ポーランド派ポスター と 現代ポーランド・ポスター マリア・クルピク
2003 copyright by Maria Kurpik, Ayumi Hirako翻訳:平子歩美
1993年6月、コペンハーゲンで開かれた欧州理事会において、ポーランドおよびその他の国々のEU加盟承認の決定がなされました。ポーランドも2004年5月からEUの一員となります。政治家や実業家は、ポーランドがEUという新しい家族の一員として、一家にどのような貢献ができるのかを模索しています。
しかしながら、ポーランドが昔からヨーロッパのみならず世界の一員として認められる根拠となっている、科学や文化、芸術などの多くの分野も存在することを忘れてはならないでしょう。グラフィック・デザインもまた、そのような分野のひとつであり、その中でも特にポスター芸術におけるポーランド人アーティストたちの業績が挙げられます。
ポスターは、告知内容の正しい把握と、正確に、造形的に伝達する能力が要求される、独特な造形芸術のひとつの様式です。ポスターの言語は、それ自体で独立した言語であり、時に、叫びやジョーク、説得、あるいはインスピレーションという形をとります。ポスターは美術現象であると同時に、意味論的の分析が容易な、イメージを組み合わせてつくる言語としては、もっとも純粋な形式のひとつです。ポスターを見る人が、それがポスターであるということ、どういう形式、あるいは様式なのか、ということを意識する前に、内容が入ってくるのです。
フランスの有名なポスター作家であるカッサンドルはポスターを、“グラフィックな電報”と表現しました。つまりポスターの役割は、簡単かつ明瞭な方法によって、その告知内容を伝えることにあります。ポーランドの優れたグラフィック・アーティストであり、ポスター作家のヤン・レニツァは、「ポスターの中の、単純で切りつめられた造形手段は、ポスターの貧しさを意味しないばかりか、むしろそれは力なのだ」と語っています。
ポスターはタイトルと絵によって観る人に働きかけます。そのメッセージは、ある時はひそひそとささやかれ、ある時は大声で叫ばれ、観る者が受け取る情報は正確な時もあれば、切りつめられたり、あるいは比喩的な場合もあります。ポスターは陽気であったり、真面目だったり、あるいはグロテスクなこともあります。そしてまた人間の感覚や野心、責任感、助けあいの心に訴えかけたりもします。
私たちはポスター芸術の歴史を見ると、その意味論、すなわちポスター固有の「ボキャブラリー」とでもいうべきものが、絶え間なく改良が計られていると言うことが分かります。その中でもはっきりと現われた傾向は、一般的に受け入れられている図式やシンボルを使わずに、むしろ作家がテーマを独自に解釈しようとする傾向です。ポスター作家たちは常に、新しく、そして観客とのよりよいコミュニケーション手段を模索しています。ポスターを見る者が連想する余地が残らないほど、主題の意味を説明し尽くす必要はありません。観客がポスターを見ることではなく、ポスターに気づき、考えてくれることが重要なのです。
イタリアの哲学者、ウンベルト・エーコは、「作品の解釈の可能性が大きければ大きいほど、作品が多種多様な反応を引き起こすほど、そして受け手が自分のアイデンティティーを失わずにより多くの様相を示すほど、作品の美学的な価値は大きくなる」と言っています。
現代のポーランドのポスターについて語る際、何世代にもわたるすばらしい建築家、画家、グラフィック・アーティストたちの業績に言及しないわけにはいかないでしょう。彼らによってポスター芸術の萌芽がつくりだされ、その発展の方向が定められました。ポーランド・ポスターという現象が発展し、実質的に形成されたのは第2次世界大戦後のことですが、しかしながらその発端は、クラクフで起こった「若きポーランド」という、モダニズム運動にあります。
20世紀はじめ、つまり第1次世界大戦そして1918年のポーランドの独立回復後にはすでに、ポーランド・ポスターは芸術としての権利を主張し始め、その作家たちはやはり、様々な芸術の中にインスピレーションを探し求めました。彼らにとっては日本の木版画もまた、アール・ヌーヴォー様式と同様にインスピレーションの源となりました。
