宇戸研究室ウェブサイト

■映画「少年義勇兵」プログラム解説(宇戸)
ー太平洋戦争は真珠湾ではなくアジアにおいて始まっていたー

 

 今でこそタイ料理や旅行、あるいは「アンナと王様」「ビーチ」などのハリウッド映画を通 じてタイという国が広く一般に知られるようになったものの、ほんの少し前までは、日本にとってのタイはそれほどよく知られた国ではなかった。しかし、タイにおける日本というのは、日本におけるタイよりももっと身近な存在だったし、それは過去の事象にとどまるだけでなく、現在もまたそうなのである。

 タイは、東南アジアの国々の中では仏領インドシナと英領ビルマ、マレーシアの帝国主義の脅威のただ中にあって唯一、植民地化を免れ、独立を守った国である。そのことは、日本の中学・高校の歴史教科書にも書かれている。しかし、実際には、タイは太平洋戦争中、「欧米からの解放者」をうたった日本の進駐によって、国際法上はどうであれ、実質的には占領下にあった国であったことを知る人はそう多くはない。まして、タイが英米によって割譲された国土の失地回復のために日本に利用される形で連合国側に宣戦布告していたこと、そのためにバンコクが激しい空爆にさらされたこと、日本による「占領」からの解放をめざす「自由タイ」運動が国内外で展開されたことなどは、戦後のマス・メディアでもほとんど報じられることがなかった。

 日本人の多くはこうした日・タイ間の歴史を知らないまま、プーケット島やサムイ島でまったく無邪気にレジャーを楽しんでいるが、じつはそこから100キロも離れていないチュンポンなどの海岸に日本軍が奇襲作戦を開始したのは、映画「パール・ハーバー」の真珠湾攻撃が始まるほんの数時間前のことだったのである。つまり、太平洋戦争はじつは真珠湾ではなくマレー半島などアジアにおいて始まっていたのだ。  

 昭和天皇に戦況を報告した城英一郎侍従武官の日記では、シンゴラ(南タイのソンクラー)方面 への日本軍上陸は1941年12月8日午前1時30分、となっている。マレー半島に上陸し最終攻略目標のシンガポール(戦時中は昭南島)へ南下するには、山岳地帯やジャングルが続く東海岸を避けて北方タイ領から西側へ迂回する必要があったため、戦略上、英領マレーシアのコタバル作戦と同時に、タイ領ソンクラーやパッタニー、チュンポン、ナコンシータマラートも攻略の必要があった。「少年義勇兵」の舞台はまさにそのチュンポンである。

 映画「少年義勇兵」では、タイ国軍少年義勇兵局の第52訓練隊長タウィン・ニヨームセームが着任したのは同年の5月20日で、義勇兵への訓練は6月2日に開始されている。オーストラリアの歴史学者ウィリアム・L・スワンの論文「1941年ソンクラー日本領事館」によると、チュンポンより南へ300キロの地点にあるこの要衝に領事館が開かれたのは4月1日であるから、タイ当局はすでにベトナムを占領していた日本軍の次の動きに神経をとがらせつつ、無用な摩擦を避けるため離れた場所で侵略への備えに着手したことが分かる。

 スワンによれば、ソンクラー日本領事館に出入りしていたのは、大川周明が1938年に創設し満鉄と陸軍幕僚から財政支援を受けていた大川塾出身の領事館員のほか、医師、技術者、民間人など30人ほどの在住日本人であった。彼らの中には日本やチュラロンコーン大学でタイ語、マレー語を学び、きわめて流ちょうに言葉を操れるものが多かったという。これら日本人居留者と現地住民の関係改善や日本企業の支援というのが領事館の義務であったが、それは表向きのことで、実際は軍事情報の収集こそが最も重要な仕事であった。

