『一つの言語から他の言語へうまく翻訳する方法』 (1540)

オルレアン出身エティエンヌ・ドレ著す。

 

一つの言語から他の言語へうまく翻訳する方法は主として五つのことを要求する。

最初に,翻訳者は原著者の意図と題材を知りつくしている必要がある。というのも,それを知っておけば,原著者の意図と題材が不明瞭になることはないからである。たとえ原典がかなり難解であったとしても,彼はそれを易しくかつ理解可能なものにすることができるだろう。このことについて君に身近な例をあげよう。キケローのトゥスクルム荘談論の第一書には次のようなラテン語の一節がある。「一方,我々ローマ人のように,魂(ANIMUS)は気(ANIMA)と同じであるという者もいる。これらの語の形から両者が同じ意味であることが見てとれよう。というのも我々は,魂がついえる(AGERE ANIMAM)とも,息をひきとる(EFFLARE ANIMAM)とも言うし,熱き魂を持つ者たち(ANIMOSOS)とも言い,気概のある者たち(BENE ANIMATOS)とも言い,また,魂の命ずるところでは(EX ANIMI SENTENTIA)と言うからである。まさしく魂は気に由来するのである。」

キケローのその作品を翻訳したとき,私は次のように述べた。魂と気の違いについては,まったく注意を払うにはおよばないと。これらの語が用いられるラテン語の言い回しをみると,それらはほぼ同じ意味であることがわかるからである。魂は気に由来し,気が魂の要素であることは確かである。ちょうど精神の起源に,肉体の力と器官があるというようなものだ。精神はその生命の力から生まれてくるのである。(ラテン語のわかる君だから言うのだが),キケローの意図を理解せずに,その文章をうまく訳すことなどできるだろうか。翻訳者は皆,翻訳をするとき,原著者の意図を完璧に理解することが必要不可欠であることを知っておきたまえ。そうでなければ翻訳者は忠実に訳すことができないのである。

翻訳にとって次に必要なことは,翻訳者が原典の言語について完璧な知識をもち,原典の言語に秀でていることである。こうして翻訳者は双方の言語の威厳を貶めることも損なうこともない。ラテン語とフランス語の完璧な能力なくして,キケローの演説をうまく訳すことができるだろうか。それぞれの言語に特有な単語の転用,語法,繊細な言葉づかい,感情表現があることを心得ておくべきである。翻訳者がそれらを心得ていなければ,原著者に対しても,原典の言語に対しても誤りをおかすことになる。なぜなら,用いられる二つの言語の品位と華麗さが表出されることも表現されることもないからである。

第三の点は,翻訳するときは原文に忠実なあまり逐語訳になってはならないということである。逐語訳になるのは,自らの精神の貧困と過失ゆえである。翻訳者に前述の長所が備わっていれば(よい翻訳者になるためにはそれが必要なのだが),語順にとらわれず,文全体に留意して,注意ぶかく両方の言語の特性を保ちつつ,原著者の意図が表現されるようにするであろう。文章の頭から翻訳を始めるなどというのは恐るべき迷信であり(それを愚行あるいは無知と呼んでおこう),たとえ語順が入れ替わったとしても,原著者の意図が表現されていれば,誰も君のことを非難したりなどしない。自由を手に入れるかわりに,自らを隷属の身におこうとする翻訳者たちの愚行に対して,私は黙っているつもりなどない。その翻訳者たちは,愚かにも行から行へ,詩句から詩句へと,忠実に訳そうと努める。この錯誤によって,翻訳者たちは原著者の意図をたびたび歪め,双方の言語の気品も優雅さも表現できなくなるのである。自らの無知をさらけだすこの悪習に対しては警戒し用心しておくほうがいい。

