〈戦う者〉の系譜
       
――『坊つちやん』における〈戦争〉

                                  柴田勝二

 








 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
          1 「型」と現実
 『坊つちやん』(一九〇六)は一見、単純明快な正義漢の青年を主人公とし、展開や文体においても平明な分かりやすさによって貫かれた作品である。四国の小都市に中学の数学教師として職を得た語り手の「おれ」が、その直情径行の気質ゆえに生徒たちのからかいに憤激し、誤解から同僚と対立し、最後にはもっとも強い敵意の対象である教頭と、その臣下的な存在である画学教師に制裁を加えて東京に戻ってくるという物語は、読み手に端的なカタルシスをもたらす力をもっている。この作品が現在に至るまで支持を失うことなく、読み継がれている所以も第一にそこに求められるだろう。大岡昇平は少年時代から「わかりやすく、共感された」作品として『坊つちやん』を読み始め、それ以降数十回読み返したにもかかわらず、「なんど繰返してもあきない快楽」を与えられる「傑作」であると評価している(1)。また丸谷才一は、この作品の登場人物が善玉や悪役といった「型」として描かれるという「近代小説以前の筆法」を取っているにもかかわらず、「くっきりと記憶に残る。魅力があり貫禄がある」という印象の強さを読み手に与えることに讃辞を呈している(2)。同時代の評においても「坊つちやんの挙動には多少の作為が見ゆるにしても、全体活躍して痛快いふばかりない」(『読売新聞』「文芸時評」、一九〇六・一二)、あるいは「誰が読んで見ても滑稽だと思ひながら坊つちやん頗る哀れむべく、愛すべき人物たる事は判る」(『文章世界』の書評、一九〇六・一二)といった、主人公の輪郭の明快さに対する肯定的な感想が提示されている。
 同時に丸谷才一の批評にも見られるような、『坊つちやん』の「痛快」さが〈近代小説〉ではない作物としてこの作品が成り立つことによっているという視点も、同時代においてすでに出されていた。いち早い『新潮』の評(一九〇六・四)では『坊つちやん』の語りが「落語家小さんが常套の秘訣」を取り込んだものであると評され、『ホノホ』の評(一九〇七・二)でも「悪く言へばこは一編の高等落語である」と断定されていた(3)。漱石の作品が落語と深い類縁を持つことは現在でも周知だが、水川隆夫の『漱石と落語』(増補版、平凡社ライブラリー、二〇〇〇・五)では、語り手の「おれ」すなわち坊っちゃんが教頭の「赤シャツ」をののしる時に取ってある文句として同僚の「山嵐」に披露する「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師(やし)の、モモンガーの」と延々とつづく言葉の羅列が、「大工調べ」などの落語にあらわれる喧嘩の場面を踏まえていることなどが推察されている。
 重要なのはこうした「型」的な人物たちの登場や、落語的な場面や文句の盛り込みによって、『坊つちやん』が決して現実離れしたお伽話で終わっていないことである。とりわけ発表時には多かった、主人公の坊っちゃんと作者の漱石を単純に重ね合わせる視点が後退していくにつれて、坊っちゃんの造形をはじめとするこの作品の表現の方向性が、それ自体現実世界に対する批評としての意味をもつという見方が主流をなすことになった(4)。その際に基調となったのは、江戸落語の世界から抜き取られたような坊っちゃんの存在の反現実性自体が、現実世界へのアンチテーゼとしての意味をもつという見方である。たとえば江藤淳は『夏目漱石』(東京ライフ社、一九五六・一一)においてこの作品が「坊っちゃんという、現実には存在し得ぬ「妖精」の設定によって成功している」と述べ、制度と組織のなかを生きることに汲々としている赤シャツや画学教師の「野だいこ」のようにしか生きえない現実世界の人間に対する漱石の醒めた意識が、その反措定としての人物像を生み出しているという把握を示していた。あるいは瀬沼茂樹は『坊つちやん』を「拵えたもの」と見なした上で、「われわれの周囲にみるようなみみっちい日本的性格を、無邪気で単純な正義漢という他の日本的性格から批判した」ところに、この作品の普遍性があると見ていた(5)
 こうした把握に見られる、現実世界の卑小さに対置される反現実的ないし反近代的な存在としての坊っちゃんという視点は、それなりの妥当性を持っている。けれどもこうした見方を取った場合、明治三九年(一九〇六)の時点でこの作品の筆を執っている漱石の時代・社会的意識は後景に退かざるをえない。『坊つちやん』の造形を現実――反現実、近代――反近代という図式に還元し、主人公をいずれもその後者の側に立たせることは、あたかも同時代の現実を否認し、そこから逃避していこうとする作者の希求の外在化としてこの作品を眺めることになるからである。けれども竹盛天雄が指摘するように、この作品の執筆の現実的な背景の一つには、英語学試験委員の委嘱をめぐる文科大学との対立という、時間的に近接する出来事があると想定される。漱石は明治三九年二月に文科大学から試験委員の委嘱を受けるものの、多忙を理由に断り、それを了承しない大学からの再度の依頼にも辞退の態度を示しつづけた。漱石がこの出来事を通して感じ取った大学の権威主義への批判が、『坊つちやん』の校長や教頭の赤シャツらの描写に連繋している可能性は十分考えうる。この点については『漱石とその時代』(第三部、新潮選書、一九九三)における江藤淳も着目し、姉崎正治宛の書簡に見られるような、率直な内面の「コンフェッション」が『坊つちやん』のスタイルをもたらしているという把握を示している。
 その際問われねばならないのは、語り手である坊っちゃんの真率な「コンフェッション」を通して、漱石が何を語ろうとしているかであるはずだが、江藤の論は島崎藤村の『破戒』(一九〇六)との同時代的な連関に移っていき、漱石自身の託した「コンフェッション」に対する推察はなされていない(7)。竹盛天雄はむしろ、漱石が試験委員の委嘱をめぐる出来事によって触発された「学校社会や教育界の諷刺を十年むかしの松山行きにひっかけて、田舎中学校の事件に転移させた」と断定している(8)。しかし逆にいえば学校という組織への風刺に漱石の主眼があるなら、主人公の坊っちゃんを疎外する組織としての中学校の様相がもっと十全に描かれてもよかっただろう。けれども坊っちゃんが対峙しているのは、直接的にはいたずらを仕掛ける生徒たちであり、組織内の権力者としての赤シャツという個人である。またそれ以前に、主人公の輪郭自体がより鮮明な印象をもたらしている以上、漱石がより大きな比重を与えていたのは、やはり個的な存在としての坊っちゃんの描出にあったと考えるほかない。
 竹盛天雄や江藤淳が挙げるような、私生活上の出来事を通して漱石が抱かされた感慨は、おそらく執筆の動機と主題的内容の一側面をなしているが、同時にそれを越える比重を占めるわけではないと考えられる。この出来事を含む形で、漱石が明治三〇年代末を生きることによって喚起されていた、現実世界に対する批判的認識が、総体として『坊つちやん』という作品に盛り込まれているはずであり、その点でこのお伽話的な見かけをもつ作品が、より現実的な様相のもとに展開していく、それ以降の作品群と別個の地平に成り立っているわけではない。たとえば漱石が松山中学で教鞭を取っていたのが明治二八年(一八九五)から二九年(一八九六)であったにもかかわらず、日露戦争時の極東軍総司令官であったクロパトキンの名が後半の「十」章に出てくるように、この作品の時間はほぼ同時代である明治三八年(一九〇五)の日露戦争の終結時に置かれている。こうした設定も、やはり自身の生きる時代・社会に対する意識を表出するための前提として機能しているのである。
 
