三島由紀夫「サド公爵夫人」を観て


日時:2001年2月20日(火)
場所:中町文化会館ベルディーホール

総合プロデューサー:鈴木忠志
演出:原田一樹
装置:朝倉摂
照明:鈴木忠志
音楽:高田みどり
衣装:谷原義雄

キャスト
モントルイユ夫人:夏木マリ
ルネ サド公爵夫人:美加理
サン・フォン伯爵夫人:久保庭尚子
シミアーヌ男爵夫人:木全晶子
アンヌ ルネの妹:平井久美子
シャルロット モントルイユ夫人家政婦:高田みどり


この公演は「公共ホール演劇制作ネットワーク事業」という枠組みにおいて、全国で7つの地域ホールが参加し、共同して作品制作にあたったものの一つである。公演の2日前に同ホールのロビーで、演出の原田一樹氏とキャストのうち三人(夏木・木全・平井)を囲む懇話会が行われ、その場で強調されていたことだが、この公演のきわめて大きな特色は、まさにそれぞれの公演場所のためにプロデュースされたものだということにある。通常の地方公演とは異なり、東京での公演を地方にもってゆくという発想ではなく、それぞれのホールで開催する数日前に現地入りしているということだが、それによって、舞台装置などだけではなく、演技者がそのホールに合わせた演技を行えるように入念に作品を作り上げていこうとしている。そういった公演形態に対するスタッフ・キャストの意気込みが、この懇話会を通じて非常に印象深く伝わった。ここではしかし、こういった試みのもつ特別な意義についてはこれ以上立ち入らず、おもに上演そのものについて感じたことを書いてみたい。

三島由紀夫の「サド公爵夫人」は、作者自身が述べているように、サド公爵をめぐる6人の女性がいわば特定の「イデエ」となって語るドラマである。「(…)これらが惑星の運行のように、交錯しつつ廻転してゆかねばならぬ。舞台の末梢的技巧は一切これを排し、セリフだけが舞台を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり、情念はあくまで理性の着物を着て歩き廻らねばならぬ。目の楽しみは、美しいロココ風の衣裳が引受けてくれるであろう。すべては、サド夫人をめぐる一つの精密な数学的体系でなければならぬ。」こういった「イデエの衝突」によって構築されてゆくものが、この作品のきわめて美しい枠組みを作り上げてゆくのだが、作品を「読む」という行為において捉えられるこの構築性が、実際の舞台上で演じられるときどれほど力をもって浮かび上がってくるか、いやまさに演じられるがゆえにいっそう力を得て浮かび上がってくるかということが、上演がどれほど成功したかということのおそらく最も重要な判断基準となるのではないかと思われる。「サド公爵夫人」はこのようにイデエの対決がひとつの星座を作り上げてゆく場として構築されているにせよ、それらのイデエを語る言葉は決して無機的な構造性を作り上げる要素などではなく、過剰なまでのバロック的装飾を施されたものという身振りをとっている。美しい構造性は、そういったバロック的装飾の喚起するイメージ・形象性によってこそ(もちろん、三島が新劇への批判を念頭におきつつ用いた華美な言葉そのものによってではなく)その生きた輪郭を得ている。6人の演技者は、この作品の圧倒的な量のセリフを自らの言葉とし、それぞれの言葉にその位置を占めさせるリズム、テンポ、音色をみごとに与えており、それによってまさにロゴスのドラマを構築していた。

