『1Q84』「BOOK3」について             柴田勝二
 
 『1Q84』「BOOK3」はこれまでの二巻を受けて展開しながら、〈完結編〉としては十全な印象を与えない巻となっている。ひとつの帰結が与えられているのは、天吾と青豆という二人の中心人物の関係に対してであり、前項(『1Q84』について)で予想したとおり、「BOOK2」の末尾で青豆が自身に向けた銃口から銃弾は発射されず、二人は邂逅を遂げ、結ばれるに至る。さらに青豆が性交を経ないで天吾の子供と確信される胎児を身ごもることによって、彼らの絆が〈運命的〉なものであることが強調されている。
 
 一方天吾と行動を共にしてきた「ふかえり」は天吾のアパートを離れ、養育者の元に戻ったことが示され、天吾が看護をつづけてきた父親は、何がしかの金と写真、文書を遺してこの世を去る。彼の分身らしき人物がふかえりや青豆、あるいは彼らの動向を追ってきた牛河の元を繰り返し訪れ、執拗にNHK料金の支払いを要求する描写が繰り返されるものの、彼が結局何者であったのかは示されず、また元NHK集金人の天吾の父親が、彼の生物学上の父親であるかどうかも不明なままである。天吾の元を離れたふかえりの行方も語られず、またふかえりの父であるリーダーを青豆に殺された教団「さきがけ」の、彼女や天吾に対する態度も明瞭ではない。
 
 村上春樹はこれまでの作品の系譜において、おおむね円満な収束感を漂わせながら作品を閉じてきたが、「BOOK3」の帰結にはそうした収束感が希薄である。反面中心人物二人をめぐる物語には完結感があるため、ややちぐはぐな読後感がもたらされている。あるいは村上は「BOOK4」を留保の形にしたまま、この巻を世に送ったとも考えられるが、もしそうであるとしたら、作家としては曖昧な態度であると受け取られても仕方がないだろう。「BOOK2」は明らかに中途の段階で終わっており、続編が出ることははっきりしていたが、「BOOK3」は曖昧な完結編の姿をしており、「BOOK4」の可能性は微妙な形で宙づりにされている。少なくともそうした長編の出し方はこれまで村上が取ってこなかったものである。
 
 「BOOK1」から「BOOK3」までを一応物語の全体と見なした場合、『1Q84』の顕著な特徴は、時代や社会と交差する〈問題性〉が著しく低減していることである。これまでの村上の作品では、疾風怒濤の60年代を葬り、散文的な70年代を受容することや、七〇年代後半から現在に至る情報社会のなかで、自己を蚕食されつつその流れのなかで生きていくことといった、同時代の読み手が共有しうる問題性を底流させていた。また『風の歌を聴け』から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にかけての流れにおいて、こうしたポストモダン的問題性が追尋された後は、逆にポストモダン社会への疑念から、戦争や天皇といった、モダン的な問題の枠組みに立ち帰ろうとする方向性が浮上して来、『海辺のカフカ』『アフターダーク』といった2000年代の作品は、その趨勢のなかに生み出されていた(詳しくは拙著『中上健次と村上春樹』東京外国語大学出版会)。『1Q84』も系譜としてはその流れに属する作品であり、前項で述べた〈人と人のつながり〉という主題が、『ダンス・ダンス・ダンス』に見られたような、「高度資本主義社会」における資本と情報のネットワークにいつの間にか個人が絡め取られているといったポストモダン的構図に代わって、人と人が個的な〈想念〉によって媒介され、結びつけられるという、ロマン的ともモダン的ともいえる構図が前提されており、ポストモダンの相対化という側面は明瞭に認められる。
 
 けれども「BOOK3」でにわかに浮上してきた、天吾と青豆を結びつけるに至るロマン的な想念は、現実世界への批評性をほとんどもたない主題である。『海辺のカフカ』で用いられた「父を殺し、母と交わる」というオイディプス神話は、戦争―軍国主義に対する批判と、空虚な時代としての七〇年代以降への批判を担う装置であり、眠りつづける『アフターダーク』のエリも、アジアへの侵略の歴史に意識を目覚めさせない日本人への揶揄をはらんでいた。けれども子供の頃のふれ合いを記憶にとどめつづけて、二十年後の成就に至る天吾と青豆のロマン的な想念は、そうした個人同士の思いを否定し、引き裂く力との拮抗が希薄であるために、単に反現実的な物語装置してしか意味づけられない。村上がエルサレムでおこなった講演になぞらえていえば、こうした男女間の思いは、「壁」によって容易に壊される「卵」の位置に置かれるもののはずであり、『1Q84』でいえば、「さきがけ」の力が二人の間にもっと荒々しく介入し、彼らを引き離そうとするべきであっただろう。しかし「さきがけ」の彼らへの介入の仕方はきわめて微温的であり、むしろ彼らの手先として動いていた牛河を葬る、青豆の仲間であるタマルのやり方の方がはるかに残酷なのである。
 
 『羊をめぐる冒険』で主人公の行動を、彼が意識しない形で操作していた「黒服の男」は、情報社会の管理性の巧みな寓意をなし、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、「私」の部屋を徹底的に破壊し、彼の肉体に危機に晒しさえする二人組の男は、その過酷さをより具体的に顕在化していた。加えてこの作品で不可視の形でうごめく「やみくろ」は、人間の内奥の暴力性の象徴として、『ねじまき鳥クロニクル』に引き継がれていくことになる。『1Q84』では、こうした中心人物たちを脅かす情報社会の管理性も、他者的な暴力性も不在であり、不気味な訪問者として描かれるNHKの集金人を自称する男も、それが天吾の父親の分身であるとすれば、むしろ彼にとっては懐かしさと繋がる要件である。またジョージ・オーウェルの「ビッグ・ブラザー」に対比される「リトル・ピープル」も、今のところは決して危害を及ぼす存在ではない。
 
 結局天吾と青豆を引き離す力は、もっぱら〈すれ違い〉という、大時代的な偶然性に帰着する。その意味では村上春樹が書いたものは21世紀における『君の名は』であったのかもしれないが、その地点で作品を終わらせないためにも、村上は「BOOK4」を書かねばならない地点に自分を追い込んでしまったともいえるだろう。  (2010年4月)