1998年度 インターネット講座
メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程
第2回・第3回講義
マクルーハンのテーゼの論点
資料01
新しいテクノロジー・コミュニケーションの環境
- 「後文字人の電子メディアは、世界を一つの村ないし部族に縮小する。ここでは、あらゆるものごとが、あらゆる人に、同時に発生する。あらゆる人が、あらゆるものごとについてそれが発生するその瞬間において知り、したがってあらゆるものごとに参加する。テレビが世界村のできごとにこの同時発生性を与える。
村ないし部族におけるこのようなこの経験の同時的な分け合いが、村ないし部族の様相を作り出し、集団性を優先させる。人々のこの新しい部族的な並存においては、誰も個人的な優越性を争って求めなくなる。個人的優越性を求めることは社会的にいって自殺行為であり、したがってタブーとなろう。」(マクルーハン「メディアの文法」、『マクルーハン理論』p.25)
- 「西欧世界は、三〇〇〇年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発」(explosion)を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発」(implosion)を起こしている。機械の時代に、われわれはその身体を空間に拡張していた。現在、一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に、われわれは人間拡張の最終相に近づく。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という創造的なプロセスも集合的、集団的に人間社会全体に拡張される。さまざまのメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。」(『メディア論』p.3)
-
「三〇〇〇年にわたり専門が外爆発を起こし、身体の技術的拡張を続ける中で分化と疎外が増大してきたが、そのあとでわれわれの世界は、劇的逆転によって圧縮されてしまった。地球は電気のために縮小して、もはや村以外の何ものでもなくなってしまった。電気のスピードがあらゆる社会的及び政治的作用を一瞬にして結合してしまうために、人間の責任の自覚を極度に高めてしまった。」(『メディア論』P.5)
-
「「コミュニケーション」という用語ははじめ道路や橋、海路、河川、運河などと関連して広義の用法をもっていたが、後に電気の時代には情報の移動を意味するように代わってきた。たぶん、電気の時代の性格を規定するのにこれ以上ないほど適切な方法は、まず「コミュニケーション(伝達)としてのトランスポーテーション(輸送)」という観念の生じてきたことを研究し、次にその観念が輸送から電気による伝達の意味に変わるのを研究することであろう。英語のmetaphorすなわち「暗喩」ということばは、ギリシア語のmetaに、「向こうまで運ぶ」あるいは「輸送する」の意のphereinがついてできたものである。本書では、物品と情報のあらゆる輸送の形態を、ともに暗喩と交換として扱う。どちらの輸送の形態も、何かを運搬するばかりか、送り手、受け手、メッセージの一と形態とを変える。いかなる種類のメディア、すなわち、人間の拡張を使用しようと、それによって、われわれの感覚同士の間の比率が代わるのと同じように、人間同士の間の依存関係のパターンが変わる。」(『メディア論』「道路と紙のルート」p.91)
-
「すべての技術が力と速さを増すために身体の神経組織を拡張したものである。これが本書の一貫した主題である。また、もしこのような力と速さの増加がなければ、われわれ自身の新しい拡張も起きないであろうし、起きても棄てられるであろう。いかなる種類の単位集団においても、力と速さの増加そのものが組織の変化を引き起こす混乱であるからだ。社会集団の変化とか新しい共同体の形成とかは、紙による伝言と道路による輸送とによって情報の移動の速さが増したときに起こる。このように速度が増すということは、とりもなおさず、もっと離れたところでもっと操縦が容易になるということである。」『メディア論』「道路と紙のルート」p.92)
-
「機能の分離および業務段階、空間、仕事などの分割は、文字分化的で視覚的な社会、すなわち西欧世界の特徴である。こうした分割は、電気の即時的有機的相互関係を特色とする活動によって、解消へ向かう。」(『メディア論』「電信」p.253)
-
「新しいものの誕生はすべて、既存の組織の平衡をおびやかす。(...) したがって、新しいアイディアは、大企業の内部からはけっして生まれない。それは外部から、つまり小さいが競争関係にある何らかの組織を介して、その組織をおそうのでなければならない。同じように、われわれの身体や感覚を外在かないしは拡張して「新発明」を生み出す場合も、平衡を維持するために、われわれの身体または感覚の全体を新しい配置に帰ることを余儀なくされる。新しい発明によって新しい「完結性」が、われわれの個人的および社会的全器官と感覚にもたらされる。視覚と聴覚は、他のすべての感覚と同様に、新しい姿勢をとる。電信の誕生とともに、ニュースを取材し提供する方法全体が改革された。とうぜん、言語、文体、主題への影響はめざましいものがあった。」(『メディア論』「広告」p.257-258)
-
「電話の発明は、一九世紀に行われた話し言葉を視覚化しようとする大規模な努力の副産物であった。(...)
