言語文化基礎論T (1999年度前期)

山口(表現文化コース)担当テーマ:

「イデオロギーとことば・文化」


第2回<イデオロギーをめぐる理論の素描> 資料

(インターネット・バージョン――授業で配布されたものより、少し多めの引用)

(第1部 6月24日、第2部 6月25日)


ド・トラシー、マルクス/エンゲルス、グラムシ、アルチュセール、「イデオロギーの終焉」論

(1)デステュット・ド・トラシー

啓蒙主義的な理想に基づいて、フランス革命期の「国家研究所」において、「観念学」(イデオロジー)を教育構想の基盤に据えようとする。

ナポレオンの権威主義と敵対するにいたった「観念学者」たちへの、ナポレオンの批判:

「観念学者[イデオローグ]どもの教理――持って回ったやり方で第一原因の発見につとめ、その題意原因を理論的根拠として諸民族の立法を作るという空理空論に堕し、人間の心とか歴史の教訓についての知識を鑑みて方を柔軟に適用しない、うんざりする形而上学――こそ、我らが愛するフランスに最近降りかかったあらゆる不幸の原因と見なすべきものなのである。」(イーグルトン、128頁からの引用)


(2)マルクス主義のいくつかの基本的概念

『ドイツイデオロギー』(1846):

(唯物論)

「われわれが出発する前提はなんら任意のもの、なんら教条ではない。それは、ただ想像のうちでのみ捨象されうるところの現実的な前提である。それは現実的な諸個人、彼らの行動であり、そして目の前に見出されもすれば自分自身の行動によって作り出されもするところの彼らの物質的な生活条件である。したがってこれらの前提は純粋に経験的なやり方で確認されうるのである。」(岩波文庫、23-24頁)

「人間は意識によって、宗教によってそのほか任意なものによって動物から区別されることができる。しかし人間自身は、彼らが彼らの生活手段を生産しはじめるやいなや、自分を動物から区別しはじめる。この一歩は、彼らの肉体的組織によって制約されているものである。人間は、彼らの生活手段を生産することによって、間接に彼らの物質的生活そのものを生産する。

 人間がかれらの生活手段を生産する方式は、ます第一に、眼のまえにみいだされそして再生産きるべき生活手段そのものの性状にかかっている。生産のこの方式は、たんにこれが諸個人の肉体的生存の再生産であるという面からだけ考察されてはならない。それはむしろすでにこれら個人の活動の一定の仕方であり、かれらの生活を表出する一定の仕方であり、かれらの一定の生活様式である。諸個人がかれらの生活を表出する仕方は、すなわちかれらが存在する仕方である。したがって、かれらがなんであるかはかれらの生産に、すなわちかれらがなにを生産するか、ならびにまたいかに生産するかに合致する。したがって諸個人がなんであるかは、かれらの生産の物質的条件にかかっている。」(岩波文庫、24-25頁)

(史的唯物論)

(「種族所有」「古代的な共同体所有・国家所有」「封建的あるいは身分的所有」といった所有の発展段階について述べた後)

「したがって事実はこうなる。すなわち、 一定の様式で生産的に活動している一定の個人たちは、これら一定の社会的および政治的関係をとりむすぶ。経験的な観察は、それぞれ個々のばあいにおいて社会的および政治的編成と生産とのつながりを、経験的に、そしてすこしの神秘化や思弁もまじえずに呈示しなければならない。社会的編成と国家はたえず一定の個人たちの生活過程からうまれる。ただしこれらの個人というのは、かれら自身のあるいは他人の表象にあらわれるかもしれないような個人ではなく、現実にあるがままの、すなわち活動し物質的に生産しているままの個人であり、したがって一定の物質的な、そしてかれらの窓意から独立な制限、前提および条件のもとで活動しているままの個人である。」(31頁)

(唯物論・<転倒>に対する批判)

