『1Q84』について                             柴田勝二
 
 『海辺のカフカ』以来七年ぶりの書き下ろし長編として出された『1Q84』は、ジョージ・オーウェルの『1984年』との連関を示唆する表題をもち、読み手はおのずとオーウェルを村上がどのように換骨奪胎したのかという興味をもって読み始めることになる。オーウェルの『1984年』については「スターリニズムを寓話化したもの」としての「ビッグ・ブラザー」による統制のもとに人びとが主体性を奪われて生きる状況を描いた作品として、村上の作品中でも言及されており、その連関を作者が意識していたことは疑いない。しかし結果的には『1Q84』は『1984年』のパロディーとはならず、別個の主題をもつ作品として成り立つことになった。

 『1Q84』において「ビッグ・ブラザー」に相当する存在として語られているのが、「リトル・ピープル」である。しかしこれは「ビッグ・ブラザー」とは対照的に、民衆を一括した統御のもとに置くような強力な権力装置の寓意ではなく、捉えどころのない多義的なイメージをまとった存在として提示されている。この「リトル・ピープル」を登場させた小説「空気さなぎ」の原型を書いた十七歳の少女「ふかえり」(深田絵里子)の保護者である戎野が「リトル・ピープルは目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にはわからない」と語るように、それが人間にどのような力を及ぼす存在であるのかが明確にされていないのである。
  
 その点で「リトル・ピープル」が、オーウェルの「ビッグ・ブラザー」を村上的に読み替えた存在であるとはいい難く、それが『1Q84』と『1984年』との照応を希薄にする一因となっている。もちろん村上がオーウェルのパロディーをおこなわねばならない責務はないが、村上の作品の系譜には、むしろこれまでオーウェル的な世界につながる傾斜が存在していたのである。つまり『羊をめぐる冒険』では、特殊な斑紋をもつ羊を探索に北海道に赴く主人公の行動が、それを依頼した「右翼の大物」の秘書を務めるという「黒服の男」が仕組んだプログラムの上を動かされていっただけであったことが最後に明かされ、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、個人としての感情の揺れや曖昧さを切り捨て、自身の脳を装置として情報の転換作業に従事する男が、最後には〈終わった世界〉である自己の意識下の世界に閉じ込められることになる。いずれも一九八〇年代以降の情報社会を個人が生きることが、自己を失うことと背中合わせであるアイロニーが前景化されており、この着想を延長していけば、高度に情報化、システム化された資本主義社会において、個人の意識とさらに無意識までが管理されるという、オーウェル的な図式を押し進めた内容が展開される可能性は十分に考えられた。現に五年前の『アフター・ダーク』でも、現代の資本主義社会のシステムを象徴する食べ物としてのフライド・チキンの生産過程を揶揄するために、オーウェルの名前が出されていたのである。
 
 しかし『1Q84』に展開される物語が差し出しているのは、こうした資本主義社会におけるシステムと個人の関係とは別個の主題性である。それは平たくいえば〈人と人のつながり〉にほかならない。作品はスポーツ・インストラクターを務める一方で、女性に理不尽な暴力を振るった男を抹殺することを使命として生きる、青豆という風変わりな名前をもった女が、非常階段を使って高速道路を降りたことがきっかけとなって、これまでとは微妙にズレた世界に移行して生き始める物語と、彼女が少女の頃から心のなかに住まわせてきた相手であることが後に分かる、天吾という作家志望の予備校教師が、新人文学賞に応募されてきた「空気さなぎ」という作品を書き直していくことで、その作者であるふかえりと交わりをもつことになる展開が、章を交互にして進んでいき、後半で両者の接点が明らかにされるという、これまで村上が繰り返し取ってきた、異種の物語を並列させる手法によって構築されている。青豆は三年前の一九八一年に、山梨県で過激派の集団が警察と衝突し、警官が三人死ぬという、自分の記憶にはない事件が起こっていたことを知ることで、自分がどこかで方向転換をした後の世界である「1Q84年」に生きていることを見出すが、それに呼応するように、彼女が見上げる空には、二つの月がかかるようになる。
  
 この山梨県で起きたという抗争事件は、そこに関わりをもつ元学者の娘であるふかえりの作品を書き直す仕事をする天吾の営為につながるものであり、その点で青豆は自身が「私は天吾の立ち上げた物語の中にいることになる」と実感するように、知らないうちに天吾のいる世界に取り込まれていたことになる。それが「1984年」から「1Q84年」への移行であったが、それが生起したのは、彼女が十歳の時に一度手を握っただけの相手である天吾を心の内にとどめつづけてきたからであった。一方天吾もやはり青豆の存在を心に抱きつづけたのであり、その結果二人がともに「二つの月」を見る事態が招来されることになる。ここから抽出される「Q」は、決して残忍な暴力の記号でも、非人間的な管理社会の記号でもなく、むしろはるかな者同士の紐帯によってもたらされた、世界に変容をきたさせるロマン的な力の印にほかならない。
 