グラマティカ・オストロフスカ;「女性のための芸術展」1900年
フォークロア芸術独特の、単純化された形式や多くの装飾モティーフもまた、ポスター制作に取り入れられました。
ズビグニェフ・ラングネル;「バレエ、ハルナシェ」1937年
ポスターには、構成主義やキュビズム、表現主義などその時代に見られた流れのすべてが反映されていきました。
ボフダン・ノヴァコフスキ;「祖国は君たちに呼びかける」1918年
ユゼフ・メホフェル;「ポーランド航空アエロロイド」1924年
ステファン・ノルブリン;「ポーランド、ザコパネ市」1925年
当時のポスターはまだ画家によって制作されており、絵画的なものでした。しかしながら、ゆっくりとではありますが着実に変化がおとずれました。グラフィック・アートの要素が次第に強くなり、ポスターはグラフィック作品となっていったのです。
しかし、ポスターが本当の意味で造形美術分野として独立し、明確な発展を遂げたのは、ワルシャワがポスター制作の中心地となった1920年から1939年でした。この時代のポスターに決定的な影響をもっていた人々を、私たちは「建築家世代」と呼んでいます。というのも、1926年に応用グラフィック教室が設立されたのはまさに、ワルシャワ工科大学の建築学科だったのです。この応用グラフィック教室からは、新しい芸術分野であるポスター制作の教育を受けたアーティストたちが輩出されました。彼らの作品はデザインの純粋さと明瞭さ、そしてほとんど建築学的な正確さという特徴をもっていました。その例として、タデウシュ・グロノフスキのポスター、「ラディオンは自分で洗います」〔洗剤〕1926年を挙げることができます。
ようやく、10年遅れた1935年に、今度はワルシャワ美術大学に、ポスター制作の基礎教育専門機関を開設することが決定されました。
この大学によって今度は、絵画的なスタイル、より現実主義的な形式が発展すると同時に、ここでは写真を使うなどの、実験的な試みも可能でした。これらのポスターには、デリケートで、しばしばみられるユーモラスな、落語で言えば“おち”のような特徴がみられました。とりわけそのようなポスターを得意としたのは、レヴィットとヒムの2人組で、ポスター「車のための食事 オイル"ガルカル"」1934年が知られています。
ポスターという分野で作品をつくることは、芸術家にとって大きなチャレンジであり、その当時の主要な作家のほとんどすべてが、ポスターに挑みました。
ヴォイチェフ・コサック;「ポーランド・フィアット株式会社」〔自動車〕1934年
ヤン・スティカ;「パノラマ " クオ・ヴァディス"」1902年
アンジェイ・プロナシュコ;スタニスワフ・ヴィスピャンスキの演劇「アキレス」1925年
エドムント・バルトゥウォミェイチク;「芸術大宝くじ」1922年
ヴウォジミェシュ・テトマイェル;「オイツフ友の会」1910年
スタニスワフ・ヴィスピャンスキ;メーテルリンクの演劇「内部」1898年
ヘンリク・ベルレヴィ;「メハノファクトゥーラ」1934年
ゾフィア・ストリイェンスカ;「代用コーヒー "エンリロ"」1938年
イェジ・フリニェヴィエツキ;「東方見本市」1930年
マチェイ・ノヴィツキ;「若い建築の舞踏会」1934年
ステファン・オシェツキ;「ポーランド」1936年
前出の タデウシュ・グロノフスキ;「ジェントルマン、レディのためのオーバーシューズ」〔企業〕1929年
タデウシュ・トレプコフスキ;「パレスチナ航路」〔商業〕1935年
フェリクス・ヴィグジヴァルスキ;「硫黄鉱泉、保養地ルビェン」1907年
ポスター芸術のこのすばらしい開花は、不幸なことに1939年、第2次世界大戦の勃発により中断されました。完全に破壊されたポーランドは、ソビエト連邦を中心とする東側陣営に取り込まれました。ポスターは、共産主義的な新政府により、多くのスローガンを知らせるプロパガンダに最適な手段であるとみなされました。
