新しい展望を、より具体的に結実させることができるかもしれないからである。
 ただしそれは、これまでの「ふらんぼー」をただ踏襲すればいいというわけのものではない。しかも続刊するための客観的情勢は、前に記したとおり
極めて厳しい。それに耐えるだけのエネルギーがあるかどうかが問われるわけだが、もし「ふらんぼー」がこの機会に生まれ変るとしたら、それはまさに21世紀を迎えるわれわれが、四方八方からの圧力に抗し、積極的に自らを主張する場としての刊行物をぜひ持ちたいという願望の表れとしてでなければなるまい。私としては、消え去る美学もあえて否定しはしないけれども、できれば、25年前の創刊号に書いた " Vive le Flambeau." を、王政時代の古い言い回しになぞらえて " Le Flambeau est mort. Vive le Flambeau! " と言い直せる日が訪れてほしいと、やはり願わずにはいられない。
20002月)

 付記--ここに書いたことのかなりの部分は「東京外国語大学百年史」(II.個別史-フランス語=編者代表・小野正敦)に、もっと詳しく客観的に記されている。ただ「正史」などというものは読まない人も多いかと思い、あえて重複をいとわなかったことをお許し願いたい。


私の「西ヶ原」


滑川 明彦(S22卒)


 昭和19年4月、皇居竹橋前の東京外語仏語部に入学して早々、校名は東京外国語学校から東京外事専門学校と改称されることを告げられ、すでに知らされていたであろう学校当局はいざ知らず、在学生、新入生ともどもいささか唐突であった。戦時下文部省を始めとする政府のこの種の姑息な校名改称は、外語にとどまらず、東京商科大は東京産業大(現在の一橋大)、横浜高工は横浜工業専門学校、横浜高商は横浜商業専門学校(両校ともに現在の横浜国立大)など、全国に及んだ。大正8(1919)年暮れに、「東京外国語学校」を「東京外国貿易植民学校」と改称する政府計画に、卒業有志あい計って校名存続を訴える運動を起こし、これを条件づきで撤回させたという、当時のリベラルな大正デモクラシー時代とは天地ほども隔たった戦時下のことである。
 当時のフランス人教師ノエル・ヌエット先生は、教室で“校名はÉcole des Langues Étrangères de Tokyo から、École des Affaires Étrangères de Tokyo になりましたね”、と我々新入生に黒板へ名称をフランス語で書き、例の嗄れ声でつぶやいた。江戸情緒の残る東京をこよなく愛し、絶妙な筆致で散文とスケッチで東京を素描して歩いた詩人ノエル・ノエット先生にとっても、この無粋な名称には憮然とした氣持ちがしたであろう。École des Langues Etrangères de Tokyo なら、フランスの伝統あるÉcole Nationale des Langues Orientales(通称ラング・ゾ Langues O)を連想するであろう。そういえば“外事”という名称は警視庁に「外事課」というのがあって、あるいは今でもいくぶんそうであろうが、在日外国人を取り締まるところであった。
 ことばに厳密さと味わいを求めてやまないあの鷲尾猛先生も、我々学生の前で、“東京外事専門学校ですか”と、例の皮肉な笑いを浮かべ、揶揄ぎみに新校名を口にした。この改称を機に、5月に入って竹橋から西ヶ原への移転が一気に加速したのである。
 ところで、通称鶏小屋と言われながらも、皇居に近いだけに旧校舎にはそれなりの雅趣に富んだ趣があったのだが、そこから軍事教練がある時は、板橋行きの当時の市電に乗って、約20分、庚申塚で降り、かつての原野を思わせる、一大空閑地の西ヶ原校舎下の野っ原で、教練(らしきもの)が課せられていたのである。
 環境に恵まれた竹橋校舎は皇居に近く、戦時万一火災などが起きたときに、類が皇居に及ぶ、というのが校舎移転の理由であると聞かされた。引っ越しに際しては、我々学生も大動員された。幸いなことに、教官室に山と積まれた外国の新聞の整理を任されたとき、上海発行のフランス語新聞を手にして、そこはかとなく習いたてのフランス語への香りを嗅いだものだった。一方、西ヶ原新校舎の教室では、床の雑巾がけが我々の仕事だった。私は、水上健也と這いつくばうようにして、床を拭いた。彼は、同じ田端に住む友人としてよく行動を共にしたが、50年後には読売新聞社会長となるとは彼とても、勿論私も夢想だにしなかった。私たちはただせっせと清掃に励んだ。校門辺りの整備に岩崎民平教授と大畑文七校長がなにやら打ち合わせたりしているのを見て、“あの方がかの有名な岩崎民平先生か”と、その品のよい顔をまじまじと見たものである。昭和19年春、研究社の英語辞典、『英語研究』誌(というのがあった!)その他で、すでに先生の令名は轟いていた。

