伝説の文学カフェ「ピカドール亭」復活
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石造りのどこかノスタルジックな建物が軒を連ねるワルシャワの「新世界通りul. Nowy Świat」の一角に、一メートル四方の石碑が掲げられている。その石碑には次のような銘文が記されている。
1918年11月29日
ヤロスワフ・イヴァシュキェーヴィチ
ヤン・レホン
アントニ・スウォニムスキ
ユリアン・トゥーヴィム
カジミエシュ・ヴィェジンスキ
ここに文学喫茶「ピカドール亭」を開き
後に「スカマンデル」となった
詩人グループを発足した
この石碑がある新世界通り57番地には、かつて「ピカドール亭Pod Pikadorem」という名の文学カフェがあった。1918年11月29日といえば、第一次大戦が終わってポーランドが念願の独立を果たした直後であり、また1830年の11月蜂起の記念日でもあることが頭に浮かぶ。ここに名前があがっている詩人たちは、当時気鋭の若手詩人としてワルシャワの文壇でセンセーションを巻き起こし、ポーランド文学史に一つの転換期をもたらした文学者たちだ。彼らはこの文学カフェ「ピカドール亭」にオープニングから深く関わり、そこで行われるさまざまな催しを通じて新しい時代の表現者となっていった。「スカマンデルSkamander」とは、1920年に彼らが発刊した雑誌『スカマンデル』(もとはトロイを流れる河の名前とされているが、ヴィスピャンスキの戯曲『アクロポリス』の中でこの河とヴィスワ河とが重ねて用いられたことに由来する)の名前だが、同時にこの詩人グループを指す言葉としても親しまれている。彼らの「ピカドール亭」での活動そのものは、半年足らずの非常に短いものだったが、まさに独立ポーランドの最初の世代を育んだ場所として、「ピカドール亭」はポーランド文学史におけるランドマークの一つとなっている。
ポーランドの独立回復から90周年を迎えた今年、この「ピカドール亭」が再び新世界通りに姿を現した。これはワルシャワ市(Miasto Stołeczne Warszawa)とポーランド科学出版(PWN)がイニシアチブを取って企画された記念イヴェントで、PWNから出版された新刊のプロモーションを目的としていたようである。それらの書籍はいずれも独立記念に際して発刊されたメモリアル・バージョンであり、そのうちの一冊である百科事典『独立ポーランド Polska niepodległa』はワルシャワ市の後援を得ていることもあって両者がタッグを組んだのだろう。しかし新世界通りといえば、カフェやブティックが軒を連ね、買い物や観光の人々が行き交うワルシャワのメインストリートであり、かつて「ピカドール亭」があった場所には、現在皮革製品を扱う店舗が入っている。そのため、そこから3軒ほど北へ上がったところ、新世界通りと聖十字架通りul. Świętokrzyskaが交わる交差点の角にあった空店舗が復活の場所に選ばれた。
復刻版「ピカドール亭」は10月28日から11月8日までのおよそ10日間という期間限定だったが、ポーランド文学や歴史の専門家によるレクチャーや学生たちによる詩の朗読会、リプリントされた同時の新聞の配布など、さまざまなイヴェントが当時の雰囲気を再現したカフェの中で行われていた。すべてが一般公開というわけではなかったが、いくつかは自由に入場できるものもあり、またカフェがどのように再現されたのか気になったので様子を見に行くことにした。
私が会場へ足を運んだのは11月7日の「新世界通りのスタヴィスコStawisko w Nowym Świecie」と題されたイヴェントである。「スタヴィスコStawisko」というのは、先の「スカマンデル」グループの詩人の一人、ヤロスワフ・イヴァシュキェーヴィチJarosław Iwaszkiewicz (1894~1980) が家族と一緒に住んでいた場所で、彼が住んでいた家は現在イヴァシュキェーヴィチ博物館になっている。ここはワルシャワ中心部から電車(WKD)に揺られて40分ほどいった、ポトコーヴァ・レシナPodkowa Leśnaと呼ばれる地域の中にある。春にピクニックを兼ねてこの博物館へ行ったことがあるが、新緑の木々の中に立つ瀟洒な館が印象的な、とても美しい場所だった。