戦後10年間のポーランド・ポスターには、詩情に乏しく現実主義的で、美学的にぱっとしない単調な、社会主義リアリズムの規範に沿ったものが多く見られました。それは、社会主義体制によって、政治的原則に適った内容を伝達するのにもっとも適切であるとみなされた形式でした。
理想化され、オプティミズムに満ちあふれた表情で、「光輝く」未来をみつめるプロレタリアの姿が描かれたポスター。それは当局により義務として押し付けられ、社会主義リアリズムの精神によって描かれたものでした。
ヴィトルト・フミェレフスキ;「学生諸君、我々は君たちのために働いている、君たちを待っている」1950年
ルツィヤン・ヤゴジンスキ;「鉱山労働者、万歳」1952年
ルツィヤン・ヤゴジンスキ;「6ヵ年計画に突入」1950年
ヴウォジミェシュ・ザクシェフスキ;「党」1955年
タデウシュ・トレプコフスキ;「国民の敵に油断するな」1953年
この時代のポーランド・ポスターは、商業ポスターがめざましい発展をみせていた西欧のポスターとはかなり異なったものでした。芸術家たちの創作の自由は制限されていました。すべてのポスター・デザインは印刷にまわされる前に、厳しい検閲の網の目をくぐらなければならなかったのです。
はたして印刷の許可がおりるかどうかは、検閲官の目がどれほど鋭いか、あるいは政治的警戒心がどれほど強いか、そして、多くの意味にとれるシンボルは深層に隠された2重の、あるいは3重の意味を隠し持っていたのですが、それを読み取ることができるかどうかにかかっていました。許可の獲得は、一見すると「無害」なポスターでありながら、実はまったく違うテーマや出来事を暗示している、とも読み取ることができたポスターが引き起こす、連想次第でもありました。
印刷を許可されたからといって、ポスターを一般に広くいきわたらせることが許されたわけではありませんでした。それが演劇や映画のポスターであれば、劇場での“ゲネプロ”や映画の試写を見た上でようやく、ポスターの掲示の許可がおりたのです。また、許可がでるかどうかは政策の「揺れ」や、その戯曲の作家や映画監督が政府にどのように評価されているかにも左右されました。
ここまでは、ポスター史の中の、ポスターの作者と受け手の間における新しい相互理解の方法、つまりデザインに付加された理知的なメッセージにより感情へ働きかけることで形成される、そのような相互理解の方法ができあがった時期について、お話いたしました。
その例としてズビグニェフ・カヤ;「We remember」1955年 が挙げられるでしょう。これは一見、人々に望まれない政府に反抗するポスターではありません。ナチスの強制収容所を連想させる囚人服に包まれた腕、そして政治囚の印である赤い三角形が表されています。しかしながらこのポスターは同時に、ポーランドがソ連の支配下に入った時代についても語っています。それは、国民の大多数の意志に反して、政府がソ連と結びついた共産党陣営を受け入れた時代でした。握られたこぶしというおそろしい身振りは、戦争に対する怒りを表しているだけでなく、政権に対し「私たちは覚えているのだ」と警告しているのです。
また、ゴーゴリの喜劇を原作としたソ連映画のためにヘンリク・トマシェフスキが1953年に制作したポスター「検察官」では、ロシアの田舎町が舞台となっています。そこへある時、お忍びで検察官がやってくるらしい、という知らせからから物語は始まります。トマシェフスキのポスターでは、巨大な、高慢そうなロシアの役人の姿が画面手前を占めている、という構図になっていますが、これを見たポーランド人は皆、その当時ポーランドにいた、ソ連の役人の姿を連想しました。
すでにかなり早い段階で、つまり1948年にウィーンで開かれた国際映画ポスター展でヘンリク・トマシェフスキが(クリスチャン・ジャック監督、フランス映画「脂肪の塊」1947年;チェコ映画「翼のない男たち」1947年;オーソン・ウェルズ監督、アメリカ映画「市民ケーン」1948年;ジェームズ・メイソン監督、イギリス映画「邪魔者は殺せ」1947年;ジャン・ドラノワ監督、フランス映画「田園交響楽」1947年に対して)5つの金賞を受賞した時以降、多くの国際的な定期刊行物の中で、ポーランドのポスター芸術と、世界の造形美術の舞台におけるその役割について、頻繁に取り上げられ始めました。