 さて、新校舎で授業が再開されると、鷲尾猛、永井順、工藤粛、小林正、ノエル・ヌエットの各先生が入れ替わり、立ち替わり我々の手を取り、足を取りでフランス語をたたき込んでくれた。鷲尾先生からはフランス語の発音の粋を教わったが病気がちで休講が続いた。
 鼻が高いせいか美母音のよく響く永井先生は、フランス語動詞の活用を毎回20人近くの学生に、一人ひとり毎回言わせるので、田端から徒歩で通う私は道すがら、動詞活用を口にしながら、歩いたものだ。工藤先生は鼻下に髭をたくわえ、その流麗な花文字で描くフランス語綴り字は、絵のように美しく、またその声はよく透り、今でも内藤濯『初級仏蘭西読本』中の一節、

                J'aperçois la lune qui monte dans le ciel.

は、あたかも眼前に、月が中天に昇るごとく、情景を彷彿とさせずにおかなかった。よく透る先生の声は、余人はいざ知らず、私を魅了したものである。ちなみに暁星出身の工藤先生は永井先生同様外語の生え抜きであった。一方、小林正先生は東大の仏文を出てフランス政府給費留学生として、フランス滞在3年余り、フランス文化の粋(すい)を身につけてアメリカ径由で帰国されたためか、私たちの目には先生はダンディの見本のように見えた。ときに小林先生はパリ仕立てのダブルを着込み、そこから赤いチョッキがのぞいた。話は前後するが、竹橋で初めて先生が教壇に立ったとき私はフランス人と思い、フランス人にしては日本語がうまいなと感心したが、その雰意気を戦時中とはいえ西ヶ原にまでもってこられたのである。
 とくにパリはChamps-Élysées の“シャンゼリゼ”をひときわトーンをあげて発音し、四面鏡張りのcafé内の模様を語るとき、戦時下日本という異常な時代にあって、いまだ見ぬ花の都パリをはるか偲んだものである。それにしても先生から受けたおびただしい電磁波のような感化力は、私を雷のように貫いたように思われる。20年来訪れているパリのCaféに入るたびに、私は西ヶ原での先生の真に迫ったカフェ談義を思い出すのである。さらに先生の教えの中で今なお記憶に新しいのは、クルチウス(大野俊一訳)『フランス文化論』(創元社)と滝沢敬一『フランス通信T−[』(朝日新聞社)の2著をこのフランス語専攻の1年のときの必読書としてあげらたことである。とくに後者は横浜正金銀行リヨン支店に勤め、フランス女性を伴侶とした滝沢敬一が戦前から戦中のフランスを、いわば内側から観察し、報告していたことである。不思議な縁でそのリヨンに1977年から1978年間での1年余を過ごすとは当時の私は夢想だにしなかった。勿論、その書が私にとってどれほど役に立ったか計り知れない。ちなみに滝沢敬一は戦後も“フランス通信”を朝日新聞に送り続け、かの地で没した。いまどれほどの教師がこの書を専攻学生に薦めているであろうか。
 その中の一節で記憶に鮮やかなのは、あたかも日本の子女が「お茶」、「お花」を嫁入り前に身につけるように、フランス家庭の良家の子女は、コメディー・フランセーズなどの俳優か、その卵に洗練されたフランス語の発音を習わせるという。さすが17世紀ランブイエ夫人のサロン以来の伝統の国である。格調の高いフランス語を話すことがこの国の伝統なのである。その伝統を地で行くようなフランス語を私たちは鷲尾先生をはじめ、小林先生からもしっかりと学んだ。
 6月になってからか秋になってからか、外語伝統の語劇祭の代わりに大教室で、数語部から寸劇を催すということになり、フランス語は小林先生の個人指導で、武本(啓司)君と名木君(広島出身で原爆直後自殺)が出演することになった。モリエールの「町人貴族(le Bourgeois Gentilhomme)」中の、成り上がりの町人貴族がラテン語をまじえた発音を学ぶ場で、我々も教室でテキストを配られその一節を覚えさせられた。それにしても武本君の話では、小林先生の徹底した発音指導は自身コメディー・フランセーズで見た舞台を思い出しながらの身振り手振りで、遂には教室から運動場へと飛び出して、デモステネスよろしく声を振り絞ってのフランス語発声法であったという。加えて稽古語、腹がへったであろうと「健ちゃん」食堂で、なけなしの配給券で彼らに昼飯をふるまったという。卒業後、武本は商社に入り、フランス語と関わったが、「あのときほど勉強になったことはないよ」と、私に述懐した。思うに、今日これほど誠意を持って学生を指導してくれる教官がどれほどいるか。もって銘すべし。今は亡き小林先生 ―戦後、NHKテレビ・フランス語中級講座や軽井沢フランス語研修会、フランスはポーでの研修会などで再々度拝眉の栄に浴したが― あの歯切れのよいフランス語への郷愁しきりである。ちなみに大教室での発表会では菅原(集)君と高橋君がこれも小林先生指導のラ・フォンテーヌの寓話のひとつ「樫と葦(le Chêne et le Roseau)」を暗唱し、英米科ではシェークスピアの『ヴェニスの商人』(Merchant of Venice)を芦川(長三郎)君らが演技し、岩崎先生からお褒めのことばをいただいていた。