「観念、表象、意識の生産はまず第一に人間の物質的活動および物質的交通のうちに、現実的生活の言語のうちに直接におりこまれている。人間の表象作用、思考作用、精神的交通はここではまだかれらの物質的行動の直接の流出としてあらわれる。 一つの民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学などの言語にしめされるような精神的生産についても、おなじことがいえる。人間はかれらの表象、観念などの生産者である。ただしこの人間というのは、かれらの生産力とそしてこれら生産力に対応する交通(その未端の形成体まで合めての)との一定の発展によって制約されているような、現実的な、活動しつつある人間である。意識Bewusstseinとは決して意識的存在以外das bewusste Seinのものではありえず、そして人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。イデオロギー全体のなかで人間およびかれらの関係があたかも暗箱camera obscuraのなかでのようにさかだちしてあらわれるにしても、この現象は、あたかも細膜上の対象のさかだちがかれらの直接の肉体的な生活過程からうまれるのとおなじように、かれらの歴史的な生活過程からうまれるのである。

 天上から地上へおりるドイツ哲学とはまったく反対に、ここでは地上から天上へのばる。すなわち、人間がかたり、想像し、表象するところのものから出発し、あるいはまたかたられ、思考され、想像され、表象される人間から出発して、ここから具体的な人間にたどりつくのではない。現実的に活動している人間から出発し、かれらの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的な反射および反響の発展をも叙述するのである。人間の頭のなかのもやもやした形成物もまた、かれらの物質的な、経験的に確認できる、そして物質的前捉にむすびついた生活過程の必然的な昇華物である。かくて道徳、宗教、形両上学その他のイデオロギーおよびそれらに対応する意識形態は、もはや独立性のみせかけをたもたなくなる。それらはなんら歴史をもたず、なんら発展をもたない。むしろ、かれらの物質的生産とかれらの物質的交通とを発展させつつある人間が、かれらのこの現実とともにかれらの思考およびかれらの思考の生産物をもかえてゆくのだ。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。第一の見かたでは生きた個人としての意識から出発するが、第二の、現実的生活に対応した見かたでは現実的な生きた諸個人そのものから出発し、そして意識をただかれらの意識としてのみ考察する。」(31-33頁)

(唯物史観)

「したがってこの歴史観はつぎの点にもとづいている。すなわち現実的な生産過程を、しかも直接的な生活の物質的生産から出発して展開すること。そしてこの生産様式とつながっていて、これによってうみだされるところの交通形態を、したがって種々の段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかむこと。さらにこの市民社会を国家としてのその活動において叙述するとともに、意識の種々な理論的所産および形態、すなわち宗教、哲学、道徳等々をすべて市民社会から説明し、そしてそれらのものの発生過程を市民社会の種々の段階からあとづけること。(…)この歴史観は、どの時期においても観念論的歴史観のように一つのカテゴリーを求める必要はなく、どこまでも現実的な歴史地盤に踏みとどまり、実践を観念から説明するのではなく、観念構成物を物質的実践から説明する。」(51-52頁)

「支配階級の思想はどの時代にも支配的な思想である。すなわち、社会の支配的な物質的な力であるところの階級は、同時にその社会の支配的な精神的な力である。物質的生産の手段を左右する階級は、それと同時に精神的生産の手段を左右する。だから同時にまた、精神的生産の手段を欠いている人々の思想は、おおむねこの階級に服従していることになる。支配的な思想とは支配的な物質的諸関係の観念的な表現、思想として捉えられた支配的な物質的諸関係に他ならない。したがって、まさしくその一つの階級を支配階級にするところの諸関係の観念的な表現、すなわちこの階級の支配の思想に他ならない。支配階級をかたちづくる諸個人は、特にまた意識を持ち、それゆえに思考する。したがって彼らが階級として支配し、そして歴史の一時代の全範囲を規定する限り、彼らがこのことを力の及ぶ限り行うということ、それゆえ特にまた志向するもの、思想の生産者としても、支配し、彼らの時代の思想の生産と分配を統制するということ、したがって彼らの思想が時代に支配的な思想であるということは、いうまでもない。」(66頁)