ワルシャワのアルセナウ博物館で1955年に開かれた「若い芸術家展」は、ポーランドの美術史の中でも重要な出来事のひとつに数えられます。美学の変化、それはイデオロギー的なポスターの中にさえ、読み取ることができました。
1956年にポーランドは自由化されました。直接戦争を体験していない新しい世代が成熟してくると同時に、国民の自由の拡大、生活の物質的環境改善、そして、ソ連の勢力下から脱したいという、もっとも重要な要求が強まりました。それはまた、ポーランド社会の中で新しい政治意識が成熟した時期でもあり、応用グラフィックの作品の中にはその影響を受けたものもみられました。
常に需要が供給を上回っている社会・経済の中では、政治ポスター、文化ポスターとは違って商業ポスターは、実質的には不必要なものでした。それと同時に、ポスターの出版とその配給に携る国営大企業、そして劇場などが、芸術の保護者として、独自の「ポスター市場」をつくりだしました。この市場では平等の原則に従い、ポスターの価格はどんなポスター作家のものでも一律に調整されたため、グラフィック・アーティストたちはポスターの芸術的価値に最も重きをおくようになりました。このことによりポスターに携るアーティストたちは、新しい解決法と表現手段を探求する必要にせまられ、さらに芸術的水準の高い、新しい作品が生み出されることになりました。
それは社会主義リアリズムから遠ざかることを意味していたのですが、ポスターの場合にはこれが、政府による許容の範囲内とされていました。
この時期「街頭のグラフィック・アート」、つまりポスターの世界に次のような優れたアーティストの名前が加わりました。フォトモンタージュを巧みに利用し、コラージュを用いてシュールレアリスティックなヴィジョンを作り出した
ロマン・チェシレヴィチ;「モダ・ポルスカ」〔企業〕1959年
ロマン・チェシレヴィチ;イグナツィ・ヤン・パデレフスキのオペラ「マンル」1961年
ロマン・チェシレヴィチ;ハンガリー映画「大惨劇」1960年
ロマン・チェシレヴィチ;「チェシレヴィチ展、アウロラ・ギャラリー」1978年
ヴォイチェフ・ファンゴル;ルネ・クレマン監督、イタリア映画「鉄格子の彼方」1952年
ヴォイチェフ・ファンゴル;オットー・プレミンジャー監督、アメリカ映画「カルメン」1959年
ヴォイチェフ・ファンゴル;アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、フランス映画「ピカソ〜天才の秘密」1956年
ヴィクトル・グルカ;アンリ・ディアマン=ベルジェ監督、フランス映画「ファーブル先生」1953年
ヴィクトル・グルカ;「あとは、沈黙」1960年
その伝達方法とテーマに対する独自のアプローチで観る者を驚かせるヤン・レニツァの、
ヤン・レニツァ;アルバン・ベルク、オペラ「ヴォツェック」1964年
ヤン・レニツァ;ゲーテ原作、オペラ「タウリスのイフィゲーニエ」1962年
ヤン・レニツァ;エミリオ・フェルナンデス監督、メキシコ映画「リオ・エスコンディード」1954年
伝統的なフォークロアから明るい色彩を借用し、ポスター界の優れた画家となったヤン・ムウォドジェニェツによる
ヤン・ムウォドジェニェツ;パウル・ヒンデミット、オペラ「4つの気質」1962年
ヤン・ムウォドジェニェツ;ルイジ・ノーノ、オペラ「赤い外套」1962年
ヤン・ムウォドジェニェツ;「サーカス」1974年
ユゼフ・ムロシュチャク;ムソルグスキー、オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」1959年
ユゼフ・ムロシュチャク;ヴェルディ、オペラ「アイーダ」1958年
ユリアン・パウカ;ジュゼッペ・デ・サンティス監督、イタリア映画「ローマ、11時」1953年
ユリアン・パウカ;マルセル・カルネ監督、フランス映画「天井桟敷の人々」1955年
バロック芸術からインスピレーションをくみ出し、稀に見る熟練した技能で官能的な形式を知的なメッセージと結びつけ、しばしば思いがけない効果で見る人にショックを与えるフランチシェク・スタロヴィエイスキの、
