資料3


シュニッツラー 「死人に口なし」岩淵達治訳 (川村二郎編『ドイツ短編24』集英社)

彼はもう落ち着いて馬車に座っている気がしなくなった。彼は外へ飛びだして、せかせかと歩きまわった。もうまっ暗であった。このやや外れにある静かな路上には、風に吹かれてゆらめいている街灯の灯影がちらほらとみえるばかりである。雨はもう止んでいた。歩道はもう殆んど乾いていたが、舗装していない車道のほうはまだしめっていて、ところどころに小さな水溜りが出来ていた。
 変なもんだ、とフランツは考えた。プラーター街から百歩と離れていないのに、ここにいると急にハンガリーのどこかの町にでも来たみたいな気になれるんだからな。まあとにかく1少なくともここにいれば安全だろう、ここなら彼女だって、いつもびくびくしているお知り合いってやつに会うおそれもないからな。
 彼は時計を見た……七時−−なのにもう完全な夜だ。今年はいつになく秋が早く来たな。それにこのいまいましい嵐どきたら。
 彼は襟を立てて、前よりもせかせかと歩きまわった。街灯のガラス窓がかたかたと鳴っていた。《あと半時間》、と彼は自分に言いきかせた。《半時問たったら帰ってもいいだろう。おやおや−−おれはそうなったほうがいいと思っているみたいだぞ》。彼は街角に立ち止まった。ここからなら彼女がやって来そうなふたつの通りがよくみわたせる。
 そうさ、今日は来るだろう、と彼は吹きとばされそうになる帽子をおさえながら考えた。1金曜日−−教授会だ−−この日なら彼女も外出するし、それにいつもより長く外に出ていられるんだ……鉄道馬車の鳴らす鐘の音が聞こえた。丁度近くのネポムック教会の鐘も鳴り始めた。通りはしだいに人影がふえだし、彼のそばを通り過ぎる人の数も増してきた。彼のみるところ、どうやらこの連中は大抵、七時に店を閉める商店の店員たちらしかった。みんな急ぎ足で、歩みをさまたげる嵐と一戦でも交えているような様子だった。彼などには誰も見むきもしなかった。ただ二、三人の女店員が、ちょっと物珍らしそうに彼のほうをちらと見上げていったくらいのものだ。-1突然彼は見なれた人影がこちらに急いでくるのを認めた。彼は急いでその姿の方にかけよった。馬車にものらずに?と彼は考えた。やっぱり彼女だろうか?
 そうだった。彼女は彼に気がつくと、歩みを速めた。
 《歩いて来たのかい?》と彼は言った。
 《カール座のところで馬車を帰しちゃったのよ。なんだかまえに同じ甑者の車に乗ったことがあるみたいな気になったもんだから》
 ひとりの紳士がふたりの前を通り過ぎながら、ちらと女のうに目をくれていった。青年はきっとなり、まるでおどかすようにその紳士に目をつけたので、紳士はそそくさとそのまま行ってしまった。女性のほうはそのあとを見送り、不安そうに《誰だったのかしら、あれ?》と尋ねた。
 《僕の知らない奴さ。この辺には知り合いはいないから、心配はいらないよ。ーでもすぐいこう。馬車に乗らなくっちや》
《あなたの馬車?》
《そうだよ》
《幌なしの?》
《一時問前なら上天気だったのに》
 ふたりは馬車の方に急ぎ、若い女がまず乗った。
《おーい、駅者》と青年は叫んだ。
《どこへいっちゃったんでしょう》と若い女は尋ねた。
 フランツはあたりを見廻し、そとから答えた。《おかしいな、あいつ、影も形も見えないんだ》
《大変、どうしましょう!》と彼女は小声で叫んだ。
《一寸だけ待っててね、あいつきっとあそこにいるんだ》
 青年は小さな居酒屋に入るドアを開けた。とあるテーブルに、二、三人の連中と一緒になって馭者は腰を据えていたが、青年をみるとあわてて立ち上った。
《すぐ参ります、且那様》と彼は云い、自分のワインのコップの残りをぐっと立ち飲みした。
《いったいどういうつもりだ?》
《勘弁なすって、旦那様、すぐ参りますから》
 彼はかなり千鳥足で馬のほうに急いだ。《どちらへ参りやすんで、旦那?》
《プラーターの遊園地-東亭へ》
 青年も馬車に乗り込んだ。若い女は、馬車を覆った幌屋根の下で、身をかくすようにすっかり縮こまって、隅っこの方に身を寄せていた。
 フランツは彼女の両手を握りしめた。彼女は身動きもしない。-《ぽくにせめて今晩はぐらいは云っちゃあくれないのかい?》
《お願い、一寸だけほっといてちょうだい、まだ息切れがしてるのよ》
 青年は自分の席の側に背中をよせかけた。しばらくはふたりとも黙っていた。馬車はいつかプラーター通りに曲っていて、いまはテーゲトホフ記念碑のところを通っていた、そして数秒後にはひろびろとして暗いプラーター通りははるか後方に飛び去った。この時になって突然エマは両腕をまわしていとしい男を抱きしめた。彼は、自分と彼女の唇をへだてているヴェールをそっとおしのけて、彼女に接吻した。
《やっとあなたのそばにいられるわ!》と彼女は云った。
《どのくらい長いことぼくたちが会わないでいたか、わかってるのかい?》と彼は叫んだ。
《目曜目からよ》
《そうさ、しかもあの時は遠くから見てただげじやないか》
《なんで?あなた、あたしたちのうちに来たじやないの?》