         2 〈戦う者〉の輪郭
 その執筆時における漱石の批判的意識が、『坊つちやん』にどのように表出されているかを捉えることが問題となるが、近年の把握においても、主人公の坊っちゃんの形象を近代日本に逆行する存在として寓意化する視点は後退していない。たとえば小谷野敦は「『坊つちやん』の系譜学」(『夏目漱石を江戸から読む――新しい女と古い男』中公新書、一九九五・三、所収)で、前章でも触れたように、坊っちゃんを江戸幕府の瓦解と戊辰戦争の敗北によって社会の主流から追いやられていった佐幕派武士の寓意として眺め、官軍的な存在である赤シャツらと対抗するものの、勝利することはできずに去っていく物語としてこの作品が捉えている。この論の前提をなすのは、坊っちゃんが通念に反して「江戸っ子」ではないという視点だが、それは江戸っ子が尊重する「粋」と「いなせ」という美学を坊っちゃんが満たしていないからである。坊っちゃんは反対に「野暮な正義漢」であり、江戸っ子的な美学はむしろ赤シャツの側に認められるとされる。小谷野によれば、坊っちゃんは「これでも元は旗本だ」と語り、多田満仲を始祖に持つと自身で認識するような武士の系譜を身に受けているとともに、時代性を限定すれば、幕末の闘争における佐幕派武士に擬せられる。彼と共闘して赤シャツらと対抗する同僚の「山嵐」が「会津」の出身であるというのは当然それと合致する設定となる。そして明治維新とともに崩壊していった「武士の夢」を描き出すことが、『坊つちやん』に込められた密かな動機として推察されている。
 ここで小谷野が提示した図式は明快であり、とりわけ坊っちゃんを江戸っ子ではなく「武士」の形象として眺める視点は、それまでの『坊ちやん』観を組み替える意味をもつといえよう。もっとも坊っちゃんと佐幕派武士の連関については、不遇に置かれがちであった佐幕派武士の鬱屈のはけ口を坊っちゃんの形象に託したという平岡敏夫の把握がすでに一九七〇年代に出されていた(9)。平岡においては断片的な次元にとどまっていたこの視点を、作品全体を貫く起点として構造化したところに小谷野の独自さがあったといえよう。小森陽一はこの小谷野の論に呼応する形で、坊っちゃんをやはり「時代遅れの士族意識を過剰に持っていた」子供がそのまま成長していった姿として見なしている。坊っちゃんの内には「旧佐幕派の恨み」が残存しており、そのはけ口として語られる挿話が、「山城屋」の勘太郎との喧嘩であったとされる。「山城」は京都を示す地名であり、この地名を屋号に持つ質屋である「山城屋」を「経済的基盤を失った元旗本をはじめとする近隣の士族に金を貸すことで成り上っていった店」として小森は推定している。そのため勘太郎を打ちのめすことがその「恨み」に対するカタルシスとなるとされる(10)
 けれども前章でも問題としたように、こうした論に共通して差し出されている、坊っちゃんを佐幕派武士の寓意として見なす前提には疑念を呈する余地がある。これらに共通するのは、薩長の倒幕勢力を中心としてつくり上げられた明治政府に対する強いルサンチマンが坊っちゃんに託されているという把握だが、『坊つちやん』執筆時においてなぜ漱石が、江戸の佐幕派武士への郷愁を語らねばならないのかは不明であるといわざるをえない。なぜなら『文学論ノート』の考察にうかがえるように、青年期以降の漱石の関心の中心にはつねに、維新以降の日本のあり方、とりわけ対西洋における政治的、文化的な主体性の問題があったからだ。滞英中に遭遇した一九〇一年一月のヴィクトリア女王の葬儀の後で、日記に「夜下宿ノ三階ニテツクぐ日本ノ前途ヲ考フ」(一九〇一・一・二七)と書き付け、その約二ヶ月後には「日本ハ三十年前ニ覚メタリト云フ然レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ其覚メタルハ本当ノ覚メタルニアラズ狼狽シツアルナリ只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ消化スルニ暇ナキナリ、文学モ政治モ商業モ皆然ラン日本ハ真ニ目ガ醒メネバダメダ」(一九〇一・三・一六)と記しているように、漱石の眼はつねに日本の「前途」に向けられていた。『坊つちやん』が発表された明治三九年の「断片」にも「明治ノ三十九年ニハ過去ハナシ。単ニ過去ナキノミナラズ又現在ナシ、只未来アルノミ」という記述が見られるが、こうした日本の未来を憂慮する意識を抱えつづけていた作家が、〈覚醒〉によって真に脱却しなくてはならないと考えていた旧時代への郷愁を、主人公の造形に託したとは考え難いのである。
 また坊っちゃんを佐幕派武士の形象と見なし、それゆえに会津出身である山嵐と共闘しえたと想定した場合、おのずと彼らの敵役となる赤シャツや野だいこらは薩長の倒幕派の暗喩として位置づけられることになる。けれどもどのように見ても赤シャツや野だいこを倒幕派武士の暗喩として捉えることはできず、また小谷野敦が「西郷隆盛こそが、「最後のサムライ」であった」と述べるように、江戸幕府を打ち倒した薩長の下級武士たちのなかにも、「武士的なもの」は明瞭に息づいていた。もっとも小谷野も赤シャツたちが倒幕派勢力を象っているとは述べておらず、むしろ明治維新とともに「武士的なもの」を無化していった「近代化政策」の暗喩として捉えようとしている。けれども今述べたように、漱石のなかに〈近代〉を否定して〈江戸〉に還ろうとする永井荷風的な心性は不在であり、むしろ達成されるべき近代化が四十年近くを経てもなされていないことに漱石は焦慮していたのである。
 小森陽一の論考においても、坊っちゃんを佐幕派武士として見立てる前提と、作品に描かれる対立の構図との間にズレが見られる。つまり質屋の「山城屋」の屋号への考察で、「佐幕派と官軍派、江戸と京都、徳川将軍と天皇という対立が、「おれ」の家と「山城屋」の対立の中に透けて見えてくるのである」と述べているように、小森が見出そうとする坊っちゃんに込められた寓意的な位置づけは、もっぱら物語の前史的な挿話に示されている。けれども小森においても、幕末から維新にかけての対立の構図は、内容の主要部分をなす、坊っちゃんと赤シャツらとの関係において位置づけられていない。小森の論考では赤シャツはむしろ近代の学歴社会における勝利者としての位相を与えられており、別個の構図のなかで両者の関係が捉えられている。結局いずれの論においても、佐幕派武士として坊っちゃんを見立てる寓意は、彼と赤シャツの対立という、作品の中心的な構図と十分に照応しているとはいい難いのである。  
 問題は『坊つちやん』を貫流している対立の構図を、江戸――明治という時間軸のなかに位置づけようとしたことにあっただろう。繰り返すようだが、夏目漱石は明らかに未来に至る〈近代〉への志向を持つ作家であり、前時代はあくまでも超克されるべき対象として意識されている。にもかかわらず日本がその〈前近代〉の残滓のなかにとどまりつづけていることが、漱石に創作の動機を提供していたのである。それは漱石の晩年に至るまで持続する主題であり、『道草』(一九一五)の末尾で、金をせびりつづける養父との縁が切れた際に主人公の健三が口に出す「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない」という科白は、養父に仮託された薄暗い〈前近代〉が捨象しえないものとして残存しつづけるという感慨の表白以外ではなかった。そしてこの〈前近代〉から〈近代〉への進展の成就の度合いは、あくまでも対西洋の比較のなかで測られるのであり、『坊つちやん』もそうした漱石の近代日本に対する批判意識の産物として捉えることができるのである。
 