次にあげる第四の規則は,美的法則に従っている言語よりも,むしろ従わない言語において守られるべき規則である。ここでいう慣用的な美的法則に従わない言語とは,フランス語,イタリア語,ドイツ語,英語,さらに他の通俗語のことをいう。それゆえ,もし君がラテン語の書物をそれらの通俗語(とくにフランス語)に翻訳するのであれば,ラテン語に極めて近い単語で,過去にはまれにしか使われなかったような単語をたくさん使うのは慎むべきである。つまり一般的な単語で満足すべきなのであって,非難されるべき入念さでもって新たな単語を作りだすのは愚の骨頂である。たとえそうする者たちがいたとしても,彼らに追随するのはよくない。彼らの傲慢さはまったく価値がなく,教養人の間では耐え難いことなのだから。とはいえ言っておくが,翻訳者は一般の用法からかけ離れた単語をすべて慎むべきだなどと理解していただいては困る。ギリシア語やラテン語はフランス語よりもずっと表現が豊富だからである。したがって,まれにしか用いない単語を使用しなければならない場面もある。ただしそれはぜひとも必要とされる場合だけである。いうまでもなく,フランス語の単語の大部分はラテン語に由来し,先達たちにはそれらを使う権利があり,今の人々も未来の人々も同様なのだと主張する者たちがいることはよくわかっている。しかしそうした議論はすべて饒舌家たちの間でかわされる議論なのであって,最良の策とは一般的な言葉づかいに従うことなのである。拙著の『フランス語論 ORATEUR FRANCOYS』では,その点を十分にさらに明確に扱うつもりである。

よい翻訳者がまもるべき第五の規則について話そう。この第五の規則はひじょうに重要であり,これをまもらなければいかなる作品も重苦しく,耳障りなものになる。いったい第五の規則とはどのようなものなのであろうか。それは言語の韻律に他ならない。言語の韻律とは単語の連続と凝集のことであり,魂が歓喜し,耳が喜悦するような,いまだかつて聴いたことのない甘美さをもった言葉の調和のことをいう。言語の韻律については,拙著の『フランス語論』の中で十分に語ることになろう。したがってここではこれ以上語ることはしない。今いちど翻訳者に忠告しておく。韻律をまもらなければ,いかなる作品も素晴らしくなり得ない。韻律をまもらなければ,文には重厚感が欠け,当然のことながら必要となる重量感がでてこない。単語をうまく組み合わせることなく,精緻で優雅な単語だけで事足りるとするつもりなのか。忠告しておくが,それは無秩序に配列された宝石の山にひとしい。並べ方が不適切であるがゆえに,宝石には輝きが見られないのである。別のいい方をすれば,芸術を知らない演奏家たちが,音楽の律動や拍子を心得えないままに楽器を演奏するようなものである。つまり単語の順序と配置がしかるべきものでなければ,単語にも輝きは見られないのだ。この点について,とくに評価が高かったのはギリシャの言語論者イソクラテースとデモステネースである。

ラテン人の中ではマルクス・トゥッリウス・キケローがみごとに韻律をまもっていた。とはいえ年代記作家よりもフランス語論者が韻律を遵守しているなどと思ってはいけない。それが証拠に,響きの点でカエサルとサルストゥスがキケローよりおとっているなどと,まさか君は思うまい。結局のところ,韻律を厳密にまもらなければ,作家というのはその名に値しないのである。韻律があってはじめて,作家は弁論において必ず名声を得ることができ,単語は精緻になり,文章に重厚さがでて,表現も繊細になるであろう。これらはいずれも,完璧にして数々の栄光に輝く雄弁さをかね備えた言語論者の本質を表すものなのである。

 

フランス語の句読法

 

すべての言語の口語体と文語体に,おしなべて相違点が見つかるとしても,すべての言語にはたった一つの句読法しかない。すなわち,句読法において,ギリシャ語,フランス語,イタリア語,ラテン語,スペイン語の相違点を見いだすことはないのである。その句読法について簡単に解説することにしよう。句読法をしっかり身につけるには二つのことが大切である。一つは句読点の名前と形態を知ることであり,もう一つは句読点の入れるべき場所を理解することである。

形態に関しては次の通りである。

 

1  ,もしくは ′の様に

2  :

3  .

4  ?

5  !

6 ( )

 

1.第一の句点は,ラテン語でINCISUM(切断)と呼ばれる。フランス語では(おもに印刷業において)尻尾つきの点,または句点と呼ばれ,日常的には のように記されていた。

2.第二の句点は,ギリシャ語でコンマと呼ばれ,ラテン人も同じ名前をつけていた。ただし,この句読点のすべてが,その形態と形状およびその機能と特質にしたがって名前がつけられているわけではないことを理解しなければならない。

3.第三の句点は,ギリシャ人によってコロンと呼ばれた。ラテン語ではPUNCTUM(点)と呼ばれる。印刷業ではこれを終止符,または丸終止符と呼ぶ。しかしながら機能に関しては,前者のコンマが意味を部分的に中断させ,後者のコロンが文をしめくくるということを別にするならば,コロンとコンマの間には大きな違いはない。したがってコロンが複数のコンマを内に含みこむことがあっても,コンマが複数のコロンを含むことはないと言えよう。

