言語文化基礎論T (1999年度前期)

山口(表現文化コース)担当テーマ:

「イデオロギーとことば・文化」


第3回<日常的な状況におけるイデオロギー――イデオロギーと言葉・文化> 資料

(インターネット・バージョン)

(第1部 7月1日、第2部 7月2日)

(1)「イデオロギー装置」としての文化・社会

@鱶がもし人間だったら(ブレヒト『暦物語』矢川澄子訳、現代思潮社 1976年)
 「鱶がもし人間だったら」と、下宿のおかみさんの幼ない娘が、コイナー氏にきいた。 「鱶は、ちっちゃなお魚たちにもっと親切にするかしら?」 「しますとも」コイナー氏は言った。 「鱶がもし人間だったらね、小さいお魚たちのために、海の中に立派な函をつくらせて、植物性および動物性のいろんな種類の食物をその中に入れておくでしょうね。函にはいつも新しい水が入っているように注意するし、要するに衛生的な手段をいろいろと尽すことでしょう。たとえば、お魚のうち誰かが鰭を傷めでもすれば、さっそく包帯してやって、あんまり早死にして鱶の損にならないようにするでしょう。お魚たちが欝ぎこまないように、時々盛大な水中祭をやるかもしれない。だって、ほがらかなお魚の方が憂欝なお魚よりはおいしいんですものね。大きな函の中には、もちろん学校だってあるでしょう。お魚たちはこの学校で、あんぐり開いた鱶の口の中を、どうやって泳ぐか教わるでしょう。また、たとえば何処かでぐずぐず寝転がっている大鱶を発見できるように、地理も勉強しておかなくちゃなりません。何より大事なことは、言うまでもなく、お魚の道徳教育でしょうね。お魚にとって一ばん偉大で一ばん美しい行いとは、喜んで自分を犠牲に供することである、とか、誰でも鱶たちを信用しなければならない、何はともあれ、鱶たちに美しい未来を世話してやると言われたときには特に信じなければならない、とかいったことを教わるでしょう。そういう未来は、お魚たちが従順ということを学んだときにはじめて保証されるものだ、と思いこまされるのです。いやしい、物質主義的、利己的、マルクス主義的傾向は、すべて警戒しなければならないし、もしお魚のうち一匹でもそんな傾向をみせるものがあったら、さっそく鱶たちに報告しなくてはならないでしょう。鱶がもし人間だったら、当然、よその養魚函やよそのお魚をとりっこして、鱶同士で戦争もするでしょうね。それぞれ自分のところのお魚たちに、戦争をやらせるんです。お前たちはよその鱶のところのお魚たちとは大へんな違いがあるんだぞ、とお魚たちに教えこむんです。つまり、お魚というものは、誰でも知ってるように口をきかないけれど、それはてんでにばらばらの国語で黙っているのだから、お互いに理解し合うことなんか不可能なんだぞ、と言いきかせるんです。戦争でよそのお魚、つまりよその国語で黙っている敵のお魚を殺したお魚には、それぞれ小さな昆布の勲章が授けられ、英雄の称号が贈られるでしょう。鱶がもし人間だったら、鱶にも当然、 芸術というものがあるでしょうよ。鱶の歯をきらびやかな色で描いたのや、あんぐり開いた鱶の口をにぎやかに駈けまわれる本物の遊園地に見たてたりした、美しい絵がたくさん描かれることでしょう。海底の劇場では、英雄気取りのお魚がいさんで鱶の口に泳ぎ入るお芝居が見られます。音楽もまた実にきれいなもので、お魚たちはその調べのまにまに、夢見心地で甘美な思いにうっとりとまどろみながら、楽隊を先頭に鱶の口の中に流れこんで行くのです。宗教だって、きっとありますとも、もし鱶が人間ならば、ね。お魚たちは、鱶のお腹の中に入ってこそ真の生活がはじまるのだ、と教えられるでしょうよ。ついでに言えば、もし鱶が人間だったら、お魚たちが今みたいにみんな平等だということも、なくなってしまいますよ。あるお魚はお役人になり、ほかのお魚たちの上に立たされるんです。大きいお魚は小さいお魚を食べちゃってもよい、ってことになりますよ。そうなれば、鱶にとってはますます有難いことです。前よりもっと大ぶりの肉塊にありつく機会が多くなるんですからね。地位のある大きいお魚たちは、小さいお魚たちの秩序を取締り、函社会のなかでの教師や士官や技師などになるでしょうよ。つまり、要するに海の中にはじめて、一つの文化が存在することになるんです――もし、鱶が人間だったなら」