         3 坊っちゃんと明治日本
 その時に作品の読解の姿勢として求められるのは、断片的な表象や前史的な挿話に比重を置くよりも、やはり一定のまとまりをもって展開のなかに提示されているものに対して、分析の眼を向けることであろう。そしてそうした眼で、少年時から四国の中学校に赴任して以降に至る『坊つちやん』の主人公を眺めれば、彼は何よりも外部からもたらされる働きかけや情報を十分消化することなく、それらに短絡的に反応してしまいがちな人物として浮び上がってくる。そうした性向を彼が少年時から現在に至るまで保持しつづけていることが、叙述の冒頭に明示されている。
 
  親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな 無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗 談に、いくら威張つて も、そこから飛び降りることは出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさつて帰つて来た時、おやぢが大きな眼をして二階位 から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云つたから、此次は抜かさずに飛んで見せますと答へた。
  親類のものから西洋製のナイフを貰つて奇麗な刃を日に翳(かざ)して、友達に見せて居たら、一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。何で も切つて見せると受け合つた。そんなら君の指を切つてみろと注文したから、何だ指位此通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸(さいはひ) ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かつたので、今だに親指は手に付いて居る。然し創痕は死ぬ迄消えぬ。             (一)
  
  ここに語られる、外部からの指に対して、自身の身体を傷つける可能性を顧慮せずに即座に反応してしまう「無鉄砲」な性格が、青年期に至るまでこの人物を貫流し、その輪郭を形づくっている。その連続性のなかで彼は四国の中学校に赴き、そこで同僚や生徒たちと軋轢を来しつづけるのである。もしこうした輪郭が意識的に付与されている人物、つまり坊っちゃんが佐幕派武士の暗喩であるならば、比喩の論理からいって、こうした性格が佐幕派武士にも多少とも分けもたれている必要がある。けれども幕末の抗争において幕府側についた武士たちが、坊っちゃんのような「無鉄砲」な短絡性によって特徴づけられるとはもちろんいえない。たとえば坊っちゃんの家と同じ旗本で佐幕派の武士であった小栗上野介は、やはり直情的な気質であったが、使節団の一員として赴いたアメリカでその分析的な知性を賞賛され、また貿易と国防の重要性を早くから認識して横須賀ドックを造らせる先見性を備えていた。また同じく旗本の幕臣であった榎本武揚は、知られるように幕府海軍を率い、北海道に逃れた後は独自の共和国を打ち立てようとしたものの、降伏の後は〈変節〉とも映る政治的姿勢の転換を示し、明治政府の要職を歴任する人物として新しい時代を生き延びていった。もちろん彼らは佐幕派武士として抜きんでた存在であり、その足跡を佐幕派武士の輪郭として一般化することはできないだろう。しかし少なくとも幕府側の武士たちの行動が、倒幕側のそれよりも直情的な短絡性を帯びていたということはできないはずである。
 確かに『坊つちやん』の語り口はすでに指摘される(11)ように、旗本であった勝海舟の父親である勝小吉の『夢酔独語』(一八四三)に似ており、この人物が漱石の念頭にあった可能性はある。けれども小吉自身は旗本とはいってもほとんど無頼の人物であり、微禄のあまり生活も自身で立てることを強いられており、少なくとも幕府に忠誠を尽くすという型の武士ではなかった。また勝海舟も幕臣として幕府側で行動するものの、幕府に対してはむしろ批判的な視点を持ち、また西郷隆盛らとの交渉を通して江戸城を無血開城に導く政治的手腕を発揮している。さらに勝は維新後は様々な要職に就いて明治政府の中枢を担う存在となり、伯爵の爵位まで授かっている。一人称の「おれ」で語られる勝海舟の『氷川清話』(一八九七)も、『夢酔独語』の語り口とある程度近似しているが、早くから養われていた海舟の幕府の現況に対する批判的な意識の底には、少年期に受けた小吉の感化があるといわれる。その意味では勝海舟こそが『坊つちやん』の主人公を想起させる「親譲り」の気質のなかを生き抜いて、国家を率いるまでになった人物であった。
 もし漱石の念頭に勝小吉、海舟父子の存在があったとすれば、それはむしろ「佐幕派」的な心性と逆行する志向が坊っちゃんに託されていることを物語っている。そしてさらにいうならば、坊っちゃんを逆に倒幕派、すなわち〈薩長〉の側に見立てることも可能なのだ。つまり幕臣でありながら明治維新後は明治政府の要人となっていった勝海舟を坊っちゃんの造形の背後に想定しうるように、坊っちゃんを倒幕派によって打ち立てられた明治政府――明治日本に対立する位置に置かねばならない理由はない。また前章で引用した鈴木三重吉宛の書簡に見られるように、そもそも漱石のなかには「勤皇派」あるいは「維新の志士」に対する強い共感が存在する。明治三九年(一九〇六)の「断片」にも、今の「元勲」について「大久保利通ガ死ンデ以来如何ニ小サクナリタルカヲ思ハズ。木戸孝允が今日ニ至ツテ忘レラレタルヲ思ハズ」という記述があるが、漱石は大久保利通や木戸孝允といった、すでに世を去った薩長の志士の器量を認めており、一方現在の政治家たちがそれを備えていないという感慨を覚えている。そしてこうした「小サク」なってしまった政治家に率いられつつ、西洋諸国と対峙しなくてはならない現況を憂慮する漱石にとって、〈日本〉は同一化と批判のアンビヴァレンスを喚起する対象にほかならない。
 『坊つちやん』も漱石のこのような意識から生み出された作品として捉えられる。そしてこの作品にこうした視点を投げかけようとする際に、尊重すべきなのは、坊っちゃんがおこなう東京から〈松山〉(以降坊っちゃんが赴任する四国の都市をこのように記すことにする)への移動が、実は漱石の「松山体験」ではなく、むしろその五年後に訪れる「ロンドン体験」を映し取っているとする、平岡敏夫の視点である。平岡は漱石自身の松山での体験と、『坊つちやん』で語られる主人公の経験との差異を踏まえた上で、この作品に語られるものが、むしろ明治三三年(一九〇〇)から明治三五年(一九〇二)にかけての、漱石のロンドンでの体験に照応する性格が強いことを指摘している。つまり坊っちゃんは〈松山〉で中学校に勤務し始めてから、つねに自己の行動を生徒たちに監視されているように感じつづけ、後半では自分のことを生徒たちが「神経衰弱」(十)と評するのではないかと忖度するような状態にまでなるが、それはとりもなおさず漱石自身がロンドンで陥っていた状態と合致するものにほかならない。こうした視点から平岡は『坊つちやん』の内容が、漱石のロンドン体験を素材化したものであると主張し、帰結的な感想として、東京――ロンドンの距離を東京――四国の距離に矮小化することによって、「漱石の英国嫌悪、批判」が表出されることになったという指摘をおこなっている(12)。この指摘は妥当なものだが、重要なのはやはり、この漱石の「英国嫌悪、批判」がここでどのように表象されているかという具体性であり、坊っちゃんの造形に託された寓意性も、そこから浮び上がってくる。いいかえれば、坊っちゃんを江戸末期の抗争とは別個の文脈を担う存在として捉えることによって、漱石がこの作品に込めた「英国」に代表される西洋諸国に対する意識が明確化されるはずなのである。