 最後に一言、西ヶ原校舎は火薬庫があった所とは竹橋から移転に際して言われていたが、これがなんとフランスと深く関わっているのである。つまりフランスはリヨンの名門ラ・マティニエール工業技術学校で、実験的に調合された爆発力は日露戦争、とくに日本海々戦に威力を発揮することになる。実は、その下瀬パウダー製造所と火薬庫こそ現在の西ヶ原の東京外語大の敷地にあったのである。ここに西ヶ原校舎とフランスとの細いが強靱な糸を見ないではいられないではないか。一説によると、戦時中グランドから爆弾か魚雷らしきものが掘りだされ、気味が悪いので、現在の体育館近くの地下に再度埋められたという話がある。それ以前は石神井池から水脈を引く江戸幕府の薬草園であったという。
 また、近くの染井墓地には、東京外語出身で教官でもあった二葉亭四迷や、東京美術学校初代校長岡倉天心(覚三)の墓、東京外語同窓会に多大の貢献をし、かつ仏友会元会長後藤篤氏、そしてかく言う私の祖先代々の墓があり、春、染井吉野の淡色の花びらが爛漫と咲きほこる。墓地を出て、外語のグランド近くの本妙寺には、関宿藩主久世大和守歴代の墓と並んで、江戸初期の将棋々聖・天野宗歩、幕末期門弟三千人余といわれた剣の千葉周作、囲碁の本因坊歴代の墓があったことを、今、懐古の念をもって思いだす。


「西ヶ原」と大学院と


矢島猷三(S35卒)