『経済学批判』序言 (1859)

(「土台」と「上部構造」)

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、取り結ぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形作っており、これが現実の土台となって、その上に、法律的、政治的上部構造がそびえ立ち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」(岩波文庫、13頁)

『資本論』(1867)

(使用価値と交換価値)

「一つの物の有用性は、この物を使用価値にする。しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、 一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるのではない。使用価値を考寮するに際しては、つねに、 一ダースの時計、 一エレの亜麻布、 一トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察じようとしている社会形態においては、使用価値は同時に――交換価値の素材的な担い手をなしている。」(68-69頁)

「交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と致換される比率として、すなわち、時と所とにしたがって、たえず変化する関係として、現われる。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値というようなものは、一つの背理のように思われる。」(70頁)

「使用価値としては、商品は、何よりもまず異なれる質のものである。交換価値としては、商品はただ量を異にするだけのものであって、したがって、 一原子の使用価値をも合んでいない。いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だがわれわれにとっては、この労働生産物も、すでにわれわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それはもはや机でも家でも撚糸でも、あるいはその他の有用な何物でもなくなっている。すべてのその感覚的性質は解消している。それはもはや指物労働の生産物でも、建築労働や紡織労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性質は消失する。したがって、これらの労働の異なった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。

 われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性以外に、すなわち、無差別な人間労働の、言いかえればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの以外に、労働生産物から何物も残っていない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は、お互いに共通な、この社会的実体の結晶として、価値――商品価値である。

商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立しているあるものとして、現われた。もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するとすれば、いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる。商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは、かくて、その価値である。」(72-73頁)

「したがって、使用価値にかんしては、商品に含まれている労働がただ質的にのみ取上げられているとすれば、価値の大いさについては、労働はすでに労働であること以外になんら質をもたない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取上げられているのである。前者では、労働は、如何になされるかということ、何を作るかということが問題であるが、後者では、労働のどれだけということ、すなわち、その時間継続ということが問題なのである。ある商品の価値の大いさは、ただそれに合まれている労働の定量をのみ表わしているのであるから、商品はある割合をもってすれば、つねに同一の大いさの価値でなければならぬ。」(85頁)

第四節 商品の物神的性格とその秘密

「一つの商品は、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見える。これを分析してみると、商品はきわめて気むずかしい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏届にみちたものであることがわかる。商品を使用価値として見るかざり、私がこれをいま、商品はその属性によって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、これに少しの神秘的なところもない。人間がその活動によって自然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作るならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的な物であることに変わりない。しかしながら、机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはやその脚で床の上に立つのみでなく、他のすべての商品にたいして頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。」(129-130頁)

「それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?  明らかにこの形態自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとるのである。

 それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである、すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがつてまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らの外に存する対象の社会的関係として、反映するということである。このQuidproquo 〔とりちがえ〕によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち限にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることもできないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。

 商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである。」(131-132頁)

「このようにして、価値の大いさの規定に導いたのは、商品価値の分析にほかならず、その価値性格の確定に導いたのは、商品が共同じてなす貨幣表現にはかならなかったのである。ところが、私的労働の社会的性格を、したがって私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに、実際上蔽いかぶせてしまうのも、まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。私が、上衣、深靴等々は、抽象的人間的労働の一般的体現としての亜麻布に関係していると言うとすれば、この表現の倒錯は、目を射るように明らかである。」(137頁)

「このような形態が、まさにブルジョア的経済学の諸範疇をなしているのである。それは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形式なのである。それゆえに、商品生産に基づく労働生産物を、はっきり見えないようにしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移ってみると、消えてなくなる。」(137-138頁)


