プログラムノート

交響曲第9番 G.マーラー

第九交響曲ということばを聞いてすぐに連想するものは何でしょうか? もちろん人によってさまざまでしょうが、おそらく多くの人がベートーベンのあの合唱のついた最後の交響曲のことを考えるのではないかと思います。今日私たちが演奏するマーラーの第九交響曲は、ベートーベンの第九交響曲と音楽的にとくに関係があるわけではないのですが、この「第九番」という数字の一致は全く意味のないことというわけでもありません。というのも、よく知られているように、マーラーはベートーベン、シューベルト、ブルックナーといった大作曲家の最後の交響曲となった「第九番」という数を、死によって創作に終止符を打つことになる不吉なものと考え、本来ならば第九番となるはずであった交響曲に「大地の歌」という標題だけを与え、彼の十曲目の交響曲となる作品を「第九交響曲」と名づけたのですが、そういったことをしてまでなんとか運命を乗り越えようとした、といったいきさつがあるからです。とはいえ、それだけであれば、こういった数字にまつわる話は単なるエピソードにすぎないかも知れません。この話がマーラーの第九交響曲を語るときにしばしば引き合いに出されるのは、「九」という数字に対してマーラーが恐れを抱きながら重ね合わせて考えていた「死」が、この交響曲のなかで非常に重要な意味をもってくるからといえるでしょう。

グスタフ・マーラーという名前は、私たちにとってはもちろん一人の大作曲家の名前として思い浮かべられるのですが、彼の活躍した時代(ちょうど百年前ということになります)・場所としての世紀転換期ウィーンの人々にとって、マーラーとはむしろ、ウィーン宮廷歌劇場(今のウィーン国立歌劇場)の指揮者として知られていたといった方がよいのかもしれません。といっても、そのことばから思い浮かべられるような華々しい成功と賞讃にいつも取り巻かれていたわけではなく、むしろ大胆で革新的なオペラの解釈やレパートリーの選択によってしばしば物議をかもし、とりわけ彼がユダヤ人であるということによって揶揄の対象となってきたという側面を見落とすことはできません。マーラーが交響曲第九番の作曲に着手する二年前に彼は宮廷歌劇場を解雇され、ウィーン文化の頂点にとどまるというかたちでこの社会に受け入れられ続けることはできませんでした。その同じ年に愛娘を失い、また妻アルマとの関係も危ういものとなっていたことが「大地の歌」や交響曲第九番のもつ暗い陰りに大きく関わっているということもいえるかもしれません。しかし、単にそういった個人的な精神状況だけではなく、彼の生きた時代のウィーン文化の状況にこそ、これらの交響曲のなかに深く込められた想念が根ざしているように思われます。

世紀末ウィーンとして一般に知られているこの時代の文化は、音楽・文学・美術・工芸・建築あるいは心理学といったさまざまな領域において、それぞれが深く関わり合いながら、新たな芸術・知の胎動を感じさせるような革新的な運動が展開されていく興味深い現象でした。といっても、同じ世紀末ウィーンの文化に属していた人たちの中でも、世代の分かれ目があるようです。たとえば音楽に関していえば、マーラーより一世代若いシェーンベルクが、ロマン派の最後の爛熟から無調音楽をへて十二音技法による作曲へと、二十世紀音楽への第一歩を踏み出していったのに対して、マーラーはあくまでもロマン派の作曲家に踏みとどまっていたのでした。その意味で、新しい世代の芸術家に対して、マーラーの世代は十九世紀の精神的遺産を引き継いだ最後の芸術家であったといえるでしょう。そのように考えるとき、交響曲第九番を語る際にしばしば言及されるマーラーの死に対する想念も、単なる個人的な感情にとどまるのではなく、ひとつの芸術的伝統の終焉へと向けられた思いであるようにさえ感じられます。奇しくも「第九番」という番号を背負ったこの交響曲は、ロマン派の交響曲の墓石、といっても不吉な死を連想させるものというよりは、偉大なものの記念碑としての墓石であるかのようにそびえている、とでもいえるかもしれません。

四つの楽章という構成をとるこの第九交響曲は、両端の第一、第四楽章が基本的に緩徐楽章で精神化されたとでも呼べるような内容に貫かれているのに対して、それらにはさまれた第二、第三楽章がいわば現世的な性格を強くもつことによって、はっきりとしたコントラストを描いています。かなり長大な第一楽章は、指揮者のバーンスタインが心臓の鼓動に喩えた静かな律動に始まりますが、まさにマーラーの心の中が、生の美しさへの憧憬、懐疑、生との格闘、虚脱、哀悼、観想的な沈潜、そして浄化された回顧といった変転のうちに描き出されているかのようです。第二楽章は一転して、オーストリアなどの民衆的で素朴な舞曲「レントラー」によって書かれています。三つの異なるテンポによるレントラーが交錯して現れますが、最初ののんびりしたほほえましい主題に対して、二つ目のレントラーはかなり速いテンポで、本来のレントラーがグロテスクに戯画化されたものとなっています。三つ目のレントラーは対照的に、かなりゆっくりとくつろいだ性格のものです。このように田舎の人たちの楽しい踊りであるかのような音楽がつづきながらも、楽章の終わりには死の舞踏を踊る死神のようにヴィオラの不吉な音も響きます。第三楽章につけられた「ブルレスケ」という標題は、本来「いたずら」とか「冗談」を表すものですが、マーラーは「きわめて反抗的に」という指示を与えて、むしろとげとげしく、切迫した雰囲気の楽章となっています。しかし、中間部にはゆったりとしたテンポでの美しいトランペットのソロを聴くことができます。マーラーの交響曲の中でも、この第四楽章の最初の弦楽器ほど心を強く打つ始まり方をするものはないのではないでしょうか。静かに回顧的に語りかけながらも、ときおり弦楽器やあるいはホルンのソロによって込められる強い情感は、マーラーの生への限りない憧憬と愛情を訴えかけるかのようです。しかし、この曲を何よりも印象深いものとしているのは、弦楽器だけによって奏される静かな終結でしょう。このように浄化され、安らかに消えていく交響曲を書きながら、マーラーはさらにどのような音楽を書こうとしたというのでしょうか。(実際には、交響曲第一〇番のすばらしいアダージョの楽章を残しているのではありますが。)最後の音が消え去った後もまだ音楽が静かに鳴り響き続けているような、そのような演奏をすることができればと願いつつ、ステージへと向かいます。(H.Y.)


芦屋交響楽団第52回定期演奏会
日 時: 2000年2月20日(日)
場 所: ザ・シンフォニーホール
指 揮: 黒岩 英臣
独 奏: 東 誠三   (ピアノ)
曲 目: W.A.モーツァルト 
ピアノ協奏曲第13番 K.415
     G.マーラー    
交響曲第9番 ニ長調