ワルシャワ音楽見聞録 Vol. 2
「シマノフスキ・イヤー2007」をふり返る(続編) 重川真紀
ワルシャワでの留学生活を記すべく始まった「留学記」の第一回は、自分の専門と兼ねて「シマノフスキ・イヤー2007」をとりあげ、ワルシャワで行われたコンサートや展覧会、そして昨年行われた注目の演目についてざっと眺めてみた。もちろんワルシャワ以外の都市でも、それぞれに魅力的な催しが行われていたことは言うまでもない。前回の留学記の中でも述べたように、ヴロツワフやクラクフで行われた上演はそれぞれこの機会に初演された貴重なものだったし、シマノフスキと縁の深いザコパネ(シマノフスキが晩年に住んだヴィラ・アトマWilla Atmaがあり、現在はシマノフスキ博物館となっている)でも、数多くのコンサートが開催されていた。
こうした演奏会の他に、この機会にポーランドで開催された音楽学会でも、シマノフスキがテーマに取り上げられていたことは注目しておきたい。とりわけワルシャワとクラクフで開催された二つの音楽学会は、その規模と内容の点でも非常に興味深いものだった。前者は、有名な「ワルシャワの秋」国際現代音楽祭の50周年とシマノフスキ・イヤー2007を組み合わせて、ポーランド作曲家同盟とワルシャワ大学との共催で行われたコンフェレンス「現代ポーランド音楽に対するカロル・シマノフスキのヴィジョンを現実化したものとしての『ワルシャワの秋』“Warsaw Autumn as a Realisation of Karol Szymanowski’s Vision of Modern Polish Music”、後者はクラクフで行われた「国際音楽学会 カロル・シマノフスキとその価値観Międzynarodowa Konferencja Muzykologiczna – Karol Szymanowski i świat jego wartości」である。
2007年9月24日から26日にかけてワルシャワで行われたコンフェレンスは、「ワルシャワの秋」音楽祭の歴史の中で、ポーランドで最初の「モダニスト」として評価されてきたシマノフスキを出発点とし、「音楽の現代性」をキーワードに今後の音楽祭の在り方を音楽学者、作曲家、ヨーロッパの現代音楽祭のディレクターらとの討論を通して考える、というもの。初日は、ポーランド人研究者たちによる発表(発表は英語)、パネル・ディスカッションで構成され、残り二日間は『ワルシャワの秋』やヨーロッパ各地で開催されている音楽祭に関するセッションが組まれていた。そして夕方から深夜にかけて、ポーランド国内外の現代作曲家たちの作品をプログラミングしたコンサートが行われる、という流れだった。
初日のシマノフスキ・コンフェレンスは、ちょうど私がワルシャワへ来たその日に行われたため、残念ながら参加することはできなかったが、翌日は留学の手続きも兼ねて会場となっていたワルシャワ大学へ足を運んだ。配布されたプログラムによれば、シマノフスキ・コンフェレンスは1920年代後半から1937年に亡くなるまでの、シマノフスキが主にワルシャワで執筆・教育活動に従事していた頃に焦点を当てた発表が中心となっていた(発表はホームページで閲覧可能)。このコンフェレンス自体について、ここでその内容を詳細に述べたところで、読者のみなさんにはいささか退屈かもしれないし、とりたてて強調すべき点もないように思われる。しかし、このコンフェレンスでは、ヨーロッパ作曲家フォーラムと国際音楽情報センター協会(International Association of Music Information Centers)の委員会が同時進行で行われており、それらが合同で公開フォーラムを行うなど、現代音楽祭の現状や今後の活動にむけて活発な議論が交わされ、また情報交換の場としても機能していた。このような場で、作曲家シマノフスキについて終日コンフェレンスが行われる機会は、メモリアル・イヤーでもない限りあまりないといえるだろう。コンフェレンスのテーマ設定に、この現代音楽祭との距離を若干感じたにせよ、ポーランド国外の音楽関係者に作曲家シマノフスキの存在をアピールする、という意味では意義のある企画だったのではないかと思う。