例えば:
@bJ. カーペンター「ゼイリブ」(ビデオ使用) 資本主義の支配的的状況に対する批判的視点の寓話として

(2)教育とメディア――「日の丸・君が代」をめぐる新聞の記述の比較

A(1999年6月10日 朝日新聞朝刊 Web版)
日の丸君が代法制化への反発相次ぐ 日教組大会  日教組の定期大会が10日、東京都内の社民党本部で3日間の日程で始まった。川上祐司委員長は政府が日の丸・君が代を国旗・国歌と定める法案を11日に閣議決定する方針を決めたことについて、「閣議決定を断念させる取り組みに全力を挙げたい」と述べ、法制化に反対する考えを改めて表明。代議員からは、学校の卒業式、入学式での日の丸掲揚、君が代斉唱に反対する運動を強めるべきだとの意見が相次ぐ一方、執行部の文部省との協調路線を支持する意見も出た。
 大会に提案された1999年度運動方針案は、95年に文部省との協調路線に転換して以来、言及を避けてきた「日の丸・君が代の強制反対」を明記。「法制化を許さないとりくみをすすめる」とした。運動方針案を提案した池田芳江副委員長は「日教組大会に合わせての閣議決定の動きは、私たちへの挑発ともいえる」と強調。用意された方針案にはなかった「近現代史のなかで日の丸、君が代が果たしてきた役割をきちんと伝えることが重要だ」という文言を付け加えた。
 代議員からは、「法制化は国民のイデオロギー統制のためのものだ」(広島高教組)、「日の丸・君が代反対を運動方針からなくし、後退したことが、今回の攻撃を招いたのではないか」(北海道)といった意見が出た。一方で、「95年の路線転換の基調が貫かれていることを確認したい」(大分高教組)など、日の丸・君が代法制化への反対運動が文部省との協調路線の変更につながらないよう求める意見も出た。


B1999年6月10目 木曜日 産経新聞朝刊(2面)
日教組大会 「日の丸・君が代」反対 
5年ぶり 運動方針案に盛る
 
 日教組(川上祐司委員長)の第八十六固定期大会が十日、東京・永田町の社会文化会館で三日間の日程で始まった。 「『日の丸・君が代』のいかなる強制にも反対して『国旗・国歌』としての法制化を許さないとりくみをすすめる」との項目を盛り込んだ平成十一年度の運動方針案を提案する。
 日教組は、平成七年の文部省との関係改善以来、日の丸・君が代反対闘争を棚上げしており、国旗・国歌に関する内容が運動方針に盛り込まれるのは五年ぶり。
 川上委員長はあいさつで「教職員の本来の任務は、未来に生きる子供たちのために日本と世界の近現代の歴史をしっかり教え、伝えていくことだ。日の丸・君が代を国旗,国歌として法制化しないよう強く求めたい」と述べた。
 今年は広島県立高校長の自殺をきっかけに国旗・国歌法制化論議が起きたため、日教組は二月の中央委員会で「国民的合意なき国旗・国歌の法制化に反対する」とする特別決議と当面の運動方針を採択している。ただし、日教組は「昔の路線に戻ったわけではない」と、文部省との協調路線が変わらないことを強調している。
従来の路線踏襲 全日教運は尊重
 全日本教職員連盟(全日教連、天羽文也委員長)は十日までに、国旗・国歌の尊重などを盛り込んだ平成十一年度運動方針案をまとめた。
 十三日に大阪市内で開く第十六回定期大会で採択する。
 全日教連は「中正不偏な教育の推進」などを掲げて昭和五十九年に発足して以来、運動方針で「教育の場で国旗を掲げ国歌を斉唱するのは当然」と表明。今回の運動方針案も従来の路線を踏襲している。
[視点] 文教政策 パートナー再検討 
 日教組が国旗・国家反対を五年ぶりに運動方針案に明記した背景には、組織内の強硬派への配慮があるとされる。
 かつて国旗・国歌問題が運動方針に盛り込まれていたころは教育政策の項目に入っていたが、今回の案では「平和」「人権」などと同じ社会運動として扱われており、学校の外の問題だとアピールすることで文部省との協調路線は維持しようという執行部の苦心もうかがえる。
 しかし、日の丸・君が代を国旗、国歌と認めない以上、日教組が国民の支持を得ることはあり得ない。
 同じ教職員団体でも、全日教連や福岡教育連盟、大分県公立高等学校教職員組合は、大会などの公式行事で国旗掲揚、国歌斉唱を当然のこととして行っている。
 協調をうたいながら日教組の本質が変わっていない以上、文部省は日教組が文教政策のパートナーとして適当かどうか再検討すべきだ。(渡辺浩)

