言語文化基礎論T (1999年度前期)
山口(表現文化コース)担当テーマ:
「イデオロギーとことば・文化」
第1回 <イデオロギーとは何か> 資料
(第1部 6月17日、第2部 6月18日)
第1回 <イデオロギーとは何か>
イデオロギー概念の多様性、イデオロギーの基本的機能、イデオロギー論の視点、なぜ「イデオロギー」を考える必要があるか
第2回 <イデオロギーをめぐる理論の素描>
ド・トラシー、マルクス/エンゲルス、マンハイム、グラムシ、アルチュセール、「イデオロギーの終焉」論、ニュー・レフト、フランクフルト学派
第3回 <日常的な状況におけるイデオロギー――イデオロギーと言葉・文化>
いくつかの例、カルチュラル・スタディーズ、地域研究、ジェンダー・スタディーズ
@<米ソ核戦略の歴史的転換へ>
冷戦時代の終焉をもたらしつつある基本的条件は何か。第二次世界大戦後、四十年以上も続いた冷戦時代の米ソ二極構造に雪解けをもたらしつつある世界的気象条件の変化の本質は何か。 その第一はイデオロギー的なものであり、第二は軍事的なものであり、第三は経済的なものである。米ソ両超大国は、第二次世界大戦後、この三つの分野で決定的に対立してきたからである。
(香山健一未来研究所、
http://www.glocom.ac.jp/proj/kouyama/)Aしたがって、戦後のドイツでは、公務員や軍人ならば、世代によっては生涯のあいだに三回も [ナチス、旧東ドイツ、統一ドイツ] 新しい国家に忠誠を誓いなおさねばならないことも、珍しくはなかった。しかも、それぞれがまったく異なったイデオロギーと制度に依拠した国家にである。
(三島憲一編・訳『戦後ドイツを生きて』岩波書店、1-2頁)
Bイデオロギーとは、いわゆる思想家がまさに意識的に、しかし<誤った意識>をもって遂行する思考過程です。彼は、自分を動かしている真の動機を知らないままでいます。でなければ、それはイデオロギー的な思考過程とは言えないでしょう。
(エンゲルス、1983年のメーリンク宛書簡、
ダニエル・ベル『知識社会の衝撃』TBSブリタニカ、127頁から引用)
C一九世紀中葉までにイギリスとフランスには資本主義的生産様式が広く浸透していたから、マルクスは、社会の制度的枠組みを生産関係のうちに再認識し、同時に等価交換という体制正当化の基礎を批判することができた。彼はブルジョワ・イデオロギーの批判を経済学というかたちで展開した。彼の労働価値理論は、自由な労働規約という法制度が、労賃関係の基礎にある社会権力関係を自由の仮装のもとに覆い隠していることを暴露した。
(ハーバーマス『イデオロギーとしての技術と科学』紀伊国屋書店、71頁)
D…ベルンシュタインのイギリスびいきは事実であり、またドイツ侵略性に気づくや次第に反戦の態度を明確にしていく彼の勇敢さも、それ自体としては賞賛に値する。だがベルンシュタインの態度の変更の裏に西欧文明主義が貫いていたことは強調されてよい。このイデオロギーによれば、ロシアはドイツに比べて野蛮であり、ドイツはイギリスに比して文明的に遅れてるのである。このイデオロギーに忠実なベルンシュタインは、独露戦においてはドイツに味方し、独英戦においてはイギリスに味方せざるを得ない。
(ピーター・ゲイ『ベルンシュタイン』長尾克子訳、木鐸社、訳者後書きから、385-386頁)
E修正主義者エドゥアルト・ベルンシュタインは、マルクス主義そのものをイデオロギーと呼んだ最初の人物だった。また私たちは『なにをなすべきか』のなかに、レーニンの次のような宣言を見出すことになる。「唯一の選択とは――ブルジョワ・イデオロギーか、社会主義イデオロギーかである」と。社会主義は、レーニンが書いているところによれば、「プロレタリア階級闘争のイデオロギー」である。ただしレーニンは、社会主義を、プロレタリアートの意識の自発的表明であるといわんとしているのではない。むしろ逆で「自発的に発展するプロレタリアートの階級闘争の中で、基本的な力として、資本主義関係の規定そのものに、社会主義がイデオローグによって導入されるのである。
(イーグルトン『イデオロギーとは何か』平凡社、164頁)
F「家庭」をクローズアップし、家庭を運営することが重要で、家庭にいたりつくための「恋愛」は良いものとされ、恋愛が実って結婚に到れば、「ハッピーエンド」。それを強調したのもやっぱりグリムで、(…)。グリムの場合…[近代的な「結婚」の] 確立に荷担していったんですね。(…)そこがロマン主義の問題であって、ロマン主義を、近代を成立させたイデオロギーとしてしっかり見ていかなければいけないんです。
(鈴木晶/池田香代子「グリム童話という装置」、
『ユリイカ』1999年4月号、特集:グリム童話、89頁)
G…バルトの次の指摘は正しいであろう。いかなる歴史的時代をとってみても、日常言語と文学、広告、写真等は、まさにそれらがもっとも無色透明であると思われる瞬間に、こうした隠されたイデオロギー上の前提を媒介していると彼は指摘するのだ。まさにそれらのイデオロギー的な性格をわれわれに意識させることが、批判的解釈の重要な機能なのである。
(クリストファー・バトラー『解釈 ディコンストラクション イデオロギー』
和田旦/加藤弘和訳、芸立出版、192-193頁)
(1) ある社会(とりわけ自分)がどのような思考・価値観の枠組みのうちに捉えられているかを、外側から客観的に捉えようとする視点
(2) 批判的視点がさらに進んで、主体が「偽りの」思考・価値観のうちに置かれている状況を明らかにしようとする:「イリュージョン」「歪曲」「神秘化」とりわけ「虚偽意識」としての「イデオロギー」
(3) <実践的視点>――「虚偽意識」「イリュージョン」に対する批判から、それにとらわれた「イデオロギー」を払拭し、社会的に乗り越えようとする<実践的>方向に向かう立場。
「中産階級がまだ勃興期の政治勢力であったとき、その自由を求める革命的なかけ声は、確かにすばらしいもので、搾取する自由をも合理化していた。その意図は、まず自由の価値を普遍化し(それも伝統的秩序の狭量性に対抗して抽象的な「人類」に訴えることで)、また同時に、自由の価値を自然化することであった(つまりたんなる慣習や特権に対して「自然権」を喚起したのである。)」(イーグルトン、117頁)
概説的なもの
◎テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』大橋洋一訳、平凡社
とりわけ重要な一次文献
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