雲林県から見た2000年総統選挙

小笠原 欣幸(東京外国語大学)

2000年3月18日,台湾の有権者は50年間続いた国民党統治に終止符を打ち民進党の陳水扁候補を新総統に選んだ。筆者は台湾中部に位置する雲林県に注目してこの総統選挙の展開を追ってみた。

雲林県は人口約75万人で,若年人口の県外流出と高齢化がじわじわと進行している農業県である。政治的には国民党の堅い地盤で,これまでの県長はすべて国民党候補が当選し,雲林選出の立法委員6議席のうち国民党は5議席(民進党1議席),国民大会代表は8議席のうち7議席(民進党はやはり1議席)を占めている。県議会は42名の県議のうち国民党は25名,民進党籍の議員はわずか2名で,残りの無所属15名も多くが国民党系の議員である。1998年1月24日に行なわれた県内の市・鎭・郷の長の選挙(日本の市町村長選挙に相当)では都市部の斗六市と西螺鎮で民進党が立候補した以外はすべて国民党系候補同士の争いであった(民進党候補は西螺鎮では当選,斗六市では善戦)。1996年の総統選挙では李登輝の得票率は66.29%に達したが,これは苗栗県,台東県に次ぐ三番目の高得票率である。これほどの保守王国である雲林県の投票結果は,陳水扁46.99% 宋楚瑜27.70% 連戰24.78% 許信良0.24% 李敖0.30%と出た。台湾南部の各県ではすでに民進党の県長が誕生しており陳水扁が一位になることは事前に予想されていたが,雲林県のこの投票結果は,民衆の国民党政権への不満の大きさと広がりを示すものと言える。

筆者は昨年6月に雲林県の沿海部にある小さな農村を訪問した。その時すでに国民党への不満と陳水扁または宋楚瑜を支持する声を耳にした。純朴な農村にまで「政党輪替」の気運が広がっていたのは正直言って驚きであり,国民党政権が下台するかもしれないという予感を抱いたのもこの時が最初であった。雲林の農民の不満は次のように整理できる。@急速に発展している台北などの都市部と農業県雲林との格差の拡大。A中央政府が地方を軽視し地方建設が遅れているという危機感。B農産物自由化の波に直面し農業の将来への閉塞感。C公共工事をめぐる汚職や暴力団の介入などの黒金問題。Dこうした民衆の声が国民党中央へ届いていないという疎外感。こうしたことを背景に,陳水扁の換党換人の主張や宋楚瑜の国民党高層批判(事実上の李登輝批判)が表面だけの現象ではなく基層に届く状況になっていたのである。だが,当の国民党はそのようには認識していなかった。元県議会議長を歴任し連戰の県内の票固めを担当するある地方派系の幹部は,雲林県での連戰の得票率は李登輝のようには行かないが,50%は問題ないと自信を見せていた(台湾省諮議員歐明憲氏へのインタビュー 1999.10.7)。

99年11月,雲林で蘇文雄県長の死去に伴い,県長補選が実施された。この選挙のプロセスで,国民党中央と地方派系との関係が変化してきていることが露呈された。国民党は蒋介石・蒋経國の権威主義統治時代に,いくつかの地方派系を競わせ巧妙に操作することで本省人主体の地方を支配してきた。操作の手段は,国家資源の裁量的配分という「飴」と国家権力の恣意的行使という「鞭」である。しかし民主化後,国民党中央が地方派系を制御することがしだいに難しくなってきた。国民党中央は,候補を擁立する過程で地方派系の複雑な対抗関係としがらみに振り回され失態を重ねた。結局,派系の代表のような強力な候補を擁立できず,裏方役の党部主任張正雄が候補となった。国民党は一つの派系が突出して強くならないように運営してきた過去の術策にしっぺ返しされたと言える。結果は国民党候補が惨敗し無所属の張榮味が当選した。民進党は黒金問題を全面に出して支持を広げたがわずかに及ばなかった。この補選は総統選挙の前哨戦として重大なシグナルを発していた。

国民党中央は確かに危機感を抱き対策を講じたが,それは県長補選で当選した無所属の張榮味を国民党に復帰させるという安易な方作で,しかも地方派系の本質を見ないやり方であった。張榮味県長が連戰支持にまわったことで,計算の上では補選の時の張榮味の得票率37.6%と国民党候補張正雄の得票率26.4%を合計した64%が連戰支持になったことになる。張の復党をアレンジした国民党の黄昆輝秘書長は効果的な手を打ったつもりであったが,これはあくまでも机上の計算である。県長ポストを握り,国民党籍も回復した張榮味が連戰の応援でも活躍すれば,張榮味派が雲林の地方派系の中で一人勝ちすることを意味する。他派がこの状況を面白くなく思うのは当然の成り行きであった。国民党中央は連戰が雲林入りする時は必ず地方派系の幹部を勢揃いさせ,国民党の団結を演出したが,いくつかの派系が連戰の得票が張榮味の功績に帰することを嫌い,水面下で選挙活動の手抜きをした(雲林県での筆者の聞き取り調査 2000.3.14)。