 この作品で変奏される〈人と人のつながり〉はもちろんそれだけにとどまらない。天吾はふかえりが描いたという、斬新なイメージをもちながら作品としてあまりにも荒削りな「空気さなぎ」という小説を、編集者の小松に頼まれて、ルール違反を承知で書き直していくが、この行為によって天吾はこの不思議な少女の内面世界に分け入り、現実的な交わりも生じさせていく。さらにふかえりは実は「空気さなぎ」の作者でさえなく、彼女が憑依的に語る言葉を、保護者の娘であるアザミが記録したものであることが明らかになるが、この稗田阿礼と太安万侶のようなperceiver――receiverのつながりによって、「空気さなぎ」は成ったのだった。ふかえり自身は読み書きに困難をもつディスレクシアであり、もともと内面の複雑な思考を言葉として外化させる能力をもたない少女である。しかし彼女はperceiverとしての際立った能力をもち、言語世界や非日常世界とのつながりを担いうる巫女的存在である。そして彼女が語った物語の核にあるものが「リトル・ピープル」であり、彼女が「ほんとうにいる」というリトル・ピープルが作り出す物が「空気さなぎ」であった。「リトル・ピープル」は、物語の主人公である少女が暮らすコミュニティーで飼育されていた、眼の見えない山羊が死んだ後、その口から出てきた者たちであり、淡い光を放つ「空気さなぎ」という不思議な物を作りつづける。「空気さなぎ」の中にはもう一人の、自分を写し取った少女がおり、主人公の少女と彼女の関係が「マザとドウタ」であると言われる。そのさなぎの中の少女は「あくまでマザの心の影」として存在する彼女の分身なのである。
 
 こうした内容が示しているものは、明らかに文学作品の生成の寓話である。作家は多く〈死んだ者〉や過ぎ去った事件を素材として物語を紡ぎ出しつつ、そこに自己の分身を込める。したがって「リトル・ピープル」とはこの次元においては〈言葉〉ないしそこにはらまれた〈言霊〉の謂にほかならない。だからこそ戎野は「リトル・ピープル」を「目に見えない存在」だと言ったのであり、天吾はふかえりの語った物語を書き直すことによって、そこに込められた〈魂〉に感応していくのだった。
 
 この言霊的なものへの傾斜の起点にあるものとして想定されるのは、国語教師であった自身の父の死という、作者の個人的な事情であろう。今年二月の「エルサレム文学賞」の受賞講演で、村上はあえて「私の父は昨年、九〇歳で亡くなりました」と語り、『1Q84』の「BOOK2」の終盤でも、NHKの集金人を務める天吾の父であった男が――実はそうではない可能性がほのめかされているが――死んだ際にも、父の身体があったところに、「空気さなぎ」が残されているのを天吾は眼にする。あるいは作家ではなかった父が言葉の世界に長らく携わった所産として、この「さなぎ」がイメージされているのかもしれない。ふかえりが愛好するという『平家物語』にしても、村上龍との対談(『ウォーク・ドント・ラン』)で村上が「おやじがね、とくにぼくが小さいころにね、『枕草子』とか『平家物語』とかやらせるのね」と語った、父の遺物的な作品なのである。その点ではこの作品は死者との〈つながり〉という側面をはらみ、むしろそれが動機の大きな部分をなしているとも見られる。
  
 この〈人と人のつながり〉という主題が提示されたのはけっして『1Q84』が初めてではなく、すでに一九八八年の『ダンス・ダンス・ダンス』においても現れていた。ここでは主人公は耳のモデルをしていたキキという女性を探索する過程で、高校時代の旧友である五反田に出会い、五反田がキキと関係していたことを知るといった、思いがけない人間同士の連繋に驚かされ、「間違いない。繋がっている」(原文傍点)と実感するものの、その関係の根元にあるものを把握することができない。『ダンス・ダンス・ダンス』におけるこうした錯綜したつながりは、何度も繰り返される「高度資本主義社会」のもたらしたネットワークの寓意にほかならなかったが、そうした側面は『1Q84』においては明確ではなく、むしろ現実世界をズラし、相対化するロマン的な力の源泉として〈人と人のつながり〉が仮構されているのである。
 
 もっとも「リトル・ピープル」の「目に見えない」性格は、言霊的な次元にとどまらず、現実世界の彼方ないし底辺でうごめくもののおぞましさにも反転していく。その側面によって天吾や青豆らは脅かされていたのである。またそれがオーウェル的な管理社会のシステムの残酷さに転化するという可能性もあった。けれども先述したように、『1Q84』はそうした方向性は取らず、個人が抗しえない社会システムの雛形としての像は「リトル・ピープル」に付与されていない。むしろそれによってこの作品はいさささか物足りない印象を残すことになったといえよう。

 しかし「BOOK1〈4月〜6月〉」と「BOOK2(7月〜9月)」によって構成された『1Q84』の完結感は乏しく、これにつづいて少なくとも「BOOK3(10月〜12月)」が出されることが想定される。天吾はNHKの集金人であった男の本当の息子ではなく、体格や知性において近似した、ふかえりの父である深田が本当の父親であるという可能性が高い。そうだとすると、天吾とふかえりは〈兄妹〉であったことになり、後半二人の間で交わされた性交は、近親相姦であることになる。反面ふかえりが深田の本当の娘ではない可能性もある。一方この深田自身にほかならない教団「さきがけ」のリーダーを抹殺した青豆は、追っ手に捕らえられないために、自身に向けて銃の引き金を引くところで彼女の物語が終わっているが、おそらく何らかの事情によって銃弾は彼女の身体には放たれず、青豆は作中で生きつづけて、天吾と再会を果たすと考えられる。あるいはその過程で「リトル・ピープル」のおぞましい力が、今度は人と人とのつながりを断ち切る形で作動していくのかもしれない。作品の今後の成り行きを期待して見守りたい。(2009年6月)