 その際あらためて着目すべきなのは、この作品に付された「坊つちやん」という表題である。看過しえないのは、この表題が語り手の坊っちゃんが積極的に選んだものではなく、むしろその外側からメタレベル的に与えられた性格をもつことだ。「坊つちやん」という呼称は決して一人称の語り手の肯定的な自己認識を表現していない。展開の終盤で美学教師の野だいこの言葉を耳にして彼は「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊つちやんと抜かしやがつた」(十一)と歯ぎしりするのであり、彼にとって「坊つちやん」は否定的な響きをもって聞こえる呼称でしかない。もちろん女中の清が彼のことを「坊つちやん」と呼ぶことについては坊っちゃんも受け入れているが、それは現実に子供として過ごした家のなかにおける位置づけだからである。この非社会的な呼称が、職場という社会的な場でも適用されているという事実は、坊っちゃんが今なおその域にとどまっていることを告げ、彼を苛立たせている。そして作中で坊っちゃん自身がこの呼称を否定するにもかかわらず、それになお作品の表題の位置を与えられていることは、そのメタレベル性を二重にしている。つまり自分が「坊つちやん」ではないという坊っちゃんの反駁を、この表題自体が封じ込めているのであり、そこに主人公の主体的な自己規定を二重に相対化する眼差しが作動していることが見て取れるのである。
 そしてこの、主体的な自己認識を自身に与えることができず、対他者的な関係において未熟さを示しつづける主人公の輪郭こそが、漱石の捉える明治日本のイメージであることはいうまでもない。先にも引用したように、ロンドン留学中の日記に「日本ハ真ニ目ガ醒メネバダメダ」(一九〇一・三・一六)と書き付け、明治三九年の「断片」に「遠クヨリ此四十年ヲ見レバ一弾指ノ間ノミ。(中略)明治ノ事業ハ是カラ緒ニ就クナリ。今迄ハ僥倖ノ世ナリ。準備ノ時ナリ」と述べるような意識が坊っちゃんの造形の基底に流れている。漱石の認識においては、四十年を閲しようとしている日本は、未だに本当には「目ガ醒メ」てはいない初発の段階にあり、近代国家として成熟していくためには、やっと「準備ノ時」を終えたにすぎないのである(13)
 こうした日本の近代国家としての未熟さに対する漱石の批判的視点は、五年後の明治四四年(一九一一)の講演「現代日本の開化」においても持続している。周知のようにここで漱石は近代化の形を「内発的開化」と「外発的開化」の二つに分け、日本における近代化、つまり「開化」を後者であるとしている。漱石がここで問題にしているのは、日本が西洋という外的世界との接触、交渉を契機として国を近代化していった経緯自体ではなく、それによってもたらされた変化が、日本人の生活に十分内在化されていないということである。漱石の言葉によれば、開国以降日本にはつねに西洋から文化・産業面における「新しい波」が押し寄せ、日本人はそれに洗われつづけたが、それは日本人の固有性とは別のものであるために、「自分がその中で食客をして気兼ねをしてゐる様な気持」を抱かざるをえない。それは国民に「どこか空虚の感」をもたらすことになるが、そうした内在化されない開化を内発的なものであるかのように装う身振りを、漱石は大人の真似をする子供に譬えている。「自分はまだ煙草を喫つても碌に味さへ分らない子供のくせに、煙草を喫つてさも旨さうな風をしたら生意気でせう」と語られ、やや後のくだりでは、西洋と歩調を合わせて近代化の道を歩もうとする日本の姿を「子供が背に負はれて大人と一所に歩くやうな真似」になぞらえられている。
 近代日本の様相を「子供」の比喩によって表現するのは、国家と人間を時間的連続性の主体として重ね合わせる漱石的着想のあらわれだが、この講演で示されている日本に対する漱石の把握が、『坊つちやん』の主人公に重ねられるものであることは明らかだろう。坊っちゃんこそが、少年期から中学教師となった時点に至るまで、一貫した自己同一性の上に立つことなく、外側からの働きかけに対して反射的に反応するという、徹底して「外発的」な行動を取りつづける人物であり、大人になりきらない青臭さを漂わせた青年にほかならなかった。もちろん坊っちゃんに趣味や振舞いにおける西洋志向はないが、遺産を使って「物理学校」に通い、数学教師になったという彼の経歴自体が、西洋科学の移入に急であった明治期における日本の〈西洋化〉の流れと合致している。また大人――西洋の真似をする子供――日本が「生意気」であるとされるように、坊っちゃんも自身が巻き込まれた中学校と師範学校の喧嘩を報じる新聞の記事に「東京から赴任した生意気なる某」(十一)として紹介されているのである。
 
         4 「無鉄砲」な戦い
 このように坊っちゃんに担わされた〈近代日本〉の文脈に着目すれば、彼が佐幕派武士に逆行する存在として眺られることも明らかになるはずである。つまり坊っちゃんの輪郭が明治日本の進み行きを示唆しているとすれば、それは当然明治日本を形づくっていった人びとと連繋し、おのずと佐幕派よりもむしろ薩長の倒幕派の系譜を浮び上がらせることになるのからだ。また坊っちゃんには小谷野敦がいうように確かに〈さむらい〉としての性格が付与されているが、それは坊っちゃんを〈明治日本〉に見立てることによって、より拡張した次元で意味づけられる。つまり日本は明治に入って清、ロシアという二つの大国と〈いくさ〉をしたのであり、その意味ではまさに〈さむらい〉としての行動に身を投じていた。日清戦争も日露戦争も、ともに戦前は日本の力が侮られており、その低い評価を覆すべく日本は戦いを開始し、結果的にはどちらの戦争においても日本は勝利を得ることになった。『坊つちやん』は日露戦争終結の翌年である明治三九年(一九〇六)に書かれており、先に触れたように作品の時間的な舞台も、漱石が松山に滞在していた時点から約十年後の日露戦争の終結時にずらされている。そうした意識的な設定をおこなっている作者が、遂行されたばかりの戦争と無関係に〈さむらい〉を想起させる主人公を登場させていることはありえないはずである。
 一方歴史的な〈さむらい〉の世界からこの作品が断ち切られているわけでもない。漱石のなかにある、〈近代〉が〈前近代〉の残滓を振り切れない形で進んでいっているという連続性の認識は、『坊つちやん』ではある意味では積極的な表出に転化されている。『道草』とは反対に、彼の存在を支えるべき基底としての近代以前の時間の堆積は、坊っちゃんに付与された〈戦う者〉としての〈さむらい〉の系譜をもたらしているからである。冒頭にあらわれる「親譲りの無鉄砲」という表現も、その地点から捉え直すことができる。一読して明らかなように、坊っちゃんと、彼の「顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖の様に云つてゐた」(一)父親の間には、連続ではなく不連続が仮構されており、坊っちゃんの「無鉄砲」な性格が現実の「父」から〈譲られた〉ものであるということはない。したがってこの「親」とはより観念的な次元における〈祖(おや)〉的な存在として仮構されることになる(14)。小谷野敦はその〈祖〉を坊っちゃん自身の言葉を受ける形で、清和源氏の始祖である多田満仲に見立てているが、坊っちゃんを明治日本の寓意としてして捉えた場合、その〈祖〉はもう少し近接する時代に求められる。その時坊っちゃんの〈祖〉も、あらためて「親」的な親近性のなかに置き直されるのである。