会場へ入ると、ポーランド語でカミェニツァkamienicaと呼ばれる石造りのアパートの壁を模した幕が壁にかかっていて、その奥に「ピカドール亭」の看板を掲げたカフェの入口が見える。その前にはカフェテラスのように椅子とテーブルが並べられていて、壁面にはワルシャワの老舗カフェ「ブリクレBlikle」の喫茶コーナーが出ていた。参加者たちはそのテーブルにつき、ブリクレの名物菓子「ポンチェクPączek」とコーヒーを楽しみながら話に耳を傾ける、という具合だ。「ピカドール亭」内部に目を向けると、どこか懐かしい感じのするバーカウンターやソファなどが置かれていたが、当時の内装を忠実に再現したものではないという。このイヴェントの告知記事によれば(10月27日付、ガゼタ・ヴィボルチャ紙)当時の「ピカドール亭」は未来派的な内装(具体的に想像しにくいが)だったらしく、壁面には当時流行ったジョークの定番だったある政治家の肖像画が掛けられていたそうだが、今回はあくまで第一次大戦後のカフェの雰囲気を再現したといったところだろう。
この日はイヴァシュキェーヴィチ博物館からキュレーターが出席しており、博物館の歴史や内部の展示、またサロンで行われるコンサートの案内について映像資料を交えて紹介していた(この映像資料は昨年スタヴィスコの80周年に作られたDVDで、博物館の内部をいろいろなアングルから眺めることのできる特殊なプログラムが入っている)。イヴァシュキェーヴィチが住んでいた頃、彼の家は詩人や音楽家たちが集うサロンのような場所だった。現在もこの博物館では、かつてイヴァシュキェーヴィチの家が担っていた役割を引き継いで、文学と音楽をテーマに人々が集う場所として、詩の夕べやコンサートなどを企画運営しているという。その他にも、独特の語り口が印象的なヘンリク・ボウコウォフスキHenryk Boułkołowskiによる朗読、昨年出版された『イヴァシュキェーヴィチの日記』の編集者によるレクチャーなど、主にこの作家を回想するプログラムになっていた。
そのなかで、とりわけフロアの人々の熱い視線を浴びていたのは、ゲストの一人として出席していたマリア・イヴァシュキェーヴィチだったといえるだろう。彼女はイヴァシュキェーヴィチの娘で、これまでに自分の家族や、父親と交流のあったポーランドの著名な芸術家たちについて回想録も出版している。したがって「スカマンデル」グループの思い出をマリア自身が語る、という企画はまさにこの日の目玉であったと言ってよい。当然のことながら、かなりお年を召されてはいたが、しっかりとした口調で時折ジョークも交えながら会場を沸かせ、当時のエピソードを魅力的に語って聴かせてくれた。およそ15分間という短いものだったが、やはり当時を知る人の話はいつ聴いてもおもしろい。そのうちのいくつかについて、ここで少し紹介させていただこうと思う。
まずは挨拶を兼ねて、「今日ここへ来たのは、スカマンデルの思い出をみなさんに話すためですが、なにしろすっかり年をとってしまったので、それが自分の思い出なのか、それとも両親が私に語ってくれたことなのかがもう思い出せなくなってしまいました。それに戦前[第二次大戦]のことは、覚えていないふりをしようとあえて努めてきましたからね。」と切り出し、その後ワルシャワの当時の雰囲気について記憶をたぐり寄せるように話が始まった。当時、聖十字架通り(復刻版「ピカドール亭」が接するもう一つの通り)は、古本屋やアンティークショップが軒を連ねる魅力的な通りだったらしく、そこでは貴重なものや美しいものがいろいろと買えたという。現在の聖十字架通りは中央郵便局や企業ビルが並び、市営バスが頻繁に行き来する比較的大きな通りだが、当時は道幅も現在の半分程度で、道路脇の壁にはさまざまなポスターや看板が掲げられていたようだ。正直なところ私にとってこの通りは、大学からフィルハーモニーへと向かう途中経路にしか過ぎず、興味を覚えたことといえば「クマのプーさん通りul. Kubusia Puchatka」というなんとも微笑ましい小さな通りの標石くらいだったのだが、かつての姿を想像しながら歩くのも新たな楽しみとして悪くないなどと、通りの情景を思い浮かべながら聴いていた。