 「西ヶ原」という地名には、懐しい、独特の響きがある。そして少し悲しい。最も多感な時期をそこで過ごしたからでもあるし、一言で言えば一つの例外もなく、すべてのことが不完全燃焼に終始したからでもあろう。
 思えば小さなキャンパスであった。正門を入った真正面にある教室棟もまだできていなかったし、図書館の建て物もなかった。講堂になるはずの場所も、草が繁っているだけのところであり、語劇祭(私のときのフランス語学科の出しものはモリエールの「守銭奴」)も千代田公会堂を借りたと思う。今の事務棟のところが木造2階だてになっており、中に学生のタマリ場のようなものがあった。昼休みにいつでも誰かと議論している元気な学生がいた。今の学長である。
 キャンパスは狭かったが、そのかわり、生えている草木の一本ずつと、その季節ごとの装いの違いが区別できるような気がしていた。入学はしたものの、何をしてよいのか判らない私共を導いて下さったのは、年令順に、まず永井 順先生。色々な角度からフランス世界を説明して下さった。この「フランス事情」の授業は、のちにフランス語だけで構築されている社会の中に入った時に蘇ることになる。先生はまた第一級のフランス語の使い手で、別の授業で下手な発音をしていると、「永井先生の鼻母音をしっかり聞いてくるように」というお達しが出るほどだった。次の「仏文学」ご担当の鈴木健郎先生は、学生と同じ目線の高さで我々の話を聞き、悩み事があれば一番よい解決法を一緒に考えて下さった。このご仁徳に触れたものは、一つ一つの場面を一生忘れることはないであろう。一方、先生は大変な酒豪で、戦場帰りの鉄兜の中で酒を暖め、毎晩楽しんでおられるという話であった。惜しくも比較的若くして亡くなられ、共同研究室に遺影がずっと飾られていたのを覚えている。
 家島光一郎、田島 宏の両仏語学者には、フランス語が学問研究の対象であることを手ほどきしていただいた。新らしいことばの習得も大変だが、研究対象としての外国語の分野は判らないことだらけなのだということ、また研究分野にどういうものがあるかを知ったのも、両先生のお蔭である。「言語学」という名称を正確な文脈の中で聞いたのもこの頃だったと思う。
 惜しくも最近他界された朝倉 剛先生は3年の時にお見えになったのだが、ラシーヌ、コルネイユなど十七世紀のフランス古典期文学を精読することを教えていただいたと同時に、遙かギリシア・ローマの西洋古典の精神が、この時代にも絶えず流れていることを知ったのは大きな驚きだった。もう定年退職された篠田浩一郎先生はおいでになったばかりで、授業はまだお持ちではなかったように記憶している。外国人客員教員は、はじめベテランのボンマルシャン先生と若いルナール先生、そのあと年次は定かでないが、ソワミエ夫妻とカンドー神父だったと思う。
 外語の水に慣れてくると、キャンパスの大小などとは関係なく、次第に居心地が良くなってくる。学生の人数が少ないところから(当時は40人)生じた一種の家族的雰囲気とでも称すべきものは、外語の良い意味での校風だろうが、なかなかそこから抜け出せないということにもなる。
 4年生になって、就職希望の仲間たちが名の通った企業に将来を託そうとしていた頃、どうしてそんな知恵がわいたのか判らないが、同窓のU君と共謀して、「校則によれば各学科4年生の上に“専攻科”というものがあるはずである。フランス語学科にはまだ設けられていないので、2人の志望者のために新設していただけないだろうか」とその時の主任の鈴木先生にお願いした。お返事があり「仕方がないから作ってやる。僕の(=鈴木先生の)演習を一つふやして専攻科のためにあてよう。ただし他の科目は3・4年生と一緒のものを取ること。そして僕の演習の場所は教室や研究室ではなくて、夜学へ行く途中の喫茶店で行う。」というものだった。古い作りの神田のこの喫茶店は今でも健在だが、専攻科の2名はそのあと1年間ここでサミュエル・ベケットと苦闘することになる。
 当時の外語には残念だが、まだ大学院が設置されていなかった。したがってどの領域であろうと、勉強を続けたいものは別の大学の試験を受けて進学せざるをえなかった。専攻科も終りに近づいた頃、思い切って一度東京を離れることにした。このままではいつまで経っても同じだと思ったし、先生方のご意見を伺ってみた結果でもある。「君は都落ちをするのか」という友人のことばを背に、西へむかう汽車にとび乗ることになった。どんな新しい経験が待っているのかもまったく知らずに。
 右も左も判らぬはじめての土地で受けた専門に関する筆記試験は、第1問が当時国内で激しい論争の続いていたM. SwadeshGlottochronologieの考えを解説し、問題点を指摘せよというものだった。第2問はフランス語の現在1人称複数形でpartonsという形があるのに、一方でfinissons(つまり-iss- 形)があるのはなぜかというもの。そして第3問は例が東洋語で問題自体の意味が判らず、手が出なかった。言語学科の志望者は2名で、私の他は東洋語専攻ということが判っていたので、語彙統計論は2名に共通の、起動動詞の接中辞 -isc- の問題は私のための、第3問はもう1人の志望者のための設問であることは判ったが、肝心の答案は自分でも認めざるをえないような要領の悪いものになってしまった。思い出して、今でも悪夢にうなされることがある。翌日の口頭試問の日、固くなっている私の前で主任教授の第一声は「君はできないね。」であった。あとは何を答えたのかよく覚えていない。東京外大からはるばるやって来たというプライドのようなものは、微塵に砕けてしまった。大学の横に小さな丘があって、そこからだとキャンパスの全体がよく見える。ここでぼんやりしていたのを覚えている。
 