 すなわち平岡、小谷野、小森らの見方に反して、坊っちゃんの「親」とは、明治政府を打ち立てた倒幕勢力、つまり〈薩長〉そのものにほかならないからだ。それは歴史的な経緯によって想定されるだけでなく、現実に薩摩、長州両藩が幕末においてかなり「無鉄砲」な行動を起こしているという、イメージ的な照応によっても補強される連関である。嘉永六年(一八五三)の「黒船」の来航以来、次々と外国船が日本に来航し、通商を求めたが、この西洋諸国の〈挑発〉に対して、久坂玄瑞を中心とする長州藩の攘夷派は、文久三年(一八六三)五月一〇日単独でアメリカの商船を砲撃するという挙に出た。それにつづいてオランダ、フランスの軍艦を砲撃したが、いずれも撃沈させるには至らなかった。それに対し同年六月からアメリカ、フランスは反撃を開始し、翌元治元年(一八六四)八月五日には英・米・仏・オランダ四国の連合艦隊が下関を砲撃し、またたく間に砲台を破壊し尽くした。また薩摩藩でも同時期の文久三年に、生麦事件の収拾についてイギリスと対立し、交戦したものの、市街地の一割を焼失する打撃を蒙る「薩英戦争」を起こしている。この二つの局地的な戦いは、薩長の攘夷派にその不可能を教え、以後彼らが開国派へと転じていく契機となったが、清、ロシアと戦いを交える以前に、江戸時代の末期に日本が外国とこうした戦争を起こし、それによって傷を負った前歴を持つことは見逃すことができない。つまり明治日本がいずれも戦前には無謀とも思われた大国との戦争を遂行する前に、その「親」ともいうべき〈薩長〉はともに西洋の列強に対して戦いを仕掛けるという「無鉄砲」な行動に出ているのである。その意味では確かに大国との戦いを辞さない明治日本の「無鉄砲」さは「親譲り」のものにほかならなかった。
 実際冒頭で語られる、他人の挑発に乗る形で二階から飛び降りたり、ナイフで自分の指を切ったりして傷を負ってしまう挿話は、無謀にも単独で西洋の強国に戦いを挑んで手ひどい反撃を受けてしまう、薩長両藩が経験した戦争を想起させる。こうした〈戦い〉への志向を引き継ぐ形で、明治時代の戦争も遂行されることになったという認識が漱石の内にあったとも考えられるが、そうした志向の連続性が託された存在である点で、『坊つちやん』のはらむ寓意性は〈倒幕派〉の側に傾斜していかざるをえないのである。人物的な照応においても、アメリカ船への砲撃を仕掛けた中心人物であった久坂玄瑞について作家の古川薫は「志向や行動が直線的で、悪くいえば単純だ」(『幕末長州藩の攘夷戦争』中公新書、一九九六)と評しているが、これが『坊つちやん』の主人公を想起させる性格であることはいうまでもない。また同書によれば、フランス艦との交戦に出陣しようとする藩兵たちの出で立ちは「和銃が少々、持っているのは弓矢、槍、刀剣がほとんど」という「戦国時代の装備とまったくかわらないもの」であり、まさに「無鉄砲」な状態だったのである。
 そう考えると『坊つちやん』の冒頭で、事実的な関係性に逆行する形で「親譲りの無鉄砲」という性格を坊っちゃんがみずから語っていることの意味を理解することができる。さらに『坊つちやん』の叙述には、端的に〈薩長〉とくに〈長州〉とつながる痕跡が残されている。それは中盤で坊っちゃんが引っ越していく先の下宿屋の名前である。ここで坊っちゃんは主人の老夫婦に「双方共上品だ」という良い印象を抱き、とりわけ婆さんには清に抱くような懐かしさまで感じている。そしてその婆さんに対して彼は、それまでとは違った落ち着きを見せて世間話にも興じたりするのだが、この下宿屋の名前は「野」なのである。「萩」が長州の中心地として、幕末に吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)らの人材を輩出した地であることは述べるまでもない。下関での砲撃事件を起こした武士も萩の藩兵たちであり、久坂玄瑞自身も萩の出身なのである。しかも長州藩では攘夷熱の昂揚のなかで、奇兵隊を初めとする、身分に関わらない有志による軍隊が次々と組織されていったが、そのなかには「遊撃隊」「御楯隊」などと並んで「萩野隊」も存在したのである。
 坊っちゃんと明治政府の「親」としての〈長州〉との連関をこのように眺めていくと、彼に敵対する赤シャツの位置づけもおのずと明瞭になる。赤シャツが横文字の好きな西洋かぶれであるという輪郭は、端的に彼をイギリスをはじめとする西洋列強の暗喩として括り出すことになるからだ。これ以降の作品においても、漱石はある国を想起させる文脈を登場者に担わせることで、その国を端的に表象する換喩的表現を繰り返し取っているが、赤シャツはその先駆的な例である。そう眺めることによって、「英国嫌悪、批判」(平岡敏夫)に集約される、漱石の西洋に対する屈折した心性を捉えることができる。おそらく赤シャツは、漱石自身の〈イギリス嫌い〉を核として、明治期の日本人が抱いていた西洋列強に対するルサンチマンが集約された形象であると考えられる。漱石もこうした「時代的F」(『文学論』一九〇七)としての集合的感情を分けもっていたのであり、だからこそそれを底流させたこの作品が、現在に至るまで代表的な〈国民文学〉の一つとしての位置をもちつづけているのである。
 赤シャツが〈西洋列強〉の暗喩として前景化されるのは、もっぱら後半の展開においてである。つまり赤シャツは英語教師の「うらなり」の婚約者であった「マドンナ」を奪い取り、うらなりを九州の延岡に追いやってしまう。そしてこの事件で赤シャツに対する感情を一層悪化させた坊っちゃんは、山嵐と共闘して、芸者の出入りする宿屋の前に張り込み、赤シャツらがそこから出てきたところを取り押さえるのである。こうした終盤の坊っちゃんの行動は、当然〈西洋列強〉へのルサンチマンに対するカタルシスとしての意味をもつ。すなわちうらなりからマドンナを奪い取る赤シャツの行動は、明らかに日清戦争後のロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉と、それ以降の西洋諸国の行動を映し取ったものであり、最後の赤シャツの〈成敗〉は、前年に終結した日露戦争を寓意化していると見ることができるからだ。この作品の時間的な設定が、作品の執筆時に近接する日露戦争の終結時に置かれているのも、この図式を浮び上がらせるためにほかならない。
