中世の娼婦

はじめに


   Fabliaux(ファブリオー)の時代である13世紀後半〜14世紀前半とは女性に敵対的な都市中産階級繁栄の時代でした。カペー朝(987〜1327年)の時代、1180年フィリップ二世即位すると、中世・聖職者階級(教会)は「女性は本質的に劣等である」という観念につながる教説を確立しました。ヨーロッパ文化が発達し、支配者の権力が増大するにつれて、教会の与える懲罰は世俗の法律によって強化されたのです。


I)売春統制の流れ

   1198年には 教皇インノケンティウス三世「娼婦を改心させるように努力すべきだ。」と言いました。そして1209 年には、娼婦と結婚するものすべてに罪の許しを与える(最後の審判で罪が軽減される)という勅令を出したのです。1227年には 教皇グレゴリウス九世が聖マリア・マグダレナ修道会(娼婦の収容施設)を承認し、そして1254年にはルイ九世が売春根絶を試みました。彼は娼婦を改心させようと努力しますがその効果はあまりありませんでした。またベギン会修道院の設立し、娘たちの家(Maison de Filles-Dieu)の建設をしました。そして売春規制の勅令を出しました。それは売春婦及び売春に寄食するものすべてを国家の法律のもとから外すというものであり、彼らの財産・衣類(毛皮・リネンのシューズなど)・日用品の没収し、都市の外へ追放(町の主道路、教会、公共健建造物から隔離)し、さらに差別の印としてハウベ(市民の妻がかぶる帽子)・ベールの着用を禁止するというものでした。そして娼婦を「娼婦の王roi des ribauds」によって監視させたのです。彼らは都市から任命された娼婦の監視役で、衣装・居住地・行動などの点で違反を犯した売春婦を、逮捕し監禁する権限を持っていました。パリの町からは売春の表だった徴候はすべて取り除かれるました。しかし14世紀末になると、問題が多く発生したため、娼婦の追放ではなく管理統制へと移り代わり、売春宿からの税金は国庫の財源となりました。1347年には、ナポリ女王プロヴァンス伯ジャンヌによる布告があり、 娼婦を特別地区に制限しました。彼女はアヴィニョンの街頭から娼婦を追放し、「放蕩の館 Maison de Debauche」(監視付きの立派な娼婦街)に入れたのです。また娼婦を衣服で区別するため外出する場合には左肩に赤いリボンを付けさせました。また毎日の健康診断や、妊娠した娼婦の出産を義務化したり、生まれた子供の教育、食料を与えることを保証したり、祝日と金曜日は休館にすることを義務化したのでした。


II)娼婦の地位(キリスト教の娼婦像)

   12世紀 トマス・アクィナスはパリの娼婦を労働者の中に位置づけました。娼婦が悔い改めた場合は、ノートルダム教会へのステンドグラスの寄進を拒む理由はなく、なぜなら娼婦が稼いだ金は正しいからであり、娼婦の仕事の性格は神の掟に背くものであるからといって、彼女たちの収入が不正だということにはならないというのです。さらに 娼婦の地位は軽蔑すべきものではあるが、彼女たちの稼いでいるものまでが軽蔑すべきものとはならないと言い、娼婦は、男性を誘惑する存在であるだけでなく、悔い改めによって聖人にもなれる存在、という位置づけをしたのです。しかし現実に娼婦の社会的地位が上昇したわけではありませんでした。
13世紀後半以降 娼婦の社会的地位の下落します。.ルイ九世売春規制の勅令(1254)により、カルカッソンメヌ、トゥールーズ、アルルなどでは娼婦は市壁の外に住まわせるようになりました。またアヴィニョンではユダヤ人と娼婦は市場で食料品に触れるべからずという令が出て、触れたものはすべて買い取るよう強制されたのです。娼婦は、社会から隔離され排除される者として位置づけられるました。
   14世紀末頃になると、娼婦は制度化され、市営の娼婦宿が出現したのです。市壁内の指定区域の限られた者だけに売春を許可するというものでした。ナポリ女王の布告(1347)を他の高級売春宿(トゥールーズ、アンジェ、ストラスブールなど)も倣い、これにより都市の制度内に組み込まれた娼婦が認められたのです。
   15世紀には娼婦の存在が公認され、差別の印、「娼婦の王」が廃止されました。それは法的に市民と対等になったということです。ラングドック地方の町では娼婦が焼いたクッキーを、市当局が貧民に配る習慣がありました。また結婚した妻が、家計のためにパートタイマーとして働く(売春をする)こともよく見られました。イタリアでは高級娼婦(ハープ・リラの演奏、読み書き、歌を歌える娼婦)の時代になります。15世紀末(中世末期)になると 知性と魅力を備えた高級娼婦に対する憧憬もあらわれるのです。


