静岡大学集中講義

フランス言語文化各論X(2001年度)

 

 

1.    藤田たりほ

 

 静岡県は、日本列島のほぼ中央、太平洋に面した位置にあり,東西に長く、富士山や南アルプスなど3.000m級の山の連なる北部山岳地帯に囲まれています。気候は、全般に温暖な海洋性気候で、平地では冬の雪もあまり見られません。春は温暖、夏は前半が雨期、後半は晴天で高温、秋は涼風・快晴、冬は乾燥・晴天と四季がはっきりしています。海、山、湖などバラエティに富んだ自然に恵まれ、日本の縮図ともいえる風土を有しています。四季折々の風光明媚な景観で満たされ、多くの人を魅了しています。温暖な気候に恵まれ、静岡県では、全国一のお茶をはじめ、みかんなどの果樹、野菜、花、畜産など多彩な農産物がつくられています。

 また、県土の64% が森林で、これらの豊かな森林資源を活用して、多くの木材が生産されています。森林を利用したきのこ類の栽培も活発です。また、静岡県は多くの良港をかかえた漁業県でもあり、遠洋漁業、うなぎなどの養殖業、水産物の加工・流通業とも全国有数です。豊かな自然や地理的条件に恵まれているため、石器時代より人間の定住があったことが、県内の三ケ日町で発掘された人骨や静岡市の登呂遺跡などから証明されています。人口は、3.740.000人位(平成5年現在)で、日本の総人口の3.0%にあたり、47都道府県中で10番目に人口の多い県です。東西文化圏の交わる交通の要衝であるところから、静岡県には古くから文化の華が開きました。史跡や工芸、伝統的建造物など多様な文化遺産が各地に残されています。

 静岡県は、「日本一」と誇れる次代に残すもので、環境部門、農林水産部門、多彩な産業部門など多くありますが、代表的なものを紹介します。季節ごとの風情ある富士山をご覧下さい。近くから見るも由、遠くから見るのもいいですが、一度登ってみてください。壮麗な富士の夜明けを頂上から拝むと感無量になります。そして富士山がつくった川、「東洋一」の湧水量をもつ名水、自然の恵み「柿田川」は、そのまま飲料水として、水辺に生息する動植物にも、命の水を維持して受け継がれています。

 

富士山四季の姿はこちらから(写真 『富士山』、NHK静岡放送局 富士山とわたし編集委員会、1998による)

 

2.    大平千春

 

 私は、県外出身者で約四年前から静岡に住んでいるが、この土地に対する愛着がふるさとよりも大きいのはどういうわけか。なんてことないことなのだけれど、いいなぁと思った点を挙げてみたい。

 

 気候がよい。これは私がなにより驚いたことで、私の実家の徳島県は静岡県よりずっと南に位置しているというのに、ここと比べると冬の寒さが少し辛い。夏は夏で、徳島のほうが湿度が高くて過ごしにくい。静岡にずっと住んでいる人には身を持って体験してみないとわからないことだと思う。そしてその温暖な気候の中で作られるお茶は全国的に有名で、静岡の人はお茶を本当によく飲む。愛飲しており、しかも濃く入れたのが好みだ。以前アルバイトをしていた料亭では、暇なときにはいつもお茶を飲み、休憩でケーキを食べるときにもお茶を飲んだ。そしてその年の冬思ったのは「今年、全く風邪をひかず喉も調子がよかったのはあのお茶のお陰にちがいない!」ということだった。そうにちがいないと悟った。そしてお茶の里はすばらしいと思った。

 

 

 花火大会が多い。これもまた、その数の多さに驚いた。きれいな水のあるところでは花火大会が多いと聞いたことがある。そう言われると、海・川・湖と美しい水辺が思い浮かぶ。花火が大好きで、それが夏の唯一の楽しみとしている私にとってはとても嬉しいことに思えた。

 

 温泉がある。四国の人間である私にとっては「伊豆」だとか「箱根」だとかいう響きに弱い。特別な響きをもっていたからだ。観光ガイドなどでしか見たことがなかった、それらの温泉地があまりに簡単に行けてしまうことが嬉しくてしょうがなかった。とくに私のおすすめの温泉は伊東にある「藤よし」。山の上のほうにあり、ちょっとさびれた感じというか、ひっそりしている温泉宿になっている。ここは温泉街とは全く離れた場所にあるので隠れ家っぽい雰囲気である。お風呂は山の斜面に沿うようにいくつも露天風呂があり、タオル一枚まいて、お風呂からお風呂へと移動する。しかも混浴。しかし、(私が行ったときだけがそうだったのか、いやそうとも思えないのだけれど)ほとんど人に会うことはなく、そういうふうに歩き回っていても平気だったりする。貸切にできる札のついたお風呂もあったりして。そして露天風呂の魅力である景色はというと、(たしか相模湾だと思われる)海が一望できるのだ。絶景。とてもよかった。このような温泉がたくさん隠れているに違いないので静岡は素敵だと思う。

 

 食べ物ついて。私にとって一番ショッキングだったのははんぺんが黒いこと。静岡人にとってはそれが「はんぺん」だからびっくりする。それがフライになったり、おでんに入ってたりしたので、はじめは慣れなかったが、最近では帰省のときに買ってかえることもあるくらいお気に入りになっている。

 

 

 

 

 