フランチシェク・スタロヴィエイスキ;クシシュトフ・ザヌーシ監督、ポーランド映画「家族生活」1971年
フランチシェク・スタロヴィエイスキ;アウグスト・ストリンドベリ、演劇「死の舞踏」1974年
フランチシェク・スタロヴィエイスキ;ミツキェーヴィチ原作、演劇「父祖の祭」1984年
ロスワフ・シャイボ;「ジャズ‘60」1960年
マチェイ・ウルバニェツ;「サーカス」1970年
ヴォイチェフ・ザメチュニク;グァルティエロ・ヤコペッティ監督、イタリア映画「世界残酷物語」1964年
ブロニスワフ・ゼレク;アルフレッド・ヒッチコック監督、アメリカ映画「鳥」1965年
ヴァルデマル・シフィエジのポスターは、前例のない、めずらしい現象だと言うことができるでしょう。シフィエジのポスターを特徴づけているのは、造形美術のあらゆる手段が駆使されていること、独特な連想、そして肖像画家特有の稀に見る視線の鋭さです。これまでに1800点もの作品を制作したシフィエジは、ポスター界の記録保持者であると言えます。彼はおそらくどんなテーマのポスターでも描くことができますが、映画と演劇作品のためのポスターを、もっとも多く手がけています。
ヴァルデマル・シフィエジ;ジョン・シュレシンジャー監督、アメリカ映画「真夜中のカーボーイ」
ヴァルデマル・シフィエジ;リチャード・レスター、イギリス映画「ビートルズがやってくる」
ヴァルデマル・シフィエジ;セルゲイ・ユトキェーヴィッチ監督、ソ連映画「オセロ」
ヴァルデマル・シフィエジ;「ジタン」〔タバコ〕1990年
ヴァルデマル・シフィエジ;「第3回 国際 非商業ポスター展」1998年
次の文章には、シフィエジがポスターの概念をどのように理解していたかが表れています。「・・・演劇作品のためのポスターは、2時間の内容を凝縮したものでなければならない。なぜなら、私たちは劇場では2時間の間、快適で暖かい場所に座っていられるが、ポスターではそれが不可能であるからだ。ポスターは通りすがりに、または雨の中で、冬の停留所で、雑踏の中で、見られるものだ。したがってポスターは、とにかく人の目にとまることが大事な、信号、記号のようなものでなければならないのだ・・・」
作家たちは常に自分の作品に満足しきることなく、受け手とのより良く、より完全なコミュニケーションを必要としました。そのことからポスターは普遍的で教育的な、社会に対して芸術という言語で話しかけるメディアとなりました。ポスターは独立した表現手段になり、一方、国立の機関によりポスターに大きな支持が与えられたことで、ポーランド・ポスターを国外で普及させることが可能になりました。ポスターは芸術市場における商品となったのです。ポスターは蒐集され、研究や議論がなされ、そして売買されました。
芸術的なポスターに対する、そして芸術的なポスターを制作する、才能ある作家に対する「需要」が、結果として、今日まで私たちが鑑賞することのできる作品を生み出しました。高い芸術的価値をもつ独特のポスターは、1950年から60年の間にポーランド国外での批評の中で、「ポーランド派ポスター」と名付けられましたが、この定義は、個性的でユーモアがあり、知的な作品という意味でもありました。この「ポーランド派ポスター」という名は、世界のポスター史に刻みこまれました。
50年代、60年代にグラフィック・アーティストとしてデビューを飾った世代は、なによりもその優れた才能とポスターを造形美術作品として扱ったことにおいて際立っていました。彼らの作品は社会主義リアリズムという紋切り型を打ち破り、それによりポスターの新しい形式、豊かな表現様式が生まれたのです。国外で大きな評価を得ていた当時のポーランド・ポスターは、伝統を踏襲して絵画的なものでしたが、それは大胆なユーモアと並外れた表現力によって、非常に分かりやすいものでした。