 この日本領事館がカバーした地域は、北はチュンポンから南はマレー国境までというから、「少年義勇兵」に登場するマールットの義兄で写 真屋を経営する軍属の川上は、魚釣りに偽装して測ったチュンポン湾の水深や地形などの情報をすべて領事館に報告していたであろう。「少年義勇兵」と同じように戦争中の日本とタイの関係を描いた映画「メナムの残照」(タイ語では「クー・カム」)にも、チュラロンコーン大学で日本語を教えていた日本人が、日本軍のタイ上陸とともに一夜にして軍服に着替え、主人公アンスマリン(日本名日出子)に唾棄される場面 がある。

 映画「少年義勇兵」では少年たちに死者こそ出ていないが、ソンクラーの衝突では実際に地元の警官隊や民間人に数十人の死傷者が出ている。翌日、日本とピブンソンクラーム首相の間で「日本軍のタイ国への平和進駐に関する協定書」が結ばれてタイの独立主権の尊重が約束されたため、交戦は小規模なものをもって終わったが、タイではこの時の歴史的記憶が今もなお生きていることを、われわれ日本人は決して忘れてはならないだろう。

 さて、タイではいま映画と雑誌出版がとても元気である。出版界では、都会の若者や知識層をターゲットにしたインディーズ系の雑誌の刊行が一大ブームとなっている。「DNA」は女性向けの月刊雑誌ながら、従来のファッション情報ばかりでなく、新しい都会派のためのライフスタイルを提案している。「a day」や「サマー」は著名人のエッセー、音楽、グルメ、旅行、IT情報、芸術などこれまでの雑誌にはなかった斬新な編集スタイルをとり、タイの伝統的な価値観に対しても、一部から危険視されだしたほど挑戦的である。

 さらに映画界では、1997年上映の「ファン・バー・カラオケ」や「アンタパーン・クローン・ムアン」など新人監督による最新の映画テクニックを使った映像表現が、それまで沈滞気味だったタイ映画界に新風を吹き込んだこともあって、あたかもタイ映画のヌーベル・バーグ時代の到来を思わせる活況である。その流れを決定づけたのが、タイ映画史上No.1のヒットとなった1999年の「ナンナーク」(第44回アジア太平洋映画祭グランプリ受賞)である。深い絆で結ばれた若い夫婦の究極の愛を従来とは全く違った手法で描き出したこの作品は、ミュージック・ビデオ出身のノンスィー・ニミブット監督が、3000人以上の候補者から選ばれたヒロインのインティラー・チャルンプラやモデル出身のヒーロー、ウィナイ・クライブットを起用するなど、すべて新人で固めてある。

 その他では、近代文学の巨匠といわれるシーブーラパーの長編「絵の裏」や、民族主義思想家ウィチットワータカーンの戯曲「スパンの血」もベテラン監督によって映画化され、好評を博した。この秋にはいよいよ、王族出身の監督として著名なチャルームチャトリー・ユコンが10年の歳月をかけて構想・撮影した「スリヨータイ妃」という一大スペクトルが一般 公開を予定されているし、タイ映画として初めてカンヌ映画祭に出品されたウィシット・サーサナティアン監督(新人)の「ブラック・タイガーの涙」も注目される。こうしてみると、タイ映画が近い将来、中国映画や韓国映画と並んで世界の桧舞台で活躍する日が来ることは、あながち夢物語ではなくなりつつある。

 「少年義勇兵」のユッタナー・ムクダーサニット監督はこれまでに「蝶と花」、「ナンプーは死んだ」など青春を扱った文芸作品を映画化する手法で定評があるベテラン映画人だが、他方では、上に紹介した「メナムの残照」やこの作品が示すように、タイ人の歴史的記憶を風化させないという意志を持った骨太の知識人の一人でもある。タイ映画はこれらのベテランと新人がたがいに切磋琢磨しつつ、大いなる未来を開いていくことだろう。

           映画「少年義勇兵」プログラム解説(徳間書店映像事業部、2001年、8-9頁)