ところでその場合,悪口を好む口性のない者が,ギリシャ人がコンマやコロンと呼んだものを私が誤解していると主張するのであれば,その者には次のように答えよう。ギリシャ人がコンマと呼んでいたものを,私は尻尾つきの点と呼ぶ。そして上の2で述べたコンマを,私はコロンと記して,文章の最後に置く。この点について私になんの誤解もないことは明らかである。それはラテン人がコンマを切断を行うためのものと解釈したためなのである。たとえギリシャ人がそれを表現の切れ目を表すためのものと考えたにせよ,私はそれを文の切れ目,すなわち文の中間に置かれ,一時的に中断された文を表すための句点と考えたい。そしてギリシャ人のいうコロンは,数節からなる文章の最後にくる文を表すための句点と考えたい。私がこのようにいうのは,口性のない者たちや誹謗中傷を行う者たちに抵抗するためである。昨今ではそのような輩が巷にたくさんおり,そういう者たちを気にしているようでは,理性ある者はぜったいに何もまとめることができない。とはいえ私の性格からして,そういう愚か者たちの相手をすること以外に,これといった気晴らしもないのである。

4.第四の句点をラテン人はINTERROGANSと呼び,フランス人は疑問符と名づけている。

5.第五の句点は,形の点で四番とほぼ同じである。ふつう感嘆符と呼ばれ,疑問符と区別される。

第六の句点は括弧と呼ばれる。二つの小さな半円からなる二重の文字である。

さて上記の名称や形態を知ったわけであるから,次にそれらが口語や文語の中で,どの位置に置かれるかを簡単に示そう。よく聴いていてほしい。厳格にまもられた句読点法はあらゆる作品の理解に役立つからである。

まず第一に,あらゆる表現や話題は,それが弁論的であれ詩的であれ,総合文によって組織されるということを知らねばならない。

総合文という用語はギリシア語で,ローマ人はこれをCLAUSULAあるいはCOMPRAEHENSIO VERBORUMと呼んだ。つまりそれは結句あるいは文の終結句のことである。この総合文(あるいは結句)は,上述の句点によって区別され区切られる。それはふつう二・三の文要素しか含んではならない。人の呼気の長さよりも長い総合文は悪しきものだからである。例をあげたほうがよければ,三つの総合文からなる話を作ってみよう。そこには上で解説した句点のすべてが含まれている。さらに詳細に各々の句点の種類と根拠について述べよう。さて,私の話とは次のような話である。戦争よりも平和のほうが望ましいことを知った皇帝は,王と協定を結んだ: そしてその友好協定をさらに確かなものにするために,フランドルへの道中,(おおかたの予想に反して)皇帝はフランス王国に立ち寄ったのであった: そこで彼は大きな栄誉と民衆の絶大な歓喜の中で迎えられた。いったい誰がそのような協定を喜ばないであろうか? 戦争がしずまり,平和がキリスト教徒の間に広がるのを見て,いったい誰が神を讃えないであろうか? ああ,なんと長きにわたり我々はこの幸福を願っていたことか! ああ,この協定を締結した者たちに幸いあれ! 破棄する者たちには災いあれ!

(「戦争よりも・・・」で始まる)最初の総合文では,尻尾つきの点,コンマ,括弧,および終止符あるいは丸終止符の使い方を解説しておこう。尻尾つきの点は,単語や表現を区別するため以外に用いられることはない。それは単一の形容詞,実詞,動詞,副詞とともに用いられる。あるいは明らかに実詞と結合した形容詞や名詞を支配する形容詞とともに用いられる。または我々が熟語と呼ぶところの格を支配する動詞とともに用いられる。単一の形容詞の例をあげよう。「彼は善良だ美しい感じがよい若い豊かだ。」 尻尾つきの点が,善良だ,美しい,感じがよい,若い,豊かだ,などの単語を区別しているのがわかるだろうか。次は単一の名詞の例である。「彼は大いなる善良さ美しさ器用さ若さ豊かさにあふれている。」 単一の動詞の例である。「彼は食べ飲み,そして寝るばかりだ。」 副詞の例。「彼は賢く勇敢に満足して,それを行った。」 実詞に付加された形容詞の例。「彼は大そうな勇気奇妙に用心深いとても実行力のある,人だ。」 実詞を支配する形容詞の例。「彼は日ごろからよく神に尽くし隣人を助け誰も傷つけずに生活した。」 格を支配する動詞の例。「よく神に尽くし隣人を助け誰も傷つけないことは称賛すべきことである。