思いもかけず入学を許されたが、最初の日がよくなかった。第5講義室のあり場所がどうしても判らない。早めに来たのだが、事務室との間を往復しているうちに、とうとう始まりの時間を過ぎてしまった。教室か物置きか判らないようなところが講義室というのがよくないのだが、遅刻は遅刻だった。控え室に帰ってくると先輩たちが、「君たち[2人とも入れてもらったのだが、蓋を開けてみると、共に別の大学から来ていた]には始めての授業だから、2人揃って改めてご挨拶にいったらどうだろう。何か言われるかもしれないが、税金だと思って頭を下げて来給え」という。恐る恐る研究室に伺候したところ、教授は始めはご機嫌だったが、急に私の方を向いて「最初なのに遅刻するとは何事か、10年間判らぬことが10秒で判ることもあるではないか」と恐い顔のお説教に変った。なるほどここではお行儀から直されるのかとびっくりしたが、聞いてみると皆例外なく雷を落されている。第1日目に落ちたのは幸せだよと先輩たちは慰めてくれた。月日が経つうちに、たとえばもうやめた方がよい、明日から来なくてよいという風な、次第に強い表現でたしなめられるという話だった。教授が我々に求めたのは礼儀・作法ではなくて、研究者の卵としての自覚があるかどうかということだったのであろう。
 
この時間のテキストは J. Kuryłowicz Apophonie en indo-européen という題のものであった。フランス語で書いてあるからには大よそついて行けるだろうと高をくくっていたのが大間違で、今どのページを読んでいるかも、第1回目はとうとう判らずじまいであった。この授業は前年からの続きもので、著書のページを追うのではなく、教授の頭の中で組み立て直された枠に応じて、2ページ前へ進んで4ページ後へ戻るような方法が取られていたから、始めての者に判る道理はなかったし、それにこの本を理解する前提として印欧語の古い時代の知識が必須なのだが、母音の交替の何たるかも知らないものには1行も理解することはできないであろう。このような著書をこのようにして読むという経験はそれまでなかったので、頭の中は混乱するばかりであった。
 
ラテン語の講読の時間があり、これも主任教授の担当であった。ちょうど Vergilius : Aeneis の第2巻からで、これはページを追って進められたが、学年の下のものから当たることになっていて、次々に上のものにリレーされる。入ったばかりの私は一番先に読むことになるが、一応の行数を終ったところで次の者に渡す。次の者は私のあとをひき継ぐのだが、私がどこで潰れるか判らないので前の方も読んでおかねばならない。こうなるとドクター3年の者は大変だが、その日の分が全部判っているどころか、古典ギリシア語を含んだ注解までも楽にこなしていた。これは恐ろしいところに飛び込んでしまったと思ったが、もう引き返すことはできなかった。アエネーイスの準備は、当時の私には丸々1週間かけても間に合わなかった。「外大生は学問の恐ろしさを知らない」と言われていたが、具体的にはこういうことなのかと思い知ったようなわけである。これが5年間にわたる無間地獄のはじまりであった。
 