C1999年6月25日(金) 産経新聞朝刊(1面トップ)
国旗・国家に否定的記述 小学校教科書検討
"侵略"と結び付け 史実に反す近現代史も
 来春から使われる小学校と高校(主に3年)の教科書の検定結果が二十四日、文部省から公表された。国旗・国歌の法制化が論議されるなか、小学校社会科(五社)では、日の丸・君が代を"侵略"と結び付けるなど国旗・国歌に否定的な記述が検定合格となった。近現代史などをめぐっても、史実に反した記述が検定をパスした。(2面に「主張」、26、27面に関連記事)
 平成四年度から実施された現行の小学校学習指導要領は「わが国の国旗と国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てる」と明記している。
 今回の検定では大阪書籍の4年下と6年下、教育出版の6年下に「学習指導要領の内容の取り扱いに照らして記述が不十分」との検定意見が付き、両社が記述を改めたが、検定後も不十分な記述が残った。
 教育出版は現行教科書で「わたしたちは、自国はもちろんのこと、他国の国旗・国歌を十分に尊重していく態度が必要です」としていたが、今回は「世界の国々では、自国はもちろんのこと、他国の国旗・国歌も、たがいに尊重しあい、敬意をはらってあつかうようにしています」と変更した。
 さらに「しかし、他の国から侵略を受けたり、支配された歴史をもつ国や地域では、それらの国の国旗・国歌に対して、素直には尊重できない感情をもつ人々もいます」と、否定的な内容を付け加えた記述が検定をパスした。
 大阪書籍は現行教科書にない「戦争の被害を受けたアジアの人々の気持ちも、たいせつにしないといけないね」との一節が加わり、「戦争のときにも、日の丸がたくさん使われたね」と日の丸を先の大戦の象徴と印象づける表現がみられた。東京書籍も現行教科書と同じ「侵略されたり、被害を受けたりした国々の人々には、侵略した国の国旗や国歌を、すなおに尊重できない感情が残ります」との記述が残った。
 教育出版、大阪書籍、東京書籍、日本文教出版は、日の丸の出来を説明し、国旗として「あつかわれるように」なったと記述したが、君が代の出来を書いた教科書は一冊もなかった。
 近現代史では「慰安婦の強制連行」を示唆する記述などに検定意見がつき、書き直されたが、南京事件などで史実に反する記述が検定を通過した。

 今回検定申請したのは小学校が百八十九点で、すべて合格。高校は百十点中、実教出版の「数学C」と秀文出版の「リーディング」が不合格となった。
[視点] 検定制度の限界示す  今回検定を合格した小学校社会科教科書で日本の国旗が日の丸だとストレートに記述しているのは、日本文教出版(4年下)の「日本の国旗は、日の丸です」だけだった。国歌については一冊もない。
 「外国から国の代表がおとずれると歓避式が持たれ、国旗がかかげられて、国歌が演秦されます。会場では、ボルトガルの国旗と日の丸がかかげられ、ポルトガル国歌と君が代が演奏されました」 (東京書籍6年下の写真説明文)などと遠回しな表現が目立つ。「どうしても、日の丸・君が代を国旗,国歌と認めたくない」という執筆者の抵抗が伝わってくる。今回、検定意見の通知後に教科書調査官が編集者に対し、「自国の国旗・国歌を尊重する表現を入れてほしい」と検定外の「参考意見」を伝えた。
 その結果、記述が変わったことを一部メディアが批判しているが、検定が一定の偏向抑止力を維持するためにはやむを得ない措置だといえる。
 それでもなお、国旗・国歌を否定的にとらえる教科書が「文部省検定済み教科書」として子供たちの手に渡ることになった事実は、個々の記述を部分的に書き直させるだけで教科書を貫くイデオロギーまでは是正することができない現行校定制度の限界を象徴的に示したといえるだろう。(渡辺浩)