ポーランドのアーティストの中でこのようなポスターの巨匠とみなされるようになったのはヘンリク・トマシェフスキです。トマシェフスキは告知情報を単純で暗示力のある記号に変換し、これ以上ないほどに簡潔な方法によって、複雑で本質的な内容を伝えました。1959年にトマシェフスキによって制作されたポスター「ヘンリー・ムーア」〔展覧会〕1959年 は、ムーアの彫刻展を知らせるだけではなく、その視覚的な解釈にもなっています。このポスターの中では、文字は芸術を作り出す素材のひとつとなっています。トマシェフスキのその他のポスターもまた、ポスター芸術の傑作に数えることができます。
ヘンリク・トマシェフスキ;マイケル・パウエル監督、イギリス映画「黒水仙」1948年
ヘンリク・トマシェフスキ;デンマーク映画「人の子 ディッテ」1952年
ヘンリク・トマシェフスキ;ルキノ・ヴィスコンティ監督、イタリア映画「ベリッシマ」
ヘンリク・トマシェフスキ;ソフォクレス、演劇「オイディプス王」1961年
国立美術館での展覧会のためのポスター、
ヘンリク・トマシェフスキ;「エロスのアート」〔展覧会〕1993年
ポスターのこのようなスタイルは多くの後継者を獲得し、その結果、クリエイティヴ・ポスターとも呼ばれる、霊感を与えるような新しいタイプのポスターが生まれました。その分野でトマシェフスキは、もっとも傑出したポスター作家のひとりであったのみならず、教科書的な芸術の理解をはるかに越えるような、独特の流派を生み出しました。
トマシェフスキは長年、ワルシャワ美術大学の教授として、とくに完全な思考の技術、自分のもっとも奥深くに眠る知性と想像力を活用する技術を学生に教授しました。
今日まで続くワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレは、ワルシャワ美術大学のムロシュチャク教授が中心となってその発案がなされました。1966年に第1回ワルシャワ・ポスター・ビエンナーレが開催され、その2年後にワルシャワのヴィラヌフに世界で始めてポスター美術館が開館したまさにその時、ポーランドのポスターは人気の絶頂を迎えたといえるでしょう。
その頂点に立ったのは、芸術的なポスター、つまり、演劇、映画、音楽、サーカス、展覧会、スポーツのポスターでした。それらは生活のあらゆる分野と実質的に結びついたポスターです。
その後に続いたのは、世界共通の視覚情報による普遍的な言語とより密接に結びついた世代です。彼らは皆、その普遍的な視覚情報の要素を受け入れました。
しかし同時に、それまでの思考の大胆さも、その多様さも変わらずに保たれました。一方、切りつめられた簡潔な形式、厳密な形式が現われました。それを始めたのは、レシェク・ホウダノヴィチです。
レシェク・ホウダノヴィチ;イェジ・ボサック監督、ポーランド映画「50万人に捧げるレクイエム」1963年
それに加わったのがミェチスワフ・ヴァシレフスキ
ミェチスワフ・ヴァシレフスキ;デヴィッド・リーン監督、アメリカ映画「戦場にかける橋」1988年
ミェチスワフ・ヴァシレフスキ;ジークフリート・クーン監督、ドイツ映画「不在者に関する夢」1987年
ミェチスワフ・ヴァシレフスキ;ジョン・コーネル監督、オーストラリア・アメリカ映画「クロコダイル・ダンディー2」 1989年
そしてマレク・フロイデンライヒなどでした。
マレク・フロイデンライヒ;小林正樹監督、日本映画「切腹」1963年
1970年代には、いわゆるカウンターカルチャーのポスター作家たちがデビューし、絵画性とポップ・アートの要素が結びついた作品を制作しました。しかしながら彼らは同時に、政治的・社会的現象にも敏感に反応していました。彼らはもっとも単純なテーマにでさえ、無政府主義的な姿勢をとりましたが、そのような態度は批評家によって書き記され、彼らは長い間主流から外されることになりました。それは濃い不安と不満にいろどられた、抵抗の芸術だったと言ってよいでしょう。70年代初頭は街なかでストライキと暴動が頻発した時代であり、その結果、ヴワディスワフ・ゴムウカからエドヴァルト・ギェレクへの政権交代が起こりました。この流れを代表するアーティストとして挙げられるのは、
ヤン・ヤロミル・アレクシュン;タデウシュ・ルジェヴィチの戯曲「土に」1974年
イェジ・チェルニャフスキ;スタニスワフ・ヴィスピャンスキ「ハムレット論」1978年