この地獄がどういうものであるかについては話が無限に広がってしまうが、当時の外語からよその大学院へ移ろうとした時の失敗、当惑、驚きは、衝撃が大きかっただけに新鮮な記憶が蘇る。要は研究者(の卵)としての自覚があるかどうかにかかるのであろう。不勉強で最近の外語大大学院のシステムのことはよくは判らないが、学部と大学院とは意識の上で峻別されねばならないであろう。院生諸君はどこへも行くところがないから大学院に在籍しているのではないだろうか。学業よりもアルバイトを優先させているのではないか。4年で就職したものは、企業の考える再教育を受けるはずである。大学院も同じことで、学部と大学院の間には大きな溝があると知るべきであろう。そこで求められているものは、企業と同じかそれ以上のものであろう。大学院は決して逃避の場ではない。また、こういう言い方は大変失礼なのであらかじめおわびを申し上げるが、スタッフは希望者を一度全員崖の下へ突き落し、這い上って来たものだけを受け入れるという厳しさ、勇気そして自信をお持ちだろうか。
 外語は新らしいページを開くことになる。大学院も上記の一般論に加えて、100年かけて積み上げた校風の香りをミックスすれば、独自のものが定着するに違いないと思っている。
 今後の『ふらんぼー』世界の発展に、私の愚かな経験が役立てば幸せである。