 陸奥宗光が『蹇蹇録』(一八九六)で、「今回干渉の張本たる露国」(15)といういい方をしているように、三国干渉において中心的な役割を担ったのはロシアであったが、実際この作品の表現において、赤シャツは〈ロシア〉につながる文脈を様々にまとっている。たとえば彼が坊っちゃんを釣りに誘った際にも、坊っちゃんが最初にゴルキという雑魚を釣り上げると、赤シャツは「ゴルキと云ふと露西亜の文学者みた様な名だね」(五)という感想を述べ、彼らに伴った野だいこを含めて皆がゴルキばかりを釣りつづけると、また赤シャツは「今日は露西亜文学の大当りだ」(五)と野だいこに言う。「ゴルキ」が示唆しているのはもちろんロシアの作家であるゴーリキーである。ゴーリキーはこの時代にまだ三十代であり、『坊つちやん』発表の前年にあたる一九〇五年には、ロシア革命の端緒となった、市民、学生のデモ隊に向けて官憲が発砲し、多くの参加者が捉えられる「血の日曜日」事件に関与して逮捕、捕縛されている。この事件は日本にも報道され、『太陽』明治三八年四月号には「拘留せられしゴルキー」の写真が掲載されている。またこの事件を報じた『東京朝日新聞』明治三八年一月二五日には、「革命の文字を記せる二の赤旗を推し立て」て集まった学生たちに対して、警官が直ちに解散を命じたにもかかわらず抵抗したために、多くの捕縛者が出たことが記されている。この事件の報道では、「赤旗」の文字が少なからず見出されるが、この「赤」は教頭の赤シャツを特徴づける色でもある。もちろん赤シャツはいかなる意味においても革命的な存在ではないが、「ゴルキ」「露西亜文学」などとともに〈ロシア〉につながる要素を彼が身にまとっていることは看過しえない。
 しかも赤シャツたちが住む町のモデルである松山は、この時代にロシアに縁の深い都市であった。日露戦争時に松山の捕虜収容所にはロシア人捕虜が多く収容され、明治三八年(一九〇五)四月の時点で、約四千人の捕虜が収容されていた。これは決して全国に存在した捕虜収容所のなかでは抜きん出た数字ではないが、収容された陸海軍の将校の数については全国一であり、そのため「松山」は捕虜収容所の代名詞としてロシア兵の間で知れ渡っていた。ロシア人捕虜たちの状況はもちろん多く報道されており、たとえば『時事新報』明治三七年二月二五日には「松山捕虜だより」として、巡査に物品を送ろうとして迷惑がられた少尉や、ストレスから精神に異常をきたした大尉など、将校たちを中心とした松山の捕虜たちの様子が語られている。また明治三八年二月五日の『東京朝日新聞』には、松山の捕虜収容所における待遇への不満をある将校が本国に訴えたが、それは事実に反するという「当局者」の弁明を伝える記事が掲載されている。漱石が松山を去って十年後に、決して愛着を持っていたとはいえないこの土地を小説の舞台としたのは、こうしたロシア人捕虜たちに関する報道によって、この土地があらためて意識の表層に昇ってきていたからだとも考えられるのである(16)
 一方、「赤シャツ」に臣下のように付き従う野だいこは、日本の戦った相手としての〈中国〉に重ねられる存在である。気力を欠いた兵士と、旧式の武器しか擁していない清を相手に、日本は比較的容易に勝利を収めたが、野だいこと彼が表象する〈中国〉との連関ははっきりと作中に刻まれている。赤シャツの画策によって婚約者を奪われ、遠く延岡の地に追いやられることになったうらなりの送別会で、坊っちゃんは日清談判の講談を語り始めた野だいこに対して「日清談判なら貴様はちやんくだらうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰はしてやつた」(傍点引用者、九)という振舞いを取るのである。そこからの類推によっても、より強力な〈敵〉である赤シャツが〈ロシア〉を象る形象であることが見えてくる。そう考えると、この作品が日清・日露という〈二つの戦争〉への意識を底流させていることと、坊っちゃんが〈戦う〉相手が赤シャツ・野だいこという〈二人組〉の形を取っていることが、明確な照応をなしていることが分かるのである。
 
         5 帝国主義と近代批判
 もっともこうした寓意的な構図を想定した場合、赤シャツはうらなりからではなく坊っちゃん自身から何ものかを奪い取らねばならないということになるかもしれない。けれども漱石はその比喩的イメージの論理においても、周到な布置を敷いている。つまり赤シャツから婚約者を奪い取られるうらなりは、坊っちゃんの分身にほかならないからだ。もちろん坊っちゃんとうらなりは気質的に対照的であり、他人のいいなりになりがちな大人しいうらなりが、周囲と衝突しつづける坊っちゃんの分身であるというのは奇妙な見立てかもしれない。けれどもむしろそこにこそ漱石の配慮があり、周囲の人間に反感を覚えてばかりいる坊っちゃんが、うらなりに対してはなぜか好意的な眼を注ぎつづけるという描き方もそこから生まれている。顔色が悪く「青くふくれて居る」(二)という容貌で、自己主張もほとんどしないこの人物が、坊っちゃんの辛辣な批評の餌食にならず、逆に「おれは君子と云ふ言葉を書物の上で知つてるが、是は字引にある許りで、生きてるものではないと思つてたが、うらなり君に遭つてから始めて、矢つ張り正体のある文字だと感心した位だ」(六)という評価を受けるのは不自然にも見える。けれどもこの強い親近感は、彼を坊っちゃんを裏返した分身として見ることによって、理解することができる。「うらなり」という呼称自体が示唆するように、文字通り彼は坊っちゃんの〈裏・なり〉の人物である。それを傍証するように、坊っちゃんはうらなりを最初に見た時にすでに、「おれとうらなり君はどう云ふ宿世の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない」(六)という、根拠のない強い愛着を覚えている(17)
 具体的な行動においても、うらなりが他者に自己主張することができないだけでなく、坊っちゃんも自分の意思を言葉に表すことが不得手なのであり、宿直の当夜、生徒たちに寝床にイナゴを入れられた「宿直事件」を話題とする会議の場でも、生徒への処分を寛大にしようという野だいこの意見に対して、「「私は徹頭徹尾反対です……」と云つたがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢な、処分は大嫌です」とつけたら、職員が一同笑ひ出した」(六)という不体裁を晒してしまう。その点で二人とも他者に向けた自己表出の不得手な人間同士としての重なりを付与されているのである。さらにうらなりが英語教師であるというのは、坊っちゃんの起点にいる漱石自身とつながる輪郭であり、その点でも二人の登場人物は間接的な呼応を示している。
 結局この弱々しい人物は、帝国主義的な拡張によって〈強国〉へと成り上がっていきながらも、西洋列強に対しては明確な自己主張をすることができず、そのいいなりになる無力さをさらけ出してしまう、明治日本の否定的な側面の寓意化にほかならない。三国干渉の屈辱は、何よりもそうした対西洋における自国の無力さを日本人が思い知らされる契機であった。そしてこの構図のなかではうらなりの婚約者であったマドンナは、帝国主義的な欲望の対象としての〈中国〉に相当する存在となるが、漱石の作品世界において、女性は多くの場合そうした記号性をまとってあらわれる。後の章で見るように、『それから』(一九〇九)においても『こゝろ』(一九一四)においても、女性は決して主体的な意志によって動く存在ではなく、二人の男性の欲望の対象として措定され、その間で獲得が争われる〈領土〉にほかならなかった。
 その際想起されるのは、漱石が明治三八、九年頃の「断片」に書き付けた、空間の占有をめぐる、よく知られた一節である。
 
  二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強 い方が勝のぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷(ずうずうしい)方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方 が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのぢや。