エウゲニウシュ・ゲト・スタンキェヴィチ;「モーゼ’89」〔イデオロギー〕1989年
ヤン・サフカ;「未来の乗り物」1976年
ヤン・サフカ;演劇「患者たち」1976年 ――サフカはこのポスターの中で、すべての希望を失った70年代のありふれた人々を表しました。どこへも行き着くことのない乗り物に乗り、すしづめになった人々は無気力につり革につかまり、そこから外に出ることもできません。
ポスターが繁栄を誇ったこの時期、創作の発想においても、スタイルにおいても、例外的な多様性がみられました。当時のポスターには、絵画的なスタイルもあれば、先に述べたような、省略や簡潔を好むグラフィック・スタイル、さらには次第に勢力を広げてきた写真と、それに関連したあらゆる実験的なテクニックの同居が見られたのです。写真を使ったポスターの例として挙げられるのは、ヴォイチェフ・ザメチュニクのポスターです。
ヴォイチェフ・ザメチュニク;「家族計画協会」1959年
ヴォイチェフ・ザメチュニク;「写真展――人間の家族」1959年
ヴォイチェフ・ザメチュニク;イェジ・カヴァレロヴィチ監督、ポーランド映画「影」1956年
80年代は政治的変化の時代であり、憎悪の対象となった政治的支配者と関連するものはすべて、芸術家たちによってボイコットされた時代でした。
この頃は、連帯のポスターが街なかに繰り出した時代でもあります。
トマシュ・サルネツキ;「連帯」1989年
ヘンリク・トマシェフスキ;「ポーランドがポーランドであるために、2+2はいつも4でなければならない」1989年
ポーランドの国旗、連帯Solidarnośćという文字そのものの絵画性、これらはポーランド・ポスターに独特の、暗示により語るという豊かな伝統を受け継ぐものです。
1981年12月に、政府により戒厳令が発動され、法的に認可されたものを除き、あらゆる活動が徹底的に制限されました。1982年の国際ポスター・ビエンナーレもまた、中止されることになりましたが、そのことにより、知的活動そして創作活動が空虚化するという脅威が現実的なものとなりました。
その結果、芸術に携る人々が集う、いわゆる地下活動のセンターが各地につくられ、それを通じてポスターも含む作品が広められました。ポスターは再び歴史の中で、“プロパガンダの最大の武器”という名を獲得したのです。ただ今度は、その武器が標的とするのは忌み嫌われていた政府だという違いがありました。困難な状況にもかかわらず、高い水準の作品がつくられました。
ヴワディスワフ・プルタ;「ポーランドの反戦ポスター展」1984年
アンジェイ・ポンゴフスキ;アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド映画「鉄の男」1982年
ヴィクトル・サドフスキ;ヴェルディ、オペラ「マクベス」1985年
ヴィクトル・サドフスキ;バレエ「ゴヤ」1983年
ヴィエスワフ・ヴァウクスキ;アルベール・カミュ、演劇「カリギュラ」1990年
ヴィエスワフ・ヴァウクスキ;アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド・フランス映画「ダントン」1993年
ミェチスワフ・グロフスキ;スワヴォミル・ムロジェク、演劇「警察」1982年
などがその例として挙げられます。
80年代には、独特の様式化された、おとぎ話のような無邪気さ、と同時に、現実に対する鋭い批判的な目をもったスタシス・エイドリゲヴィチゥスが、リトアニアからポーランドにやってきました。
スタシス・エイドリゲヴィチウス;「自分の政策をもて」
1990年代は途絶えることなく政治体制の変化が続き、戒厳令の辛い体験の記憶もまだ残ってはいましたが、それと同時に、アーティストたちが長い間待ち望んでいたデビューを果した時でもありました。それまでの政治的状況の中では押し殺されていた、あふれるような表現力と想像の可能性をもった彼らの作品は、ここにきてついに公然と発表することができるようになったのです。その例として、
ヴィエスワフ・ロソハ;「サティリコン ’96」〔展覧会〕
レフ・マイェフスキ;ソ連映画「気をつけて!毒ヘビ!」1981年
