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■『ウィン・リョウワーリン短編集:インモラル・アンリアル』あとがき

  訳者あとがき

 本書は、ウィン・リョウワーリンの『不吉な兆し』(ドークヤー社、一九九四年)、『黒い手帳と紅葉』(同、一九九四年)、『人間と呼ばれる生き物』(同、一九九八年)の三冊の短編集から九編を選んで訳出したものである。

 一般にタイの作家は、東南アジアの研究者や一部の読者を除いてほとんどその名が知られることがないのがわが国の現状であるが、一九八〇年代以降のめざましい経済発展にともなう社会矛盾の露呈と共に、タイでは個の内面 世界を描こうとする才能あふれる若手作家たちが着実に育ちつつある。ウィンもまたそうした群像の中の、しかし巨大な可能性を秘めた一人であるといって過言ではない。

 タイ文学の異端児であり、伝統への挑戦者。ウィン・リョウワーリンの小説をごく手短に要約するとしたら、このような言い方も許されるであろう。

 ウィンは、言語とは人間が選びとることのできる多様な表現手段のうちのひとつに過ぎないという確固たる信念を、他の同時代作家に躊躇することなく自己の作品中で強烈にうちだしているように見える。それはタイ語の統辞法をいったん解体させた上で物語の記述を試みた本書所収の「情夫」において最も明白だが、それ以外の虚構を記述した世界でも、従来のタイ文学を知る者にとっては驚きに満ちた斬新かつ実験的な手法が貫徹されているのだ。

 それにしても、二〇世紀末のタイにこのウィンという作家を登場させることになったタイ文学の背景を簡単に俯瞰し、その中でのウィンの位 置をおさえておくのはあながち無駄ではないだろう。   
 「ラーマーヤナ」(タイ名「ラーマキエン」)や「ジャータカ物語」といった外国の宗教文学やタイ独自の「クンチャーン・クンペーン物語」などの古典に馴染んでいたタイに散文形式の物語がもたらされたのは一九世紀になってからで、それも初めは「三国志演義」などの中国歴史小説が主流であった。二〇世紀初頭になるとイギリスやフランスの大衆小説の翻訳・翻案がようやく普及し初め、三〇年前後に初めて近代タイ文学が登場することになった。タイ近代文学の父といわれるシーブーラパー(一九〇五〜七四)やセーニー・サオワポン(一九一八〜)が登場した頃である。三二年の立憲革命は文学を担う主体が王族・貴族といった旧支配階層から一般 人に移行する契機を作り出した点で重要であったが、その後の軍部独裁による表現の自由の抑圧はタイ文学の発展に大きな足枷となった。

 そうした厳しい状況下で詩人ナーイ・ピー(一九一八〜五八?)や思想家、歴史家でもあったチット・プーミサック(一九三〇〜六六)が旗印とした「生きるための文学」運動に再評価が与えられるきっかけとなったのが七三年一〇月一四日の「血の水曜日事件」であった。学生知識人や一般 人が軍部政治を倒したこの政変後に言論・結社の自由を保障する新憲法が発布され、それまでの沈滞を打ち破るように「ルン・マイ」(新世代)の詩人や作家が続々と登場した。ナワラット・ポンパイブーン(一九四〇〜)、シラー・コームチャーイ(一九五二〜)チャート・コープチッティ(一九五四〜)、ウィモン・サイニムヌアン(一九五五〜)、パイトゥーン・タンヤー(一九五六〜)など現代タイ文学をリードする作家の多くはこの時期から作家活動を始めており、タイでは、現代文学とは一般 にはこの七三年一〇月事件以降の文学を指す。

 タイ現代文学は、当初は農民や都市下層大衆の立場を代弁する社会参加型のテーマを扱った作品が多かったが、八〇年代以降になるとタイ経済の急速な発展に平行する形で関心が次第に個人の内面 世界の矛盾や葛藤に向かうようになり、表現の方法にも様々な実験が加えられるようになった。旧来のシステムと周囲の偏見の中で精神的に自死していく農民を描いた『裁き』(一九八一)や、演劇や映画の手法を用いた『時』(一九九三)、『惑溺』(二〇〇〇)などの作品を書いたチャート・コープチッティも従来の表現法に飽きたらず実験的な小説に挑戦し続ける一人であるが、何といってもその筆頭格はウィン・リョウワーリンということになるだろう。