(3)近代批判としてのイデオロギー批判

ただし、すべての近代批判が革新的な方向に向かうものとは限らない。保守的・反動的なものもあり得る。


(4)西欧マルクス主義への継承

<アントニオ・グラムシ>

特定の経済的・社会的体制の維持に役立つような階級支配の手段として機能する「ヘゲモニー

「自然的および契約的あるいは任意的という二重の性格を持つ多様な社会的構成要素のなかで、そのうちの二、三の集団が相対的あるいは絶対的な優位性を持つことによって、他の社会集団に属する国民(ないし市民社会)――すなわちそれは統治−強制装置としての狭義の国家の基盤であるが――にたいするヘゲモニー装置が形成されるのである」(グラムシ『獄中ノート』、イタリア共産党中央委員会教育部編『グラムシ入門』合同出版、143頁から引用)

「…ヘゲモニーの固有の場は政治とイデオロギーの領域である。グラムシによれば、ヘゲモニーの成立過程はひとつの世界観の普及による知的・道徳的統一性の形成過程としてとらえられとり、それゆえそれはひとつの政治的、イデオロギー的過程である。生産様式を基盤とするひとつの階級のイデオロギーは、その階級と結びついている知識人によって社会に普及されるのであるが、その際、国家機構のみならず、政党結社をはじめとするあらゆる政治的、文化的諸機構・諸組織がヘゲモニー装置としてその普及を媒介する。国民大衆は、この市民社会の手段生活に様々な形で関与しており、それらの社会的諸組織・諸集団を通じて意識的・無意識的に自らの世界観を形成する。が、それは同時に何らかのヘゲモニーへの「順応化」の過程でもある。」(松田博編『グラムシを読む』法律文化社、18-19頁)

<ルイ・アルチュセール>

支配イデオロギーへの服従の再生産としての「教育」

「…労働力の再生産は単にその資格付けqualificationの再生産を要求しているだけでなく、同時に既成の秩序の諸規則への服従の再生産、つまり労働者にとっては支配イデオロギーへの服従の再生産を、そして搾取や抑圧の担い手にとっては、彼らが支配階級の支配を<パロールによって>も保証するため、支配イデオロギーを巧妙に操作する能力の再生産を必要としているのだ、と。言い換えるならば、学校(教会のような国家の別の諸制度や、軍隊のような別の諸装置も同様であるが)は、まさに支配イデオロギーへの隷属を保証するか、もしくは支配イデオロギーを<実際化>pratiqueする手腕を保証している諸々の形態にしたがって様々な<知ること−すること>を教えているのである。」(アルチュセール、『アルチュセールの<イデオロギー>論』、三交社、18頁)

国家のイデオロギー装置」としての:宗教・学校・家族・法律・政治・組合・情報・文化(アルチュセール、34-36頁)

とりわけ、「学校」という「イデオロギー装置」:

「古い支配的な国家のイデオロギー装置に対して、荒々しい政治的、イデオロギー的階級闘争の後成熟してきた資本主義的社会構成体において支配的地位にあるのは、学校のイデオロギー装置だ、とわれわれは考えている。」(アルチュセール、49頁)

「実際的作動」pratique・物質性としてのイデオロギー

「…イデオロギーはつねに装置や、ひとつもしくは複数の装置の実際的作動pratiqueのなかで存在している、というテーゼである。こうしたイデオロギーの存在は物質的である。」(アルチュセール、73頁)

「こうしたイデオロギーは活動acteを語っているのだ。すなわち、われわれは慣習行為pratiqueの中に挿入された活動について語ってみよう。そしてわれわれは、こうした慣習行為は儀式によって規則化されており、儀式を通してこの慣習行為はイデオロギー装置の物質的存在のまっただ中に刻み込まれるということを指摘しておこう。そして、それは、小さな教会のミサや埋葬、スポーツ団体の小さな試合、学校の教室での授業、政党の集会や討論集会など、こうした装置の取るに足らない小さな部分に属していてさえもそうである。」(アルチュセール、77頁)

「姿を消したのは観念という用語である。/存続しているのは主体、意識、信仰、活動という用語である。/新しく現れたのは、慣習行為、儀式、イデオロギー装置などの用語である。」(79頁)


(5)「イデオロギーの終焉」論

とりわけ

これらに対して、イーグルトン、p.8-12; p.83-85参照。


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