電気技術も同じように、電気が開発された当初から、話し言葉と言語の世界の合流していたのであった。われわれの中枢神経組織の偉大な第一次の拡張――話し言葉というマス・メディア――は、中枢神経組織の偉大な第二次の拡張――電気技術――とまもなく結婚することになった。」(『メディア論』「電話」p.277)
-
「皮肉なことに西欧人は、発明というものが彼らの生活様式を脅かすことになるなどと言う懸念を一度も抱いたことがない。事実は、アルファベットから自動車にいたるまで、二五〇〇年以上にわたって拡張を続けてきたゆっくりとした技術の外爆発によって、西洋人は改造を受けてきているのである。しかし、電信が誕生した時を境として、それ以降、西欧人は内爆発を生き始めた。突如としてニーチェのような無頓着さで、二五〇〇年におよぶ外爆発の映画を逆回転させはじめたのだ。」(『メディア論』「電話」p.278)
-
「まさにこうした一つの役割への全体的な統合が、文字文化型人間の顔を逆撫でするのである。彼らは、電気メディアによる「縫い目のない網」式の決定行為から必然的に生じる内爆発に直面して、いよいよ苛立つ。西欧世界での自由はこれまで恒に、個人と国家との分離を促進するにあたって、外爆発的分割的形態をとってきた。中心から周辺へと外へ向かうその一方向の動きが逆転したのは、かつての西欧世界の偉大な外爆発がそもそも表音指揮文字文化のせいであったのが明白であるように、電気によるものであるのは明白である。」(『メディア論』「電話」p.280-281)
-
「権力の分離は、沿革の周縁にまで放射状に広がっている中央集権的構造の中で行動を抑制するためのテクニックであった。電気的構造においては、少なく智子の地球という惑星の時間と空間にかんする限り、周縁などというものは存在しない。したがって、中心と中心のあいだ、および対等なもの同士のあいだにおける対話しかありえない。」(『メディア論』「電話」p.281)
-
「オートメーションの出現によって、専門分化した職務が消えるだけでなく、それに変わって複合的な役割が再び登場してくる。何世紀にもわたって、教授法においても教授内容の配列においても、専門分化を尊重してきたが、この専門主義は、電気によって情報の獲得が瞬時に可能になったのに伴って、いま終わりを告げようとしている。オートメーションは情報であり、それによって仕事の世界から職務が消えるだけでなく、学習の世界からも科目が消える。しかし、オートメーションも、学習の世界そのものをなくしてしまうわけではない。将来は、オートメーション時代における生き方の学習が、人々の仕事の内容になるであろう。これは電気による芸術全般に見られるパターンである。これによって、文化と技術、芸術と商業、仕事と余暇などの古い二分法は終わることになる。断片化を特色とする機械の時代には、余暇とは仕事がないこと、あるいは単なる怠惰にすぎなかったが、電気の時代では、その逆が真実となる。」(『メディア論』「オートメーション」p.363)
-
「電気時代のすぐに目につく特徴は、電気によって、われわれの中枢神経組織にきわめてよく似た性格をもつ、全地球的なネットワークが確立される点である。中枢神経組織は、単に電気的ネットワークであるにとどまらず、経験が統一される単一の場を構成する。生物学者が指摘するように、能はあらゆる種類の印象と経験が交換され変換される相互作用の場であって、そのおかげで、われわれは全体としての世界に反応できるのである。当然のことながら、電気の技術が機能し始めると、産業および社会において、種類も規模もまちまちな、ありとあらゆる活動が急速に統一的な相貌を帯びてくる。」(『メディア論』「オートメーション」p.365)