構造性が浮かび上がるためには、言葉の装飾そのものに注意が向けられることなくその「イデエ」を提示することが必要になるのだろうが、そのためにはイデエが凝縮させられるためのテンポが重要となるように思われる。しかし、それと相反する要求ともなるのだが、装飾的な形容辞が単に付随的な装飾として流れていくのではなく、その比喩によって喚起されるイメージを十分に提示することも必要となる。例えば第一幕冒頭でサン・フォン伯爵夫人がシミアーヌ男爵夫人に対して、サド公爵が娼婦たちに要求したことを描写する際に、それを大理石の像にあたる日の光によって譬えている。この譬えがこの言葉を聞いている人にありありとした形象性をともなって浮かび上がるためには、逆にかなりゆるやかなテンポが必要となるのではないかと思った。(サン・フォン伯爵夫人の言葉にすぐに反応するように、この「悪魔の所業」をシミアーヌ男爵夫人がすぐさま思い浮かべることができてしまうというのも少し不自然に感じた。)
また、言葉そのものに圧倒的に比重がおかれることになるために、舞台上での肉体的な面での演技は必然的により小さな役割しか与えられなくなるのだが、そのためにその点に関して視覚的にどうしても平板な印象を受けてしまうことになるのはやむを得ないのかもしれない。視覚的に問題となってくるのはむしろ、舞台の上で演技しているものが、ドラマの展開や人物=イデエ相互の関係において、どういった位置を占め、どういった方向・姿勢をとっているかといった構造上の意図といえるだろう。

このドラマの中で姿を現すことのないサド公爵、つまり「想像できないもの」、「譬えでしか語れない人」(第二幕・ルネ)は、単に装飾的な形容辞による比喩で語ることのできるものではなく、むしろドラマ全体のなす構造性がそれ自体比喩となって語ることのできるものといえるかもしれない。舞台装置はそれを示すものとして興味深いものだった。舞台上手から中央にかけて古典古代風の円柱が数本立ち、上方は天井へと広がる部分で省略されているものの、その先を暗示している。(描かれたものではなく、立体的な柱となっていることが演出上非常に重要な意味を持つ。)基本的には上手から下手に向かうにつれて、時間の移行、それにともなう衰退が表現されており、下手にある数少ない列柱も途中で折れ、その先が床の上に転がったりして、廃墟の様相を呈している。中央奥には黒い大きめの扉があるが、その扉自体も下手方向に向かうにつれてひびや亀裂を生じている。演出の原田一樹氏がこの舞台の意図を「時間性の空間化」と述べていたのは、ますますベンヤミンのバロック悲劇に対する思考を否応なく思い起こさせ、非常に興味深かった。(原田氏はそういったことを念頭においておられたのだろうか。)

三島自身の設定では、単に「パリ。モントルイユ夫人邸サロン」としか書かれていないが、「サロン」であることは、舞台中央におかれたロココ風のソファなどによってとりあえず示されている。衣裳もロココ風のもので、それによって物語が進行している場が特定の時代と場所のうちに置かれていることを指し示しながら、「イデエの衝突」によって浮かび上がる構造性は「サロン」を取り囲むように配置された円柱や中央奥の扉によって視覚的にも支えられるものとなっていた。円柱や扉の持つ意味はとりわけ第三幕においてサド公爵夫人ルネが舞台の上で語る言葉とともにありありと浮かび上がることになる。円柱はここでまさに鉄格子として現れてくるのだが、しかしそれがなぜロココ風サロンを取り囲むかたちで立てられた古代ギリシャの列柱なのかといことは多少不思議な気がしないでもない。原田一樹氏は懇談会の際に、三島のこの作品を読んだときまず頭に浮かんだのは古代ギリシャ風の舞台装置だったと述べていた。公演後このことを原田氏に伺ったところ、鉄格子と円柱の両方に共通する上方への志向ということを指摘していたが、私としてはむしろ廃墟という空間像のうちに現れる時間性という意図そのものにより強く両者を結びつけるイメージを感じ取っていた。

この公演の中でもう一つ特筆すべきは、打楽器奏者高田みどり氏(シャルロット、モントルイユ夫人家政婦)による舞台上での演奏である。第二幕から第三幕へは暗転と高田氏による演奏をはさんで移行していったが、この演奏自体がともかく圧倒的なものだった。(もっと長い間演奏を聴くことができれば、と第三幕が始まるときに思ってしまった。)演技者の言葉に重ね合わされるように奏される場合も、それは心理的な描写などではなく、あたかもその言葉につけられた刻印が示されるように、そこでのイデエを浮かび上がらせるものとなっていたように感じた。

(2001年2月23日、3月23,24日)