 ウィン・リョウワーリンは一九五六年三月二三日、南タイ・ソンクラー県ハートヤイ郡の辺鄙な土地に生まれた。家族は細々とした家内工業で靴や履き物を製造販売しながら、子供の教育には熱心だったようだ。七年間の義務教育と三年間の中等教育を地元の学校で終えた後、バンコクのボーディンタラデーチャー高校に進んだ。受験地獄時代に突入した今日のタイでは有名な進学校である。頭脳明晰だった彼はその後、超難関の名門チュラロンコーン大学に入学し建築学科で学ぶこととなった。近代化の渦中にあったラーマ五世、六世時代に西洋から取り入れた近代劇の舞台装置制作に一貫して関わってきた同大の建築学科はきわめてユニークな教育環境で知られ、その卒業生には作家、演劇人を含めタイのマスコミや芸術界で活躍中の人物が多い。

 ウィンはその後、タマサート大学で経営学修士を取得、修了と同時にシンガポール、次いでアメリカで広告業界の仕事に従事した。一九八五年に帰国すると、広告代理店でのコピー・ライターを経て一九九二年発表の短編「世俗と涅槃」でチョー・カーラケート賞を受賞しタイ文壇にデビューした。本書には載せなかったが、短編「ある天才詐欺師の供述」(『人間と呼ばれる生き物』所載)はこのコピー・ライター時代の実体験を元にした部分がリアルに描かれていて興味深い。その後の文壇での活躍は巻末の彼のプロフィールを参照していただきたい。ちなみに、アメリカ在住時代のウィンは、一九世紀末の点描画家ジョルジョ・スーラの作品や前衛的な作風で知られる吉田昭二、ジョン・フォン・ドーンなどの写 真、オーソン・ウェルズの映画などに大きな刺激を受けたようで、著書の前書きで言及する例が目立つ。いつか小説を書こうという強烈な思いはそのあたりで形成されたようだ。作家としてはアメリカのオー・ヘンリーをよく読んだようで、『黒い手帳と紅葉』所収の作品にはドンデン返しの手法をなぞったと思われるものが多くあるが、本書では一作のみの紹介にとどめた。

 作家としてはまだ駆け出しの感のあったウィンの名を一気に押し上げたのは、一九九七年にタイの歴史学者、文学者、ジャーナリズムの間で大論争を巻き起こすことになった東南アジア文学受賞作の『平行線上の民主主義』(邦訳あり)である。『平行線上の民主主義』は一言でいえば、一九三二年立憲革命以後、一九九二年までの約六〇年間に数多く繰り返された血生臭い政変にまつわるタイ政治裏面 史の物語である。物語の構成としては一一のオムニバス短編の集成としての長編という形式をとっている。この小説がセンセーションを巻き起こした理由は二つある。一つは、フィクションであるとうたいながら歴史上の人物を登場させ、虚構の人物をそこに紛れ込ませていること。ここには、全部で一一九葉にもおよぶキャプション付きの写 真や三枚の図版、歴史タームの詳細な注釈と五八冊の参考文献リストを挿入したことに対する批判も含まれる。もう一つは、立憲革命や重要な政治事件の正しい評価が小説家ウィンの歴史観、人生観で歪曲されているという歴史家からの危惧である。しかし、文学研究者サイドからは、この小説における形式やジャンルの実験を認める擁護論も出た。結果 的に見れば、『平行線上の民主主義』をめぐる多くの言説は、タイ現代文学に多くの果 実をもたらしたと思われる。  

 本書に収めた九編の作品は合計三冊の短編集からとったもので、原タイトルと共に発表年代順に掲げると以下の通 りである。  

 短編集『不吉な兆し』(ドークヤー社、一九九四年)Ruam Roangsan Aphet Kamsuan, Samnakphim Dokya, 1994.  
  「身元不明人―公園の哲学―」Khon Pleknaa: Pratchaya thi Suansatharana  
  「世俗と涅槃」Kokia- Nipphan

 短編集『黒い手帳と紅葉』(同、一九九四年)Ruam Roangsan Samut Pokdam kap Baimai Sidaeng, Samnakphim Dokya, 1994.   
  「黒い手帳と紅葉」Samut Pokdam kap Baimai Sidaeng

 短編集『人間と呼ばれる生き物』(同、一九九八年)Ruam Roangsan Sing mi Chiwit thi riak wa Khon, Samnakphim Dokya, 1998.  
  「ぼくと父の奇妙な関係」Roang khong Phom kap Pho
  「路上の犬」Ma klang Thanon
  「窓辺のチャニアンの鉢」Krathang Chaniang rim Natang
  「情夫」Chu
  「死刑執行人」Phetchakhat
  「ラート・エカテートの三つの世界」Kanni khong Rat Lok sam bai khong Rat Ekathet