Mille mercis au campus de Nishigahara


鳥居 正文


 西ヶ原に木造二階建て校舎ができたのが1950年5月ということだから(『東京外国語大学史』、1999年刊行による)、外語大はちょうど半世紀の間、西ヶ原の地にキャンパスを置いていたことになる。このお世辞にも立派とは言えないキャンパスが、私にとってはかけがえのないキャンパスで、愛着のない空間はただの一つもないと言ってよいほどだ。場所への執着が人一倍強い私にとって、西ヶ原キャンパスが取り壊されてしまうのは辛いことだが、外語大の発展のためにはやむを得ないことなのだろう。西ヶ原の跡地がどうなるのかまだはっきりしないようだが、個人的には、何か別の施設に生まれ変わるよりも、むしろそこにつどった若者どもが夢の跡よろしく、またこの土地の名前からしても、夏草の生い茂る原っぱに戻るのがよいと思う。だが、都心の一等地にそんなことが許されるはずもないだろう。
 外語大と私との関わりを履歴書風に記すと次のようになろう。
 1967年4月、フランス語学科に入学、72年3月卒業。同年4月、大学院ロマンス系言語専攻に入学、78年3月修了(ただし内2年は留学)。同年4月から現在に至るまで(在仏の2年は除く)、同大学非常勤講師を勤める。計算してみると、29年もの間、西ヶ原キャンパスに通い続けたことになる──最初の9年間は学生として、あとの20年間は教師として。「よくもまあ!」と万感込めて詠嘆するしかない。飽きもせず続いたものだと感心する気持ちと、なんてずうずうしい奴なんだ、20年間も非常勤講師として居座るなんてという気持ちとが交錯している。
 新入生のクラス分けで私はCREDIFを使うクラスを選んだ。担任の朝倉先生と渡瀬先生が、アーベーセーも知らない私たちに生きたフランス語を身につけさせようと、手とり足とり一生懸命になって教えてくださった。このCREDIFの授業が西ヶ原キャンパスの原初風景としてある。先日、朝倉先生が亡くなられたが、その知らせに真っ先に頭に浮かんだのも、やはりCREDIFを教えてくださっている先生の姿だった(先生のご冥福を祈ります)。2年生の秋に西ヶ原でも「大学紛争」が始まり、長期にわたるストライキ、ロックアウトで自分を見失いかけていた時期、心の拠り所になったのはフランス語学科の先生方に対する信頼の気持ちだった。大学に対する不信感からキャンパスを去った学生もいたが、私の場合は、学生に対する真剣な対応ぶりを見て、フランス語学科の先生方への信頼をますます強くしていったと思う。先生方の学問への情熱が知らず知らずのうちに乗り移るかたちで、気がつくと自分も──身のほど知らずにも──何とか学問で身を立てたいと思うようになっていた。どうして語学を専攻することになったのかについては、記憶に霞がかかってしまい、今一つはっきりしないが、家島、田島、渡瀬各先生の手ほどきによってフランス語学に関心を抱くようになったこと、また特に、田島先生の卒論指導によって将来の方向が決まったことだけは確かである。田島先生には30年後の今日までご指導を仰いでいる。
 大学院に入ってからは、取り立てて書き記すことはないが、ちょうど入学した年に『ふらんぼー』発刊の話しが進展し、院生も加わって規約等について議論したことを覚えている。そして翌年(1973年)の12月に記念すべき第1号が刊行され、今日に至っていることは周知の事実である。私も早速第2号に論文を投稿し掲載されているが、院生、修了生が自由に発表できる場ができたということで、研究科の発展にとって画期的な出来事だったといえよう。号を重ねるにつれてこの雑誌の評価も定まり、掲載論文が就職の助けになった者は私だけではないだろう。キャンパスが変わっても、『ふらんぼー』の炬火を掲げ続けなければならないことは言うまでもないが、より一層輝きが増すように、会員一同これまで以上の努力をしていかなければならないだろう。 
 2年間のフランス留学を経て大学院を修了した後、今度は教える立場で週に一度、西ヶ原キャンパスに通うことになった。しばらくは学生気分が抜けず、授業の後、学生とよくキャンパスの近くの居酒屋で酒を飲み、発破を掛けたりもしていたが、学生が年々若くなるにつれて(もちろん学生の歳は変わらず、こちらが歳をとっただけだが)、また本務校の仕事が忙しくなるにつれて(運よく1982年4月、青山学院大学に専任講師として着任していた)、そのようなことも残念ながら無くなっていった。ある程度距離を置くかたちで20年間フランス語学科(1995年からは学部改組により欧米第二課程フランス語専攻)の変遷を眺めてきたが、教室で顔を合わせるフランス語専攻の学生は、もちろん例外もあるが一般に真面目でよく勉強する。これは昔も今も変わらないよき伝統と言ってもいいかもしれない。研究室の先生方も、いつの間にかほとんどが私より若い先生方になってしまったが、研究・教育のいずれにも熱心な優秀な先生方が揃っており、心強いかぎりである。フランス語学科伝来の、権威にとらわれない自由検討の精神が、府中のキャンパスにも植え付けられることを切に願っている。
 最後に、国松さん、西永さんを中心とした外語大の教員野球チームの一員として、東大、立教大、千葉大、白水社を相手に何度も試合をしたグランドも、西ヶ原キャンパスの忘れ難い空間の一つになっていることを付け加えておきたい。

                    (2000年6月)