  人情もない冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。(中略)礼儀作法、人倫五常を重んずる ものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪、邪正、 当否の問題ではない――powerデある――willである。
 
 ここに示されている〈強・弱〉を対立させる発想が、『坊つちやん』におけるマドンナをめぐる抗争に投げかけられている。有光隆司もこの「断片」の一節と『坊つちやん』の連関に着目して、「遠山令嬢〔マドンナ〕という「same space」の「occupy」をめぐる教頭と古賀〔うらなり〕とのさらにはそれを火種として発展した教頭と堀田〔山嵐〕との、相和することなき確執劇」(〔〕内は引用者)がこの作品の「メインテーマ」であると述べている(18)。これは疑えない側面だが、重要なのは有光も「遠山令嬢という「same space」の「occupy」」といういい方をしているように、作品の構図において〈女性〉が〈領土〉の比喩として表象されているということだ。この着想が、西洋――日本の力関係のなかで描かれたものであることは疑いない。レーニンが、強国同士がそのヘゲモニーを維持するべく「土地を占領しようとして、たがいに競争すること」(宇高基輔訳)(19)を帝国主義の本質の一つとして規定するように、「space」を「occupy」することによって実現される強さという観念自体が、明らかに帝国主義的な着想である。そして三国干渉では日本はまさに遼東半島という「space」を「occupy」することができず、西洋列強という「強い方」に「追ひ払」われてしまったのである。
 この一節で想定されている「強い方」が〈西洋〉を含意していることは、「現代日本の開化」に近似した表現があることからも推測される。ここで漱石は、日本人が開化の過程で西洋とつき合っていくために、日本的な流儀を捨てざるをえなくなる事情について、「しかうして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従はなければならなくなる。我々があの人は肉刺(フォーク)の持ちやうも知らないとか、小刀(ナイフ)の持ちやうも心得ないとか何とかいつて、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである」(傍点引用者)と語っている。こうした強弱の力関係によって現実世界の流れが冷酷に律されており、しかもそのなかでつねに「強い方」が勝って終わるという認識が、〈弱者〉であるうらなりがマドンナという「space」を「occupy」することができず、学士で教頭という〈強者〉である赤シャツに「追ひ払」われてしまう展開に形象化されている。またそこに二〇世紀初頭の帝国主義的な時代を生きる人間としての漱石の感覚が露呈していることを否定しえないのである。
 漱石は講演「私の個人主義」(一九一四)でも国と国との関係において「徳義心はそんなにありやしません」と断言し、つづけて「詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります」という感慨を表明している。『坊つちやん』においてうらなりが赤シャツから受けたものも、こういう「滅茶苦茶」な処遇であったが、その原型的な経験となったものが、極東の平安を保全するという「徳義」を押し立てて遼東半島から日本を追いやり、現実には中国におけるみずからの進出を図ろうとした西洋列強による三国干渉であった。徳富蘇峰もこの出来事に強い衝撃を受け、思想的な方向を転換する契機となったことはよく知られている。『蘇峰自伝』(一九三五)に蘇峰は「此事を聞いて以来、予は精神的に殆ど別人となつた。而してこれと云ふも畢竟すれば、力が足らぬ故である。力が足らなければ、如何なる正義公道も、半文の価値も無いと確信するに至つた」(20)と記しているが、「力」が「正義公道」を蹂躙するというのが国際社会の現実であるという認識は、漱石が「断片」に書きつけた「power」の論理とほとんど同一の響きをもっている。『坊つちやん』においても赤シャツの振舞いに怒りを覚えた坊っちゃんは、赤シャツを凌ぐためには「どうしても腕力でなくつちや駄目だ。成程世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ」(十一)と、道理の通用しない国同士の関係を個人の次元に引き下ろし、「戦争」を仕掛ける決意をするのである。
 この「戦争」の示唆するものが戊辰戦争ではなく日露戦争であることは、『坊つちやん』が『吾輩は猫である』(一九〇五〜〇六)が掲載中であった明治三九年(一九〇六)四月に『ホトトギス』に発表されている時期的な重なりによっても傍証される。『ホトトギス』のこの号には『猫』「十」章も併せて掲載され、さながら漱石特集号の様相を呈しているが、前章で見たようにこの作品では日露戦争の文脈が明示され、とりわけ「五」章で語られる「吾輩」と鼠との〈戦い〉は、自身を「東郷大将」に見立てることで日本海海戦の戯画的な表象となっていた。また主人の苦沙弥が庭にボールを打ち込んではそれを取りに来る中学校の生徒たちに悩まされる「八」章の攻防にも「旅順の戦争」の比喩が用いられている。それと近接する時期に書かれた『坊つちやん』でも、「十」章では中学校と師範学校の争いに巻き込まれた坊っちゃんが生徒たちを相手に、「張り飛ばしたり、張り飛ばされたり」しているうちに、相手が引き上げてしまう様が、「田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨い位である」と表現され、日露戦争の文脈が盛り込まれている。この比喩はロシアの極東軍を率いたクロパトキンが、消極的な作戦を取りがちであったところから「退却将軍」とあだ名されたことによるが、こうした連関を考慮しても、坊っちゃんと赤シャツとの〈対決〉が『猫』におけるせめぎ合いと同様に日露戦争の表象であったことは疑えない。
 そして坊っちゃんはこの「戦争」を完遂するべく山嵐と共闘することになる。「会津つぽ」として語られている山嵐が、〈薩長〉とくに〈長州〉を「親」とする坊っちゃんと手を結ぶというのは、一見矛盾しているようにも映るが、ここにこそ、漱石の未来志向的な眼差しが込められている。忘れてはならないのは、この作品の展開において、坊っちゃんと山嵐がつねに親しい関係にあるのではないことだ。赤シャツと野だいこの噂話を真に受けて、「宿直事件」が山嵐の煽動によるものと思い込んだ坊っちゃんは、それ以降しばらく山嵐と口もきかない対立的な関係に陥っている。赤シャツへのルサンチマンが再び彼らを結びつける契機となるが、そこに現在から未来へと日本が向かうことに対する漱石の積極的なヴィジョンが託されているといえよう。中盤に語られる坊っちゃんと山嵐の対立は、やはり〈長州〉と〈会津〉のそれに照応するものであり、赤シャツを標的とすることによってそれが止揚されていく終盤の展開は、そうした国内の党派的な相克を乗り越えて協調することで、〈西洋〉と拮抗するというヴィジョンを示唆しているからである。もちろんそうしたヴィジョンがそのまま実現されると漱石が素朴に考えていたのではない。『坊つちやん』の結末において、坊っちゃんは結局赤シャツに対する私的な腹いせをしたにとどまり、彼に対する終局的な勝利を収めたわけではない。坊っちゃんは東京に帰還して「街鉄の技手」となり、中学校における赤シャツのヘゲモニーは一向に震撼されることなく終わるのである。