III)中世の結婚事情と売春のシステム

   都市の手工業者の場合、12世紀には教会が結婚に介入し、結婚はキリスト教の重要な儀式でした。男女両性の結びつきは、聖なる結びつきだったのです。問題点として一般男女の結婚時の年齢差が開いていたことがあります。1140−1190年の調査(ボケールにて、241組の夫婦対象)によると、夫が妻よりも年上が85.5%にのぼり、年齢の開きは平均7.9歳、30代男性と8〜16歳若い妻との結婚は20%、40代・50代男性と20〜34歳若い妻との結婚は15%でした。これは30〜50代男性が、若い男性の相手となるべき適齢期に達した女性の三分の一を嫁にしているということです。ゆえに若い男性の相応の結婚相手がいなくなるのです。そして性のはけ口として娼婦宿が必要となりました。
   娼婦のプロフィールを紹介しますと出身は大体、町や周辺の農村で、日雇い労働者の妻、手工業者の妻・娘、職人の妻、手工業親方の妻などがいました。裕福層の妻も20%ほど見られ、放浪女は娼婦の15%のみでした。年齢は17歳位(まれに15歳位)からで30歳位で退職(30歳=老女)しました。動機としては暴行事件の被害者(27%)や、身売り・家族から売られる場合(25%)、自分の意志(15%)などがあり、50%以上の人が本人の意思に反して売春の仕事に就いていたことがわかります。また退職後には、13世紀以前であれば大半は社会復帰(下女、司祭の内妻、正式結婚)をしていました。娼婦は被差別民ではなかったのです。13世紀末以降には修道院に入るということも多かったようです。数としてはルイ9世の時代(1226−70)〕には約12,000人の娼婦がいました。(当時のパリ全人口は約15万人)
   娼婦の稼ぎ場として浴場がありました。大都市の浴場は、貧しい人々が頻繁に出入りし、売春とのつながりが深かったのです。イタリア語でbagnio風呂とは売春宿の婉曲表現でもあります。ヘンリー2世の取締令によると、浴場の経営者及びその妻は、女性一人の者を自由に出入りさせることを禁止され、また浴場に女性を住まわせることや、浴場内での性交渉は厳しく取り締まられ、役人が毎週立ち入り検査していました。
   13世紀初頭パリでは自ら客引きをして学校内にある売春宿へ連れ込む娼婦もいました。売春宿はしばしば学校と同じ建物にあり、二階では教師が講義を行い、階下では売春婦が商売をするという光景が見られたのです。(学生は売春宿の常連でした。)
   13世紀以降では軍隊公認のお付き娼婦がおり、中世の軍隊は「売春婦付き下士官」を持っていました。売春婦付き下士官とは売春婦の管理人であり、軍隊公認の売春婦の秩序を保ち、彼女たちに課せられていた他の義務(病人の看病、選択、便所掃除など)の監督をする役です。1474−75年のノイスの包囲の時、ブルゴーニュのシャルル豪胆公は包囲軍の四人に一人の割合で女をあたえたと言われています。
   14世紀末には市営の娼婦宿が盛んになり、都市の内部にはどこでも国や市の直属の娼婦宿があり、各都市の目抜き通りに位置していました。規則として、あまりに年の若い者、既婚者を客にしてはならないというものがありましたが、実際は守られていなかったようです。また、二人で一人の客を相手してはいけないが、一人で二人の客を相手しても良いという規則もありました。女性が葡萄畑で半日働く賃金〔フランスの例〕を稼いでいたようです。普通娼婦は、小路、酒場、教会の門前で客引きをしていました。ヴェネツィア、サン・マルコ広場(ローマ教皇の宮殿がある広場)での客引きの例(1448年)が残っています。
   自宅での個人経営もあり、それは日曜日にも営業していました。手工業者たちは日曜日に集団で売春宿へ行ったからです。
   取り締まりが厳しくなると、売春に寄食していた者の多くは、他の正業を隠れ蓑にすることを画策しはじめます。。例えば、浴場主の女将が、親の借金の肩代わりに預かった娘を配下におさめ、客がくると紹介し売春をさせるなどしていました。このような仲介の女性は大体40代〜60代の女性で、手工業者(特に理髪屋や浴場主)の妻、未亡人が多かったのです。


まとめ

   娼婦は、中世市民社会で重要な役割を占めていました。ディジョンでは客の二割が聖職者(修道士を含む)だったのです。聖職者が娼婦宿に通うことは、人々から避難される事ではありませんでした。内縁の妻を持っている聖職者や、取り持ち女を通して若い娘や他人の妻と関係を持つ聖職者は不潔な存在として嫌われました。なぜかというと、中世では結婚することが容易ではなく、(聖職者を含む)未婚の者が娼婦宿に通うことには寛容であり、在俗聖職者(俗世間にいる普通の修道士、司祭)でも、地位は高くないので、彼らが超人間的な禁欲行動を行うなど誰も信じていなかったのです。また父親や夫にとって、若い聖職者が自分の妻や娘と関係を持つよりは、娼婦宿を訪れる方が安全であったのです。
   売春宿とは都市の家庭の安全を守り、若者の抑圧された性のはけ口であり、若者や手工業者の性欲を満たし性的衝動を一時的に抑える役目も果たしたのです。すなわち娼婦とは正常な結婚をしている婦人たちの安全を守り、性衝動を抑えるための職人であったといえるのです。

東京外国語大学(TUFS) 川口裕司研究室