一方,宋楚瑜の影響力も見逃せない。県内の国民党の中堅幹部の中には宋楚瑜を積極的に支持する動きが見られた。これら中堅幹部の動機はほとんどが省長時代の宋楚瑜の活動にたいする肯定と地方建設の期待である。各地方派系は国民党政権の行方よりも自派の利益を考慮し,連戰の応援活動をする一方,一部の票を密かに宋楚瑜に回し,「保険をかける」動きも見られた。地元では,連戰7,宋楚瑜3の割合で票を回しているとささやかれていた。これは張榮味県長派も例外ではない。張榮味派の幹部数名が公然と宋楚瑜陣営で応援活動をしていたし,宋楚瑜の雲林競選総部の総幹事蘇金Eも張榮味派の幹部である。また県内で強力な組織を持つ水利會のかなりの部分と農會の一部も宋楚瑜の支持に回った(総幹事蘇金E氏へのインタビュー 2000.3.13)。宋楚瑜陣営は北部のようなブームは起こせなかったが,連戰の票を上回ったことで,雲林においても一定の基盤を築いたと見ることができる。

国民党中央は買収を含む票固め用の資金を各地方に供給し,雲林県でも投票一週間前から各地でその資金が村長や町内会長らを通じて下達されたが,地方派系の締め付けはそれほどでもなく,結局,国民党がまた買収をしているというマイナスのニュースが広まっただけで,連戰の票固めにはほとんど効果はなかった。そして最後に,棄連保扁が他県と同じく雲林でも発生した。投票直前に雲林県の陳水扁競選総部を訪問したとき陳陣営の票の見積もりは,県長補選時の林中禮候補が獲得した13万票(約35%)を死守し,15万票に届けば理想的と見ていた。ふたを空けてみると19万票(47%)で,民進党の自己予想をも多きく上回ったのである。民進党の県長補選の惜敗は,都市化が相対的に進んでいる内陸部では優勢であったが,海線と呼ばれる雲林県の沿海町村で票をまったく伸ばせなかったのが原因であった。民進党は敗因を分析し,一定の努力を重ねていた。沿海部の農村で「通戸走甲到」と名づけた個別訪問活動を展開し(昼間農作業で出かけている人を想定し夜間の訪問に重点を置いた),頼りになる支持者の点を各地に作り,点と点を結ぶゆるやかなネットワークを形成し,党組織がない弱点を補った。こうした活動が功を奏し,陳水扁の造勢活動は毎回活況を呈し,これまで民進党の活動への参加をためらっていた沿海部の医師や教師も応援に駆けつけた(雲林競選総部発言人彭富ト氏へのインタビュー 2000.3.14)。陳水扁は沿海部を含む県内のすべての郷鎭で第一位の票を獲得した。

今回の選挙で県民は地方派系の締め付けのない状態でのびのびと投票をした。県長補選の際,張榮味が強引な票固めを展開した土庫鎭や東勢郷では,張榮味の得票率は63%と51%で,民進党の林中禮候補の得票率はどちらもわずか20%という状態であった。総統選挙では,陳水扁は土庫鎭で46%,東勢郷で42%の得票を得た。雲林県の政治は引き続き地方派系が中心であるし,次の県長選挙では再び締め付けがなされるであろうが,台北の有権者のように買収が効果を持たない自立した有権者がこの地区でも増えたことは間違いない。新政権が公約に掲げている黒金黒道対策の立法を実現できれば,有権者の自主性は一段と強まり,県内の政治構造を変動させるであろう。地方政治の焦点が,派系の勢力争いから,生活の質の向上という本来の争点へと移り,効率的な行政と地方おこしのアイディアを競い合う方向を展望していくことになるであろう。今回の総統選挙は,中央政府の政権交代だけではなく,地方の政治のあり方にも「変天」をもたらす巨大なエネルギーを作り出したのである。李登輝がなし得なかった地方政治の民主化がどのように進展していくのか,選挙後の雲林にも注目したい。

(1999年10月から2000年3月までの台湾滞在中,財団法人交流協会日台交流センター歴史研究者交流事業の研究支援をいただいた。ここに感謝の意を表したい。)