「スカマンデル」グループのメンバーについていえば、一番記憶に残っているのはスウォニムスキとトゥーヴィムだという。「スカマンデル」グループのメンバーたちは、とにかく冗談やいたずらが大好きだったらしく、そのうちの一つで、ある夜中にイヴァシュキェーヴィチがトゥーヴィムに電話をし「君の家の台所でガスが漏れている。ちょっと見に行ってこい」と言ってトゥーヴィムに確認させに行ったという話が紹介された。その電話をかけた当時トゥーヴィムが住んでいた家は、非常に長い廊下があったらしく、そこを通らなくては台所へいけなかったそうで、夜中にわざわざ長い廊下を歩かせることが目的だったらしい。このようないたずらは日常茶飯事だったようで、彼らの間にはいつも笑いとユーモアがあふれていたそうだ。ほかにも、彼らが集うと小さな詩を作って遊び、なかでも「死」をテーマに小さな連詩を作ったエピソードが紹介されていた。これは最初に誰かが6つ程度の単語を使って韻を踏んだ短い詩を作り、それを受けて別の人が同じように詩を作って順番につなげていく、という遊びだったとのこと。それらは墓、葬列という「死」を連想させる単語を入れることによってゆるやかに結びつけられるのだが、身近にいる人の名前もさりげなく入れるという、ブラック・ユーモアを交えたものだったようだ。革新を目指しながらも、伝統的な「韻」を大切にするスタイルを持ち続けた彼らの一面が感じられた。
これらのエピソードはいずれも1920年代後半の、すでに「ピカドール亭」が新世界通りから姿を消した後のものだが、「スカマンデル」のメンバーたちの一面が垣間見えて非常におもしろいものだった。彼女は自分のことを「スカマンデルの唯一の子供」と表現していたが、実際に父イヴァシュキェーヴィチはまだ幼いマリアを連れて出かけるのが好きだったらしく、少しおませな女の子だった彼女はメンバーたちに気に入られていたそうだ。実はイヴァシュキェーヴィチは、シマノフスキの幼い頃からの親友(彼らは遠縁の従兄弟である)であり、彼の音楽作品のコラボレーターでもあった。したがってシマノフスキと「スカマンデル」グループとの間にも当然つながりがあり、私も以前から「スカマンデル」の活動については興味を持っていたが、今回思いがけなく娘マリアの話を聴くことができ、当時のワルシャワや知識人グループの雰囲気を身近に感じることができたいい機会になった。
最後に、この独立記念イヴェントの最後の企画について少し触れておきたい。最終日となる11月8日、「ワルシャワの知識人たち――その風景、昨日・今日。彼らはどこで集うのか――大切な場所。Krajobraz warszawskiej inteligencji – dawniej i obecnie. Gdzie spotyka się warszawska inteligencja – czułe miejsca.」と題されたフォーラムが催されていた。ここで言われているczułe miejsca(文字通りには急所とか要所)「大切な場所」とは、古き良き文学喫茶の伝統を汲んだ、いわゆる「刺激的なサロン」としての機能を持つ場所のことであり、それは決して「騒がしい音楽が流れてせわしなく人が入れ替わる」ような、現在至るところで見られるタイプのカフェを指すものではない。つまりこの問題提起には、人々が日常的に一つの場所に集い、さまざまな意見を交換し時にはイヴェントを通して社会へ訴えていくという構造が、伝統的なカフェの衰退とともに徐々に失われつつあることへの危機感が反映されていたと言えるだろう。
正直なところ、ワルシャワの人々がこのような危機感を抱いているというのは意外だった。私から見れば、ワルシャワには現在の日本から消えつつある古き良き喫茶店がまだ数多くあり、人々は実にのんびりとお茶を楽しみ話に花を咲かせているように映ったからだ。日本に比べ、はるかにゆったりと時が流れているように感じるワルシャワで、「現代人には時間がない。そもそも人に会って話すよりもメールで用件をやりとりするほうが、時間の節約にもなると思っているようだ」という話を聴こうとは思ってもみなかったのである。しかし、目まぐるしく社会が変化しているワルシャワで、このような議論が行われるのはむしろ自然な流れだといえるかもしれない。そして、この独立記念90周年の機会に、かつてワルシャワでいち早く誕生した「ピカドール亭」に人々が集い、過去と現在の状況について改めて考えてみるというアイデアは、なかなか気が利いているように思えたのだがどうだろうか?