さて、もう一方のコンフェレンスは、クラクフの音楽アカデミーとポーランド作曲家同盟の音楽学部門との共催で行われた国際音楽学会で、10月19日から22日かけてクラクフで開催されたものである。ポーランド作曲家同盟は、先に挙げた「ワルシャワの秋」国際音楽祭(1956年から毎年ワルシャワで開催)の運営組織でもあり、1945年にピョートル・ペルコフスキPiotr Perkowskiを議長として組織されて以降、作曲家や音楽学者たちをメンバーにポーランドにおける音楽文化活動を推進してきた。音楽祭の他にも、音楽をめぐるさまざまな問題をテーマに取り上げた全国規模の学会も毎年開催している。2007年度のテーマは、メモリアル・イヤーにちなんで「カロル・シマノフスキと彼の価値観」。学会テーマへの関心もさることながら、「黄金の秋に列車で行く古都クラクフへの旅」という企画に魅せられ、すっかり観光気分でクラクフへと向かった。
クラクフへ着いてまず驚いたのは、駅周辺ががらりと変わっていたことである。私が初めてクラクフを訪れた2004年には、中央駅付近はお世辞にも整備されているとは言い難く、美しい街並みとは対照的にどこか雑然とした雰囲気だった。ところが、今では中央駅の建物も一新され、駅と直結した大型ショッピングモール「ガレリア・クラコフスカGALERIA KRAKOWSKA」が出現して、かつての面影はすっかり消えていた。現在ポーランドの主要都市では、EUからの資金援助のおかげもあって、かつてないスピードで都市部の整備、開発が進んでいる。また、外国資本の導入によって、こうした大型のショッピングモールも各地で次々と建設されており、中にはヨーロッパ最大と言われるものまである。すっかり様変わりしたクラクフ中央駅周辺に、ここ数年でどんどん変化をとげているポーランドの一例を見る思いがした。
さて、国際学会の会場となっていたのは、学会の共催組織であるクラクフの音楽アカデミー。織物会館や聖マリア教会で有名な中央広場から、徒歩で5分ほど歩いたところにあり、学会の休憩時間には街へ出てちょっとした観光も楽しめる便利な場所にある。先に述べたワルシャワでのコンフェレンスと同様、午前中から夕方までは大ホールで音楽学の発表が行われ、夜はシマノフスキ作品のコンサートがフィルハーモニーやアカデミーで催されるという二部形式だった。会場にはシマノフスキ研究の第一人者であるテレサ・ヒリンスカTeresa Chylińska女史やゾフィア・ヘルマンZofia Helman教授、ミェチスワフ・トマシェフスキMieczysław Tomaszewski教授といった、ポーランド音楽学界の重鎮たちが顔をそろえ、他にも研究書や論文集で名前を目にしたことのあるポーランド人研究者たちが一堂に会していたため、それぞれの研究者の顔と名前を一致させて頭にインプットするにはうってつけの機会だった。
プログラムにざっと目を通すと、シマノフスキの交響曲や器楽作品の分析、未完成作品の直筆稿を扱った資料研究、音楽・教育活動を扱ったもの、作曲理念に焦点を当てた美学的アプローチ等その内容は実にさまざまだった。そのうちのいくつか、例えばワルシャワ音楽院(現ショパン・アカデミー)におけるシマノフスキの活動を調査したもの、またこれまであまり知られていなかったシマノフスキの未完成作品の整理・出版作業の報告などは、このメモリアル・イヤーを機会に調査が行われたという点で新しい報告だったといえるだろう。また、文学作品との比較からシマノフスキのオペラ解釈を試みた発表、「「カロル・シマノフスキの《ルッジェーロ王》と劇場神秘劇の理念Król Roger Karola Szymanowskiego a idea scenicznego misterium」では、ポーランドの作家タデウシュ・ミチンスキTadeusz Micińskiの戯曲がシマノフスキのオペラに与えた影響を舞台設定やテクストから考察しており、これは自分の研究テーマとかなり関わる内容だっただけに興味深いものだった。
