エティエンヌ・ドレとその時代   中野 浩

フランスにおける16世紀はルネサンスと宗教戦争の時代と言われている。ドレ(1509-1546)が生きた16世紀の前半は、フランソワT世(在位1515-1547)の統治下にフランス・ルネサンスが急成長を遂げた時期であった。1494年からたびたび繰り返されたフランス王によるイタリア遠征は、成熟したイタリア文化をフランスにもたらした。イタリア文化の模倣は、その文化の源流そのものを理解したいという欲求に昇華され、古典語研究そして批判的実証的な思潮であるフランス・ユマニスムへと向かわせていく。

Alexandre Jean Noël, Musée Carnavalet

 
フランソワT世は、法学・古典学の復興をめざした側近ギョーム・ビュデ(Guillaume Budé, 1468-1540)の進言を受け、1530年に「王立教授団」 Lectures royaux (のちのコレ−ジュ・ド・フランス)を創設した。中世神学を権威づけてきたソルボンヌ大学に対抗し、原典から古典を批判的に検討する組織が登場したのである。

 

 

 

一方、渡辺一夫がドレを「ある出版屋」と紹介しているように16世紀には、活版印刷業・出版業がパリやリヨンを中心に大規模に登場している。この技術によりフランス語の印刷物も普及することになった。さらにフランソワT世による1539年のヴィレル・コトレの王令Ordonnance de Villers-Cotterêtsによって、行政文書をフランス語にすることが定められ、フランス語の地位がますます高まっていった。この王の庇護のもとに古典語からフランス語へ翻訳された書物の出版も盛んになっていく。ドレもこの時代の流れに同調していたが、1534年の檄文事件l’Affaire des placards を契機とした王権・旧教勢力と新教勢力との対立の深まりの中で、行き過ぎた合理主義と短慮から囚われの身となり、火刑に処せられた。

だが、フランス語を公用言語として重視する流れは止まらない。1549年にデュ・ベレー (Joachim du Bellay1522-1560)が中心となって、『フランス語の擁護と顕揚』 Défense et illustration de la langue françaiseが発表され、フランス語による著述の可能性の豊かさが論ぜられた。やがて16世紀の後半にはパレ(Ambroise aré1510?-1590)やパリシー(Bernard Palissy)のようなラテン語やギリシャ語などの古典語を知らない、つまりフランス語しか知らない知識人も著述活動をするようになっていく。彼らが依拠した文献もまた古典語からフランス語へ翻訳されたものであった。このようにドレが生きた時代は、フランス語が著述用あるいは出版物の言語として認知されていく過程にあったといえるだろう。

 

[参考文献]

渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫

田村 毅・塩川哲也編『フランス文学史』東京大学出版会

饗庭孝男ほか編『新版フランス文学史』白水社

柴田三千男ほか編『フランス史 2』山川出版社

Georges DUBY Histoire de la FranceLarousse