1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第2回・第3回講義 資料

マクルーハンのテーゼの特殊なターム――理論の枠組み

 きわめて広範な現象を対象とするマクルーハン理論の枠組みとなっているのは、ごく大雑把にいって、文字(アルファベット)をもたない文化から、文字にもとづく文化(とりわけ活版印刷以降の西欧文化)をへて、電子メディアによって変革された文化へといたる、メディアの展開およびそれによって規定された世界の認識様式・経験様式の展開である。

 この三段階的な展開のうち、とりわけ問題になってくるのが、西欧文化(=第二段階)において支配的な「文字人間型文化」の認識様式の分析とそれに対する批判的視点、そして、マクルーハンが問題提起を行った1960年代に次第に顕著になっていったテレビなどの電子メディアにもとづく新たな認識様式に対する分析・その可能性の検討である。

 マクルーハンによれば、文字文化以前の人間(=第一段階)の認識様式はさまざまな感覚の統合によるものであったのに対し、表音文字としてのアルファベットを書き言葉として用いる西欧文化(=第二段階)は、世界を文字によって分断化・分節化し、それを線状的に構造化することによって論理性・合理性を可能としていった。マクルーハンは、ここでの認識の基盤は「視覚的」なものだと考えている。こういったことは活版印刷の発明によって画一性・反復性が保証されることでさらに決定的なものとなる。「あらゆる種類の経験を画一の単位に分断し、より早く動き変われる形態を生み出すこと(応用知識)、これが人間と自然を支配する西欧の力の秘密であった。」それによって西欧文化は、現在に至るまでの大発展を遂げることが可能となった。このことは、知の領域における論理性・合理性・専門分化といった特質を生み出し発展させていっただけでなく、産業・文化・軍事・教育など社会のあらゆる側面を規定していく。

 ここで大雑把に第二段階とよんだ局面においても、活版印刷以前の文字文化の時代、活版印刷の発明以降の時代、そして機械の投入が大規模に進展していく一八、一九世紀(あるいは二〇世紀前半)に分けて考えることもできるだろうが、上に述べた特質とともにこれらに共通しているのは、ここでの展開が「外爆発」explosionと特徴づけられることである。マクルーハンにとって、前文字文化から電子文化にいたるまでのメディアの展開は、人間そのものの拡張の過程に他ならないが、アルファベットによる世界の分節化にもとづいた西欧文化の「機械の時代」(=第二段階)が、「外爆発」とよばれる発展を遂げてきたのに対して、1960年代以降の電子メディアの時代(=第三段階)における「人間の拡張」は「内爆発」inplosionであるとされる。

 西欧の文字文化における認識・思考様式に変革をもたらしたと位置づけられている、テレビなどの新しい電子メディアに対してマクルーハンが付与している特質は、(文字文化におけるメディアに付与している特質とともに)きわめて独特なものである。文字文化における認識様式が「視覚」にもとづいているとされるのに対して、電子メディアの文化ではとりわけ「聴覚」が支配的とされる。また、文字文化における「印刷物」「写真」「映画」などが「高精細度」high definitionで「熱い」hotであるのに対して、電子メディア文化における「電話」「テレビ」などは「低精細度」low definitionで「冷たい」coolメディアであるとされる。「低精細度」の「冷たい」メディアでは与えられる情報量が少ないため、受け取り手が補わなければならない。それに対して、「高精細度」の「熱い」メディアにおいては、受容者によって補充される部分が少ない。その結果、熱いメディアでは受容者による参与性が低く、冷たいメディアにおいては参与性・補完性が高くなる。

 文字文化においては、「視覚」にきわめて高い優先性が与えられ、他の諸感覚が抑圧されつつ、断片化・分節化された要素の線状的な論理の連続性として世界が把握される。視覚による、こういった動体の一焦点への静止化、抽象化に対して、電子メディア文化において支配的とされる「聴覚」は、特定の焦点をもたず、固定した境界のない球体である。視覚の生み出す固定化、論理性に対して、聴覚はさまざまな感覚に働きかけ、感情に直接呼びかける。それによって、統合的感覚・統合的想像力・共感覚(対象によって触発されるある感覚[例えば音]が、それとは直接的には関係のない感覚[例えば色]を引き起こし、結びつくこと)の可能性も生まれるとされる。

 電子メディアにおいて可能となるとされる、こういった対象の直観・統合的感覚・統合的想像力への転換は、アルファベットによる西欧文化が「視覚」中心主義によって世界を分節化し、線状的に構造化する以前の、前文字文化における認識様式への回帰という意味合いをもっている。その意味において、電子メディア文化への転換をマクルーハンはしばしば「逆転」と呼んでいる。「テレビ映像は、この文字文化が特色とする、感覚生活の分析的断片化の過程に逆転を起こすものだ。」 

 同じことが、電子メディアのもたらす地球規模のネットワーク化についてもいえるだろう。「後文字人の電子メディアは、世界を一つの村ないし部族に縮小する。ここでは、あらゆるものごとが、あらゆる人に、同時に発生する。あらゆる人が、あらゆるものごとについてそれが発生するその瞬間において知り、したがってあらゆるものごとに参加する。テレビが世界村のできごとにこの同時発生性を与える。村ないし部族におけるこのようなこの経験の同時的な分け合いが、村ないし部族の様相を作り出し、集団性を優先させる。人々のこの新しい部族的な並存においては、誰も個人的な優越性を争って求めなくなる。個人的優越性を求めることは社会的にいって自殺行為であり、したがってタブーとなろう。」ここで指摘されていることの内容自体については議論の余地があるところだろうが、西欧の文字文化における個人と社会の分離という原理から、電子メディア文化において可能となるとされる地球規模の共同体という考え方への移行は、「逆転」としての性格を明確にもっている。

以下に、マクルーハンの理論において頻出する特殊なタームを、「文字文化」と「電子メディア文化」にふりわけて、対照的に整理してみる。

文字文化 電子メディア文化
外爆発
機械の時代
(とりわけ活版印刷技術の発明以降)
視覚的
分断化・細分化・分節化
線状的論理性・連続性・画一性
画一性・反復性
分離・分割
 
内爆発
電子メディアの時代
(1960年代以降)
聴覚的
統合的
モザイク的・意味の複合体・共感覚
多目的性・複合性
統合・共同体
分散・拡散・周辺

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