しかし、その他の点については、すでにこれまでに議論されてきたテーマだったり、楽曲分析の手法や他作品との比較においても、いくぶん使い古された手法が用いられていたりと、全体的な印象としてとりわけ目新しさを感じさせるものはあまりなかったように思われる。そもそも、これまで過去の学会記録しか見る機会のなかった私にとって、今回の国際学会は、シマノフスキ研究において現在どのようなアプローチが試みられ、どのような議論が交わされるのかを目の当たりにできる絶好のチャンスだった。もちろん、それぞれの発表に対してディスカッションは行われていたが、先に述べた発表の内容を考えればそれらが刺激的なものだったとは言い難い。
シマノフスキ研究に関していえば、やはりその研究者たちが最も多いのはポーランドであり、近年は若い世代の研究者たちが音楽以外の視点からシマノフスキ作品を分析し、新たな作品解釈を提示するという傾向も出てきている。したがって、全国から研究者たちが集うこのような機会を活かして、もっとシマノフスキ研究の現在が浮かび上がるようなテーマ設定や構成を取り入れてほしかったというのが正直なところである。また、発表のほとんどがポーランド人研究者によるポーランド語の発表だったという点(およそ30人の発表者のうち、外国からの研究者は3名)は、コンフェレンスのコンセプトとその実質との間に若干矛盾があるようにも思われたし、街中に貼られたポスターや事前の宣伝にもかかわらず、聴衆が非常に少なかったのも残念だった。
こうしたコンフェレンス以外にも、「シマノフスキ・イヤー2007」を機会に、実にさまざまなイヴェントが企画・運営されていたことはすでに何度も述べてきた。これは、政府から多額の助成金が下りたことが大きく関わっており、ラジオや雑誌上での度重なる宣伝、街中に貼られたポスターを見ただけでも、その充実ぶりが推し量られるほどである。とりわけ、シマノフスキの未発表作品の上演・楽譜出版や無期限休止状態だったシマノフスキ作品全集の出版再開などは、助成金なしでは実現がありえなかったプロジェクトだといえよう。関係者たちが口を揃えて言うのは、「すべては助成金のおかげ」ということである。
こうして、これまで中断を余儀なくされていた多くのプロジェクトがようやく日の目を見ることになったわけだが、それらがすべて成功のうちに終わったわけではない。たとえば、私にとって非常に印象的な出来事となった展覧会「シマノフスキの芸術的遺産」を例に挙げてみよう。この展覧会については前回すでに紹介したが、ワルシャワ大学図書館内にある「20世紀の作曲家アルヒーフ」(その最大のコレクションがシマノフスキの一次資料であるため、しばしばシマノフスキ・アルヒーフとも呼ばれる)が中心となり、テアトル・ヴィエルキにてシマノフスキの自筆譜、数多くの写真、授与したメダル、使用したタキシードやハンカチに至るまでさまざまな資料が展示され、それに加えてこれまでの舞台上演の際に使用された衣装、舞台演出のスケッチも数多く出展されるなど、その内容はかなり質の高いものだった。しかも、会場の一角には映像装置が設置され、シマノフスキの生前の姿や葬儀の模様など、普段はポーランド放送のアルヒーフに眠っているようなお宝映像まで上映されたのである。
しかし、残念ながらこの展覧会は、その開催期間中ほとんど入場することができなかった。私もこの展覧会を観るために何度もテアトル・ヴィエルキへ足を運び、総合インフォメーションで開館日時を確認したにもかかわらず、当日すべて断られてしまい、ようやく観ることができたのは、なんと偶然観に行ったオペラの休憩時間だった(!)。というのは、この展覧会が行われていた会場は「舞踏会ホールSala Redutowa」という小ホールだったため、そこでなにか催しものやリハーサルが入っていると入場できなかったのである。したがって、実際にはほとんど何かしら公演予定が入っていたため、この展覧会のためだけに開放することができなかったというわけだ。運がよければ、大ホールで行われるオペラの休憩時間に開放されたが(それも必ずというわけではない)、展示内容をじっくり見るにはあまりにも時間が足りないし、映像装置には幕がかけられた状態だった。