 そこに日露戦争に勝利したところで、国際社会における日本の西洋に対する位置づけが本質的に変わるわけではないという、漱石の醒めた眼差しが込められているが、この赤シャツの結果的な安泰は、この作品に込められたもう一つの批判性を浮上させることになる。つまり1節で挙げた竹盛天雄の論にも見られるように、赤シャツが力を振るいつづける〈松山〉の中学校とは、そのムラ的な排他性、閉鎖性によって、前近代的な要素を残したまま営まれつづける〈日本社会〉の比喩となるからである。こうした、個人の意向を尊重しないムラ社会的な性格が日本社会に遍在し、近代という時代においても容易に捨象しえないものであることを漱石は十分に認識していた。それが『道草』における養父の描出に至るまで、漱石の作品世界において表象されていくことはあらためて述べるまでもない。
 その点で『坊つちやん』の結末は決して明るいものとしては映らないが、東京に戻った坊っちゃんが「街鉄の技手」になるという成り行きは、必ずしも否定的に眺められるべきではないと思われる。平岡敏夫はこの帰結に対して、坊っちゃんが本来の直情径行の気質の担い手ではなくなった点で、「坊っちゃんは死んだのである」という見方を示している(20)。しかしこの坊っちゃんの「死」はある意味では漱石によって積極的に希求されたものである。なぜならこの作品で〈戦う者〉であった坊っちゃんとは、すなわち帝国主義的な戦争の主体にほかならず、その坊っちゃんが〈死ぬ〉ことは、日本が戦争への関与から脱却していくことを意味するからだ。さらに彼が転身する「街鉄の技手」とは、産業技術による立国を示唆しているとも受け取られる。現に約四十年後に訪れる太平洋戦争の敗戦によって、日本はその道を辿ることになるが、この作品の結末はそれを密かに予示しているともいえよう。そこにも漱石の未来志向的な眼差しが作動していることが見て取られるのである。
 
 
〔註〕
(1)大岡昇平『小説家夏目漱石』(筑摩書房、一九八八)所収の「坊つちやん」。
(2)丸谷才一「忘れられない小説のために」(『現代』一九八八・七『闊歩する漱石』講談社、二〇〇〇)。
(3)『坊つちやん』の同時代評については、『雑誌集成 夏目漱石像』2(明治大正昭和新聞研究会、一九八一)及び『夏目漱石研究資料集成』第一巻(日本 図書センター、一九九一)を参照した。
(4)『ホノホ』の評でも「『坊ち(ママ)やん』の読者に愛せらる所以は坊ち(ママ)やん其者の人物にあり、即ち漱石其人の人物に由る」(傍点原文)という視点が当然のよ うに差し出されていたが、その後 漱石自身が「私の個人主義」(一九一四)で、主人公の敵役として登場する赤シャツのモデルが自分自身である語ったこと もあって、坊っちゃんの直情径行的な性格と行動があくまでも虚構の 産物であると見なすことが一般的になっていった。
(5)瀬沼茂樹『夏目漱石』(東京大学出版会、一九七〇)。
(6)夏目漱石は第五高等学校教授のまま明治三三年(一九〇〇)九月イギリスに発ち、二年余のロンドン滞在の後明治三六年(一九〇三)一月に帰国し、四 月に第一高等学校に転じている。しかし身分は講師となり、また小泉八雲の後任として東京帝国大学講師を兼任していた。
(7)江藤淳は『坊つちやん』を「漱石がはじめて試みた「コンフェッション」の文学だった」という一方で、「江戸の文化的伝統」を示唆する「親譲りの無鉄 砲」という言葉によって、漱石が 「「坊つちやん」の内面にピタリと蓋をしてしまった」と述べている。これでは『坊つちやん』に何が〈告白〉されている のか探りようがないが、後続の章で扱われる島崎藤村の『破戒』との連続性をつくるために、共通項として「コンフェッション」という主題を持ち出してき ているようにも見える。ただ小論で述べたように、『坊つちやん』において、寓意の枠組みのなかに漱石の関心がかなり露わに提示されていることは事実であ る。
(8)竹盛天雄「坊っちゃんの受難」(『文学』一九七一・一二→漱石作品論集成第二巻『坊っちゃん・草枕』桜楓社、一九九〇)。
(9)平岡敏夫「小日向の養源寺――「坊つちやん」試論」(『文学』一九七一・一→『「坊つちやん」の世界』塙書房、一九九二)。
(10)小森陽一「矛盾としての『坊つちやん』」(『漱石研究』12、一九九九・一〇)。
(11)平岡敏夫「漱石のもたらしたもの」(『国文学解釈と鑑賞』一九七八・一一→『「坊つちやん」の世界』前出)や小谷野敦「『坊つちやん』の系譜学」(前出)に 両者の連関に対する言及がある。
(12)平岡敏夫「ロンドン体験としての「坊つちやん」」(『文学』一九八九・九→『「坊つちやん」の世界』前出)。
(13)明治期の日本を〈少年〉の比喩によって捉えるのは漱石に限られた着想ではなく、福沢諭吉も明治一一年(一八七八)の『通俗国権論』で「西洋流の事 を行ひ西洋流の物を作るの錬磨に於ては、我日本人の齢(とし)は僅に十歳以上未だ二十歳に足らざる少年の如し」(引用は明治文学全集8『福澤諭吉集』筑摩書房、 一九六六、による)と記していた。これは書かれた時期を考慮すれば 妥当な見立てといえるが、それから三十年近くを経た漱石の意識においては、同じ着 想が引き継がれながら、年数の経過に及ばない成熟の度合いが明治日本に対して付与されている。
(14)この坊っちゃんの性格の起源としての〈祖(おや)〉という言い方は、竹盛天雄の「坊っちゃんの受難」(前出)から借りている。竹盛は坊っちゃんの「本源的な「祖(おや)」」として「江戸的なもの」を想定しており、「明治的現実の中で日に実体を喪失してゆく江戸的なものの運命」という主題を読み取っている。
(15)引用は岩波文庫版『新訂 蹇蹇録』(一九八三)による。
(16)松山におけるロシア人捕虜については、才神時雄『松山収容所――捕虜と日本人』(中公新書、一九六九)、ソフィア・フォン・タイル『日露戦争下の日 本――ロシア人捕虜の妻の日記』(小木曽龍、小木曽美代子訳、新人物往来社、一九九一、原著は一九〇七)を参照した。
(17)うらなりが坊っちゃんの〈裏〉であるとする視点は、平岡敏夫の「うらなりの運命――「坊つちやん」再論・リポートより」(群馬県立女子大学『国文研 究』第13号、一九九三・三)にも見出される。ただしこの論考は平岡が教鞭を取る大学の授業で出されたレポートをまとめたものであり、うらなりを坊っち ゃんの「裏也」とする見方も、学生によって提示されたものを、平岡 が肯定的に紹介するという形を取っている。
  坊っちゃんの〈裏〉としてのうらなりの存在は、その命名のあり方にも暗示されている。つまり赤シャツ、山嵐、野だいこといった坊っちゃんの命名はほ とんど視覚的な印象によっており、その線でいけば古賀は〈青びょうたん〉とでも呼ばれるべきだったかもしれないが、かつての級友の父親がやはり蒼くふ くれた顔をしており、その理由として清が「うらなりの唐茄子ばかり食べるから」といったことを思い出して、このあだ名がつけてられいる。しかし坊っち ゃんは「うらなりとは何の事か今以て知らない」のであり、イメージ性は希薄である。しかもうらなりが清という、自身の起源的な存在と結びつく文脈を持 っていることも、彼の坊っちゃんへの分身性を補強している。  
(18)有光隆司「『坊つちやん』の構造――悲劇の方法について」(『国語と国文学』一九八二・八→ 漱石作品論集成第二巻『坊っちゃん・草枕』前出)。
(19)引用は岩波文庫『帝国主義』(宇高基輔訳、一九五六、原著は一九一七)による。
(20)平岡敏夫「小日向の養源寺――「坊つちやん」試論」(前出)。