 これらの内、「世俗と涅槃」、「情夫」「ラート・エカテートの三つの世界」は外観だけからしてすぐに大胆な実験が施された作品であることが分かる。「世俗と涅槃」では上段の文字列を白抜きにして汚濁にまみれているはずの俗世間の代表として風俗嬢を登場させ、下段では結界に守られた清浄な世界の住人であるはずの僧侶の堕落した様子を描く。それぞれの段の最後ではまるでメビウスの輪のねじれのように白黒が反転し、この物語が人間存在の不条理という永久運動から抜け出せないことを暗示するかのようである。
  「情夫」ではスラッシュの挿入による語彙と構文の解体というさらに過激な仕掛けに出くわす。ここでは愛をビジネスにする男女というモティーフは物語の副次的な要素にまで後退させられてしまっている。「情夫」においてウィンが行った言語処理の意味とは、一語ずつに文節化された名詞が映像言語でいうショットによる空間のフィルム・コマ撮影に該当し、同様にしてスラッシュは次のショット(名詞)へ転換するためのカメラワークの停止(カット)を意味することが分かる。ここでは彼は、時間と空間を自在に行き来可能な記号的世界を扱う文学の特性をあえて捨て、時称の変化がなくただ現在の空間のみを表現できる映像言語による表象に挑戦したのである。

 とはいえ、ウィンの小説はなにも斬新な技法ばかりで埋め尽くされているわけではない。「ラート・エカテートの三つの世界」には確かに文字列の上に罫線を上書きすることで登場人物がなし得なかった行為を暗示したり、絵画が人の魂を感動させる力を通 じて読者との間に象徴的意味を共有しようとする試みは見られるが、この作品の真骨頂はむしろ七〇年代に盛んとなった「生きるための文学」路線から彼がまったく自由であるわけではないという点に認めるべきだろう。もちろん、短編とはもはや呼べないほど長いこの小説が、暴力の背景としての恐怖に引き裂かれた同一人物の三つの生の可能性をあくまでも近代的個我意識との格闘の中で捕らえなおそうとしている点で、従来の「生きるための文学」の限界を乗り越えていることは間違いない。

 この「ラート・エカテートの三つの世界」と「死刑執行人」については現代タイ政治史に関する一定の予備知識が読者に要求される。前者には一九年の歳月をはさんで二つの市街戦が登場する。最初の、政府軍・警察と学生を中心とした民衆の戦いは一九七三年一〇月一四日のバンコク民主記念塔周辺一帯で起きた流血事件で、この時、タノーム軍事政権は崩壊し王室の支持を取り付けた民主政権が誕生した。しかし、わずか三年後には軍部による揺れ戻しのクーデターが成功し、多くの知識人や学生が国外へ難を避けたり、タイ共産党の武装闘争路線に身を投じた。「死刑執行人」で軍事教練を受けた若者が武器を持って政府軍と戦うかつての学生闘士を銃撃するシーンは、一九八二年一二月に東北タイの本拠地から共産ゲリラが大量 に投降する日まで続いたありふれた光景だったのである。

 「ラート・エカテートの三つの世界」に登場する後半の市街戦は一九九二年五月七日にやはりスチンダー政権打倒集会で政府軍・警察とバンコク市民の間で公式の死傷者一〇〇名以上を出した流血惨事である。この時も、スチンダー首相は惨事の責任をとって辞任している。二つの流血事件を通 じ今もなお行方不明の者が多いことは現代タイ政治史の暗部の一つである。最初の事件の時、ウィンはバンコクで高校生活を送っていた多感な一七歳前後であり、次の事件が起きたのは彼が最初の短編をひっさげてタイ文壇に登場した時期とぴったり重なることを思うと、作家としての使命感がこの重苦しい雰囲気の小説の執筆にあえて挑戦させたものだと納得がいく。  

 以上、所収作品のいくつかに詳しい解説を付すことは本意ではなかったが、タイについての情報が必ずしも豊富でない日本の読者のために分かりやすい解説を加えてほしいという作者の要望に従わせていただいた。ただ、その役目を充分に果 たせたかどうかは、作品の訳文のつたなさと共にいささか心許ないことではある。