 

3.    杉田朋  

 

 なぜフランス語を日本で学ぶのか

 

 文部科学省は2002年、英会話中心の英語教育を小学校低学年から導入する。これまでの日本の英語教育は確かに不完全であった。多くの単語を知り、高度な文章を理解することはできても、コミュニケーションの手段として実践できるかというと、そうではない。その意味では確かに早くから、つまり子供のうちから英語を学ぶことでより英語に慣れ親しむことができると考えることはある意味では正しい。

 しかし英語が公用語として多く話されているという理由で、英語の必要性を子供のうちから植えつけてしまうとしたら、それはもはや英語教育の問題ではなく、学校教育の問題になるのではないか。世界にはたくさんの国があるように、たくさんの言語が存在する。言葉はコミュニケーションの手段である以外に、その国の歴史・文化をあらわす象徴でもある。だとすれば、まず第一にわたしたちは日本人であるために日本語についてもっと深く学ぶ必要があり、そして第二に自分が興味を持った国の言語を知るということが大切なのではないだろうか。それは人によって何語でもかまわないのだ。国が英語の必要性を訴えていることが、「手段としての言語」なのだと言うことを自覚していなければならない。

 

 もちろん日本においてフランス語を学んでいる人の中にはフランス語を話すことを目的としている人もいるであろう。しかし言葉を学ぶには人それぞれその他多くの理由も考えられる。例えばシャンソンやフランス料理またフランスの文化や文学に興味をもつことでフランス語を始める人もいるかもしれない。そして、町に出るとフランス語で書かれたものが目に飛び込んでくる。レストランやブティックの看板、ファッションに関係したものには特に多い。洋服や小物にプリントされていたりする。最近は車の名前にも多く登場している。私もフランス語を始める前はまったくそれらの文字に目がいかなかった。フランス語を知らない人にとっては、こうしたフランス語は言葉としての機能を持っているというよりは、ファッションの一部として捉えられていることが多いのだが。

 

 語学を学ぶ上で、会話を習得し、実用を重んじることももちろん大切だが、その言葉を通した先にあるもの、つまり子供の興味の対象を広げ、知りたいという欲求を育てることが重要なのではないだろうか。このように考え日本人が英語だけに限らず、フランス語、またはその他の言語を日本で学ぶことに意義があると考える。

 

4.    宮崎実奈子                                                                                     静岡大学人文学部

 

 なぜフランス語を学ぶのか?

 私にはこれという理由はない。それにも関わらず週4日の大学での講義でフランス語の文章を目にしている。自宅での予習も合わせれば毎日フランス語を読んでいる。確かに基礎的なことは学習済みだが、頭を抱えてしまうような文章に出くわすことはいつまで経っても変わらないように思う。はっきり言ってこの頃は楽しいと思ってやっているのか解らなくなるときがある。それでも続けていけるのはやはりフランス語を勉強することが好きだからなのだと思う。

 どうして好きなのか。これは直感的なものだと思う。6年以上もやってきた英語ではなくフランス語を選んだのは英語にはないフランス語の魅力が私を惹きつけたからだと思う。

 静岡大学には正確には仏文科は存在しない。あるのは欧米言語文化コースの中で更に細分化されたフランス言語文化コースである。現在4年生が5名、3年生が7名、2年生が4名の廃部寸前の弱小部のような存在である。初めて聞く人は必ず複雑なコース分けとコース名の長たらしさに怪訝な顔をする。これは私にもわからないけれど建て前としては文学、言語に囚われず、言語を媒体として起こる諸現象(?)を扱うことを目的としているからだそうだ。それが如実に現れているのが卒業論文の題目のバラエティの豊かさだと思われる。

 過去のように、もちろん文学を扱う人もいれば音楽、あるいは今年は香水の文化に焦点をあてた人もいる。いまや、カルチャーとサブカルチャーの垣根は取っ払われつつある。そんな中でジャンルに囚われた学習というのはもう時代遅れというか、もうそろそろ立ち行かなくなってきているのではないかと思う。

 それに逆行してとまでは言わないが、わが仏文コースでは講読の授業が大部分を占めている。私自身は講読という作業は語学の学習において非常に重要なことだとは思うが、今回4年生の卒業論文のテーマをかんがみると、フランス言語文化コースを名乗るには講読だけの授業では不十分というのもまた事実のような気もする。

 授業の形式は生徒の人数、あるいは教官の数等、諸事情あって今のような形式になったのかもしれないが、講読にしても物語を読み解くあるいはただ文章を訳すという作業ではなく、「読む」だけに終始せず、読んでそれをどう「考えるか」というような講読作業をしてはどうだろうか?つい先日、縁あって(?)画集のために書かれた文章を訳すという作業を経験した。単語や構文はそれほど難しくはなかったのだが文章の大意をつかむのにとても苦労した。訳した文章が正しいかどうか、実際その絵を見て解釈が間違っていないか必死になって考えてしまった。文章そのものではなくそれが扱っているものから文章を読むというのがいつもの講読とは逆で新鮮だった。事実大変ではあったけれども面白い経験をした。こういう語学へのアプローチがあっても良いのではないだろうか。

 

参考文献

 『富士山』、NHK静岡放送局 富士山とわたし編集委員会、1998.

 『SHIZUOKA 静岡県』、静岡県国際課、1995.