彭錦鷲さんインタビュー


1997年9月18日午後6時−9時 台北市の自宅にて

名前:彭錦鷲(ほうきんしゅ)
生年月日: 大正15年4月3日


Q:家族の背景は?


曾祖父が広東省の陸豊から台湾の樹杞林(今の竹東)に渡ってきて農業に従事し た。祖父も農業を引き継ぎ地主になった。村の人はみな客家で,親戚だった。 父は事業をやって失敗した。おかげで苦労した。戦後の土地改革の前に土地を なくしていた。6人兄弟。


Q:日本統治時代,台湾人という意識はありましたか?


家では客家語,学校では日本語を使った。日本人でないから台湾人だと思って いた。客家人という意識もあったが台湾人であることに変わりはなかった。


Q:学校の様子は?


小さいときから日本人と一緒に勉強した。竹東小学校(日本人学校)3,40人のう ち台湾人は4,5人だった。日本人は警察の子供が多かった。自分はいつも一番 だった。あまり差別はなかった。僕がおやまの大将だった。新竹中学は150人 ぐらい。試験があった。同級生では僕だけ入った。日本人100人台湾人50人お たがいにけんかした。軍国主義もあったし日本人が優越感を見せ付けるように なった。日本人に反感をもったが,高等学校に入ってまた正反対になった。 台北高等学校では,日本人の生徒は総督府や大学や質のいい師弟が集まってい た。差別はほとんど感じなかった,僕たちに日本人はよくしてくれた。新竹か らいったのは僕1人だった。台湾大予科に2人いった。他の人は台中とか師範 とかそのまま終わった人もいる。


Q:光復の日の感想は?


植民地から開放されてよくなるという希望をもっていた。大陸の兵隊が上陸し てきた。台北で連中を見た。天秤棒を担いで,水道を知らなかった。まわして 水がでるのを見て驚いていた。いばって台湾人をいじめた。何語をしゃべって いたかもわからなかった。みな避けていた。


Q:228事件の時何をしていましたか?


台北高等学校をでて台湾大学医学院に入っていた1年生の時,228事件があ った。事件の時,台北にいた。古亭の宿舎に住んでいた。クラスメートが来て, 機関銃を掃射していると言った。その次の日に実家のある竹東に逃げた。トラ ックをつかまえて逃げた。大陸から来た連中はすぐに人を殺すから危ないと思 った。
町で騒いだのは若い台湾人だった。竹東では若いのが処刑されに運ばれていく トラックで日本の軍歌を歌っていた。近所のセメント会社に一人共産党の人が いて取り調べの時クラスメートに本をあげたとか言ったので次々に捉まった。 軽いので10年,処刑もあった。


Q:大学の方は?


1,2ヶ月たって医学院に戻った。台湾大学医学院では眼科の胡主任教授が捕ま り緑島に送られた。あの時はまだ日本人の教授が留用されていたからよかった。 台独の李鎮源(現建国党党首)さんは薬理の科目で再試験をくらった。1950年に 卒業し,インターンとして台湾大学病院に3年勤めた。この時いろいろ大変だ った。ひどい目に会った。問診で医者がいったあと実習医が検査をするのだが, 作業がどうしても遅れる。医者は診察を終わってさっさと引き上げる。上海か らきた医者もいやな人だった。台北の憲兵司令の姉婿が台中に住んでいてトラ ブルを起こしたりして,大陸からきた人間はやりにくかった。
北京語は,病院に入って実習するとき患者から覚えた。同僚たちもそう。22 8事件の時は北京語はわからなかった。


Q:開業医を選んだいきさつは?


台北に見切りをつけた。大陸の連中を相手にするのは真に疲れる。竹東にもど り石油会社の診療所の嘱託医を3年弱して,その時結婚した。それから1956年 に開業した。スムーズに開業できた。生活は月給とりよりはよかった。嘱託医 の時の患者が来てくれた。自分の後任の嘱託医は外省人だったので,自分のと ころに来てくれる患者は多かった。それから41年間,今年まで勤めた。


Q:白色テロの時代,危険を感じなかったか?


まわりの人間が捕まっていくのを見ていい感じがしなかった。蒋介石をはじめ だれにたいしてもいい印象はなかった。知識分子(日本教育を受けた人)はみ な不満をもっていた。日本時代ちゃんころと呼ばれて頭にきていたし,しゃく にもさわったが,蒋介石が来てから,あいつら言われてあたりまえと思った。 こういう話は極力話さないようにした。話す時はもちろん人を見てをした。戒 厳令が解除になってようやくしゃべれるようになった。


Q:1977年の中歴事件についてどう思いましたか?


心の中であの人たちを応援していた。やったなと思った。1979年の美麗島事件 はそんなに感じなかった。高雄だったので遠くの出来事という感じもあった。 新聞は国民党一辺倒なのであまり読まなかった。許信良や施明徳を好意的に見 ていたが,危険すぎて応援はできなかった。


Q:いつ頃から台湾独立を願うようになりましたか?


蒋介石がきて嫌気がさしたのが始まり。少しづつ持つようになった。美麗島の 時はまだ本気で考えなかった。台湾の外交的孤立について,こっそり『文芸春 秋』や『中央公論』を読んだ。日本は台湾を放棄しただけで,中国に返したわ けでない。


Q:李登輝総統について?


李登輝が最初に出てきた時はいい印象はなかった。少し,裏切り者的印象があ った。司馬のインビュー対談を読んで李登輝に対する印象がだいぶ変わった。 ある程度同情した。李登輝は本当は台湾独立に持っていきたいんだけど外省人 に囲まれそれができない苦労に同情した。独立とまではいかないけど台湾人の ために何かしたいという意志が感じられた。一方不満もある。中華民国をいつ までも捨てない。独立はやはり言えないのだと。今回の中南米訪問の会見では かなりやけくそになっていると感じた。
総統選挙の時は民進党の彭明敏候補を支持した。民進党については団結が足り ないのが残念だ。国民党は腐敗している。竹東でも毎回買収があった。94年の 省長選挙の時,国民党の宋楚瑜は竹東の里長1人1人に30万元40万元配ったとい う話を聞いた。


Q:台湾の将来について?


これからの台湾? もちろん独立を希望している。実現は難しいけど,生きて いる間に見たい。大陸に統治されたくない。アメリカも日本も,台湾が大陸に 取られることを望まないはずだ。アメリカの台湾関係法が唯一のたより。 だが中国教育を受けている今の若い人には期待していない。若い人とは話しが 合わない。台湾の若い人は金稼ぎばかり考えている。