教科書検定
小中高校で使う教科書の合否を判定する制度。文部省は、教科書出版社が提出する「申請本」の内容が学習指導要領に即しているかを教科用図書検定調査審議会に諮って審査し、不適切とした場合、検定意見を通知する。検定意見は記述の修正を義務付け、出版社が修正部分を再提出して合否が決まる。検定サイクルは4年。小中学校では平成14年度から新学習指導要領を実施するため、今回検定の小学校教科書は来春から2年間だけの使用となる。

D1999年6月25日(金)朝日新聞朝刊 Web版
教科書検定、日の丸・君が代記述徹底を求める
 文部省が参考意見――「日の丸」の写真大きく、「尊重表現が望ましい」
 文部省は24日付で、来春から使われる小学校と高校の教科書に対する検定の結果を発表した。出版社に修正を義務付ける「検定意見」の数は4年前の前回に比べて3分の2程度に減り、全体的には緩やかな検定が定着しているようにもうかがえる。しかし、「日の丸・君が代」については、「国旗、国歌として尊重する態度を育てる」という姿勢が強まり、検定意見のほか、修正義務のない「参考意見」を文部省が示した結果、より詳細な記述に変更されるケースが目立った。国旗・国歌の法制化の動きとあわせ、今後、学校現場では指導が強まることが予想される。
 今回の検定で申請があったのは、小学校189点、高校110点。うち、不合格になったのは高校の「数学C」と「外国語(リーディング)」の各1点だった。
 教科書検定をめぐっては、近年、出版社の判断を尊重する傾向が続いている。今回の検定は、現行の学習指導要領のもとで小学校が3回目、高校が2回目になることもあり、申請1点当たりの検定意見数は小学校10.5カ所(前回15.6)、高校20.9カ所(同31.7)と大幅に減った。しかし一方で、指導要領で示されている内容については、厳格な記述を求める姿勢が強く貫かれた。
 「日の丸、君が代」については、小学校の社会科教科書の3点に検定意見が付けられた。
 6年生の社会科の一つには、「全体を読んでも日本の国歌が何かがわからない」という意見が付いた。このため、出版社は、本文に添えているオリンピックの表彰式の写真説明文を、「日本の選手が優勝した時には、日の丸(国旗)と君が代(国歌)が使われる」という記述に差し替えた。この教科書についてはさらに、検定意見外の参考意見として、「表彰式の写真は日の丸の旗が見づらい」「日の丸、君が代を尊重する表現を盛ることが望ましい」という見解が示された。これを受け、出版社は、写真については日の丸を大きめに修正し直すとともに、本文中の「世界の国々は、国旗・国歌を互いに尊重しあい、敬意をはらっている」という文章に、「自国はもちろんのこと」という記述を挿入した。
 検定では、天皇の記述をめぐっても、小6社会科で写真を掲載していない2点について、「具体的な事項を取り上げて理解と敬愛を深めるようにする、という指導要領に照らして不十分だ」という意見がついた。この結果、1社は文化勲章授与式、1社は全国植樹祭の天皇の写真を掲載し、合格となった。