レフ・マイェフスキ;ロベルト・グリンスキ監督、ポーランド映画「日曜日の遊び」1987年
ロマン・カラルス;「モエ・エ・シャンドン」〔企業〕1999年
レックス・ドレヴィンスキ;「アントニーとクレオパトラ」1996年
タデウシュ・ピエフラ;「アルトゥール・ルービンシュタイン」1990年
トマシュ・ボグスワフスキ;「ジョゼフ・コンラッド没後70周年記念」1994年
マルチン・ムロシュチャク;「天候が変わっても、私たちは考えを変えない」1994年
マチェイ・ブシェヴィチ;「小旅行、大旅行」1995年
その他大勢のアーティストがこの中に含まれます。
残念ながら今日では街なかで、芸術的であり、そして効果的な宣伝であるような高い水準のポスターを見ることはますます難しくなってしまっています。今ではポーランドの町は、国内外からのあらゆる商品への購買意欲をかきたてる、巨大な屋外広告によって占められています。攻撃的な形、使われる色数の多さ、そしていくつも繰り返し展示されるにもかかわらず、そこには以前のポスターのような、洗練された芸術性が見られません。ポスターが十分に効果的であるためには、そしてメッセージが観る者の意識に入り込むためには、本当に芸術的な言語、つまり表現力と、気高さ、力に満ちた言語を用いて訴えなければなりません。現代の広告でもっとも重要視されているのはコピーであり、絵は――それもたいていの場合は写真ですが――ただの説明的なイラストになりさがってしまっています。これは、告知内容の伝達において視覚的情報がもっとも本質的な役割をはたしている、芸術的なポスターとはまったく正反対のものです。ポスターの広告媒体としての機能が、芸術的な価値とメッセージの美学を凌駕してはいけないし、またそうであってはならないのです。
ポーランドではポスター愛好者とコレクターによって、危機に面した芸術的ポスターに救いの手が差し伸べられました。彼らは、すでに存在しているポスターを蒐集しただけではなく、新しいポスターの印刷にも尽力したのです。ギャラリーや美術館もまた、同じような機能を果しました。ポスターが直面しているのは現代という新しい現実であり、若い「街頭のグラフィック・アーティスト」にとっての大きな課題は、巨匠たちの伝統を失わずにいくことでしょう。
水準の低いポスター同士による激しい競争にさらされた、困難な道にもかかわらず、若いグラフィック・アーティストの数はますます増えていっています。彼らは絵画の技法を巧みに操ると同時に、コンピュータ・グラフィックの技法を手際よく、確かな技能で用いています。
アンナ・ヤロス;「私たちは醜い」1999年
ヴォイチェフ・コルクチ;「ジャズ・ジャンボリー’98」1998年
ミロスワフ・ガラ;「フリッツ・ラング映画特集」1993年
ミロスワフ・ガラ;「第2回“若いドイツ映画”週間」1998年
クシシュトフ・ビャウォヴィチ;「リサイクル時代」2000年
ヨアンナ・ライコフスカ;「きっとご満足いただけます」〔展覧会〕2000年
マリョラ・プシイェムスカ;「抽象絵画」〔展覧会〕2001年
エルジュビェタ・ヤブウォンスカ;「家庭ゲーム」2002年
幸い、現代のポーランド・ポスターも、シンボルや記号により観る者の想像力に強く働きかける、またバラエティに富んでいるという事実は、今日まで変わりません。それらのポスターは美しいと言えるのでしょうか?それらは芸術作品という名にふさわしいのでしょうか?ポーランドの傑出した芸術家、スタニスワフ・ヴィトキェヴィチは、「美は客観的な要素からあまりに遠く隔たっているので、美を測ることのできる、皆が同意するような物差しを見つけることは不可能である」と言っているではありませんか。
私たち現代ポーランド人に向けられたメッセージであり警告でもある、金沢大学の松浦昇教授による次の言葉でこの講演をしめくくりたいと思います。
「ポーランドの芸術家たちが自分たちの独創性を失わなずにいる限り、ポーランドのポスターは世界中の人々にインスピレーションを与えつづけ、挑発しつづけるだろう」
ご紹介する最後のポスターは、プシェミスワフ・コザネツキ&マルチン・ヴワディカによる「ヨーロッパへのオファー」です。