 文学はその誕生以来、絶えず時代状況の変化と相関関係を結びつつ変容を続けてきた人間の精神的営為の結晶であり、新しい想像力の発現には常に実験的な新しい表現方法が伴っていたことは世界の文学史を通 観すれば一目瞭然である。しかし、話をタイの文学史に限れば、一九三〇年代の近代文学の誕生以来、ウィンほどの大胆な実験を試み作家はかつてなかった。その意味ではウィン・リョウワーリンの存在はタイ文学が世界の中での現代文学に確固たる地位 を占める試金石となる気がしてならない。その場合、作品のテーマや思想的内容がこれまで以上に厳しく問われてくることは作家自身が充分に自覚しているであろう。

 最後に、本書の翻訳をご推薦いただいた東京外国語大学前学長で国際言語文化振興財団理事の原卓也先生(ロシア文学)、出版に際し暖かいご支援と励ましをいただいた同財団の笹川惠一理事長、高橋俊男専務理事、辛抱強く原稿を待っていただき編集作業で格別 にお世話になった武田伊智朗氏に心から感謝の意を表します。

                           二〇〇二年二月

 

■『東南アジア文学への招待』あとがき

     あとがき                                           
 わが国では一九六〇年代以降、東南アジア地域との関係が急速に進展する中で、それらの地域の歴史、政治、経済、社会といった事情が精力的に研究され、多くの知的成果 が得られたことは周知の事実である。文学もまた例外ではなく、この間、各国の名作が数多く翻訳され、社会科学研究が見落としがちな東南アジアの豊かな精神的営為というものが明らかになってきた。今日では、どの地域であれ、東南アジアに生きる人々の実際の暮らしと思想を知る上で、これらの翻訳・紹介は欠くことのできない道標となっている。

 しかしながら、これまでの東南アジア文学の紹介は、ややもすると単独の国や地域に偏する傾向があり、各国別 の文学研究は相当の進展を見せているにも関わらず、東南アジア全体を俯瞰する体系的かつ統合的な視点による紹介は皆無に近かった。本書は、大学教育の現場において現在の日本における東南アジア文学の最先端を担う執筆陣が、全体の中での各国文学の位 置づけを念頭に置きつつ、文学史や現在の状況と課題をわかりやすく解説したもので、各国文学の神髄の一端を味わっていただくため、短編や詩といった作品もあわせて紹介させていただいた。また、入門書の特質を生かして、文学史年表と参考文献、それに日本語で読める作品一覧も付した。ちなみにこうした総括的な東南アジア文学研究書は日本では初めての試みである。

 今から約十五年前のことになるが、当時、東南アジア文学の翻訳家・研究者が東京の墨田区にある芭蕉庵に集まって、五年ほど「東南アジア文学研究会」という勉強会を続けたことがあった。中心メンバーはすでに翻訳の大家として名をなしていた岩城雄次郎(タイ)、舟知恵(インドネシア)、佐々木信子(インドネシア)、加東田静雄(ビルマ)、土橋泰子(ビルマ)、押川典昭(インドネシア)、野口忠司(スリランカ)の諸氏で、川口と私がまだ翻訳者としても研究者としても駆け出しの頃である。その後、メンバーがそれぞれ多忙をきわめるようになって自然散会したが、勉強会の後いつも、向島名物のドジョウ鍋をつつきながら東南アジアの文学について熱く語り合った日々は今でも忘れられない。なにより諸氏に共通 していたのは、東南アジアに生きる人々と目線を共有しようとする謙虚な姿勢であり、文学を愛するがゆえのひとつひとつの訳語に対するこだわりと妥協のない厳しさであった。

 東南アジア文学全体を俯瞰する本書の刊行はその当時からの淡い願望であり、今回、多忙な執筆陣のご協力と出版社の理解を得て、不十分ながらも最初のハードルをなんとか越えることができた。関係者のみなさんには心から謝意を表したいと思う。もとより本書は、限られたスペースに序論と六か国の文学を紹介し、なおかつ作品も掲載するという贅沢な構成をとったため、個々の国については十分な論究ができなかったうらみがある。また同じ理由で、今回はフィリピン、ラオス、カンボジアについては割愛せざるを得ず、巻末付録で邦訳文献のみを挙げさせていただくにとどまった。日本における東南アジア文学の研究と翻訳がこれからもますます精力的に続けられていくであろうことを考えれば、近い将来さらに、東南アジア全域を捕らえ、本格的な東南アジア文学研究方法論をも提起した書物の出版が待たれる所以である。

 最後になりましたが、本書の出版に三年前の企画段階から関わり、かつ編集者を含め大幅に遅れがちな原稿を辛抱強く待ちながら、しかもさまざまな援助を惜しまなかった段々社社長の坂井正子氏には、すべての執筆者・翻訳者とともに深く感謝申し上げます。                                

                                    編集者 宇戸清治  

 

 

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