(3)大学での研究

地域研究
(以下、サイード『オリエンタリズム』(上)、平凡社から)
E「私はオリエントという存在が不活性の自然的事象ではないという問題設定から出発した。東洋Orientは其処として示すことのできるような単なる場所ではない。(…)歴史的実体たることは言うに及ばず、地理的実体でもあり、かつまた文化的実体でもある。「東洋」と「西洋」といった局所、地域、または地理的区分は、人間によって作られたものである。したがって、ほかならぬ西洋がそうであるように、東洋もまた、思想・形象・語彙の歴史と伝統とを備えた一個の観念なのである。」(24-25頁) 「…観念や文化や歴史をまともに理解したり研究したりしようとするならば、必ずそれらの強制力――より正確に言えばそれらの力の編成形態Configuration――をもあわせて研究しなければならない。(…)西洋と東洋との間の関係は、権力関係、支配関係、そして様々な度合いの複雑なヘゲモニー関係にほかならない。」(26-27頁)
「…全体主義的でない社会はどこでも、ある思想が他の思想よりも大きな影響力を持つのと同じ意味で、ある文化形態が他の文化形態に断然優越している。この文化的主導権の形態は、グラムシによって、工業化された西洋社会の文化生活を理解するために絶対不可欠の概念、すなわちヘゲモニーとして認められたものにほかならない。オリエンタリズムに、これまで述べてきた持続性と力とを賦与するのは、このヘゲモニーであり、正確に言えば、文化的ヘゲモニーの作用の結果なのである。」(29-30頁)
「それにもかかわらず、現代の西洋で(主としてアメリカ合衆国のことであるが)つくりだされた知識の大部分を決定的に蝕んでいるものは、知識は非政治的であって欲しいという願望、つまりは知識は学問的・純理論敵・中立的であって、党は心の強い狭量な教条主義的信念を超越したものであって欲しいという願望である。理論上のこのような思考や願望に異をたてることはできないが、しかし実際の現実ははるかに多くの問題を含んでいる。」(35頁)
「別の機械に私は、文学的=文化的権力establishmentが一丸となって、帝国主義と文化についてのまじめな研究への立ち入りを禁止したとさえ言ったことがある。というのも、オリエンタリズムは、否応なくわれわれをそうした問題に直面させるからであり、――われわれは政治的帝国主義が研究、想像力、学問制度の全領域を支配していることに気づかざるを得ず――その結果、この問題を避けて通ることは、知的にも歴史的にも不可能となってしまうからである。」(43頁)

カルチュラル・スタディーズ
(以下、グレアム・ターナー『カルチュラル・スタディーズ入門』作品社から)
F「<カルチュラル・スタディーズ>という用語は、いまでは人文学や社会科学のなかで理論や実践の重要な一領域を指す名称としてよく知られている。国際的雑誌『カルチュラル・スタディーズ』によると、この分野は「文化、なかでも特に大衆文化のプロセスの研究はとても重要で複雑であり、その上、理論的にも政治的にも価値があるのだという信念に支えられている」と言う。」(9頁)
「私たちが着るもの、聞くもの、見るもの、食べるもの。私たちが他人との関係のなかでいかにして自分自身を見るか。料理や買い物などの日常活動の機能。これらすべてがカルチュラル・スタディーズの関心事なのだ。」(10頁)
「カルチュラル・スタディーズにおける研究は、社会の支配構造についての考察を一貫して行ってきた。特に労働者階級の体験にも注目してきた。理論的伝統としては、資本主義社会がどのような働きをし、どうやってそれを帰られるかを考察してきた批判的ヨーロッパ・マルクス主義に否応なく結びついていた。」(15頁)
「イデオロギーは、それまでのマルクス主義では、労働者階級の目の前を覆ったヴェールのようなもので、労働者階級とそのまわりの世界との「真実の」関係をさえぎり隠すフィルターであると見なされてきた。イデオロギーの機能は自己について、そしてある人と歴史との関係について「虚偽意識」をつくりあげることだというのだ。アルチュセールの研究は、イデオロギーという用語の、このような概念化の在り方と決定的に訣別するものだった。(…)アルチュセールも、イデオロギーを虚偽ではなく「それをとおして人間が自分自身を見出す物質的条件を解釈し、意味を与え、経験し、「生きる」ような」(Stuart Hall)概念の枠組みであると定義した。イデオロギーはわたしたちの現実意識を形成する。良くも悪くも、イデオロギーが構成した世界が、私たちがつねに住む世界なのだ。」(38-39頁)
「あきらかに、イデオロギーは言語にも浸透しなければならない。(…)言語体系は、それを構成するイデオロギー的枠組みとともに、子供たちをその体系内に引き入れようと、つねにまえもってそこで待機しているのだ。だからこそ、フェミニストたちは性差別主義的言語にあれほど批判的だったのだ。<ミス>や<ミセス>という単語の用法やすべての委員会には「男の議長」(chairman)がいなければならないという前提によって、いかに支配のイデオロギーが制度化されるかということを彼女たちは批判した。アルチュセールもまた、イデオロギーは言語や表象においてだけではなく、私たちが自分たちの生活をつくりあげ、その場で生活する条件となる制度や社会的実践という物質的形態においても分析されなければならないと主張した。」(39頁)

 


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