2005年 ウスリースク教育大学赴任記



 岡田ゼミのみなさん、こんにちは。
 私は修士課程の修了前に休学し、2005年9月にロシアのウスリースク国立教育大学に赴任しました。それから足かけ2年日本語を教え、つい先日帰国したところです。

 私が赴任しましたロシアのウスリースク市は、極東のウラジオストク市からバスで3時間ほどのところにあります。「ロシア」と聞くと、遠い国のように思われるかもしれませんが、新潟から飛行機で一時間半、空港からタクシーを飛ばして一時間と、すこぶる近いのです。人口は15万人強ですが、中国との国境に位置するため、貿易拠点としてそれなりに栄えています。

 

 19世紀末にできた旧市街や教会などは、ロシア情緒あふれており、わずか50キロ向こうの中国の町とは全く趣が異なります。街の中にも自然があふれ、静かで雰囲気のある街でした。

 ウスリースク教育大学では、2002年に日本語教育が始まりました。東洋学部には中国語科と韓国・朝鮮語科があり、その第2外国語として新たに設置された形です。当初は、ウラジオストク市からロシア人教員を招聘していたそうですが、給料の安さと交通事情の悪さから、どの教員も長続きしなかったそうです。そうした中で縁があり、私が初めてのネイティブ教員として赴任したのです。

 学生の数は、今年卒業した日本語履修一期生こそわずか5人ですが、下の学年に行くほど増え、1年生は40人近くおり、全体では100人を超します。そのため3年生以上は、私ともう一人のネイティブ教員が担当し、週1コマの1、2年生は成績優秀な5年生が教えるという有様でした。ちなみにロシアの大学は基本的に5年制です。もっとも教育大学ということもあり、言語教育の基礎は学んでおり、専攻語での教育実習もあるので、最低限の形はできていました。

 前任者の引き継ぎもなく、どんな教材があるのか、学生のレベルもまったく分からない状態で赴任しました。私自身、教授経験が全くなく、大学院での5日間の教育実習を終えただけだったのですから、我ながら無謀だったかもしれません。が、他方で、向こうの大学には日本語のことが分かる先生が一人もいなかったため、いわば「丸投げ」のような形で、全て私に託されました。テストやアンケートを行い、教案をつくりながら、同時にカリキュラムを作成、さらにロシア語で上司に報告。とにかく大変でしたが、「自分の手腕で一から好きにつくれる」という楽しみというか高揚感もありました。

 海外で教えるネイティブ教員の役割は、授業だけではありません。特に文化紹介は非常に重要な要素となります。「言語を学ぶ」ということは、文法や会話などの技術だけでなく、文化そのものを学ぶことだからです。
 特にロシアの場合、まだまだ日本との接点が少なく、日本に行ったことのある人もわずかしかいません。ウスリースク市の場合、在住日本人は私と同僚のネイティブ教員しかいないような有様でした。それだけに、日本の文化と接する機会を提供するのは、私たちネイティブ教員にとって「本来業務」の一つでした。
 私たちの場合、月に1回程度学内で「日本クラブ」を開催し、文化紹介に努めました。内容は、「折り紙」「書道」「映画」「音楽」「遊び」など多岐にわたりました。また、学生が自分たちで日本文化について調べて発表したり、寸劇や合唱をしたりするなど、自主的な取り組みも見られました。

 

 また、ロシアでは年一回「スピーチコンテスト」が開かれます。全国で1万人近い学習者がいるとされていますから、コンテストも全国大会に出場するためには「ウラジオストク地区大会」と「東シベリア・極東地区大会」の2大会で上位3位以内に入らなければならないという厳しい競争があります。
 私の大学では、日本語は第二外国語だったこともあり、参加者はいませんでした。が、06年に地区大会のみの二外履修者向け「暗唱部門」が設置され、私の教え子からも一人参加し、見事に優勝を飾りました。

 他にも学生がうちに遊びに来て、日本料理を馳走したり、逆に学生の家に招待されて、ご馳走になったり、学生と遊びに行ったりもして、楽しい日々を過ごしました。

 終わってみれば何とも早い2年間でしたが、これほど多くのことを学ぶ経験もなかなかありません。今後はさらに「次」を目指して頑張ります。

博士前期課程
藤生 健