(…)

馭者はエマの膝頭にのっている土気色の顔をながめた。
《救急所だ、医者だといったって、そんなものはもう大して役にたちゃしませんよ》
《行ってきて、お願いだから、行って下さい!》
《行くってば−−ただお嬢さま、あんたがまっ暗んなかでこわくおなりなさるんじゃねえかと思っただけで》彼は通りを越えて急いで去った。《おれのせいじゃねえぞ、絶対に》と馭者はひとりで咬いた。《たいした思いつきだよ、この真夜申に国道をさ-・…》
エマは身動きもしない死体と、暗い通りにとり残された。
《どうしよう?》と彼女は考えた。こんなことってあるだろうか……−−こんな考えが何度も何度も彼女の頭のなかを去来した。……こんなことってあるだろうか。1突然彼女は、自分のそばで息遣いをきいたような気がした。彼女は血の気のない唇に身をかがめてみた。やっぱりちがう、そこから息は洩れてはいない。こめかみと頬からの血はもう乾いてしまったようだった、彼女は目をじっとみつめた。あのうつろな眼を。そしてびくりと震えおののいた。ほんとに何だってあたしはそう思わなかったんだろう、確かにそうよ……死んでいるわ!彼女の全身に恐怖が走った。死人という実感がはるかに強くなった。あたしは死人と二人だけでいる、あたしの膝にのっているのは死人なんだ。彼女がわななく手で死人の頭をおしのけたので、頭はまた地面に横たわった。このときになってはじめて、彼女はおそろしくたよりない気持に襲われた。何故あの甑者を行かせちゃったんだろう。ほんとに馬鹿なことをしてしまった!この国道で死んだ男をかかえていったいどうしたらいいんだろう?もし人が来たら…そうだ、もし人が来たらどうしようか?それまでまだどのくらい待たされるんだろう?彼女はまた死者をみつめた。あたしはこの人と二人だけでいるんじゃない、ふとそんな考えが浮かんだ、あかりがついているじゃないの。そしてその光が、思わず感謝したいほどなつかしくやさしいものみたいな気がした。自分のまわりをとりまいている茫漠とした夜の世界よりも、このちいさな炎のなかにもっとたくさんの生がひそんでいるようにみえる、それどころか、この光こそ、自分のわきの地面に横たわっている血の気の失せた男から自分を守ってくれるもののような気さえしてきたのである…あまり長いこと光をみつめていたので、彼女の眼はちかちかして、いまにも廻りだしそうになった。そのとき突然、彼女は眼が覚めたようにあることを感じた。彼女ははね起きた!とんでもない、そんなことになったら大変、ここでこの人といっしょにいるところを見つけられちゃいけないわ…彼女は今、自分が足もとに死人とあかりを置いたままこの国道に立っている光景をまのあたりに見る思いがした。(…)