西ヶ原の想い出

甲斐 基文


 川口裕司先生から勤務先のフランス文学科研究室に連絡があった。在外研究でパリに滞在している私は、懐かしい外語に電話した。その時、この想い出記の他の執筆者の先生方の顔ぶれをうかがい、正直言って躊躇した。というのは、その先生方が、私にとってはあまりに大きすぎる存在で、私のような若輩者の想い出記が、形の上だけでも、それらの大先輩方の想い出記と肩を並べることになるということに、一抹の不安を覚えたからである。だが若輩者には若輩者なりの想い出もあり、一人くらい若輩者の想い出が混じっていれば年代的に異なった想い出記があって面白いかも知れないと考え、執筆させていただくことにした。
 私が外語と初めて出会ったのは大学院の受験の時である。当時私は、都内の私立大学のフランス文学科に在籍していた。言語学に興味を持っており、大学のサークルも「言語学サークル」なるものに所属していた私は、大学院への進学を希望していた。母校にも大学院、それも博士後期課程までが設置されていた。しかし当時は変形生成文法が一世を風靡しており、母校の大学院では「変形ならずんば言語学にあらず」的な風潮があり、自分には合わないような気がしていた。しかも外語の入試結果の方が早く発表になり、幸運にも合格させていただいた後は、外語に来れるということだけで有頂天で、母校の大学院のことなどすっかり頭から消えてしまっていた。
 大学院入学後は、渡瀬先生、小野先生、敦賀先生の3人の先生方にフランス語学の手ほどきを受けた。指導教官は小野先生に引き受けていただいた。まだこれといって自分の関心分野が絞り切れていなかった、他大学から来た変な学生の指導を,よくぞ引き受けてくださったものだと感謝している。さて,渡瀬先生の授業ではテニエールの動詞理論を,小野先生の授業ではグロスの動詞理論や他の最新の文献を教わった。テニエール独特の動詞理論は、今日でも色褪せていない。現在出席しているパリ第V大学の統辞論や発話理論の講義でも頻繁に言及され、当時の講義が役立っている。グロスの動詞分析も然りである。敦賀先生には2年間にわたり、マンツーマンでソシュールの「一般言語学講義」と、後に出版された「一般言語学講義」の著者以外の受講生のノートを比較検討していくという授業を受けた。文献というものはこのように読むのだという姿勢を学んだ。また、1対1という環境は、今にして思えばこの上なく贅沢なもので、本物の言語学者と1対1で相対さねばならないと、毎回武者震いを覚えたものだ。2年目には、先生は私の講義前に、当時客員教授として外語にいらしていたジャン=マルク・サラル氏とラテン語を勉強しておられた。授業開始時刻後10分くらいしたところで私が先生の研究室のドアをノック。そこでラテン語の勉強会が終わり、私の為の講義が始まる。先生方の勉強会を邪魔するような気がして、ノックをするのが申し訳ないような気になったものだ。
 先輩方にもお世話になった。現在静岡大学にいらっしゃる浅野先生、神奈川大学にいらっしゃる西野先生には特にお世話になった。木曜日2限の渡瀬先生の講義が終わると、二人の先輩に連れられて、巣鴨のとげぬき地蔵通りの、とあるレストランに昼食に出かけた。私はその後、午後から学部の授業に登録していたのだが、時には授業に行くのもそっちのけで、学問のこと、論文のことなどいろいろな話題に花を咲かせた。次の年には時間割の都合でこの「昼食会」は消滅してしまい、残念に思ったことを覚えている。その後文部省給費留学生としてパリ第V大学に留学した際は、西野先生に指導教官を紹介していただき、同じ先生の教えを受けるという幸運にも恵まれた。ちなみに今現在もその先生の指導教官についていただいて、博士課程に学んでいる。
 大学院を修了後、外語で非常勤講師として3年間勤めさせていただいた。たった1コマだけの、月曜4限の初級フランス語の授業であったが、責任重大だという気持ちで予習に余念がなかった。毎回毎回講義に全力投球した。もともと外国語に関心を持っている学生達であったので、とても楽しく授業が出来た。3年目の冬に例の阪神・淡路大震災にみまわれ、兵庫県芦屋市にあった私の実家は全壊した。私もその建物の中で寝ていたのであるが、幸運にもかすり傷一つ負わなかったのは、まさに奇跡と言うしかない。結局震災後1回休講し、先生方には心配をおかけすることになってしまったが、なんとか最後までやり遂げることが出来た。優秀な学生に囲まれ、母校で教えることの出来る喜びを実感した3年間であった。
 このように外語に育てて頂いた甲斐あって、今ではフランス文学科に専任教員として所属し、専門科目を教えるという機会にも恵まれている。あの外語での7年間が、今の私の基盤であることは言うもでもない。施設的にはお世辞にも良いとは言えなかったが、最高の教授陣に教えをうけた日々だった。今回外語が新しいキャンパスに移る。文字通り、全てにおいて最高の環境になるはずである。しかし、あの西が原のちっぽけなキャンパスは、私の母校として永遠に記憶にとどめられることになるだろう。今後の外語の一層の発展を祈りながら、結語としたい。




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