この展覧会に向けて準備してきたワルシャワ大のアルヒーフ側としては、この事態をみすみす見逃すわけにはいかず、テアトル・ヴィエルキと文化省へ抗議を申し立てたようである。またこの展覧会のスポンサーの一つだったポーランド放送など他の機関からも、この展覧会の状況を改善するべきだという声があがり、小ホールの公演のために壁際に寄せられていたそれぞれの展示資料は元の位置に戻され、展覧会は当初の予定よりおよそ二週間延長された。これについて、現在ワルシャワ大学アルヒーフで一次資料の整理にあたり、この展覧会のキュレーターでもあったヤシンスカJasińska女史に話を伺ったところ、これだけの充実した展覧会が当初の企画とはかけ離れた形で展示され入場すらままならなかったのに、さまざまなメディアによる宣伝だけが先走っていた状況がまことに残念だということだった。もちろん、これまでにもシマノフスキのメモリアル・イヤーは訪れていたし、こうした展覧会の機会はあったはずである。しかし、例えば生誕100周年にあたった1982年は、ポーランドがまさに戒厳令下におかれていた時代であり、当時政府がこのメモリアル・イヤーに助成金を出すと提案したにもかかわらず、研究者や芸術家たちがそれをボイコットしたという出来事があったという。つまり、国内情勢が安定しないにもかかわらず、政策のポジティブなイメージを対外的にアピールする、いわゆる外交政策の手段として芸術を利用しようとした政府に、研究者や芸術家たちが反対の意を表明したというわけだ。
こうしてシマノフスキの生誕100周年は残念ながら不発に終わり、その後も生誕・没後の節目ごとにイヴェントは行われてきたが、いずれも今回のような大規模なものではなかったし、なにより常に資金難に見舞われていたという。つまり、これまで長年温められてきたプランを実行するすべての条件が揃ったのが、この「シマノフスキ・イヤー2007」だったということになる。それ自体は非常に喜ばしいことであり、文化生産やその発信を政府が後押しするという文化政策や、それによって活性化するポーランド音楽界に、まさに追い風に乗るポーランドの姿を見た思いがしたのは確かである。しかし私はこのテアトル・ヴィエルキでの一件が、ある意味ポーランドに依然として根強く残るかつての体質を反映しているように思えてならない。それは、このところポーランドで目にするような、EUからの補助金によって街中の至るところで始まった道路工事が、いつになっても終わらず道路は常に渋滞しているという状況と本質的には同じことだ。ポーランド社会がすさまじいスピードで変化していく一方で、端々にアンバランスさが見え隠れするあたりに、ソ連が崩壊し、ポーランドの体制が転換してからまだ20年しか経っていないことを改めて感じてしまう。今回のメモリアル・イヤーでも、ポーランドの大学・研究機関、劇場やホール、マス・メディアが提携して充実したプログラムが組まれた一方で、どこか消化不十分なところが残されたことは否めない。今回浮上した問題が、今後徐々に解消されていくことを願うばかりである。
以上、二回にわたって「シマノフスキ・イヤー2007」を振り返ってみた。改めて全体を眺めてみると、そのイヴェント・スケジュールの過密さには驚きすら感じてしまう。しかし、それらは長い年月の積み重ねがあってようやく実現されたものであり、そこに携わった人々の努力や協力がなければ、とうてい実現不可能だったといえるだろう。だからこそ、ヤシンスカ女史のコメントからも伺えるように、それぞれが最高の形で公開され、できるだけ多くの人々にシマノフスキの人物像や作品に触れてもらうこと――それこそがこの「シマノフスキ・イヤー2007」の最大の目的だったといえるかもしれない。各々のイヴェントに対して思うところがあるにせよ、このメモリアル・イヤーがシマノフスキ研究にもたらした実りは莫大なものだったといえるだろう。そうした数々の記念すべき瞬間に、ここポーランドに自分が居合わせたことは本当に幸運だったと思わざるを得ない。そして、それらを様々な角度から眺めることができたことも、貴重な体験だったと思うのである。