 以上が尻尾つきの点の使い方を明確に示す例である。ラテン語でも同様の使い方をする。次の説明にはいる前に,尻尾つきの点はou&の前に置くように気をつけたい。ouの例をあげておく。「愚鈍であれ賢明であれ(Sot, ou sage qu’il soit),とにかく私は彼のことが好きだ。」 &の例。「知性と健康がなければ(Sans scavoir, & bonne vie),人は何の価値もない。」 ou&はときどき反復して使用されるので注意すること。その場合,最初の方には尻尾つきの点は現れない。ouの例をあげよう。「海でも陸でも(ou par mer, ou par terre),王は最強である。」 &の例。「順境であれ逆境であれ(& en bonne fortune, & en maulvaise),彼はつねに犠牲を払った。」

次にカンマについて話す。それは中断した文に置かれ,文末には絶対に置かれない。一つの文の中に一つしかない時もあれば,二つ三つある時もある。たとえば,「誰も傷つけないのがよい: 相手は微塵たりとも敵ではないのだから: 傷つけられれば,誰もが復讐をしようとする。」

括弧というのは挿入であり,それ自身完全な意味をもっている。括弧が挿入あるいは抽出されても,結句がその分だけ完全あるいは不完全になるわけではない。たとえば,「フランドルへの道中,(おおかたの予想に反して)皇帝はフランス王国に立ち寄ったのであった。」 括弧をはずしたとしても,意味は括弧があるときと同じく完全なものであろう。そのことは容易に理解できる。括弧はまた,文の最初と最後以外なら,総合文の中のあらゆる文に現れることを知っておくべきである。また括弧の前後には,いかなる尻尾つきの点も終止符も現れないことに注意すべきである。同じく括弧の中に現れることもほとんどない。ただし疑問符や感嘆符はその限りではない。疑問符の例をあげよう。「もし私に力があれば,(手加減をしろとでもいうのか?)彼にひどい仕返しをし,私に向けられた中傷は10年たっても忘れはしないことを分からせるであろう。」 感嘆符の例。「無敵であった彼は敗れはしたものの(戦いは時の運である!),すぐその後に慎重さによって征服者となった。

括弧の力を借りないで,ときに半円の)やカギ括弧の]が見つかるが,それらはある単語を説明したり,ギリシア語,ラテン語,フランス語あるいは他のあらゆる言語の作家の文を注解するときに用いられる。

また半円もときどき二つ用いられる。しかもそれは括弧の働きはもっていない。したがって半円は[ ]のように,または ℓ ٩ のように二つ用いられる。その場合,それらの[ ] ℓ ٩ の中には原著者があつかう内容について何らかの追加やそれに関する我々の説明が含まれている。しかしこれら全ては(私が言ったように)括弧の意味効果をもたずに行われる。すぐれた作家やすぐれた版本を読めば,私の教えが本当であるとわかるであろう。

終止符は,別のいい方では丸終止符ともいうが,つねに文末に置かれ,けっして他の場所には置かれない。また終止符のあとはふつう大文字で始まる。

あと残っているのは二つの句点だけである。それは疑問符と感嘆符である。どちらも文の終結を意味する。そして総合文の中にいくつ置いてもかまわない。

疑問符は完全な疑問によって実現される。その疑問は,言外にあるいは明白に,一人あるいは複数の人に向けられる。例をあげておく。いったい誰がそのような協定を喜ばないであろうか? 戦争がしずまり,平和がキリスト教徒の間に広がるのを見て,いったい誰が神を讃えないであろうか?

感嘆符には疑問符のような激しさはない。感嘆符は喜びにつづく感嘆や,悪徳に対する非難,なされた悪戯から生じる。また願望や欲望の表現にも感嘆符はふさわしい。ようするに,感嘆符は感嘆があるところであれば,どこにでも置くことができるのである。例をあげよう。ああ,なんと長きにわたり我々はこの幸福を願っていたことか! ああ,この協定を締結した者たちに幸いあれ! 破棄する者たちに災いあれ!

句読法の形態と位置に関して述べたことはこれで十分であろう。多くのラテン文法家たちがもっとたくさんのことをあげているのはよく承知しているが,彼らの夢想など相手にしてはいけない。もし君が先に述べた規則をきちんと理解し,それを守れば,必ずや規則どおりに句読点を打つことができるであろう。